生き返った男

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 居酒屋「鴎」のカウンター席で馴染みの客が楽しそうに話している。わたしは後ろを振り向いた。別にうるさかったわけじゃない。わたしが見たかったのはその奥にあるトイレなのである。明かりはまだついていた。いつもならここの店のおばさん、新井三重子に言って隣のコンビニまで駆けていくのだが……。
 よりによって今日は合コンである。しかもタイプの男が目の前にいるのだ。名前は森田俊章といって、温厚な顔つきをしている。少しぽっちゃりしているのがタマに瑕だが、誰でも少しぐらいの欠点はあるだろう。女らしく見せようと我慢して嫌いなスカートをはいてきた甲斐があった。
 しかしそのせいでトイレに行きにくくなってしまったのも確かである。漏らしちゃったらどうしよう、と真剣に悩んでいると、
「あれ? 浅香先輩。飲み物空ですよ。何か頼みます?」
 隣に座っている佐藤恵子がわたしに声をかけた。彼女は髪を茶色に染めて豹柄のトレーナーを着ている。彼女のバッグからは仏像のケータイストラップが顔を覗かせていた。早くトイレが開きますように、とお願いする。こんな願い事でも叶えてくれるだろうか?
 そわそわして落ち着きがない。森田からはきっとそう思われているだろう。彼に目をやると、恵子と好きな音楽の話で盛り上がっているようだ。少しほっとしたが、仲良く話している恵子がうらやましく感じる。
「どうしたの? 浅香さん。さっきからそわそわして。彼氏からの電話でも待ってるの?」
 と森田の隣にいた遊び人風の男、田中光司に声を掛けられた。わたしの苦手なタイプだ。おどけてはいるがさぐりを入れてきたのは間違いない。こういうときは、
「ううん、気にしないで」
 とグラスを脇にどける振りをして、さり気なく指輪をちらつかせることにしている。あいにく彼氏からのプレゼントじゃないし、四百円の安物だ。いまどき高校生でさえ、もっとマシなものをつけている。
 だけど「虫除け」としての効き目はあるものだ。今回はどうだろう? 田中の顔をちらりと見る。やはりショックを隠しきれないらしく、暗い顔をしていた。やりすぎたかな……。それを見て、しばらく様子を窺っていると別の子に話しかけ始めた。悔しさと田中への腹立たしさが湧き起こってくる。
 気分を紛らわせようと、マグロの刺し身に箸を伸ばした。
「でも先輩、田中さんじゃないけど変ですよ。どうしたんですか?」
「そうそう俺でよかったら相談に乗るからさ」
 田中は身を乗り出す。こういう男は女の悩みをヘビのように感じ取るようだ。わたしは微笑んで、
「何でもないってば」
 と言って、声を潜めて恵子に、
「実はね、トイレ行きたいんだ」
 のけものにされたと感じたんだろう。その様子を見ていた田中は面白くなさそうにタバコに火をつけた。
「お手洗ですか? 行けばいいじゃありませんか」
「でも誰か入ってるみたいなんだよ」
 わたしは後ろをチラリと見る。恵子も後ろを見て、
「ほんとですね。じゃあ……隣のコンビニ行くってのは? 千円崩してくる、とか買いたい物があるとか、そこはまぁ適当に言って」
 わたしはしばらく考えたが、酔いと焦りで手が浮かばない。途中で席を立って森田にどう思われるか心配だが、いざとなったら恵子がフォローしてくれるだろう。そんな甘い考えを抱きながら、
「ちょっとコンビニで買いたいものあるんだけど、席立っていいかな?」
 と森田が、キャメルのパッケージを胸ポケットから出して、
「なんなら俺が買ってこようか。タバコ買うついでに」
「い、いえ、大丈夫です」
 恵子はいたずらっぽくウインクして、
「それに男の人じゃ買いにくいものみたいだし」
 森田と田中は納得したように頷いた。もっとマシなフォローはできないの? 確かにフォローしてくれたから感謝はするけど、と思いながら立ち上がる。酔いのせいで心地よい目眩がした。

 外には車が一台停まっている。運転してきて帰りは大丈夫なんだろうか……。とぼんやり考えながらガラス戸を開けると、温かい空気が流れこんできた。酔いがまわりポカポカしているわたしには、暑いくらいである。わたしは調理場にいる三重子に、
「ありがとうございました」
 と声をかける。三重子は濡れた手をタオルで拭きながら出てきた。
「どういたしまして」
 威勢がいい大将を絵に描いたようなおじさん、新井達夫は常連客と野球の話をしていた。それに気付いて、三重子はキッと睨む。このままじゃ険悪になってしまう。余計な心配をしてしまい、話題を変えた。
「……そういえば娘さんは? さっきまでいたと思ったんだけど」
 わたしはそう言って辺りを見回す。別に親しいというわけじゃない。二、三度話をしただけだ。
「あぁ部活で疲れて寝たよ」
「さびしいですね」
「そう伝えとく」
 などと話していると田中が席から声をかけてきた。わたしは思わず振り向く。
「浅香さん、何やってるの? 早くこっち来て話そうよ。俺たちと話せるのは今しかないんだからさ」
 わたしと話したい。その下心が見えすいた言い方にカチンときたが、彼の言うことにも一理ある。田中とはともかく、森田と話せるチャンスは今しかないのだ。ここは田中に従って戻ろうか。でも田中の言いなりになったと思われたらイヤだし……。迷っていると、森田が横から笑いながら口を挟む。
「バカだなぁ。お礼を言わなきゃいけないだろ。本当は金払うまで店出ちゃいけないのに」
 田中はふくれっ面でタバコを吸おうとする。しかし箱が空なのに気付いたらしい。森田に、
「おい、タバコくれ」
「別に構わないけど、キャメルだぞ」
 田中は低く舌打ちすると、立ち上がってすたすたと歩き出した。入れ代わりに席に戻ろう。そうすれば変な誤解をされなくてもすむ。彼の動きを目で追った。恵子がびっくりしたように、
