月への鎮魂歌

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登場人物


有 沢 翔 治……シナリオライター。「私」

岡 島 健 介……ボイスドラマサークル「Voice of Rainbow」主催。脚本家。
後 藤   功……「Voice of Rainbow」脚本家兼声優
楢 村   愛……「Voice of Rainbow」音楽担当
神 野 ナ オ……「Voice of Rainbow」声優
松 岡 恵 美……同上
宇 陀 一 哉……同上

三 波    ……刑事
磐 田    ……同上

第一部

「もう三時か……」
 私、有沢翔治は呟いた。三時、と言っても昼中の三時ではない。自宅兼オフィスで仕事をしていて、気が付いたら夜中の三時を回っていたのである。
 同人ゲームサークルから名目上は法人化し、そしてあくまでも名目上は代表取締役に収まっているものの、現実はそう甘くはない。広告収入で辛うじて黒字になってはいるものの夜中の三時に寝られればまだ早いのだ。
「明日は何時に寝れるだろう」
 自嘲的に呟くと、ノートパソコンを閉じる。そして睡眠薬を木箱から取り出し、唾で飲み込んだ。接客用のソファに寝ると、眼鏡をコーヒーテーブルに置く。
 やがてまどろんで、ふわふわとして良い心地になってきた。今作ってるゲームは画像の加工が数点残っていて、BGMが今週末には上がってくるからそれチェックして修正指示を出して、あとは全体の雰囲気を見て……。
 あれ? スマホが鳴ってる。スパムメールの対策は完璧なんだけどな……。ディスプレイを見ると、岡島健介という名前が映し出されている。ボイスドラマサークル「Voice of Rainbow」を主催していて、過去に一度だけ名刺を渡していた。その時に少しだけ話をしたが、具体的な内容までは覚えていない。
「こんな時に……」
 思わずスマホに熱湯を掛けたくなった。三分経ったら食べられるようになるだろうか、とバカなことを考えながら、電話に出る。
「もしもし。有沢です」
「夜中に申し訳ありません」
 ちっとも申し訳なさそうな声ではないが、あえて追求はしない」
「何です?」
「ボイスドラマの脚本って、有沢さんに頼むと四百字当たり八百円で書いて頂けるんでしたっけ?」
「はい」
 私はそう言うと、慌てて付け加える。
「もちろん条件次第で変わってきますが」
「明日、……というか今日の朝九時までに欲しいんですが、いくらになりますかね? 三十分から一時間くらいで。いや、原稿の入ったUSBが突然読み取れなくなりまして。M3ってご存知ですよね?」
「ええ、僕も何本かボイスドラマのシナリオを書いてますよ」
「あれに出品予定のボイスドラマなんですけどね、今から書き直してちゃ間に合わないんですよ。明日が読み合わせで」
 電話口の向こうではキーを叩く音が続いている。悪戦苦闘しているんだろうが、彼らはボイスドラマサークルである。パソコンに詳しい人がいる、と言っても絶望的だろう。そして私の睡眠時間も絶望的になった。
「なるほど。千……二百円でどうです?」
「……解りました。よろしくお願いします」
「それでは失礼します」
 私が言うと、健介も返す。
「失礼します。お休みなさい」
「お休みなさい」
 私はその挨拶に違和を抱きながらも電話を切った。明日の早朝に起きて、執筆に取り掛かれる自信はない。ノートパソコンの電源を再び入れる。
 そして濃いコーヒーを淹れようと、ヤカンを火に掛けたのだった。

「できた……」
 そう呟いたのは、明け方六時である。早速、メーラーを立ち上げて、健介に原稿を送った。請求書はpdfにてまた後日お送りします、という一文を添えて。
 お礼のメールを見ると、ノートパソコンを閉じる。今度は誰にも邪魔されないように、スマホの電源を切った。
「ようやく寝れる……」
 私はそう呟くと、ソファに身を投げ出す。眠くなるとまぶたは重くなるが、それを通り越して今は痛みすら感じていた。
 遠くから車の音が聞こえてきて、やがて私のオフィスの前で停まる。階段を上がる足音が響いているが、どうせ宅配便だろう。
 アマゾンで買った事務用品が届いたのかもしれないし、非常食のカップラーメンかもしれない。いずれにせよ今日は安息日なのだ。居留守を使おうと決め、耳障りなチャイムを聞き流していた。
 しかし一向に止む気配はない。嫌味の一つでも言ってやる! 
 オフィスのドアを開け、相手に詰め寄った。すると私の鼻先には警察バッジがぶら下がっていたのである。
 ゆっくり目を上げると男が二人、立っていた。屈強な三十絡みの男と、青白く若い男だ。若い男はまだ学生気分が抜け切っていないらしい。しきりに欠伸をしている。
「中南警察の三波です。こちらは磐田」
 若い男が慌てて頭を下げるが、三波はそれに構わず続けた。
「有沢さんですね」
「は、はぁ……」
 間の抜けた返事だったに違いない。磐田は一枚の写真を取り出すと、見せた。
「この女性をご存知ですか?」
 若い女性だった。我の強そうな顔をしていて、眼鏡を掛けている。私は写真を手に取ってしばらく眺めていたが、首を振った。
「さぁ……、女優志望ですか? あるいは演劇サークルにいるとか」
 磐田に返すと、二人は硬い表情で頷き合う。そして三波は低い声で尋ねた。
「どうして知ってるんです? 会ったことないんじゃなかったんですか」
「え? そりゃシワの付き方からですよ。俳優とか声優は表情筋をよく使うから、顔のシワで分かります。特に目許や口許が解りやすい。加えてこの眼鏡には度が入ってないでしょう? 役作りで掛けてるんですよね。……で、この女の人がどうかしたんですか?」
 私は磐田に尋ねた。彼が何か言おうとしていたが、それを三波は遮る。
「神社の階段から転落死したんですよ。ここの住所とあなたの名前が書いた紙が握られてましてね」
 三波は笑顔で答えるが、「仮面」なのは言うまでもない。
「はぁ? ともかく僕は何も知りませんから。たぶん会社のホームページに名前と住所が載ってるので、それを見たんでしょう」
「では心当たりはあると」
「そりゃまぁ、急に原稿を頼まれることもありますから」
 磐田は手帳に何か書き付けると、顔を上げる。
「そういうものですか。あぁ、申し訳ございません。もう一点だけ」
「何ですか?」
 私はうんざりして言った。
「あくまで形式的な質問なのですが、昨夜十二時頃は……」
「ここでずっと仕事をしてましたよ。ついさっきまでね」
「そうですか」
 三波は探るような目で私を見ている。
「証明できる人はいませんが、ファイルの更新日を見せましょうか?」
「いや、更新日は書き換えられるそうじゃありませんか。証拠にはなりませんよ」
「書き換えたらメタデータに痕跡が残りますけどね。あと容量が不自然に増えますし。誰がどんなに細工しても痕跡は消せないんですよ」
 私は言った後で後悔した。後ろ暗くはないが、ノートパソコンの提出を求められたら仕事ができなくなってしまう。バックアップはまだ取っていない。どうせ任意だから断わればいいのだが。
 しかし、それは杞憂にすぎなかった。
「いや結構。ご協力ありがとうございました。何か思い出したらこちらまでご連絡ください」
 三波はそう言って名刺を渡す。そして苦虫を噛み潰したような顔をして、事務所のドアを閉めた。
 外で車が走り去っていく音がした。私はそれを聞くと、溜息をついた。そしてソファで仮眠を取ろうと横になる。私を訪ねにきて、階段から落ちた女優。何の用だったんだろう? 考えを振り払おうと首を振ったが、女の顔が頭の中を駆け巡っている。
 関係ないと思ったが、本当にそうなのか? どうしても気になって寝付けない。私は静かに起き上がると、iPadを充電器から外した。そしてうつ伏せになりながら各紙のサイトにアクセスする。
 まだ記事になっていなかった。もしかしたら三行程度の記事で終わるかもしれない。そんなことを考えていると、私は不意に気が滅入ってきた。きっと寝ていないからだろう。
 首を振って気晴らしにツイッターのタイムラインを見始める。
「はぁ?」
 私はそのツイートを見て、思わず呟いていた。岡島のサークルからだった。ボイスドラマの企画が中止になったらしい。しかも主演女優が神社の階段から突き落とされた、と書いてあった。
 同人サークルの頃から多くのゲームが企画倒れに終わっている。しかし事件で頓挫した経験は初めてだった。
 私はスマホを手に取ると健介に電話を掛けた。長いコール音が続き、ようやく彼の声がする。憔悴しきっている
「もしもし」
 彼が今、瀕死の病人を演じたら、アカデミー賞を受賞するに違いない。
「この度は災難でしたね」
「本当ですよ」
 健介はそう言うと溜息をついた。
「USBのデータはなくなるし、恵美ちゃんは……」
 そこから先は声が震えて聞き取れなかったが、例の女優は恵美というらしい。
 恵美ちゃん? 親しい間柄だろうか? いや、芝居に携わっているのだ。こう呼ばれていても不思議ではない、と首を振った。
 質問は山ほどあったが、まともに答えられそうにない。私は心ひそかに溜息をついて、こう切り出す。
「その恵美さんなんですが、僕に用事があったみたいなんです。何かご存知じゃないかと思って」
「恵美ちゃんが? さぁ……」
 魂を抜かれたような声が返ってくる。何を聞いても無駄だろう。私が脚本を書き直し、公開できないかという交渉もできそうにない。
 しかし作品は世に送り出されてこそ意味があるのだ。そう考えながら私は食事に誘った。何かあったら相談に乗るという言葉を添えて。
「いいですね」
 短く健介は答えると、寂しそうな笑いが漏れてくる。もはや何も言えない。私たちは別れの挨拶を交わすと、電話を切った。しばらく経って失恋にも似た気持ちが、じわじわと込み上げてくる。
 さっき見た時は出ていなかったが、ネットは速報性が高い。もう報道されているだろうか。少しでもいいから情報を得ておきたい。私はそう考えながらiPadを操作すると、地方新聞の電子版で死亡が報じられていた。
「9日深夜、愛知県名古屋市の曽保神社境内で女性が倒れていると110番通報があった。愛知県警によるとアルバイト店員、松岡恵美さんの死亡が確認された。死因は頭部を強く打ち付けたことによる脳挫傷と見られ、事故、事件の両面から捜査している。また付近の住人によると、同日深夜に松岡さんとみられる女性の口論する声を聞いていることが本誌取材で分かった」

 私は朝の通りを歩いていた。早朝の街はまだ眠っていて、車はもちろん人通りも少ない。空気もいつもと違い、張り詰めている。
 私は自動販売機でコーヒーを買って飲んだ。空気は美味しくても缶コーヒーの錆びた鉄の味は変わらない。脇のゴミ箱に放ると、スマホで神社への道を確かめた。
 路地を曲がると、くねくねとした細い一本道が続いている。古風な民家が軒を連ねていて、タイムスリップをしたかのようだ。しばらく歩くと、神社の駐車場に着いた。そこから境内への階段が続いているが、鬱蒼と木々が生い茂っている。
 手摺りには鮮やかなペンキが塗られていた。しかし一部分だけ早くもペンキが落ちて、汚れが剥き出しになっている。
 手摺りを伝って、慎重に下りた。そしてスマホのバックライトで石段を照らすと、階段には血が生々しく飛び散っている。草が陰となっていて、細かな部分は見にくい。
「ペンライト持ってこればよかった……」
 私は溜息を一つついた。当然のことながら、髪の毛一本落ちてはいない。そんなものはとっくに鑑識が見つけているだろう。
 でもまだ何か残っているかもしれない。淡い期待を抱きながら丁寧に調べていると、石段の隅の紙片に気が付いた。飛ばないよう石が乗せられている。私はその石を退けると、眺める。
「ハムレット……?」
 私は思わず呟いた。「生か、死か、それが疑問だ」その台詞に傍線が引いてあり、余白にTo be, or not to beと書いてあった。
 何かの手がかりになるかもしれないと思い、私は畳んでポケットにしまう。誰かが事件後置いたと考えてまず間違いない。誰が何のために?
 天と地の間には、夢にも思わないことが多くあるのだ。そんなことを考えていると、下の茂みから物音が聞こえてきた。ただでさえあんな事件があったのだ。警察に通報されかねない。
 私は石段にさり気なく腰を下ろして、休んでいる振りをした。しばらくして若い女性が出てきた。手には花を持っているが、忙しなく辺りを見回している。
 花を手向け、手を合わせていた。それを見て、私はゆっくりと石段を下りていった。