「どうしたの!? その足」
 何にびっくりしたんだろう、とわたしは田中の靴下を見る。赤く染まっていてわたしも少し驚いた。おおかたネコにでも噛まれたんだろうが、やっぱり急に見るとびっくりする。
「ああ、深ヅメしただけだよ」
 素気なくそう言うと、千鳥足でトイレまで歩いた。わたしは田中がドアの前に立つのを見て、
「ごめんごめん」
 と片手拝みをしながら席に着く。なんだ、タバコを買うんじゃないのか……。トイレに立った田中を横目で見ながら、カクテルを飲んだ。
 なにか話さなければ……。ちょうど話題が尽きたときに戻ってきてしまったらしい。そうだ。さっきからの疑問をぶつけよう。
「そういえば森田さんと田中さんってどういう間がらなんですか? まったく違うタイプなのに見たところ親しそうですけど」
「あぁ、一年の講義が一緒だったんだ。それでノートを貸し借りする仲になったんだよ」
「俊章君は真面目そうだから貸すことのほうが多いんでしょ?」
 ネコのような声で恵子が言うと、森田は笑いながら、
「逆だよ。早起き苦手でさ。一限のノートをコピーさせてもらってるっていうわけさ」
「へー! 意外」
 トイレの前で足踏みをしている田中を見ながら、恵子はそう言った。客はまだ出てこないらしい。飲みすぎて中で倒れているんじゃないかしら。そうだとしたら、新井か三重子に言わなきゃいけない。
「おーい! いつまで入ってるんだ!?」
 田中は我慢しきれなくなってドアノブをガチャガチャと回し始めた。酔いも手伝ってかかなり勢いがいい。連れだと思われちゃ恥ずかしくてたまらない! みんなそう思っているらしい。森田は苦笑いを浮かべている。恵子もわたしと同じ気持ちのようで、顔をうつむかせていた。
 すぐ近くの個室には聞こえている。どこかのバカが酔っぱらって暴れている、と思ってくれればいいんだけど……。
「どうしますか?」
 わたしは森田に尋ねると、
「放っとけ」
「でも……」
 わたしは言いよどむ。確かにああいう酔っぱらいは下手に絡むと余計にややこしくなる。しかし迷惑をかけていて、放っておけない。
 周りの客も何事かと思って田中を見始めている。新井はしばらく三重子と話していた。多分、
「ねぇ、あのお客さんどうする?」
「お前が行けよ」
「やだわ、ナイフとか持ってたら……。それよりあなた男でしょ? あなたが言ってきてよ」
 などと話しているんだろう。しばらくして新井は意を決したようにトイレへ進み、三重子は電話の前に行く。ことの次第では警察に連絡しなきゃいけないと思ったんだろう。他の客が見守る中、新井はトイレに歩いていく。
「すみません」
 田中はきょとんとした顔をしている。なんで話しかけられたのか解っていないようだ。
「兄ちゃん、他の客の……」
 最後までいい終わらないうちに田中は、
「おじさん、この店の人だよね」
「そ、そうだけど」
 殴られるかもしれない。そう身構えて話しかけた新井は、肩すかしを食らったようだ。わたしたちもホッと胸をなで下ろした。
「ああ、ちょうどよかった。いつまで経っても中のヤツが出てこないんだよ。ちょっと見てくれない? ひょっとするとっていうこともあるだろ?」
 と言うとカウンターの脇に掛かっている鍵を指差して、
「あぁ、あそこに鍵束あるじゃんか。あれで開けてよ」
 と言い始めたのである。恥ずかしいったらありゃしない。
「兄ちゃん、あれ車の鍵なんだ」
 わたしはそんなやりとりを聞いていてうつむく。知り合いだと思われるのはごめんである。こうなったらできるだけ早くこの「災難」が去ってくれるように祈るしか他に手はない。
 どうする? そう三重子に目で意見を求めた。三重子は力強く頷く。それを見た新井は、ドアを控え目に叩いて、
「もしもし。お客さん」
 と呼びかける。三重子は大工道具を抱えてきた。客たちは再び険しい顔でトイレを見つめた。中には野次馬もいて、トイレの前に集まっている。
「先輩、私たちも行ってみませんか?」
「そうねぇ……。ここで指咥えて見てるよりはあっち行って手伝えることを探したほうがいいと思うし」
 実は、わたしも見に行きたくてうずうずしていたのだ。

 トイレまで駆けていくと、ノブの近くには傷がついていた。そこに何回もノミを刺している。どうやらそこから手を差し込んで、中からドアを開けようとしているらしい。この様子だともうすぐ突き抜けるだろう。
 わたしはホッとするとともに胸騒ぎを覚えた。少しの正義感と好奇心でここまできたはいいが、いざ立ち会ってみると嫌な予感がする。恵子も同じ思いを抱いていたらしい。顔を曇らせて、
「大丈夫……ですよね」
 とガンガンとノミで壊されていくドアを見つめている。とうとう洗面台が穴から顔を覗かせた。
 木のささくれでケガをしないようにするためだろう。新井は長いゴム手袋をはめると手を突っ込んだ。めきめきという音が聞こえる。かなりきついらしく顔をしかめていた。カチリと音がすると、新井は、
「お客さん?」
 と呼びながらおそるおそるドアを開けた。かすかに生臭い臭いが漂ってきて、わたしは思わず顔をそむけた。スーツ姿の男が頭から血を流して倒れているのが見える。まだ息はあるかもしれない。わたしは駆け寄って、
「大丈夫ですか!?」
 と顔をピシャピシャ叩いた。ひいっと言う田中の悲鳴が聞こえて、
「し、死んでるのか?」
「まだ解らないわよ」
 わたしはイライラして答える。三重子はお店の公衆電話から、
「もしもし……、警察ですか? 店のトイレでお客さんが頭から血を流して倒れてるんです。すぐ来て下さい!」
 と話している。恵子は足が震えていた。こんなことがあったんだから無理もないだろう、とも思ったがどことなく妙なものを感じた。まるで街を歩いていたら出会いたくない誰かに出会ってしまったような顔つきなのだ。……わたしの思いすごしだろうか?
 そんなことを考えていると、森田がのっそり歩いてきて、
「とりあえずこの人どこかに寝かせたほうがよくないか?」
 その台詞を聞いた途端、また大騒ぎになった。
「そうだよ!」
「誰かバンソウコウを持ってこい」
「バカヤロー! 包帯だよ」
 などと口々に言い合っている。そんな中、森田は三重子に向き直り、
「……それと豚キムチもらえますか?」
 と言ったのだった。

 トイレにはまだ黄色いテープが張られている。原という警官はカウンターの前でメモを見ながら、
「事故死でほぼ間違いないでしょうね。まだ詳しくは検案報告待ちですけど」
 と言うと辺りをぐるりと見回した。わたしたちを疑っているわけじゃなく、単にみんなに声が行きとどかせるための配慮らしい。
「酒を飲み、転んで後頭部をゴチン! よくある話です」
 新井は安心したような顔になった。殺人事件だったらいろいろ面倒なことになると思っていたのかもしれない。
 この人は死ぬ前にどんなものを食べていたんだろう? どうでもいいことが頭からはなれず、思わず個室を覗くようにして見る。ビールと焼き鳥、それとオレンジジュースが並べてある。酔い醒ましには柑橘系のものを取るといいとTVでやっていたのを思い出した。
 次第に考えることがなくなり、恵子の横顔を窺う。浮かない顔を見てわたしは肩を叩き、
「大丈夫だって」
 何が大丈夫なんだろう? わたしにもさっぱり解らない。しかし暗い顔をしている人にはそれなりに効果があるものだ。実際、わたしも何か悩みごとがあったら、誰かに「大丈夫」と言われるとすごくスッとする。もちろん何もしらずに気休め言わないで、と思うときもあるが。
 恵子は遺族の気持ちになっているんだろう。どう声をかけようか迷っていると、恵子が、
「案外あっけなかったですね。わたしもっとあれこれと訊かれると思ってました」
 横で聞いていた森田は苦笑して、
「まぁ、事故死らしいからこんなもんだろ」
「なぁなぁ、あのおっさん、司法解剖とかに回されるのか?」
 田中は身を乗り出す。目には好奇の色がありありと見てとれた。
「そりゃ……まぁ……」
 とわたしが言いかけると、原はせき払いをした。黙って聞いてろ、と言いたそうだ。
「すみません」
 そう言うと頭を下げる。なんでわたしが謝らなきゃいけないの? と恵子を睨んだ。そりゃ確かに最後しゃべっていたのはわたしだけど……。全く反省するような素振りを見せず、舌をペロッと出した。
「それで皆さんにお訊きしたいことがあります。なくなられた方は一体どなたなんでしょう」
 田中は意外そうに、
「解らないんですか? 免許証とかは?」
 原は首を振る。わたしは横から口を挟んだ。
「お酒飲むのにわざわざ免許証持ってくる人いないと思う。わたしは車乗らないから解らないけど……」
「俺はいつも持ってるぜ。森田、お前は?」
 田中は見せびらかすように財布から免許証を取り出した。まるでそれがステータスのような口振りである。
 急に話を振られた森田は片目を開け、
「うーん。俺、そもそも車持ってないしなぁ……。どうなんだろ」
 またこいつらか……と思っているんだろう。原はうんざりした顔をして、せき払いをする。もちろんさっきより大きく。わたしたちが静かになったのを確かめると、
「どうですか? 一緒に飲んでたとかそういう人は?」
 みんなが黙っているのを見て、うんざりしたように顔をしかめる。この様子からすると、ケータイすら持っていなかったんだろう。家族から捜索願が出ていればいいのだが、一人暮らしをしていたらかなり難しくなるかもしれない。
 同じことを考えていたようだ。原は新井に向き直ると質問を変えた。
「この人は一人で?」
「はい、一人で個室に……」
「誰かと待ち合わせしてるよなう様子は?」
「さぁ……そこまでは」
 うんざりしたように原は溜息をついた。余計なこといいませんように! これ以上の恥を掻きたくない。そう思いながら恵子を見ると、うつむいている。
 わたしは一安心するが、よく見てみると青い顔をしていた。死体を見て気分が悪くなったんだろう。
「大丈夫?」
「うん……」
 そうは言ったが、どう見ても大丈夫じゃない。わたしは原に声をかけた。
「すみません。この子、気分が余りよくないみたいなので先に帰していいですか?」
 簡単には帰してくれないだろう。そう思っていたわたしは、
「ああ、いいですよ」
 という二つ返事に少し拍子抜けして、思わず訊き返す。
「え、いいんですか?」
「見たところ事件性はないみたいですし、構わないでしょう。……でも念のため住所を教えて下さい」
 わたしは恵子のアパートを言うと、原は手帳に書き込んだ。三重子がタクシーを呼んでくれ、恵子はそれに乗り込む。
「誰か付き添った方がいいんじゃないのか?」
 田中はおおげさに溜息をつくと、
「仕方ない。俺が付き添ってやるか」
 とは言うものの顔はにやにやしている。こんなヤツに任せたら恵子は次の日に妊娠しちゃうじゃない! それはなんとしてでも避けなきゃ。
「わたしが行く」
 森田は頷くと、
「それじゃな」
「うん、今日は楽しかった。ありがとう」
 田中は照れたように頭を掻いている。こいつがいなければもっと楽しかったに違いない。ゆっくり動き始めた窓の外を見ながらそう思った。

「おはよう。調子どう?」
 中庭で飲み物を飲んでいる恵子を見かけ、話しかけた。他の学生たちは寒い中、おしゃべりしながら歩いている。空を見上げると、大小さまざまな白い雲が浮かんでいる。
「だいぶよくなりました。ありがとうございます」
「安心した」
 と微笑んで恵子の顔を見るとかなり顔色がいい。わたしたちは学生たちの進む方へと歩いた。食堂を通り過ぎると、遠くでかすかに芝刈り機のモーター音が聞こえてくる。その音に混じるようにして、小さな声で、
「ねぇ、先輩……」
「なに?」
「あのですね……」
 何だろう? 見るとかなり思いつめたような顔をしている。昨日のことと何か関わっているんだろうか。わたしは気が付かないような振りをして、ケータイをいじりながら、彼女の様子をうかがう。ここから見ると、彼女の顔はかげっているように見えた。
「あの……」
 そう言って頭を掻きながら、ぎこちなく笑うと、
「ロシア文学って今どこやってますか? 私、単位やばいんですけど」
 いや違う。恵子が相談しようとしているのはもっと重大なことだ。しかし彼女が言いたくないのなら無理に訊いちゃいけない。今はとりあえず講義の進み具合を教えるとしよう。