「松岡恵美さんのお知り合い……ですか?」
 私が声を掛けると、女は驚いたように振り返った。背の高く、細面の女である。
 ポケットからはハムレットの文庫本が顔を覗かせていたが、かなり擦り切れている。さっきの破れたページは彼女が置いたのだろうか。
「え、ええ」
 訝しげな目付きで私を見て、後ずさりする。私は名刺を取り出して、言った。
「驚かせてすみません。有沢翔治と申します。恵美さんの出演するボイスドラマの脚本を書いていました」
「あぁ、健介くんから話は聞いてます。今回、急に脚本を引き受けてくれたそうで……。あ、私、ナオって言います」
 ハンドルネームなのか、それとも本名なのか解らなかった。後でボイスドラマサークルのスタッフロールを確かめよう、と考えながら私はナオに尋ねた。
「ということはナオさんも声優ですか?」
 ナオの険しい顔は少し和らいだものの、まだ身構えている。
「え、ええ。尊敬していました。彼女はいつも脇役でしたが、主役の私を引き立ててくれていました」
 そしてナオは肩を竦めたが、その声は震え始めている。落ち着かせようと、私は笑んで頷いた。
 ナオは笑ったが、無理に笑っているようにも見えた。陽が陰って、彼女の陰影がより濃くなる。彼女は首を傾げて、私に尋ねた。
「でも脚本家さんが何でこんなところに? 恵美とは面識が……」
「面識がなくとも恵美さんを悼む気持ちは変わりませんよ」
 私は手を合わせると、ナオは戸惑いながらも頷いた。完全な嘘ではない。
「は、はぁ……、そう、ですね」
 まだ少し疑ってはいるものの、腑に落ちた顔になる。私はそれを見計らって、彼女へ切り出した。
「ところで恵美さんなんですが、僕のことなんか言ってませんでした?」
「さぁ? 特には……、でもどうして?」
 心なしか彼女の声は硬い。私は気付かない振りをして、言った。
「実は僕に用事があったみたいなんですよ。僕の名前と住所を書いた紙を持ってたって刑事さんが」
「私は何も知りません。……すみません」
 そして彼女は用事があると告げると、会釈もせずに石段を駆け上がっていく。その拍子に、彼女のポケットからひらひらと紙が落ちた。
 急いで私は手に取った。見るとクリーニングの引換証で、今日の日付である。彼女の後を追って渡そうか迷った。しかし足音は遠くなっている。運動不足の私では追いつかないだろう。
 私は溜息をつくと、引換証をポケットに入れた。会う口実になるだろう、と考えたのだ。
「神野ナオ、か」
 引換証にはそう書かれていた。しばらく木々がざわめいていたが、それが収まると冷えた空気だけが残る。

 帰り道、オフィス街を通ると、サラリーマンたちがちらほらと会社に向かい始めている。
 角を曲がろうとすると、スマホが鳴った。ディスプレイを見ると、健介からである。時間を確かめると九時だった。ランチの誘いには早すぎる。
「もしもし」
「もしもし、寝てました?」
「……いえ、大丈夫です。それよりもどうしました?」
「これから僕のアパートで打ち合わせをするんですが、有沢さんにも入っていただけないでしょうか?」
「構いませんけど、どうして?」
「その、恵美ちゃんの一件で……」
 健介はやや弁解めいて言ったが、声には不安も滲んでいる。なるほど、と私は思った。みんな動揺してしまい、とても話し合いにならないんだろう。
 健介は車で拾おうとしようと思っているらしい。私がどこにいるか尋ねた。しかし、原稿料が二万数千円でもクライアントはクライアントである。礼は尽くすべきだろう。
「ありがとうございます。でも僕がアパートに伺いますよ。最寄り駅はどこですか?」
 私がそう答えると、健介は短く笑って言った。
「いや、何かしてないと僕も落ち着かないんですよ」
 その声には疲労、哀愁、そして寂寞が漂っていた。私はぎこちなく礼を言うと、現在の位置を告げる。
 健介は短く別れを述べると、電話を切った。オフィスに一旦連絡を入れようか迷ったが、私の不在はいつものことである。取り立てて電話しなくても大丈夫だろう。
 でも企画がどれだけ進んでいるかは把握しておきたい。スマホを取り出して、メールを確かめた。ラフ画が五点、送られている。目を通して、修正の指示を出していると、クラクションが鳴った。目を上げると、運転席には健介の姿が見える。
 私は一礼すると、助手席に乗り込んだ。健介は無言でアクセルを踏むと、エンジン音がやけに重く響く。彼のiPodからはビートルズの「エリナー・リグビー」が陰鬱に流れていた。
 孤独な人たちがいる(ルック・アット・オール・ザ・ロンリー・ピープル)、か……、私は独白した。孤独なのは一体誰なんだろう? 恵美、ナオ、それとも? 彼らの顔を次々と思い浮かべながら、私は健介に言った。
「そう言えば今日、ナオさんにちらっとお会いしましたよ。恵美さんに花を手向けにきたらしいんですけどね」
「はぁ、そうですか。二人は仲良しだったからなぁ」
 健介は半ば呟くように言う。
「仲良しだったんですね。ナオさんは大丈夫ですか? 落ち込んでるでしょう」
「お気遣いありがとうございます。仲良し、というか尊敬してました」
「ナオさんが恵美さんを、ですか?」
 私は尋ねた。健介は頷くと、もどかしそうに頭を掻いた。
「ええ、恵美ちゃんの役作りはいつも上手いんです。でもなんか演技が上手すぎるというか、キャラクターのイメージに合わないというか」
「あぁ、よくありますよね。そういうことって」
 私は相槌を打って、更に続けた。
「……そうそう、この前頂いたボイスドラマCD聞きましたよ。素敵な作品どうもありがとうございました。確かに彼女の演技はプロ顔負けでしたね。でも確かに……近寄りがたい」
 私が言うと、彼は面映そうに笑った。窓の外では建売住宅の真白な壁が軒を連ねている。
「聞いてくれたんですね。ありがとうございます。恵美ちゃんも天国で喜んでいると思います」
 そう言うと、健介は溜息を一つついて続けた。
「あの演技を活かして企画を立てられなかったのかな、と悔しいですよ。神経質な優等生とかピッタリだったんですけどねぇ」
 昔を懐かしんでいるような声である。もしかしたら解散させる気なのかもしれない。
 今さら仕方ないですって。そう慰めようと思ったが、彼も解っているはずである。今は話を聞いて、心を一緒に整理しよう。それが今の私にできる唯一の慰めだ。そう考えながら、私は頷いていた。
「だから今回は恵美ちゃんを主役に企画を立ててみたんです。本人には内緒で。その脚本を有沢さんにお願いしたんですよ」
「どうして内緒にしてたんです?」
 私が尋ねると、健介は短く笑った。
「だってナオちゃんに主役を譲ると思ったんです」
「今回はあくまでも恵美さんを押したかった、と」
 私が言うと、健介は頷いた。
「ええ、彼女は脚本を読み解いてアレンジを加えますけど、そこが僕は気に入っていたんです。もっとも脚本家の後藤は、忠実に演じてくれる恵美ちゃんが好きでしたけどね」
 ナオと恵美は正反対の性格だったようだ。だからこそ尊敬していたのかもしれない。
「そういえば、恵美さんは死ぬ間際に僕を訪ねようとしてたみたいなんですが……」
「恵美ちゃんが?」
 それを聞いて、健介は意外そうに眉を上げる。そして続けて聞いた。
「どうしてまた?」
「やっぱりご存知ありません、よね……」
 私がそう言うと、健介は心底申し訳なさそうな顔になる。
「ええ……すみません」
 段々と会話も尽きたが、変に気遣って話しかけるよりも場の空気に身を委ねるべきだろう。
 そう考え、窓の外を眺めていると、アパートが見えてくる。健介は駐車場に停めると、車は黙祷を捧げているように静かになった。

 アパートの階段を上がると、レンタルスタジオの看板が見えてくる。健介は重たい鉄の扉を開けるとすでに足の靴が並べられていた。うち、一足はハイヒールである。
「どうぞ」
 私は健介に促されるまま部屋に入った。トイレとバスルームを除くと、奥に八畳間があるだけである。机の上にはマグカップが並べられていた。
 部屋に入ると、男が一人、ハードカバーの本を読みながら煙草を蒸かしている。メタボリックシンドロームを絵に描いた男だった。
 その隣の椅子には神経質そうな女が座っている。マックブックをいじっていて、メタルフレームのメガネが近寄りがたい印象を与えていた。
 神野ナオは彼女の斜向かいに座って、俯いている。ハンカチを手に肩を震わせていた。健介は肥った男に手を差し向けて、言った。
「脚本家の後藤功です」
 本を上げ、後藤は会釈するとまた本に目を落とす。シャイなのか、部外者を快く思っていないのか、どっちだろう? 後藤の顔を窺おうとしたが、本が衝立のようになっている。
 挨拶しようか私は迷ったが、所在なく佇まざるを得なかった。読書を邪魔されたときの不快感は私もよく知っている。
 それにしても何でわざわざハードカバーなんて持ち歩くんだろう。私は違和を抱いたが、個人の趣味に口出しする筋合いはない。
 変な人だ。そう彼を横目で眺めていると、健介の声がした。
「BGM担当の……」
 しかし健介が言う前に、彼女はマックブックを傍らに置いた。愛は他人行儀に微笑すると、硬い声で言った。
「音大に通ってます。音響兼PC周り担当の楢村愛です。何でもやってます」
 そして彼女は腰を下ろすと、コーヒーをすすった。彼女が当日にUSBメモリの復活を試みていたんだろうか、と私は考えながら適当な椅子に腰を下ろす。
 そこへナオが私に言った。愛へ憧れを抱いているようである。
「愛さんはピアノ曲が得意なんですよ。大学でもピアノを専攻してるって健介くんが」
「へぇ、そうなんですか」
 私はそう言うと、愛を見た。確かにあの雰囲気はピアノがよく似合う。
「それで何か用なのか?」
 後藤は私を睨みつけると、私に尋ねた。まるで値踏みでもするような目で。
 健介も座ると、ぐるりと見回して言った。
「みんな恵美ちゃんが死んで、まともに話し合いができないんじゃないかって思って。いや、俺だってまともに話す自信がないんだ。だから有沢さんに立ち会ってもらうことにした。……あ、コーヒーと緑茶どちらがいいです?」
「あ、お気遣いなく」
 私はそう言って手を振ったが、健介はコーヒーを差し出す。私は礼を述べると、後藤は低い声で呟いた。
「あぁ、推理ものの脚本を書いてる人か」
 見ると、彼の口許には薄く笑みが浮かんでいる。脂肪だけではなく自尊心の塊だ。私は笑って頷いた。
「ありがとうございます」
「名前だけですよ。知ってるのは」
 後藤がそう言うと、私は頷いた。
「後藤さんの名前もあちこちでお見掛けしますよ。不条理演劇の影響を受けた、前衛的な作風ですね。最近の作品だと『機械人形』が面白かった。ベケットの『ゴドーを待ちながら』とかハイナー・ミュラーとかお好きでしょう? 次の脚本を心待ちにしてますよ」
 実のところ彼のボイスドラマは一本しか聞いていない。しかしこの感想は本心から言っている。
 私が褒めるないなや、後藤の口許から嘲りが消えていく。そして、本を傍らに置くと、悠然と握手を求めてきたのである。私は呆気にとられて、握手を交わした。
 単純な男。一瞬そう思ったが、それだけ認められていなかったに違いない。芸術家であり職人肌なんだろう、と私は考えつつ後藤に目を向けて尋ねる。
「あの、興味本位の質問で申し訳ないんですが、松岡恵美さんは死ぬ前、私を訪ねようとしていたみたいなんです。何か知りませんか?」
 後藤は宙を見て考えていたが、ゆっくりと首を振った。
「知らないなぁ。俺は脚本にしか興味ないから。でもいい子だったよ。俺のわがままに何回も答えてくれてさ」
「だったら何回もリテイクを出すなって。役者の負担も考えてやれよ」
 健介が口を挟むのを聞いて、愛は頷いた。ナオもかすかに頷いている。
「そうよ、レンタルスタジオだって五人でお金を出し合って借りてるのよ。私みたいな学生には手痛い出費なんだから。後藤くんの我がままだけでみんなのお金を使わないでちょうだい」
 だが後藤は立ち上がって叫んだ。
「だって俺の世界を完璧に表現したいんだよ!」
 しかし健介はあくまで冷淡である。
「それでCD販売数が伸びるんなら俺は文句ないけど、お前の脚本は一般受けしねぇんだよな」
「お前の演出は、精密機器に砂粒を入れてるようなもんだ」
「でもそれでCD販売数が上がってるのは事実だろ?」
 脚本家と演出家はいつも折り合いが付かない。しかし誰かが割って入っても火に油を注ぐだけである。私は黙って二人を眺めていると、ナオが私へ申し訳なさそうな声で囁きかけた。
「すみません。いつもこんな感じなんです。特に今日はみんな気が立っていて」
 私は笑って答えた。
「構いませんよ。でも今の話を聞く限りじゃ、恵美さんが誰かと揉めていた、という話はなさそうですね」
「え、えぇ……少なくとも私の知る限りでは」
 ナオは私を上目遣いで見る。どうしてそんなことを聞くのかという不安が読み取れた。
 後藤は愛に向き直ると、聞いた。
「愛ちゃんは何も聞いてないのか? 有沢さんのところに行くとか、誰かと揉めてたとか」
 それを聞いて、健介ももどかしそうに詰め寄った。
「そうそう、女同士だろ? こう、何か聞いてないのか」
 愛はかすかに舌打ちをした。そして、冷たく答える。
「知らない」
 そして自らに言い聞かせているような声で続けた。
「興味ないもん」
「興味ないってなぁ」
 後藤が苦虫を噛み潰したような顔で言うと、愛は冷淡に言い返す。
「興味ないものは興味ないって言ってるでしょ! だいたい、優等生ぶってあの子嫌いだったのよ」
 そして彼女はプイとそっぽを向く。感情をこらえているのか、唇が震えていた。
 それでも私がボイスドラマの脚本を書く、と決まった矢先に死んだことに変わりはない。しかも私の住所を握りしめていたのだ。

「それでどうする?」
 健介が気まずい空気を振り払うかのように尋ねる。外では風が物憂げに木々をかき鳴らしていた。
「俺はどちらでも構わないよ。ただ脚本は……」
 後藤はそう言うと私に一瞥を投げる。彼の表情は敵意とも警戒ともつかなかった。後藤は笑顔で表情を隠すとさらに続ける。
「俺ので行くしかないだろ」
 普段ならもっと強く言ってるんだろう。健介は首を振ると、私に聞いた。
「有沢さん、書き直してもらえます?」
 それを聞いて、愛は健介を睨みつける。
「ちょっとどうするのよ、追加料金とられたら」
 声こそ潜めているものの、語気はかなり荒い。しかし私に質問はしなかった。健介は溜息をつくと、私へ尋ねる。
「書き直しをお願いすると、お金はどうなりますか?」
 まるでイタコみたいだ。私は心のうちで苦笑しながら追加料金は取らないと告げた。しかしそれを聞いても、愛の表情は硬いままである。
「こんなときに不謹慎でしょ? そうじゃない?」
 愛はまず後藤の顔を見たが、彼はきょとんとしている。愛は肩を竦めると、次にナオを見た。彼女は戸惑いながらも頷いたが、声は頑としている。
「私もそう思います」
 ナオにも言われ、健介は頭を掻く。
「そう言われてもなぁ……。もうレンタルスタジオ予約入れちゃったんだよ」
「どうするのよ。また勝手に決めて」
 私の脚本そのものを中止させたがっているようにも見えたが、気のせいだろう。もし本当に嫌なら、企画段階で異議を唱えているはずである。それこそ費用の問題などが絡んでくるのだ。
 そんなことを思いながら二人を眺めると、愛が健介に詰め寄っている。そこへ後藤が口を挟んだ。
「お前らはどう思ってるか知らないけどさ、俺は最後までやるつもりだぞ。ネットで声優を募集してでも。ボイスドラマは脚本があれば何とでもなるだろ」
 それを聞いて、ナオは硬い声で吐き捨てた。
「いい声優が見つかるといいですね。恵美ちゃんみたいな」
 悪態をつきながら、彼女は机の脚を蹴る。しかし昂ぶりも収まってくると、ナオは独り笑った。卑屈さと孤独さが合わさっている。
 健介は机を直そうとしたらしい。溜息をついて、立ち上がろうとする。しかし彼のスマホが鳴って、ディスプレイを見た。
「一哉くん、今バスの中らしい」
「誰です? それ」
 私がナオに聞くと、彼女は答える。
「宇陀一哉くん。声優ですよ。東京の高校生で、データはいつもメールで送られてくるんです。それを愛ちゃんがエコーとかリバーブとかの加工してるんですが」
 ナオはそう言うと声を潜めて続けた。
「提出期限を守らないこともありまして……」
「なるほど、それであんなに……」
 私は苦笑して頷くと、愛を見る。
「こっちはそれどころじゃないってのに。まったく……、どれだけ振り回せば気が済むのよ!」
 ナオはついに見かねたらしく、愛を声を掛けた。
「まぁまぁ仕方ないよ。私たちが大変なんだって知らないんだし。それに……」
 ナオは言い淀んでいたが寂しそうに笑うと、ポツリと呟く。
「それにあんな小さなニュース、ローカル局でしか流れないでしょ?」
「いや、それが……、ネットのニュースで事情を知ったらしい。それで下校途中に長距離バスに乗ったんだって。今日は試験最終日だから午前中で終わるらしい。しかも……」
 健介は泣きそうな声で頭を抱えた。
「有沢さんが恵美ちゃんを突き落としたって誤解してるみたいで……今から行くから首洗って待っとけと」
「はい!? 僕が!? どうして!?」
 そうは言ったが、改めて聞くまでもない。彼女が私の名刺を持っていたからだろう。私は深く溜息をついたのだった。

 健介は引きつった笑いを浮かべながら、慌ててスマホを手に取った。そして電話口に手で庇を作ると、声を潜めて言った。
「もしもし、一哉くん。うん、うん、そのことなんだけどね。……本当なんだ。だから有沢さんは事件と関係ない。……確かに名刺が握られてたらしいけど。……じゃあ切るよ」
 そう言って電話を切ると、少し安堵の表情になった。誤解が解けた旨を私へ告げると、額に汗を滲ませながら平謝りをしている。気にしてませんから、と私が言っても健介は尚も謝り続けていた。
 ナオがそんな健介をちらりと見て、話題を変える。今回の件で気苦労の絶えない彼を気遣っているんだろう。
「それはそうと、一哉くん、一体どこに泊まる気なんだろう」
 それを聞いて、後藤が吐き捨てた。
「しらん。いざとなったら公園で野宿すればいいだろ」
「そ、そんなまだ十七なんだし……」
 ナオは言うと、後藤はきっぱりと言い返す。
「もう十七歳だ。来年は大学だろ」
 ナオは反駁を試みていると、外で足音が聞こえてきた。足音の主は部屋の前で止まると、チャイムが響く。
 後藤が玄関に目をやると、笑いながら言った。
「きたんじゃねぇのか、一哉のヤツ」
 愛は眉をひそめたが、冷ややかな目で後藤を見ただけである。こんなときに冗談を聞きたくないが、口も利きたくない。彼女はそんなことを思っているんだろう。
 後藤は肩を竦めると、のっそのっそと玄関に向かった。後藤がドアを開けると、風が入り込んでくる。
「ええ、神野は確かにいますけど」
 ナオは玄関を見ると、顔が曇っていった。何があったんだろうと私も目を向けると、三波刑事と磐田刑事が立っていたのである。
 恵美は誰かと口論をしていた。そう今朝のニュースで報じられていたが、その相手はナオだったらしい。しかし彼女が犯人だと決まったじゃない。
 しばらく三波と後藤の押し問答が続いていたが、三波たちがとうとう中へ入ってきた。
 私は二人の刑事に会釈をすると、三波は胡散臭そうな目で見る。私はインスタントコーヒーを飲んで気を鎮めたものの、すっかり冷め切っていた。
 次いで二人はナオに目を向けて言った。有無を言わせぬ口調である。
「松岡恵美さん転落死の件で少しお話を伺いたいのですが」
 それを聞いてナオは目を泳がせていた。その際、愛と一瞬だけ目が合ったが、冷やかにナオを見返す。ナオは気まずそうに目を伏せた。
「それ、任意同行ってやつですか?」
 後藤は新しい煙草に火を点けると、三波に尋ねる。感情を押し殺しているような声である。
 三波は仏頂面で頷いた。
「そうですが」
「できれば脚本が書き上がるまで待ってもらえませんかね?」
 そして、彼はナオから目を逸らして呟く。
「……ただでさえ制作に遅れが出てるのに」
 愛はそれを聞いて吐き捨てた。
「何考えてるの。こんなときに」
 磐田も後藤に詰め寄ろうとしたが、三波は手で制する。しかし彼も苦笑を浮かべながら、後藤へ告げた。
「すぐに終わりますので。それに現場には彼女の足跡がありました加えて髪の毛も落ちてましたので、彼女の毛髪とDNA鑑定をすれば……」
 ナオは三波を遮って立ち上がる。
「解りました」
 ナオはそう言うと、泣きそうな顔になりながら、皆を見回した。後藤は忙しなく煙を吸い込むと、ナオへぶっきら棒に言う。
「またな。早く戻ってこいよ。俺は待たせるのは得意でも待つのは苦手なんだ」
 愛はそれを聞いて、愛は吐き捨てるように言った。
「こんな時に駄洒落なんかやめなさいよ」
 そして後藤を眉をひそめて睨み付ける。ナオは弱々しく微笑んで二人を見ていた。三波に肩を叩かれると、俯いて扉を開ける。まるで仔犬が叱られているようだ。
 扉は、悲鳴を上げながら閉まった。その時、ナオと私は目が合ったように思えてならない。