「えーと『罪と罰』のやつだっけ?」
「そうです」
「えーと、急に言われても……ちょっと待って」
 わたしはハンドバッグにケータイを仕舞うと、クリアファイルを取り出す。
「どうもすみません。……ありますか?」
 恵子は覗き込むが、頭ではまったく別のことを考えているようだった。何を考えているんだろう。少なくとも単位のことじゃないことだけは確かだ。
「あったあった」
 と言ってノートを渡す。恵子はパラパラとめくりながら、
「さすが先輩。ちゃんとノート取ってますね……」
 とは言ったものの何か別のことを考えているようだった。ノートをしまい終えると、わたしたちは校舎の自動ドアをくぐる。脇にあるおしゃれな赤いベンチでは高級バッグをぶら下げた学生がおしゃべりを楽しんでいた。正面にある電光掲示板に目を通しながらジャンバーを脱ぐと、
「いやなんだよねぇ……。荷物になっちゃうし。もっと大きいの持ってくるんだった」
 と話しかける。何気ない会話の中から少しでも糸口をつかもうとしたのだ。もっとも、こういうときは相手から話してくれるのを根気強く待つしかないが……。もどかしい気持ちでいっぱいになって思わず、
「他には?」
 と訊いてしまう。驚いたように恵子はわたしの顔を見つめた。わたしは慌てて取り繕う。
「別になければいいんだけど……。何か他にあるかなって」
 微笑みながら言うが、ぎこちないものになってしまったに違いない。力になれるかもしれないから話して! そう心の中で祈りながら、腕時計を見る。あと十分で次の講義が始まってしまう。込み入りそうだったらサボってもいい。
 しかし願いは届かなかったらしい。恵子は首を横に振って、
「……ありません」
「そう……。ならいいの」
 と行って教室の前までくる。このままで本当にいいんだろうか? 次に会うのは来週である。恵子の今の顔からすると、一週間も待ったら手遅れになってしまうような気がしてならない。
 じゃあどうする? 揺さぶってでも言わせるか? いや、そんなことをしたら、かえって恵子を苦しめてしまう。わたしは後ろ髪を引かれる思いで、教室のドアを開けると、
「じゃあ、また来週。また何かあったら声かけてね」
「先輩!」
 と恵子の声がした。教室の学生たちが一斉に冷ややかな目でこっちを見ている。それに気付いた恵子は恥ずかしそうに囁く。
「ちょっと困ったことが……」
「誰もいない場所行く?」
「でも授業が……」
「平気だって。一回ぐらいサボっても」
 どうせこのことが気になって、授業に集中できなかっただろう。
「じゃあどこか誰もいないところに行こうか」
 わたしはそう言うと、廊下を歩き始める。向こうから歩いてくる先生が見えて、思わずうつむいて横を通りすぎた。

「援助交際!? 恵子が?」
 二人きりの広い教室にわたしの驚いた声がこだまする。恵子はうつむいて、すすり泣きながら頷いた。デリケートな話だろうと思ってはいたが、ここまでとは思っていなかった。
 恵子は落ちついてきたらしい。顔を上げると、うさぎみたいな赤い目をして泣きはらしていた。せっかくの美人が台なしであるが、そんなことを言える空気じゃない。わたしは黙ってハンカチを差し出す。
「ありがとうございます。……軽蔑しましたか? わたしのこと」
 わたしが黙っていて、恐かったんだろう。恵子はそう尋ねる。わたしは微笑んで、首を振ると、
「してないわ。ちょっとびっくりしただけ」
 それにしても昨日の事故と何の関係があるんだろう。もしかしたらわたしの思いすごしかもしれない。いや、思いすごしであってほしい。しかし昨日の青ざめた顔を思い出すと、何か知っているのは間違いない。
 まだ憶測にすぎない、というかすかな望みはあった。でも本当に関係していたら?
「でも……昨日の人とは関係……ないんでしょ?」
 とわたしはこわごわ訊くと、恵子の顔を覗き込んだ。恵子は思いつめたような顔をしていたが、やがてポツリと、
「昨日死んだ人、私のお得意さんだったんです」
 と言ったのである。やっぱり……。そう思う気持ちと、信じられないと思う気持ちが入り混じる。うろたえて思わず、
「でも……どうして……」
 と訊いてしまう。こういうときは黙って相手の話に耳を傾けた方がいいのは解っているんだけど。
「寂しかったんです。言い訳にもなりませんけどね」
 そう言うと寂しそうに笑う。
「俊章君と別れて間もなかったから。もちろん今でも仲はそれなりにいいですけど……それでもやっぱり違いますよ。友だちと彼氏じゃ」
 彼氏と別れたら、わたしは急にぽっかり心に穴が開いたようになるだろう。そしてそれを埋めるためにはどんなことだってするかもしれない。そう考えると恵子の気持ちも何となく解るような気がした。
 わたしは頷いて、
「そうでしょうね」
「そんなとき昨日死んだ人……浅井朋紀さんから声をかけられたんです」
「で、たちまち彼に夢中になったわけね」
 と訊くと首を振る。
「いえ、始めは一回だけのつもりでした。それで心が落ち着くんならって。……でもまるで麻薬みたいに……」
 そこまで言うと顔を手で覆って泣き出した。たぶん彼女は寂しさから逃れようと恋愛ごっこをしていたんだろう。でもいつの間にか本当の恋愛になってしまったのである。
 そう考えながら耳を傾けていると、寂しそうに笑い、
「でも浅井さんはわたしのこと商品としてしか見てなかったみたい。当たり前ですけど」
 他の女とも寝ていたんだろうか。だとしたらその女と待ち合わせていて、いざこざがあった。そして灰皿か置物で殴ると、姿をくらませる。しかし一体どこへ?
 恵子の肩を叩いて慰めながら考えていると、彼女のケータイが鳴り出した。

「……もしもし……うん、大丈夫。ありがとう……え、警察?」
 恵子の顔が険しくなった。わたしがノートの切れはしに「どうしたの?」と書いて恵子に見せる。恵子はボールペンを受け取ると、「俊章君から。今、警察にいるみたい」と書いた。電話口の向こうからは、
「もしもし? 聞いてるか?」
 という声が漏れてくる。恵子は慌てて謝った。
「それで警察にいるってどういうこと?」
「うーん。何か俺だけ呼び出されてな」
 普通なら慌てるはずなのに、まるで他人事である。
「大丈夫なの?」
「それが変なんだ。お前とのことを訊かれたり……別にやましいことなんかないからしゃべっちまったけど……まずかったか?」
 警察は森田を疑っている。でも一体なんで? あれは事故じゃないの!?