「まさかナオちゃんが……」
 ナオが出ていくと、健介はポツリと呟いた。そしてナオが座っていた、その椅子に目を向ける。不在の椅子に。
「事情を聞いてるだけですよ。まだ犯人と決まったわけじゃありません。そもそも事故死かもしれないでしょう?」
 私は慰めたが、健介は力なく笑っただけである。愛はマックブックを開くと、キーを叩き始めた。健介が咎めるような目で見ると、愛は彼を睨みつけて言った。
「学校の制作課題よ」
「だからって!」
 健介は腰を浮かせたが、私の前だと思い出したらしい。彼は腰を落として吐き捨てた。
「だからってこんな時に……」
「仕方ないでしょ。昨日終わらせるつもりだったのに、USBの一件でそれどころじゃなかったんだから」
 愛が大袈裟に欠伸をすると、健介は押し黙ってしまう。愛は溜息をつくとキーを叩き始めた。
「一ついいです? USBメモリを復活させようとしたのは愛さんですか?」
 私は愛に尋ねると、彼女は鬱陶しそうに頷いた。
「そうですけど?」
「その時、何かエラーメッセージは出ましたか?」
 そこへ健介が口を挟んだ。
「僕のパソコンで読み取ろうとしたら、デバイスが認識されていないってメッセージが出たんです」
「落としたりはしてないんでしょう?」
 私が聞くと健介は頷いた。
「ええ、もちろん」
「何か気が付いた点はありませんか?」
「そう言えば……、昨日の夜、恵美ちゃんにUSBメモリを貸したんです。台本でちょっと確かめたい点があるらしくて。プリントアウトじゃダメかって聞くと、検索したほうが早いと言って……。その後ですね。読み取れなくなったのは」
 後藤はそれを聞いて、仏頂面で言った。
「恵美ちゃんが壊したみたいな言い方だな」
 健介は首を振ると気まずそうに目を伏せた。そして、ポツリと呟く。
「ごめん。別にそういうつもりで言ったんじゃ……。恵美ちゃんに貸したときは、確かに動いていた。フォルダを開いてる画面を見たんだ。俺が保証する」
 健介は弁解めいた調子でそう言うと、後藤は不快そうに鼻を鳴らした。健介は私にすがるような眼差しを送っている。私は内心で溜息をつきながら言った。
「壊したか、壊れたかはともかく、恵美さんが最後にUSBメモリを使った。その時までは読み取れてた。これは確かなんですね?」
 どうしてそこまで首を突っ込む? 他人から見たら笑われるかもしれないが、「責任」を果たしたいのだ。「責任」とはどこまでもついて回る、影法師なのである。
 私の問いかけに、健介は戸惑いながら頷く。
「だと思いますけど……」
 健介は首を傾げているが、愛は冷淡に言った。
「勘違いなんじゃないの?」
「まぁまぁ、そうかもしれませんが、ともかく手がかりが今は欲しいんです。メモリが読み取れなくなって、愛さんがこのアパートへ駆けつけた、と」
 愛が黙って頷いた。それを見て、私は続ける。
「愛さんがきたら、ナオさんと恵美さんがいたんですね?」
「はい」
「なるほど、でも何で神社なんかに……しかもあんな深夜ですよ?」
 私が聞くと、愛は答える。
「神社を抜けると、近道なんです」
 そして愛は無理に笑って付け加える。
「前、二人がそんな話をしてました」
「よく解りました。その後のことをもう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」
「その後って言われても、なぁ」
 健介は困惑しきったように愛を見る。愛も頷いた。
「ええ……そうね」
「僕が脚本を書くって知ってたのは、健介さんと愛さんの他に誰がいます?」
 私が聞くと、愛は考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「ええと……、恵美さんなら知ってたかも」
 それを聞いて、健介が素頓狂な声を上げる。
「恵美ちゃんが!? どうして?」
「私がここに着いたとき、まだ恵美さんは玄関にいたじゃない? ナオさんは外で待ってたけど」
「何で同時に出なかったんでしょう?」
 私が聞くと、健介は答えた。
「恵美ちゃんは紐靴を履いてたんです。ナオちゃんは普通のスニーカーでした」
 私は頷くと、愛へ尋ねた。
「つまり恵美さんが玄関で靴紐を結んでる間に、お二人の話し声が聞こえたかもしれない、と?」
「そういうことですね。でも少し慌てているように見えました」
 愛が頷くと、私は言った。
「慌てていた?」
「ええ、まぁ時間も時間でしたし、ナオさんを待たせていたからかもしれませんし……」
 愛は段々としどろもどろになっていく。これ以上の質問は酷だろう。
「なるほど。となると愛さん、健介さん、恵美さんの三人だけがUSBメモリの故障を知っていたわけですね? そして読み取れなかったら、僕に頼むことも」
「そうです」
 健介は頷いたが、半ばうんざりしているようだった。しかし無駄な口論はしたくないのか、表立って異議を唱えない。
 私は後藤を一瞥すると、健介に向き直って尋ねた。
「後藤さんへはどの段階で連絡を?」
「今朝です。時間も時間でしたし……、それに……」
 健介は言おうかどうか迷っているようである。後藤に一瞥を投げると、言葉を選びながら続ける。
「後藤に急ぎの脚本を任せるのは不安でしたので」
 後藤が書くと、細部に凝りすぎて完成まで時間が掛かってしまうんだろう。後藤は自覚しているらしい。不貞腐れた顔をしながらも黙っている。
「なるほど……。愛さんはどのくらいでここに?」
「向かいの家なので、本当にすぐです」
 健介が窓の外を指さしながら答えると、愛も頷いた。私は愛に向き直ると、尋ねる。
「USBメモリを復旧していた時、何か気付いた点はありませんか?」
 私がそう言うと、愛は短く叫び声を挙げた。健介が詰め寄って、尋ねる。
「何か思い出したのか?」
「え、ええ、勘違いかもしれないけど……」
 愛は言い淀んでいたが、意を決したように顔を上げた。そして私へ言ったのである。
「あのUSBメモリ、少し濡れてたような気がするんです」

「どうせ愛ちゃんの勘違いだよ。今の話だと恵美ちゃんがUSBメモリに水をぶっ掛けたことにならないか?」
 後藤は笑ったが、その顔は引き攣っている。愛も力なく笑うと、頷いた。
「ええ、そうね。あの台本を恵美さんが消すわけがないもの」
 私がその理由を尋ねると、健介が答える。
「ほら、車の中でお話ししたでしょう? 今回、恵美ちゃんを主役にしたって。あの脚本データが入ってたんです」
「ああ、なるほど。確か彼女には教えてないんでしたよね?」
 そうです、と健介は頷くと周りの顔を見回して尋ねた。
「みんなも言ってないよな?」
 愛と後藤は互いに目を合わせていたが、やがて言った。
「俺は言ってない」
「私も言ってません。秘密にして欲しいって健介くんから頼まれたので……」
 私と健介のやりとりに、後藤が口を挟んだ。
「ほれ、恵美ちゃんにUSBメモリを貸したって言っただろ? あのとき見たんじゃねぇの? でも脇役ならともかく、主役が確定してるのにわざわざ脚本を消そうとするか?」
 そして後藤は健介に尋ねる。
「そんなに変な役じゃないんだろ? リチャード三世とかシャイロックみたいな」
「もちろんだ」
 健介が頷くと、愛は首を傾げた。演劇には疎いらしい。
「二人とも悪役ですよ。シェイクスピアに出てくるんです」
 私が教えると、愛は興味がなさそうに頷いた。傍らで健介は焦れったそうに叫でいる
「USBメモリが復活できたらな。もしかしたら台本の中に口論の原因が隠されているかもしれないのに! 有沢さん、何とかなりませんか?」
 そう言うと健介は救いを求めるような眼差しを私へ向ける。愛はそれを聞いて咎める。
「いくらなんでも図々しいわよ」
 そして、直せるかどうか疑わしいのに、と愛は更に声を潜めて付け加えた。
「まぁまぁ、試してみましょう。そのUSBメモリはどこにあります? あ、それとドライヤーとエタノールがあるといいな」
 それを聞いて健介は洗面所に駆け込むと、ドライヤーを抱えて持ってきた。愛は救急箱を棚から下ろしている。
「ちょっと失礼。キレイなマグカップを取っていただけますか?」
 健介と愛は顔を見合わせていた。健介は不思議そうな顔でマグカップを差し出した。私は礼を言うと、エタノールをマグカップに注いだ。
「ちょっといいですか?」
 私はそう言うと、返事を待たずに健介の手からUSBメモリを摘み上げた。そしてマグカップの中に入れる。
「何をするんですか!?」
「そ、そうですよ! こんなことしたらUSBメモリが」
 さすがに健介と愛は泡を食ったらしい。マグカップに駆け寄って中を覗きこんでいる。二人が驚くのも無理もない。私は落ち着いて言った。
「僕も一回USBメモリをトイレに落としてしまいまして、この方法で復旧させました」
「そうは言っても……信じられるか?」
 健介にそう聞かれ、愛は頭を振った。そんな二人を余所に後藤は私へ尋ねる。
「どのくらい浸しておけばいいんだ?」
「そうですね、三十分くらいでしょうか。その後三日間くらい何もしないで下さい」
 健介は驚いて尋ねた。
「何もしないんですか?」
「ええ、何も。できれば乾燥剤を入れて、常温で保管して下さい。高温多湿は厳禁です。そしてドライヤーで冷風を当てて下さい」
 後藤はそれを聞いて、私に尋ねた。
「そうすれば復活するってわけか? イエス・キリストのように」
「もし本当なら願ったり叶ったりなんだけどなぁ」
 健介はそう呟いた。愛も言葉にこそ出さないが、胡散臭そうに私を見ていた。
 二人を見て、私は厚意を傷付けられたような気がした。しかし何か言っても始まらない。皮肉の一つでも言いたいが、USBメモリが復活すれば正しかったと解るだろう。
 ただ一つ問題があった。通電していたら、成功するどうかか解らないのだ。読み取れなくても記憶素子の断片がデータが残っているだろう。その断片をつなぎ合わせて……、そこまで考えて、私は首を振った。
 番号が振られた砂漠の砂粒。それらの砂粒を顕微鏡で一つ一つ覗きながら並べ直すようなものである。しかも刺激とは無縁の無味乾燥な単純作業。USBメモリが復活するように神へ祈りたくなった。

「サークルをどうするかなんて今、決めなくてもいいんじゃねぇのか?」
 後藤は溜息混じりに健介へそう尋ねる。そしてマグカップの中のUSBメモリを箸で突きながら、続けた。
「こいつだってまだ復活してないんだし、ナオちゃんだって警察から戻ってきてないんだし」
 うーん、と健介は腕組みをしていたが、私を一瞥した。
「せっかく来てもらったのになぁ……」
 別に構わない、と私は言って微笑んだ。健介は言いにくそうな顔していたが、口を開く。
「じゃあ……一旦、お開きにしますか」
 後藤は手帳を取り出して、次の打ち合わせはいつか健介に尋ねていた。
「ごめん、まだ未定にしておいてくれないか」
 健介はそう言って、弱々しく笑う。解ったとだけ後藤は言うと、手帳をしまった。
「じゃあ俺は有沢さんを送っていくよ」
 愛が立ち上がると、椅子がカタリと鳴る。その音を聞いて、彼女は健介に言った。
「この椅子、相変わらずぐらついてる。帰ってきたらでいいけど、危ないからコロシ……固定させといてね」
「解ってる。後で直しとくって」
 健介はうるさそうに手を振ると、机の上から車のキーを掴む。私は愛と後藤に黙って一礼すると、帰り支度を始めた。
 アパートの階段を下りて、車に乗り込む。
「どこまでお送りすればいいです?」
 その問いに、神社の近くと答えると、彼は驚いたような顔になった。
「何か解ったんですか?」
 私が力なく首を振ると、健介は弱々しく言う。信号が赤へと変わり、車は速度を緩やかに落とした。
「そうですか……」
「どうしても気になるんですよ。恵美さんが僕に何を伝えたかったのか」
 ほどなくして信号が青に変わると、健介はグッとアクセルを踏み込んだのだった。