 パニックになってわたしは、恋人にメールをしようとケータイを取り出す。彼は謎解きが好きで、警察の捜査を非公式に手伝っているのである。話のいきさつを一通り書いて送信しようとするが、はたと手を止める。恵子がこのことを知ったらどんなに傷つくだろう。わたしは首を振ると、ゆっくりと画面を消した。
「先輩どうしましょう私のせいで……」
 恵子の泣き出しそうな声を聞き、ケータイから顔を上げる。見ると顔をくしゃくしゃにしていた。
 わたしは恵子を見すえると覚悟を決めた。これからする問いは恵子を傷つけるに違いない。大きく息を吸うと、目を見つめて、
「いい? わたしの質問に答えて……」

 急いで田中に電話をして大学の前まで乗りつけてもらうと、わたしたちは飛びのった。バックミラー越しに見る田中の顔は嬉しそうにニヤついている。わたしは殺したい気持ちをぐっとこらえ、窓の外を眺めた。
 ヒッチコックの鳥さながら、カラスが群をなして飛んでいる。うんざりして、隣に座っている恵子に目を移した。がっくりと肩を落とし、やつれた顔をしていた。励まそうにも声をかけられる状況じゃない。
 カーブを曲がると、立っている警官が見える。その奥で警察署がいばるように立 っていた。わたしは我慢できなくなって、車が路上に停まるとすぐに駆け出した。さっきの警官が訝しそうにわたしを眺めている。
 中に入ると冷たいリノリウムの床に蛍光灯が映りこんでいた。窓からは寒々とした街路樹が見える。色あせた緑色の掲示板には麻薬乱用撲滅を訴えるポスターが張られていている。廊下で原を見つけると詰め寄った。誰かと待ち合わせしているんだろう。椅子に座って資料を読んでいるが、そんなこと今は関係ない。
「どうして森田さんを……」
「昨日の一件と深く関っていたと判断しましてね」
 と言うと、原は氷のように冷たい目でわたしたちを見た。昨日とはまるで別人である。
「そんな!」
 恵子は叫んで頭を振ると、赤いヘアピンが見えた。わたしは落ち着かせようと手で制止する。しかしそれも意味がなかった。無理もないことである。
 恵子は詰め寄ると、
「事故じゃなかったんですか!?」
「いや、一概にそうとも言い切れなくなってきたんですよ」
「どういうことですか?」
 恵子をジェスチャーでなだめながら、わたしが尋ねると、
「鑑識から結果が届きまして。個室からトイレまで血痕がついていたんです」
「でも田中君は足をケガしてたんですよ。彼のかもしれないじゃないですか」
「最後までお聞きなさい。床のものはO型の血液でした。いっぽう田中さんはA型です」
「じゃあ……誰の血だったんですか?」
 原はゆっくりと、
「被害者のです」
 と言ったのだった。

「被害者? それじゃやっぱり警察は事件として……?」
 わたしがそう言うと、しまった! という顔をする。原は目をわたしから逸らせると、
「い、いや。言葉のあやですよ」
 いい機会だ。動揺している間に色々聞き出せるかもしれない。脇では恵子が顔を真っ赤にさせ、
「俊章が殺したとでも言いたいんですか!」
 と叫んでいる。それに対し、原は早くも冷静さを取り戻したらしい。眉一つ動かさずに、
「何か知っているという程度です」
「でも!」
 恵子はなおも叫ぶが、その後が出てこない。興奮しているせいか、頭がうまく働かないようだ。原は笑うと、
「でも……なんですか?」
 恵子は立ち上がると、
「何も知りません!」
「どうしてそんなことが?」
「それは……」
 恵子は口ごもる。わたしが何か言おうとすると、それを感じ取ったんだろう。すかさず立ち上り、
「実はあなたにも二、三お訊きしたいことがあるんですよ。立ち話もなんですから取調室へ」
 鍵束を取り出すと奥を指差す。わたしに向き直ると微笑んで、
「あぁ、あなたはお帰りになって結構です」
 引きわたしちゃいけない! 原は恵子が殺したと思っている。少なくとも顔見しりだと割り出しているらしい。しかもまず別件で事情を訊くだろう。
 わたしは慌てて黒い椅子を指差すと、
「そこの椅子でもできるでしょう?」
 原はわたしに割り込まれたのが気に食わないらしい。ムッとしたように睨みつける。
「少し立ちいった話なんですがね」
 恵子が売春していた。そのことをわたしが知っているというしかない。でも恵子に聞かれたら……、と考えるとためらってしまう。警察に情報を与えたと思われるからだ。しかしこの手のほかに思い浮かばなかった。
 迷っている間にも原は恵子に、
「行きましょうか。すぐ終わりますよ」
 などと話しかけている。やってみよう。恵子の顔を見ながら、原に囁く。こんなことをしたら恵子にますます怪しまれるかもしれないが仕方ない。
「もしかして……援助交際……のことですか?」
「ええ、そうです」
 煙たそうに答える。わたしは微笑んで、
「だったら聞いててもいいでしょう? だって刑事さんの話じゃ、私に聞かれないように取調室まで行くんですよね。でも私が知っているってことはどこで聞いても同じでしょう? そう思いませんか?」
 言う通りにしないとうるさそうだ、とでも思ったんだろう。原は溜息とともに、うんざりしたように頷いた。
「ではあなたの言う通りにしましょうか」
 と言うと、黒い椅子まで歩いて行く。恵子はわけがわからないらしい。きょとんとして、わたしに耳打ちする。
「何があったんですか?」
 わたしはいたずらっぽく微笑んだ。緊張をほぐそうと彼女の好きなドラマの話をしながら、原の顔をそっと窺った。

「率直にお尋ねします」
 恵子が椅子に座るやいなや、原は言った。灰色の服を着た刑事たちが慌ただしそうに走っていく。
「あなた被害者を知っていた」
 緊張した顔で頷く。
「援助交際の相手だった」
 恵子は救いを求めるように、わたしの顔を見た。こういう場合は下手に隠すとやっかいになる。わたしは力強く頷いて、恵子に微笑みかける。それを見て恵子は、
「……はい」
 原は満足そうに笑む。なんだかイヤな予感がした。恵子もそれを感じたんだろう。立ち上がって、