第二部

 神社の前で健介とは別れた。参道をしばらく歩くと、石段が見えてくる。そしてその上に本殿が建っていた。エスカレーターなどあるはずもなく、私はうんざりしながら石段を登る。
 登り終えると、脇の手水で顔を洗った。水が冷たく一気に目が覚めた。もちろん信心などは全くない。ただ単に眠たかったからという極めてまともな理由である。
 誰かが箒で掃く音が聞こえてきた。物音に気付いてか、堂宇の裏から四十代の男が出てくる。恐らくは神主だろう。
「どうしました?」
 私に近寄るとそう彼は尋ねる。にこやかに微笑んでいるが、不審者へ身構えているようにも見えた。
「いやぁ、少し道に迷ってしまいましてね、バス停へはどう行ったらいいんでしょうか?」
 神主はバス停への道を教えてくれるが、もとより私は興味はない。ありがとうございます、と形ばかりの礼を言う。
 どうしてこんなところまできて道を尋ねるのか、と彼は思っているらしい。神主は怪訝そうな顔をしている。
 それを見て、私は聞こえよがしに呟いた。
「あぁ、ここはやっぱり明神鳥居なんだな」
「はい?」
 彼は聞き返したが、迷惑そうではない。むしろ意外そうな顔をしている。
「……あぁ失礼。神社やお寺に興味がありまして、見るとついつい入ってしまうんです。鳥居って時代によって違ってて面白いですよね。この形は奈良時代から平安時代、ですか?」
 私はそう言うとおもむろにスマホを取り出し、写真を撮る仕草をした。寺社仏閣巡りが趣味なら一人で神社にいてもおかしくはない。そして何より神主と話しやすくなる。
 案の定、それを聞くと顔を神主は綻ばせた。
「そうなんですよ」
「そういえばこの神社で事故があったんですってね。朝のニュースで見ました。……詳しくは知りませんが」
 私は頭を掻きながら言うと、彼は頷いた。
「そうなんですよ。何十分も聞かれた挙句、映ったのはほんの数秒」
「大変でしたね。何も変な音は聞いてないんでしょう?」
「ええ……まぁ」
「そうですか。いや、変な話をしてしまって……。どうもすみません」
 私はそう言って踵を返した。収穫なし、か。内心でそう呟いたが、神主が呼び止めた。
「あの……」
「何でしょう?」
 私がそう言って振り向くと、神主は気まずそうな顔ををしている。彼は言い淀んでいたが、やがて口を開いた。
「それが……、テレビでは口論の末、突き飛ばしたように言われてましたよね?」
「そうでしたっけ? すみません。仕事をしながら聞いてて、余り覚えてないんですよ」
 私はそう答えると、曖昧な笑みを浮かべた。「詳しくは知らない」と言ったのだ。細部を知っていたら不自然に思われるかもしれない。
 神主を見ると、寂しそうに笑っていた。私はさり気なく後を促す。
「それがどうかしたんです?」
 すると、神主は溜息交じりにこう告げたのである。
「それがですね、私には手を差し伸べているように見えたんですよ。薄暗くてよく見えませんでしたが」
「警察には……」
 私が尋ねると、神主は首を振った。
「あれはあくまでも私の印象です。いや、そう思いたかったから、助けてるように見えてしまったのかもしれません。いずれにしても曖昧な証言で警察の方々を振り回したくはないんですよ」
 神主は深く溜息をついて、さらに続けた。
「それにもう放っておいて欲しいんです」
 証言してくれ、とも今さら言えない。そうですか、と私は短く答えて、石段を下りていった。
 もし、「手を差し伸べていた」のならナオは罪で軽くなるかもしれない。もしかしたら無実の罪、という可能性も出てくる。しかし近隣住民が口論を聞いているのだ。
 つまりナオは限りなく黒に近い。神主が何と言っても警察が捜査方針は変えないだろう。それに状況証拠だけではいくら警察も動かない、と考えながら参道を歩いた。

 事務所の扉を開けて、私はデスクの上に目を向けた。書類が山積みになっている。他のボイスドラマの脚本、テストプレイの報告書、ゲームの進捗状況、個人的な飲み会のメモ、そして心療内科の予約票……。私は「地層」を掘り起こしながら、急ぎの案件がないか紙を繰った。
「サイトデザインの見積もり依頼、か。二万は無理だろうから八○○○円……、いや一万円くらいで見積もりを出しとくか。確か以前、似たようなデザインを作ったはず。データを上手に変えてサンプルにすれば……」
 私はそう呟いて、見積依頼書を脇に退けた。他にダイレクトメールが三通。丸めてゴミ箱に放り込むと、欠伸をしてソファへと横になった。だが少し仮眠を取るつもりが、寝入ってしまったようである。
 スマホを見ると三時間くらい経っていた。
 その間にスカイプで誰かが掛けてきたらしい。未読のメッセージがあると書かれていて、タップする。「後藤です。有沢さんのサイトを見てID知りました。連絡先に追加してもらえませんか?」と書かれていた。傲岸不遜な態度からは想像もできない。
「僕をバカにしてたのに……」
 私は内心で一瞬、そう苦笑した。しかし演劇関係の人脈が増えるのは悪くない。「コンタクトありがとうございます。よろしくお願いします」と文字チャットで返した。
 すぐに後藤からビデオ通話が掛かってくる。「受信」をタップすると、パソコンの画面に後藤の顔が映し出された。昼間の尊大な顔とは打って変わって、孤独を滲ませている。
 彼の机には缶チューハイが置かれていて、すでに五本は空になっているようだった。どうせなら仕事をしながら通話しよう、と私は思いサイトデザインの見積書を作り始める。キーの叩く音を聞いてか、後藤は言った。
「あぁ作業中か。すまなかったな。また今度にするか?」
「あぁ、いえ、大丈夫ですよ。単純作業だったんで、ちょうどよかったです」
「そう、か。安心した」
 後藤はそう言うとふいに無言となる。しばらくキータッチの無機質な音が部屋に響いていた。後藤は六本目の缶チューハイを開けたが、顔は真赤である。一気と呷るとポツリと呟いた。
「嫌われ者は俺一人でいいんだ」
「どういう……」
「言葉通りの意味さ。あのサークルは誰か嫌われ者がいないとまとまらないんだよ。健介は代表で、人脈作りは上手い。でも誰かの評価にいつも捕らわれてて無難な脚本ばかり。それしか書けないんならまだ腹は立たないんだがな。愛ちゃんは作曲の腕は確かだが、演劇には全く興味がない」
 後藤は息も継がずにそこまで言うと、溜息をついた。ナオについてはどう思ってたんだろう。興味をそそられたが、ずけずけと聞けるほど私も無神経ではない。
 私がゆっくりと首を振ると、後藤はポツリと呟いた。
「いや、人間って誰か嫌われ者や道化役がいないとまとまらないのかもな」
「だから偏屈な脚本家を演じてたってわけですか」
 会議に無関心だったのではなく、表情を悟られたくなかったんだろう。だからわざわざハードカバーを持ってきて、読んでいたのである。文庫本だと顔は隠せないのだ。そもそも会議に興味がないならUSBメモリの復活を進んで手伝わない。
「ああ、芝居は慣れてるからな。これでも役者の端くれだ」
 後藤はそう言うと、笑った。不器用さを滲ませながら。
 それは大変でしたね、と私は声を掛けようとしたが、口をつぐんだ。余りに空々しい。掛ける言葉が見つからず、かと言って仕事に戻るのも気が引けて、押し黙ってしまう。
 外では風が木々を掻き鳴らしていた。そのかすかな音に混じって、後藤の呻くような声が聞こえてくる。
「俺だって、俺だってあのメンバーで続けたかったよ。でもそんなこと……そんなこと……」
 後藤は苦悶の表情になって、声もか細くなっていった。悔しさで机をドンと叩くかと思いきや、手は力なく垂れている。その姿が帰って痛々しい。後藤は溜息をつくと言った。
「俺の脚本は、みんなを楽しませようと思って書いてるんじゃない」
「だったら何のために書いてるんです?」
 しかし後藤はそれに答えようとせずに、唐突にこう言った。
「なぁ、ギリシャ悲劇は人生の皮肉さをよく描いてると思わないか?」
「そう……ですね」
 私は戸惑いながらも頷くと、後藤は溜息をついて言った。
「つまり〈真実〉は物語でしか語れないんだよ。俺が脚本を書くのは〈真実〉の自分をさらけ出すためさ。悟られないからこそ気兼ねなく本心を語れる。でもほんの一握りでいい。砂漠みたいな俺の心に気付いて欲しいんだ」
 後藤は我に返ったらしい。咳払いをして誤魔化す。そして今のは全て酔っ払いの戯言で、忘れて欲しいと告げた。解りました、と私は適当に相槌を打つ。
 寂しければ寂しいほど理解を求め、饒舌に語るのである。しかし余計に心の隙間が広がっていく。そして「本音」はいつの間にか宇宙の彼方へ行ってしまうのである……。まさに人間の孤独とともに悲劇は誕生したのかもしれない、と考えながら、さり気なく話題を変える。
「でも解散するって決まったんじゃないんでしょう?」
「そりゃそうなんだけど」
 そして後藤は溜息をついて続けた。
「揉み合いになったってナオちゃんが認めたらしい」
「本当ですか?」
 私が思わず尋ねると、後藤は苦笑いを浮かべる。
「ああ、嘘なんかついてどうするんだよ。まぁ、突き飛ばしたかまでは解らないらしいけど」
「解らない?」
 私はオウム返しに繰り返すと、後藤が頷いて言った。
「覚えちゃいないそうだ。なぁこれって殺人になるのか? よく殺意を否認していたってテレビで聞くけど」
「殺意がなければ傷害致死ですね。でも今回、突き飛ばした証拠が出るまで逮捕状は難しいと思いますけど……」
「その場合はどうなるんだ?」
 後藤は缶チューハイを一口飲むと、私へそう尋ねた。
「弁護士じゃないので詳しくありませんが、重要参考人でも任意同行です。ナオさんが帰りたいと言ったら帰してくれるはず」
 もうそろそろやめといた方がいいんじゃないか、とも思ったが後藤の胸中を考えると何とも言えない。私は心配して後藤を見た。
「何だよ。そうだ、お前も付き合えよ。冷蔵庫にビールくらいあるだろ」
 私は立ち上がると、足元のふきのとう焼酎を引っ張り出してきた。あるストーカー事件を解決した時に貰ったのである。
 コップに手を伸ばすと、焼酎をなみなみと注いだ。一口飲むとほろ苦さが伝わってくる。しかしこのほろ苦さは焼酎だけのものなんだろうかと考えながら、私は言った。
「それで、何でまた揉み合いなんかに?」
「主役の座を巡って口論になったらしい。そんなことがあるんですかって、三波って刑事が聞いてきた。よく解りませんけど、あるんじゃないんですかって言ったら呆れてたよ」
「で、本当によくあることなんですか? 激しい口論になることって。すみません、ボイスドラマの人間模様には疎くて」
「俺もこの目で見たわけじゃないからな何とも言えないな。でもメンバーが気に入らなくて、ネットで人格攻撃をされたって話なら」
「でもお二人に限ってそんなことはなかったんでしょう?」
 私が尋ねると、後藤は頷いた。
「もちろん。だって恵美ちゃん、脇役でいいっていつも言ってたんだ。実力があるのにもったいないよなぁってナオちゃんとも話したことがあるし。ただ……」
 後藤が口ごもっているのを見て、私は後を促した。
「ただ?」
「ただ本当はどう思ってるかなんて、誰にも解らないからな。本人たちですら。心ってそういうもんだろ」
 後藤はそう言うと、時計を見上げて更に続けた。
「もうこんな時間なのか。ちょっと出かけてくる」
 後藤は立ち上がって、玄関に向かおうとする。しかし足元が覚束ない。私は心配になり、行き先を聞いた。
「一哉を迎えに行くんだよ。名古屋は路線案内が不親切だからな。迷っちまうだろ?」
「僕も行きますよ」
 このままだと駅の階段を踏み外しそうで、と言おうとしたが、その言葉を焼酎とともに胃の腑へ流し込んで私は続けて尋ねた。
「待ち合わせはどこです?」
 後藤は答える。
「バス停から動くな、と言ってある。でも、俺はこないかもしれないぞ? 気紛れだから」
 後藤は冗談めかしていたが、真剣に言っているようにも思える。私は微笑して、こう言った。
「信じて待ってますよ」
「ありがとう」
「僕こそ遅れるかもしれませんけど大丈夫です? ……その、乗り換えとかで」
 それを聞いて、後藤はフッと短く笑った。
「解った。またな」
 彼はそう言うとスカイプを切った。まだ私のコップには焼酎が残っている。それをちびりちびりと飲みながら、キーを叩き始めた。
 仕事の精神(スピリット)さえ忘れなければ、少しくらい(スピリット)が入っていても問題ない。見積書とサンプルページをクライアントへ送る。そしてコップの焼酎を片付けるとオフィスの鍵を掴んだ。
 待つという決断は勇気がいる。不安に耐えなければいけないのだ。宙吊りにされている不安に。

 遅いと言ってもまだ夜の九時である。地下鉄の階段を上がっていくと、ネオンサインで彩られた街が見えてきた。それに紛れて長距離バスのバス停が立っている。どことなく居心地が悪そうに見えた。
 自販機に立ち寄って、缶コーヒーを三つ買う。バス停に向かうと、後藤はすでに着いていた。彼は少し手を挙げて、私へ合図を送る。私は会釈をすると駆け寄った。
 私が遅刻を詫びると、後藤は笑って手を振った。
「気にするな。俺こそ呼び付けたみたいで済まない」
「そんなことありませんよ。僕も気になることが……」
「何だ? 突き落としたっていう誤解は解けたんだろう?」
「いえ、そうじゃなく……」
 続きを言おうとすると、大型車の姿が見える。遠くてよく見えない。しかし近づくに連れ、バスだと解った。あれに一哉が乗っているんだろうか。
 やがてバスが停まると、昇降口の扉が開いた。名古屋への到着を告げるアナウンスとともに、乗客たちが降りる。平日の昼に乗るからだろうか、人は少ない。
 最後に、ブレザー姿の高校生が降りてきた。背は低く丸顔。短い茶髪で耳にはピアスをつけている。それを見て、後藤は悠々と歩いて、彼の肩を叩いた。
「よう、一哉」
 一哉はそれを聞いて、後藤へ一礼した。
「初めまして」
 そう言うと、曖昧に笑う。その言葉に違和感を覚えたかのように。
「初めまして、じゃねぇだろ。スカイプで何度も話してるだろうが」
 バスの走り去る音が後藤の豪快な笑い声に混じり、夜の街に響く。初めて後藤の笑顔を見た気がした。
「そう、ですね。何か不思議な感じ」
 そして一哉は私に目を向けると、不安そうに尋ねた。
「あ、あの。あなたは……?」
 私が微笑んで自己紹介すると、頭を下げる。
「あの時は本当にごめんなさい!」
「いやぁ、誤解が解けてよかったよ」
 そう言うと、缶コーヒーを渡す。一哉は貸しを作りたくないらしい。作り笑顔で財布を取り出そうとした。後藤は手でそれを制した。
「こういう時は大人しく受け取っておきゃいいんだ。ありがとうございますってな。ガキが野暮なマネはするんじゃねぇ」
 そう言うと後藤も私から缶コーヒーを受け取った。そして、プルタブを起こす。
「悪いな」
 彼はそう言うと早速、一気に飲み始める。いただきます、と一哉は小さな声で言うと、缶コーヒーのプルタブに指を掛けた。それを見て、私も缶コーヒーを開けると並んで歩き出す。
 一哉は煙草を取り出すと、私に言った。
「吸ってもいいですか? バスの中禁煙で」
「……あぁ、ここ禁煙区域なんだ」
 私はどう答えていいか解らずに、目に入ったステッカーを指さした。「路上喫煙行為に対しては過料2000円を徴収します」と書かれている。
 ブレザー姿で喫煙はさすがにまずいのではないか。未成年は煙草を吸ってはいけないことになっている(「ことになっている」に傍点)、、、、、、、、、、以上、高校生なら隠れて吸って欲しい。そんなことを考えていると、後藤が言った。
「煙草はやめとけ。声で仕事をしたいんなら喉は大事にしろ」
「後藤さんだって俳優じゃないですか。なんで後藤さんはよくて俺はいけないんですか。不公平ですよ」
 一哉は口を尖らせてそう言うと、後藤は鬱陶しそうに手を振った。
「俺はいいんだよ。今、脚本家だから」
「何ですかそれ。理不尽なルール」
 後藤はそれを聞いて、諭すような調子で言った。
「いいか? ルールってのはな、もともと理不尽なんだ。俺だってあの路上喫煙禁止条例ができたせいで、煙草はこの辺りじゃ吸えなくなっちまった。忌まわしい条例さ。そのうち俺たちはタバコ税で搾取され、ユダヤ人のように迫害されるんだよ」
 空気がキレイになっていい。アウシュビッツ並の毒ガスを撒き散らしてるのに。内心ではそう思っていたが、黙っていることにした。
 後藤は一哉の胸ポケットから煙草をひょいと摘み上げる。そして彼は煙草に火を点けると、美味そうに煙を吐き出した。一哉は恨めしそうに紫煙を目で追っている。
 後藤はそれを尻目にしばらくふかしていたが、携帯灰皿を取り出した。そして火を消すと、地下鉄駅へと歩いて行く。一哉は呆然と立ち尽くしていると、後藤は言った。
「ともかく名古屋にいる間は俺が煙草を預かるから。心配するな。俺が代わりに吸っておいてやる」
「冗談じゃありませんよ」
 一哉は目を剥いて叫ぶと、後藤の後を追いかける。夜の街に元気な足音が響いた。私は短く笑みを漏らすと、地下鉄駅へ歩を進めた。

 私たち三人は地下鉄の階段を下りていた。コンクリートの構内に足音が谺している。中二階まで下りると、一哉が私に目を向けた。
「どうしてこの事件を熱心に調べてるんですか?」
 そして一哉は勢い込んで続けた。
「まさか、犯人を見つけようと……?」
 ナオが逮捕された。一哉に伝えるべきかどうか図りかねているのだろう。後藤は俯いていたが、やがて気まずそうに私を見た。私は頷くと、彼は咳払いをした。
「ど、どうしたんですか?」
「そのことなんだけどよ。……ナオちゃんが逮捕された」
 動揺するわけでもなければ、泣き喚くわけでもない。一哉は芝居の台詞でも聞いているかのような顔つきになる。その表情を見て後藤は呟いたが、自分に言い聞かせているかのようでもあった。
「信じられないよな……。俺だってまだ信じられないんだ」
 一哉はポツリと言った。
「やっぱり本当に死んじゃったんですね」
「本当、って?」
 私が尋ねると、一哉は答えた。
「テレビのニュースで見たんですけど、どうしても信じられなくて……。なんというかテレビには温もりが感じられなかったんです。温もりと言っていいのかな、とにかくそういうものが」
 温もり、か。その言葉を心の中で私は反芻した。人の最期はわずか数秒間に収め切れない。死に様とは生き様そのものなのである。
 私は一歩、力を込めて踏み出すと言った。
「実を言うとね、犯人探しなんて僕の目的じゃないんだ」
「へぇ、じゃあ何が目的なんですか?」
 一哉はそう問いかける。一哉はまだ中二階にいた。
「死者の追悼、かな?」
「追悼? お通夜に出ればいいじゃないですか」
「うん、そうだね。でもそれって本当に死者を悼んでるのかな。死者を悼む振りをしてるだけなんじゃない?」
 私は誰に問うでもなく呟いた。
「どういうことです?」
「例えば恵美さんは悩みを抱えてたはずだし、サークルでは見せない面もあったはずだよね? 例えば……そう恋愛とかね」
 一哉の顔が少し赤くなったが、私は続けた。
「生前の悩みを知ろうとしたり、確かに生きた痕跡を見つけたり……。それが僕にとっての追悼なんだ。何か恵美さんから聞いてない?」
「知って何になるんですか? 犯人に復讐するんですか」
 一哉はイライラしたように尋ねたが、私はきっぱりと言った。
「なんにもならない」
「はぁ? だったら……」
 途端に一哉は目に軽蔑と反抗を漂わせ、睨み付ける。いわゆる「大人」への態度そのもののように私には思えた。しかし彼自信も揺らいでいるんだろう。「大人」への信頼と不信の狭間で。彼のピアスが、不安そうに揺れている。
 一哉の態度を見て、後藤が諌めた。
「大人の話は最後まで聞け」
 一哉は仏頂面で頷く。
「はぁい」
 後藤は私に向き直って言った。
「すまない。こいつまだガキだからよ。でなんの話だ?」
 ガキじゃねぇし、と吐き捨てる声が聞こえる。一哉はむくれていたが、私は気付かない振りをして言った。
「恵美さんが生前、どんなことを考えてたか知ることだけはできる。復讐なんてもってのほかだ。どうしてか解る? 死者が復讐を望んでいたとしても、だ」
「復讐は何も生み出さない、からですか?」
 一哉は苛ついた足取りで階段を下りると、そう答える。高校生らしい、「よくできた」答えである。教師なら満点を付けたくなるに違いない。しかし私はゆっくりと首を振って答える。
「亡霊に取り憑かれるからさ。ハムレットのようにね。あらすじくらいは知ってるよね?」
「は、はぁ……一応、役者志望ですから、英語の先生に勧められて読んでます。もちろん翻訳で、ですけど」
「彼は死んだ父親に振り回されて、恋人や周りの人を巻き込むよね? そしてそれが原因でみんな死ぬ……。それがハムレットの悲劇だと僕は思っててさ」
 一哉は狐につままれたような顔で、私を見ている。何で急にハムレットの話をしたのか、不思議に違いない。だが、いずれ解ると私は強く信じている。言葉は少し遅れて届くのだ。そう、いつもほんの少しだけ。
「あっ、そういえば」
 一哉が思い出したように呟くと、後藤は尋ねる。
「何だ?」
「恵美さん、こんなことを言ってたんです。月の方が私には合ってるって。かなり前なんですけどね」
「どういうことだ?」
 後藤は一哉に聞いたが、彼は首を振った。
「解りません。雑談してるときに言ってたことなんで、特に気にも止めていなかったんです。……だってそうでしょう? 雑談で誰とどんな話をしてたかなんていちいち覚えてます? 覚えちゃいないでしょう?」
 一哉は一気にまくし立てると、俯いて、そっぽを向く。肩を小刻みに震わせていた。
「責任を感じることなんかないって。なぁ」
 後藤はそう慰めると、目で私に同意を求める。私は笑って無言で頷いた。後藤の顔を見る限り、彼にも心当りがないらしい。しきりに首を捻っている。
 私はつい二日前、代打になったばかりである。「かなり前」に言ったんなら、私の脚本とその言葉とは余り関係ないんだろう。
 月の方が合っている、か。私は心の中で呟いたのだった。