「で、でも、わたし何もやってません」
「それはこちら側で判断することです」
「でもどうして浅井さんが買春してたって解ったんですか?」
 わたしが尋ねると手を振った。まるでうるさい蝿か何かを追い払うかのようで少しムッとする。
「あなたには関係のないことです」
「適当に言ってたりして……」
「そんなわけないでしょう」
 と原は溜息をついた。わたしはにっこりと微笑んで、
「じゃあ言えますね」
「言えません」
「じゃあやっぱりウソだ。ウソじゃないなら証拠見せてよ」
 はぁ、と溜息をつく。
 すぐ折れそうで助かった。昔、兄と口ゲンカをしたときにやった手だ。相手が折れるまで繰り返すのである。まるで子供のケンカだけど、こういうときには役に立つ。そう心の中で呟くと、原の話に耳を傾けた。
「ヤツの携帯電話の発信記録を調べていったんだよ。そしたら恵子がいた、というわけだ。解ったか?」
「大変よく」
「まったくうるさいガキだ。今度口を出したら公務執行妨害でぶちこんでやるから覚えとけよ」
 これが公務と言えるんなら逮捕して下さい。そう喉元まで出かかったが本当に逮捕されそうで、飲み込んだ。どうやら恋人がいつも言う皮肉がうつってきたらしい。そう心のすみで考えて苦笑すると原に目を移す。
 もう邪魔はさせないと決意したんだろう。恵子に向き直ると、いっぺんにまくしたてるようにして、
「恐らくあなたはたまたま、昔の相手と出会ってしまった。トイレで密会する約束をするが、口論になった」
「ちょっと待って下さい。わたし、そんなことしてません! 確かに一回お手洗いに立ってますけど……」
 恵子は叫んだ。
「それはいつですか?」
「えーと、先輩……いえ、浅香さんがトイレに行きたいっていう大分前だったから……」
 わたしに時刻を目で訊いてくる。わたしは、
「わたしがトイレに行ったのが八時ぐらいだったはずよ。時計で何回も時間を見たのを覚えてるから。その一時間ぐらい前じゃないかしら」
「便所にいたのは」
 原が睨みながら言うと、恐気づいたんだろう。ぼそりぼそりと小さな声で、恵子は、
「ほんの二、三分だったと思いますけど、……よく覚えてません」
「これに見覚えは?」
 と言って写真を取り出す。わたしが覗き込むと、ネコをあしらった花ビンが見えた。どうやらこれが凶器らしい。
「この破片が死体の頭部に食いこんでいましたよ」
「知りません……」
 援助交際をしていたというだけで、偏見に満ちた目で見ているようである。それに恵子が犯人だと決めつけている。悔しさと怒りで拳に力が入った。殴ってやったらどれだけすっきりすることか。しかしここで殴ったら捕まってしまう。
 わたしはいても立ってもいられなくなり、立ち上がって、
「トイレにはどうやって外側から鍵をかけたの!?」
「……それはまだ調査中です」
 冷静に言ったものの、痛いところを突かれたらしい。頭を掻きながら、
「まだ殺人だと正式に決まったわけではありませんので」
「だったらこれは何なの? まるで犯人扱いじゃない」
 そう吐き捨てると、
「……わたしたちこれから授業がありますので」
 そう言うと、わたしは恵子の手を取ってずんずんと進んだ。
「ま、待ちなさい。まだ話は終わってないんだ」
 という声が後ろで聞こえる。振り向くと原が走っている。しかしわたしたちにはもう何一つ話すことはなかった。しかしそんな言い訳はさすがに通用しないらしい。追いついて、恵子の肩をつかんだ。周りにいた警官が駆けつけて、わたしも取りおさえられる。振り切ろうとするが、さすがに男の力には勝てないようだ。
 恵子はわたしを涙目で見ながら、原に連れられて奥へと消えていく。後には闇が残った。

 わたしは厳重注意だけですんだが、恵子はまだ警察から戻らない。怒りをアルコールで紛らわせることにした。それに二、三確かめたい点もある。
 どこかでやっている焚き火の音を聞きながら、「鴎」のガラス戸を開けた。
「こんばんは、先日は大変でしたね」
 新井にそう慰めの言葉をかけると、笑って、
「なんでもねぇよ。あんなもん……それより嬢ちゃん、連チャンできていいのか? まぁ、うちとしてはそっちの方がありがてぇけどな」
 しばらく雑談に話を咲かせた後、一人で飲みたいと言って個室をリクエストする。あんなことがあった部屋で飲みたいというわたしの気持ちが理解できないらしい。新井は戸惑ったように微笑むと、レジの脇を抜ける。
「今夜は寒いですねぇ」
 と言うと、わたしは下を見た。ふき取ったようだが、少し血のあとがついている。目で追っていくと、トイレまで続いていた。
 あの夜、何があったのか証拠を見つけてやる。そして原をぎゃふんと言わせるんだ……。拳を握りしめて個室のふすまを開けると、小さいながらも居心地のいい部屋が見える。机のまん中には店のロゴが入ったマッチとプラスチックの灰皿が置かれていた。
「痛っ」
 わたしは歩いているうちにチクリとして、小さく声を出す。見ると白い三角のものが落ちていた。なんだろう? 拾い上げてみると陶器のようだ。前に茶碗でも割ったのかもしれない。
「大丈夫か?」
 と慌てて駆け寄る。危ないじゃない! そう思ったが、全く気にしていないように振る舞う。他に落ちていないか、床に手を這わせて確かめる。
「今バンソウコウ持ってきてやるからちょっと待ってな」
「あぁ、大丈夫です」
「でも……血出てるぞ」
 心配そうに足を見る。わたしは笑って頷くと、机の上に立てかけてあるメニューを取った。力強い筆の文字が印象深い。
「平気ですって。……じゃあカルピス酎ハイと焼き鳥を塩で」
「はいよ。今持ってくるから待ってな」
 と言うと立ち上ってふすまを閉めた。行ってしまうのを耳で確かめると、机の角を見た。何もついていない。予想は大きく外れたようで、溜め息をつく。
 手持ちぶさたになってしまい、何気なくさっきの破片を眺めた。なんだろう? 手を切らないように気をつけながら裏返した。片側は乾いた血のような、どす黒い色に染まっている。さっき警察で見た花ビンを思い出した。