 駅のコンコースまで下り切ると、後藤はスマホを取り出した。そして健介へとスカイプを掛ける。ほどなくしてスマホのディスプレイに彼の部屋が映し出されたが、一幕物の芝居を見ているかのような錯覚に陥った。
「一哉を保護した」
 後藤はそう言うと、スマホを一哉に向ける。健介は安堵の表情を浮かべたが、顔が曇り始める。
「今晩はどこか泊まるところある? 俺のアパートで良ければ車で迎えに行くけど」
「鶴舞公園で野宿でもさせとけ。この時期なら風邪は引かん」
 健介は後藤を睨むと、彼は道化て手を振った。
「冗談だよ。俺のアパートに泊めるから安心しろ」
 後藤はそう言うと、一哉に目を向けた。最初こそ一哉は喜びと緊張の入り混じったような顔をしていたものの、やがて哀しそうに顔を歪めていく。
 後藤はそれを見て、肩を叩いて慰めた。そしてスマホのディスプレイ越しに健介へ尋ねた。
「ああ、そうそう……」
「何だ?」
「あの、さ」
 後藤はそう言うと腫れ物に触るように言葉を切った。恵美の死は彼らにとってタブーなんだろう。しかし、タブーとは不浄さと神聖さが入り混じったものである。
 民俗学者のフレイザーが確かそう言ってたはず、と私は頭の片隅で記憶をたどりながら後藤へ囁いた。
「月のこと、でしょうか? 聞きにくいんなら変わりますよ」
 私の声を聞いて、健介は驚いた顔になった。
「有沢さん? どうしてここに?」
 それを聞いて、後藤はバツの悪そうな表情になる。無理もない。酒の勢いに任せて私へスカイプを掛けたとは恥ずかしくて言えないんだろう。
「偶然お会いしたんですよ」
 私はそう言うと、健介は首を傾げる。
「そうですか。てっきり後藤が酔ってスカイプをしたのかと思いました」
 後藤は口を挟んだ。笑ってはいるが、乾いたものとなっている。
「そ、そんなわけ、ねぇだろ。お前らには酔った勢いで絡んでも、外のヤツには絡まねぇって」
 健介は胡散臭そうにそれを聞いていたが、やがて私へ尋ねた。
「それで何でしょう?」
「恵美さんなんですがね。ツキがどうこう言ってませんでした?」
「ツキ? あの空に浮かぶ月ですか」
 私は頷くと、健介は首を傾げた。
「月、月……さぁ、聞いたことないですね。すみません。でも月がどうかしたんですか?」
 死者の弔い。健介にそう言っても、気が狂っていると思われるに違いない。この手の問いを扱うには、彼は成熟しすぎているのだ。よくも悪くも。
 私は首を振ると言った。
「何でもありません」
 健介はそれを聞いて、怪訝そうな顔付きになる。後藤は口を挟んだ。
「愛ちゃんにも聞いてみてくれないか?」
 健介は苦笑しながら言った。
「構わないけど、知らないと思うぞ。何せサークルの人間関係は無関心。自分の音楽さえ流れればそれでいいって考えだから。それに今じゃなくてもいいんだろ?」
「あぁ別に構わない。じゃあ切るぞ」
「一哉くんをよろしく頼むな」
「任せとけって」
 そう言うと、後藤はスカイプを切った。そしてスマホを尻ポケットに押し込むと、一哉の肩を叩いた。
「さぁ、行くか。それはそうと、悪いことは言わん。進路は大学にしとけ。演劇の専門学校なんて言ってもどうにもならないから」
「でも大学の演劇サークルなんかたかが知れてるでしょう?」
 一哉の思い上がりに私は辟易したものの、すぐに若い証拠だと思い直した。万能感と虚無感の間を行きつ戻りつしているんだろう。他人を見下さなければ、優越感を保てないのかもしれない。
 後藤も顔をしかめると、言う。
「さぁな。でも大学に行くと演技だけじゃなくて脚本とか色々勉強になるぞ」
 一哉は少し顔を曇らせたが、拗ねているようにも見えた。何か言おうと、口を動かしている。後藤はその姿を見て、のんびりと言った。
「まぁ、今すぐじゃなくていいさ。人生長いんだ。答えなんてすぐに出るもんじゃないだろ。焦るとかえって失敗するぞ」
 後藤はそう言うと、一哉へとくるりと背を向けた。そして券売機へと向かったのだった。

 夜九時を少し回っていたが、地下鉄は混雑していた。乗客たちはみんな、疲れたような顔をしている。赤ら顔のサラリーマンが三人、愚痴をこぼしていた。
 一哉は吊革に掴まりながら、スマホで音楽を聞いている。がイヤホンから音が漏れていた。後藤はしばらく様子を窺っていたが、やがて一哉を肘で小突いて囁く。
「ボリューム絞れ」
 一哉は一瞬、うんざりしたような顔になった。しかし大袈裟に溜息をつくと、スマホをタップする。
 私こそ溜息をつきたい。間を取り持つのは本当に面倒だ。しかし内心を悟られないように笑顔を作って、尋ねる。
「何聞いてたの?」
「音楽ですよ」
 一哉は不機嫌そうに答えた。
「へぇ、どんな音楽?」
「愛さんからもらった音楽です」
 後藤は口を挟んだ。
「あの愛ちゃんが? 信じられないな。どんな音楽をくれたんだ?」
 一哉はスマホのディスプレイを見ると、読み上げた。
「今流れてるのが、アルテミスって曲です。アルテミスってあれですよね? ……幻想のアルテミス」
 一哉はゲームの名前しか思い浮かばないらしい。私は苦笑していると、一哉は怪訝そうな顔をして尋ねる。
「あれ? 何か変なこと言いました?」
「アルテミスはギリシャ神話で月の女神なんだ。まぁどうでもいいんだけど、他にはどんな曲が?」
「えっとですね、バスの中で聞いてたのが、〈リップ、ルナ〉です」
 一哉はそう言うと、スマホのディスプレイを私に向ける。〈R.I.P, Luna〉と書かれてたが、他にも「07PS501_猫色日和」などの音楽が入っている。そしてどの曲にも「Ai Naramura」と表示されていた。
「もしかして〈R.I.P, Luna〉って悲しい音楽じゃない?」
 私が聞くと、一哉は当惑した表情になる。
「そうですけど……。聞いたことあるんですか? 僕にしか送ってない、と愛さんは言ってましたけど」
「うん。でもこのR.I.Pは英語でRest In Peace、〈安らかに眠りたまえ〉という意味なんだよ」
 後藤は付け加えるように言った。
「日本語なら〈ご冥福をお祈りします〉っていう意味だな」
 そう言うと、彼は私に目を向ける。
「でもどうしてレクイエムだって解るんだ? 他のR.I.Pかもしれないじゃないか。例えば『切り裂く』だってripだよな。ジャック・ザ・リッパーとか」
 私は一哉のスマホを指さして、言った。
「ええ。もちろん。このルナは言うまでもなく月、つまり恵美さんでしょう。加えて愛さんはあの時、音楽を作っていました。ほらファイルの作成日を見てください」
 後藤は戸惑いがちに言った。
「本当だ。で、でもあの時、課題だって言ってたじゃねぇか」
「ええ、そうですね。でも課題はこの通り」
 私はそう言うと、猫色日和と書かれているところを指さした。後藤も覗き込むと首を傾げる。
「何だ? この数字」
「学籍番号でしょう。恐らく、先頭の07は二○○七年度入学」
「Pは何だ?」
「ピアノのPですね、きっと。彼女はピアノを専攻してたんでしょう? そして多分、このSはStudentのSかと思います」
 一哉は納得したような顔で聞いていたが、怪訝そうな顔に変わった。
「でも、この番号って学生だけが使うんじゃ……。だったらわざわざ区別しなくてもよくありません?」
「大学は図書館の貸出番号、パソコンの利用IDにも兼ねてるのさ。つまり教職員も〈学籍番号〉を持ってるんだ。それに卒業生や地域住民も大学図書館の貸出証を作れるし」
 ふうん、と一哉は納得したが、尋ねた。
「じゃあこの501ってのはどういう意味なんです?」
「あかさたな、で考えた場合、あ行の人を1……という具合に割り振ったとき、〈な〉行は5番目にくるでしょ? 最後の01だけど〈な〉行から数えて1番目って意味だと思う。名取さんって人がいたら、楢村は02だったんじゃないかな」
 それを聞いて後藤は言った。
「そう考えると確かに辻褄が合う……でもよく気が付いたな」
「職業柄、簡単なデータベースの設計をすることもあるんですよ。さて、この番号が学籍番号だとすれば……」
 私が言いかけると、地下鉄は動揺するかのようにゴトンと揺れた。危うく転びそうになったものの、すんでのところで体勢を立て直すと、続けた。
「〈R.I.P, Luna〉は学籍番号がありませんね。つまり学校の課題ではなく、個人的に作ったことになりませんか?」
「でも、未完成だったかもしれないだろ? だから学籍番号を振ってない。一哉に意見を求めようと送った。そう考えることもできるんじゃないのか?」
 後藤は口を挟んだが、途中で苦笑する。念のために私は一哉に尋ねた。
「一哉くん、作曲の経験はある?」
 私に突然聞かれ、一哉はぽかんとしていた。しかし彼は勢い良く手を振って否定する。
「とんでもない」
「ということです。経験豊富な人に意見を求めますよね」
 それを聞いて、後藤は頷いた。
「だよなぁ。だとしたらどうして……?」
 不器用な追悼。私の心にその言葉が思い浮かんだが、私は首を振った。
「どうして無関心を装っていたのかは解りません。でもこんなタイトルの曲を東京の一哉くんに送っているんです」
 私はそう言うと、後藤は納得したようにしきりに頷いている。一哉に送っても解らないだろう。しかし安心と希望となっていたに違いない。
 一哉はきょとんとして私へ尋ねる。
「何で僕に?」
「そのうち解るさ。人はみんな孤独なんだ」
 後藤がそう言うと、彼のスマホが鳴る。折しもマナーモードへの切り替えを促す車内アナウンスが流れていた。
 後藤は慌ててタップすると、ようやくスマホが黙る。ディスプレイを見ると、哀しそうな目で笑って言った。笑いは孤独さが漂っている。
「愛ちゃん本人からだ。何も知らないって。どうしてこんな猿芝居……」