「もしこれがその破片だったら」
 そう呟いて首を振る。トイレは密室だったんだ。誰か忍び込んで鍵をかけるなんてできっこない。しかもトイレのドアはみんな見ていた。
 それに通気口から出入りができたとしても、あの狭いトイレじゃ被害者の後ろに回り込めないだろう。しかし事故にしても疑問が残る。誰と待ち合わせていたんだろう? そしてその客は一体どこに消えたのか。あの夜、確か個室に出入りした客はいなかったはずだ。入ったのは三重子、新井、娘さんの三人ぐらいだったような気がする。
「まぁ、これはオーダーを運ぶんだから当たり前か」
 と呟くと、ふすまが開いた。わたしが振り返ると三重子がお盆を持って立っている。わたしは料理についてしばらく三重子と雑談を交わすと、住居まいを正して、
「あぁそうそう。お訊きしたいことがあるんですが」
「はい?」
「あの晩、何か変わったことありませんでしたか?」
「浅井さんが死んだ夜?」
 わたしは頷くと、三重子は考える。
「さぁ……特に覚えてないけど……」
 白い茶碗らしい破片を見て膝を叩いた。わたしは身を乗り出す。何か思い出したらしい。
「あぁ、そうそう。ここで花ビン割っちゃってねぇ。変わったことと言えばそんなもんだよ」
 どうやらそのときのものらしい。事件に関わりがあるものだと思っていたのに、と少しがっかりする。後で参考になるかもしれない、思い直してハンカチに包んだのだった。

 大学近くのファーストフード店に入ると、着崩した制服姿の高校生がハンバーガーを食べていた。どうやらテストの点で賭けをしているようだ。その隣で老人がドレッシングの開け方が解らず苦労している。
 わたしとデートできる。始めはそう喜んでいた田中だが、わたしの頼みを聞いて怪訝そうにわたしを見た。それもそのはずだ。電話番号のリストを渡し、ここに片端から電話してほしい、と頼んでいるのである。一つ間違えばマルチ商法の勧誘だと思われるかもしれない。
「何かヤバいことじゃないよね」
 わたしは微笑んで、
「大丈夫だよ。それで訊いて欲しいことは二つ。浅井朋紀って人と新井って人を知ってるか訊いてほしいの」
「新井って人は名前なんていうんだ?」
 わたしは首を振ると、うなずいた。
「そうか、わかった」
「お願い。変なこと頼んじゃってごめんなさいね」
 援助交際を望んでいる女に電話をかけるのだ。女のわたしがかけたら怪しまれてしまう。もっともレズビアンを装えば別だが、そんな演技をする自信などない。
「じゃ、俺こっち半分やるから浅香さんは残りやって」
 と言うと田中は電話番号のリストをよこした。何て言って呼び出そうか。英語教材の勧誘を装う? 断られたら終わりだ。昔の関係をばらす、と言って様子を見る? 警察に言われたら終わりだ。頭を抱えていると、田中は早くもケータイを持つ。どんな口実をつけるんだろう。カフェオレに口をつけながら彼を見るとすらすらと、
「もしもし……青木知恵さんですか? 私、探偵社の田中と申します。今失踪人の調査をしておりまして。浅井朋紀さんと新井です。……はい、はい……そうですか。では何か思い出されましたらお電話いただけますでしょうか」
 と言って自分のケータイ番号を教えた。そして話し終わると、ボールペンで名前を消す。わたしは手際のよさに少しだけ田中を見直す。
「これでも高校は演劇部だったんだぜ」
「ふうん」
 と田中の自慢話は聞き流し、リストを見る。田中はつまらなそうに舌打ちをするとタバコに火をつけようとした。しかし禁煙のマークを見て、タバコの箱を乱暴にしまうとコーラを飲む。そして思い立ったように、
「なぁなぁ、賭けしようぜ。目的の相手を先に見つけた方が昼飯をおごるっていうのはどうだ?」
 そんなガキのような賭けには興味ない、と断ろうとする。ギャンブルは恋愛だけで十分だ。
「見つからないかもしれないよ」
「そんときは……ドローってことで割り勘にしよう。よし決まり!」
 勝手に決められてしまった、と溜め息をつく。しかしたかが五百円で本気になってくれたら安いものである。それにわたしが勝つかもしれない。いずれにしても止めてやる気をなくさせるより、賭けに乗ってやった方が得だろう。
 わたしは笑って、
「解ったわ。やりましょう」
 と言うと田中は腕まくりをして、早速ケータイで電話をかけ始めた。わたしもケータイを取り出し、リストを見ながらかける。コール音が一回、二回と鳴るにつれ、胸の鼓動が早くなっていくのを感じた。
 コール音がなっている間、気分を落ちつけようと空を見上げる。雲の合間から光が差し込んでいた。しかし数秒後、また陽は雲で覆い隠されて、どんよりと曇り空になる。不安定な天気だと思いながら、相手が出るのを待った。
 しばらくして電話口から甲高い女の声で、
「もしもし」
 と聞こえてくる。わたしは緊張して早口になった。
「もしもし。わたし探偵をやってるんですが、浅井朋紀さんと新井について調べているんですよ。何か知りませんか?」
 しばらく相手は何も言わない。思い出しているのか、わたしを疑っているのかどっちだろう。あるいは昔の過ちを忘れたいのかもしれない。そんなことを考えながら待っていると、電話口の向こうでネコが不安そうに鳴いている声が聞こえてきた。彼女はまるで赤ん坊にでも話しかけるように宥めると、
「何も知らないわ」
 その声からは動揺は感じられない。ここで早々に切り上げたら怪しまれるだろうか……と考えていると、少しイライラしたような声で、
「本当よ」
「そうですか。ありがとうございました」
 慌てて電話を切ると、疲れが津波のように押し寄せる。田中がてきぱきと電話をしている姿を横目で見て、自分の手際の悪さにうんざりした。溜息をついてリストに目を落とすと、あと五人の名前がある。次の人こそ何か知ってますように、と祈りながら電話をかけた。不思議なことにさっきよりは緊張していない。
「もしもし」
 相手はカラオケボックスにいるらしい。お世辞にも上手とは言えない歌声が聞こえてくる。大音量の音楽が電話口から流れん込できた。わたしは思わず電話を耳から遠ざけ、かき消されないように大きな声で言う。