第三部

 私は事務所に戻って、コーヒーを淹れるとパソコンを立ち上げた。この数日間の仕事が溜まっている。テストプレイの報告書を手に取って、目を通すと呟いた。
「無限ループ、か。for構文が原因かな?」
 そしてソースコードを確認していると、スマホが鳴った。ディスプレイを見ると健介からである。ナオが証拠不十分で釈放された旨が記されていた。
 私は祝いの言葉を送ろうとして、手を止めた。恵美が死んだことには変わらない。代わりに「お疲れさまでした。余り気を落とさないでくださいね」と書いた。そしてしばらく迷ったが、「通話いいですか? できればサークルの皆さんと」と付け加えて送った。
 ほどなくして、健介から「僕は構いませんが、他の人が……。特にナオちゃんは警察に行って疲れてると思いますし」と返信がくる。
 そして十分くらいして、健介から続報が届いた。全員の約束が取り付けられたらしい。
 私はパソコンの前に腰掛けると、スカイプを立ち上げた。すでに健介からグループ通話に招待されている。私は承認すると、メンバーの顔が映し出される。
 彼女は健介を責めるように言った。愛は化粧を落としていて、髪は濡れている。一哉は後藤の画面に写っていた
「有沢さんも呼ばなきゃいけなかったの? サークルの打ち合わせがしたいって言うからきてみたんだけど」
「あ、すみません。僕が健介くんにお願いしてみんなを集めたんです。愛さんにもお伺いしたいことがありましてね」
 私は笑んで答えたが、愛は硬い表情で答えた。
「率直にお尋ねします。愛さんは演劇に詳しいですね?」
 狼狽えるかと思いきや、彼女はきっぱりと答えた。
「いいえ」
「そうですか。でもあなたは健介さんにこうおっしゃった。〈危ないからコロシ……固定させといてね〉と」
 健介が不思議そうな顔で口を挟む。
「有沢さん、それのどこが変なんです? 殺すって言ったら動かなくする、という意味でしょう?」
「ええ、もちろん。舞台関係者なら〈殺す〉と言いますよ。つまり実際は演劇に造詣が深かったにも関わらず、愛さんは演劇に疎い振りをしてたんです」
 健介は嘆息したが、愛は表情を変えない。
「……言い間違えただけよ。恵美さんは死んだでしょ? そこから殺すっていう言葉が出てきただけ」
「なるほど」
「変な勘ぐり、やめて頂けません?」
「失礼しました。ではこれはどうでしょう? 『こんな時に駄洒落なんかやめなさいよ』」
「え?」
 愛は聞きかえした。
「覚えてませんか? ナオさんが任意同行を求められた時、後藤さんはこう言いました。『俺は待たせるのは得意でも待つのは苦手なんだ』って」
 後藤はそれを聞いて、戸惑いながら言った。
「ああ、覚えてる」
「確かにこれは後藤さんの名前と『ゴドーを待ちながら』を掛けた駄洒落です。しかし愛さん、どうしてすぐに駄洒落だと解ったんですか。演劇には疎いはずですよね」
「そ、それは……」
 愛が言葉に詰まって目を泳がせていると、健介が口を挟んだ。
「でも、どうして装わなければいけなかったんです?」
「それは恵美さんとの仲に問題があったんじゃないですか? 愛さんは一哉くんにあるタイトルの曲を送っています」
 一哉はスマホをタップする。パソコンの画面に近づけると言った。
「見えますか?」
 愛は目を逸らしていたが、健介が顔を近づけて読みあげる。
「もっと右かな? ……そう、ありがとう。〈R.I.P, Luna〉、〈アルテミス〉……」
「〈R.I.P〉は〈安らかに眠れ〉。〈アルテミス〉は月の女神……、つまり恵美ちゃんをモチーフにして、音楽を作ってたんだよ。ほら、作った時間、ちょうどあの時間じゃねぇか」
 後藤はしたり顔で言った。健介は感心したような顔をしていたが、一哉は冷ややかな目で見ている。
「私は確かに音楽を一哉くんに送った。だけどどうして恵美さんのために作ったって言い切れるわけ?」
 愛はそう言うと、挑むような眼差しになった。後藤はたじろいだように目を泳がせている。私は引き継いで言った。
「月の方がいい、と恵美さんは一哉くんに言ってました。そうだったね?」
 一哉は黙って頷くと、健介は呟くように言った。。
「つまりこのLunaは恵美さんなんですよ」
「興味ないと言った一方でわざわざ鎮魂歌まで作っているわけか」
 私は頷いて言う。
「ええ、それもありますが、どうして恵美さんの台詞を知ってたんでしょう? どうしてそのことを隠してたんでしょう? どうして学校の課題を作っていると嘘をついたんでしょう?」
 私は言葉を区切った。そして一息つくと、言った。
「恵美さんに対して複雑な気持ちを抱いていたのではありませんか」
「……そんなわけないでしょ? そんなわけ……」
 愛はそう言うと唇を真一文字に噛みしめた。二人きりで話すよう健介は持ち掛けたが、愛は首を振った。
「ありがとう、大丈夫。恵美を見てるとね、もう一人の私を見てるような気分になったんですよ。本当に不思議な感覚……」
 愛は言うと、肩を震わせる。そういえば恵美を優等生気取りだと愛は評していた。しかし愛こそ真面目な優等生のような印象を受ける。
 恵美には神経質な優等生の配役がピッタリだった。健介がそう言ってたが、愛こそ「神経質な優等生」だろう。鏡を見ている、とまでは言わないまでもよく似ているように私は感じた。
「どんな感覚ですか?」
 一哉が聞く。どうやら自分自身のことは隅々まで解るものだと彼は思い込んでいるようだ。しかしそれは無邪気な幻想にすぎない。
 愛は弱々しく笑った。
「私でもよく解らないの。でも無関心も本音だし、レクイエムを作りたかったのも本音」
「ここからは僕の憶測ですが、興味ないと言ったのは演技だったのかもしれませんね」
「演技? 誰に?」
 それを聞いて、私は誰に問うでもなく呟いた。
「演技の相手はいつも他人なんでしょうか?」
 愛が得心が行ったように頷くと、目から涙が零れ落ちた。それが部屋の光を受けて輝いている。

 しばらく愛の嗚咽がスカイプを通して聞こえてきたが、しばらくして落ち着きを取り戻した。健介は聞きにくそうに、私へ尋ねる。
「まさかナオちゃんは愛を庇ってるって言いたいんですか?」
 後藤が困惑した顔で言った。
「バ、バカ言え。恵美ちゃんが死んだとき、愛ちゃんはお前らと一緒にいたんじゃないのか」
「ええ、現場で口論していたのはナオさんです。僕は動機を問題にしてるんですよ」
「動機?」
 健介は言った。
「確かに主役の座を巡って口論した、そこまでは間違いないでしょう」
「はい」
 ナオは声で震わせてそう言った。それを聞いて、私は言った。
「しかし主役になりたかったのではなく、主役になりたくなかったから口論になったんです。月の方がいい。この言葉の真意もそこにあるのではないでしょうか?」
「どういうことです?」
 一哉だけが一人、首を捻っている。愛は優しく言った。
「太陽と比べると月は脇役って感じがするでしょ?」
 そうですね、と一哉は言ったものの、納得が行かないような顔付きである。
 二人のやり取りが一段落すると、健介は聞いた。
「有沢さん、恵美ちゃんがUSBメモリを借りたいって言ったのは検索したかったんじゃなく……」
「ええ、次回作の原稿を見たかったんでしょう。そして自分が主演だと知ってしまった。だから水を掛けた。次回の原稿だけ消えれば不自然ですが、USBメモリの事故は〈よくあること〉ですからね」
 私は一息ついてコーヒーを飲んだ。そして続けて言った。
「恵美さんが帰ろうとすると、愛さんが駆け付けた。そして例の会話を聞いてしまった」
「その会話って……」
 健介はそう言って溜息をついた。
「ええ、僕に脚本を頼む話ですよ。それを聞いて、恵美さんは僕を訪ねようとした。自分を主役にしないように。だから紙に僕の名前が書いてあったんです」
「なるほど、でもいつ有沢さんの名前を……」
 健介は尋ねると、私は首を振った。
「さぁ、そこまでは解りません」
「多分、ですけど、帰り道にスマホをいじってました。珍しかったのでよく覚えてます。危ないよって言っても上の空でした。普段はそんなことないんですが……」
 ナオは肩を震わせて続けた。
「そんなこともあって、あの夜一回は別れましたが、どうしても気になりました。だから引き返して問いただしたんです。……USBメモリに水を掛けたって言いいました。こぼれただけなんでしょう、と聞きましたが、答えてくれませんでした。でもわざと水を掛けたなんて信じられなくて」
「で、揉み合いになったの?」
 愛が聞うと、ナオは首を力なく振った
「ううん。恵美に石段のところで、次回の脚本について聞かれました。知らないと言うと、主役には恵美の名前があったと打ち明けられました。おめでとうと言うと主役を譲られたんです」
「それで……なんで口論になるんだ? 大人しく譲られとけばよかったじゃねぇか」
 後藤はそう言ったが、一哉は納得しているような顔付きである。
「悔しいですよね。それに嬉しくとも何ともない」
 一哉が言うと、ナオは答えた。
「そうなの。それに失望もあったかもしれない。とにかく……私は……どうして主役を降りるの? 主役になってよ。そんなことを言いました」
「どうしてもなりたくない、と恵美さんはおっしゃったんですね」
 私は言うと、ナオは頷いた。
「ええ、それで気が付いたら恵美と揉み合いになっていました。気が付いたら階段から落ちてたんです。私は急いで駆け下りると恵美を抱き起こしました」
「そしてその時に血が付いた、と」
 私が言うと、ナオは頷いた。
「ええ、でもどうしてそれを?」
 私はポケットからクリーニングの引換証を取り出す。そしてウェブカメラに近づけると私は言った。
「ごめんなさい。神社で拾ったんですけど、渡しそびれてました」
「でもよ、本当に突き飛ばしたのか? あ、いや信じられないんが」
 後藤が言うと、ナオは首を振った。
「気が動転してて覚えてないの」
「そう、か……」
 後藤はそう言うと、深く溜息をつく。私は少し迷っていたが、言った。
「神社の神主さんがこう言っています。『手を差し伸べているように見えた』と」
 ナオはそれを聞いて心底安心したような笑みを浮かべたが、すぐに罰が悪そうな顔になる。不謹慎だと思ったんだろう。
 後藤は勢い込んで言った。
「だったら事故じゃねぇか、ナオちゃんは悪くない」
 そうかもしれません、と私は答えたが、ナオは力なく笑っている。やがて思い出したように、彼女は文庫本をウェブカメラに近づけた。福田恆存訳のハムレットだった。
「一つ分からない点があります。恵美から借りた本なんですけどね」
 ナオはそう言うと、ページをパラパラとめくっていたが小さく声を上げた。
「あっ、ない。ページが破れてる。生きるべきか死ぬべきか、という台詞なんですけど」
「もしかしてこれですか?」
 そういえばもう一つ、拾い物をしてたんだっけ。破れた本の一ページをポケットから取り出してウェブカメラの前に掲げた。
 それを見て、ナオは何度も頷いている。
「そうですそうです!」
「確かにto be or not to beと書き込みがしてありますね。これがどうかしましたか?」
「いえ、本当につまらないことなんですけど、恵美はどうしてこんな書き込みをしたんだろう、と」
 そしてナオは肩を竦めると、自嘲的に笑って続けた。気にしすぎ、とでも言いたいんだろう。しかし死者は何も言わないが、ある方法で語りかけてくるのである。言葉(エクリチュール)という特別な方法で。
「まぁ、有名な台詞ですし、原文を知っておきたかったのかもしれませんが」
「もちろん、そうかもしれません。英語のbeは強いて訳すと〈ある〉という意味です。Be smart.ともいえばThe book must be the bookshelf.とも言いますよね。つまり少し変な日本語になりますが、to be or not to beは〈何であるのか、何でないのか〉という意味にもなるんです」
 私がそう言うと、後藤がむず痒そうに付け加える。滑らかな日本語を大切にしているのかもしれない。
「日本語らしくするんなら、〈何者なんだろう〉だな。原文の欠片もないが」
「そうですね。ありがとうございます」
 健介が焦れったそうに喘いだ。
「でも、恵美ちゃんの悩みと何か関係があるんですか!?」
「生か死か。この翻訳では不満だったんでしょう。だから余白に原文を書いた。僕は役者経験がありませんし、恵美さんの人柄には全く詳しくありません。しかし優等生を演じる時もあれば、正反対の不良の役を演じる時もありますよね」
 ナオは戸惑いながらも頷いた。
「ええ、そうですね」
「つまりこの役は何者だろうか、と考えながら演じなければいけないと思います。そうでしょう?」
「まぁ、そうだな」
 後藤も頷いている。
「赤の他人について何者かを考えているうちは、まだ幸せなんです。でも自分自身が何者かと考え始めたときは……」
 私はそう言うとエンターキーを叩いた。やはり自分自身を参照すると、無限ループが起きるようである。
 妙にこのバグを人間臭く感じて、笑いそうになった。それを堪えながら神妙に言う。
「蟻地獄から抜け出せなくなるんです。恵美さんはあえて脇役を望んでたんでしょう? この蟻地獄に陥っていたのかもしれませんね」
「でも考えずにはいられないですよね。答えがない、と解っていながらも」
 一哉がポツリと呟くと、愛は神経質な笑みを浮かべた。私は頷いて言う。
「というより考え続けなければいけない問題、かな。答えがないからこそね」
 そしてもう一つ、解決すべき問題があったと私は思い出す。もっと現実的な問題が残っていたのである。
「あぁ、そうそう、USBメモリって復活しました?」
 愛は微笑んで言った。
「ええ、ばっちり。ありがとうございます」
 それを聞いて、私は言った。
「よかったですね」
「あ、でもお金はどうしましょう。やっぱり書いてもらったからにはお支払いすべきですよね?」
 愛は困惑している。
「上演しないんなら別に構いませんよ」
「で、でもそれじゃあ……」
 健介の恐縮している顔付きを見て、私は笑って言う。
「僕からの香典だと思ってください」
「ありがとうございます。じゃあ香典返しに」
 愛は頭を下げると、音楽ファイルを私へ送る。〈R.I.P, Luna〉だった。ありがとうございます、と私は言ってスマホへと送る。
「それじゃあ夜食を買ってきますね」
 私はそう言うと、スカイプを切って立ち上がった。「いってらっしゃい」と文字チャットで次々と送られてくる。私は「いってきます」と文字チャットで返すと、スマホを掴んだ。そして事務所のドアを開けると、早速〈R.I.P, Luna〉を流す。繊細で神経質なピアノ曲だった。
 私は夜空を見上げながら、コンビニへと向かう。三日月が微笑んでいた。
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