「もしもし、中村恵理子さんですか? わたし探偵をしている浅香といいます。今、お時間空いてますか?」
 と言うと、恵理子は興奮して、
「へぇ! 探偵さん」
「ねぇ、今探偵から電話がかかってきたんだけど」
 電話口の向こうから、
「ウソでしょー」
「なんで?」
 などという声が聞こえてくる。揚句の果てには、
「ねぇ、拳銃とか持ってるか訊いてみてよ」
 とバカなことを言い出す子も出てくる始末だ。わたしは先回りして、
「も、持ってません」
「持ってないってさ」
 とその子に言う
「なぁんだ。つまんない」
 さっさと終わらせて次の人に電話しよう、と考えて早口に、
「実はですね、浅井朋紀さんについて調べてるんですが、知ってることはありませんか?」
「ああ、知ってますよ。でも昨日から何回もケータイにかけてるんだけど出ないんです」
 話してみると、気だるそうに間延びしていることを除けば意外と丁寧である。どうやら一応のマナーは身につけているらしい。そう思った瞬間、吐き捨てるような声で、
「お金まだもらってないのに……。ムカつくったらありゃしない! 今度あったら殴ってやるんだから」
 という台詞を聞いて心の中で苦笑してしまう。彼の死は伏せておいた方がよさそうだ。またキャーキャー言われたらたまらなかったが、後ろからざわめきが聞こえてくる。どうやらわたしの努力はムダだったようだ。
「ヤり逃げってやつ?」
「最悪!」
「でもあの浅井さんが珍しくない?」
「男なんてそんなもんよ」
 そんなやりとりを聞いていて、わたしは思わず、
「あの浅井さん? 有名だったんですか?」
 と訊き返す。
「ん? ああ友だちの声が入っちゃってたんですね。……かなり有名でしたよ。私たちの間じゃ知らない子はいなかったと思います。優しいし、金ははずんでくれたし、それに……」
 そう言いかけて、口をつぐむ。賢い選択だとわたしは思った。どうせセックスも上手だった、と付け加えるつもりだったんだろう。そんなことを考えている間に相手は何か思い出したようだ。
「……そういえば杏奈が麻紀を紹介したっていってたような」
 持ち駒が少ないこの状況ではとてもありがたかった。その麻紀という子から何か有力な情報を得られるかもしれないのだ。もしかすると事件とは関係ないかもしれないが、浅井とつながっていた人は押えておいて損はないだろう。
 わたしはボールペンを取り出すと、
「念のためその子の電話番号を教えてくれますか?」
「何? あたしがどうかした?」
 杏奈という子は驚いたようだ。訊き返す声が電話越しに小さく入ってくる。急に話の中に出てきたのだから無理もない。
「ねぇ、麻紀を浅井さんに紹介したのって杏奈だっけ?」
「うん、そうだけど……」
「探偵さんにケータイ、教えちゃっていいかな」
「それ面倒だから。ちょっと貸して」
 どうやら杏奈がケータイを取り上げたらしく、ノイズが入る。だがすぐに、
「もしもし。杏奈です」
 という声が聞こえてくる。
「あぁ、ちょっと二、三お伺いしたいことがあるんですよ」
「それはいいんだけどさ、うちらのことお巡りに言わないって約束してくれますか? そしたらなんでも教えてあげるからさ。それから、そっちも知っていることあったら教えて下さい」
「……ええ、いいわ」
 どうやら浅井の居場所をつきとめて、お金を取り立てるつもりらしい。しばらくは彼が生きていると思い込ませた方がよさそうである。いずれニュースで名前が出るが、この子たちが見るのはどうせ芸能番組だけだろう。
 一刻も早く彼を絞め上げたいのか、それともせっかちな性格なのか、
「じゃ、今からそっち行くから。場所教えてよ」
 と急いでいるように言う。そんなに慌てることないのに、と思いながらもわたしは場所を教えると、別れを告げた。
「どうだった?」
 電話を終えると、田中がわたしの顔を見る。おごらなきゃいけないのか気にしているようだ。わたしはこれまでの経緯をかい摘まんで話すと、舌打ちする。
 しかし急に機嫌を取り戻すと、
「俺も一緒にいていいかな。ほら一人より二人の方が心強いし……」
 なんだかんだ言って女子高生と話したいらしい。鼻の下を伸ばした顔を見ればすぐに解る。わたしは溜息をつくと、
「どうぞ」
 とまたケータイに手を延ばす。電話をしながらの食事と安さだけはファーストフードのいいところだ。

「もう昔のことは忘れたいの」
 四人目はまるでトーキーに出てきそうなカビ臭い台詞の後、一方的に電話を切った。わたしがその番号にもう一度電話をしてみると、無機質な女性の声で着信拒否を告げられる。ふぅ、と息をついてストレッチをした。私は緊張しすぎで首が凝ってしまったようだ。
 一台の車が滑り込むようにして入ってきた。どやどやと降りてくる五人の女子高生が見える。少し化粧は濃いものの、地下鉄で隣に座っていてもまったく違和感はないだろう。
「いらっしゃいませ」
 自動ドアが開くと店員が機械的に頭を下げた。
「人と待ち合わせしてるんですけど」
 他の四人は大きな声で、
「こないだお巡りに捕まりそうになってさ、最悪だった」
「ウソ? でもおかしな話だよね。援助交際がどうしていけないの? 誰にも迷惑かけてないじゃん」
 という会話を聞いて杏奈たちだと思った。シャネルのバッグなどブランドものに身を固めている、というイメージを抱いていたわたしは拍子抜けする。
 わたしは慌てて駆け寄ると、
「電話した浅香です」
 と声をかける。待たせちゃいけない、というわけではなかった。周りに知り合いだと思われたくなかっただけなのである。辺りを見回すとホッと息をついた。
 向こうも頭を下げ、
「あ、どうも、杏奈です」
「わたし恵理子。よろしくね」
「立ち話もなんですから……向こうで」
 とわたしが言うと、田中の待っている席を指差した。それを見て、田中は笑顔で頭を下げる。恵理子が決めかねている脇で杏奈はさっさと決めて行ってしまう。わたしは苦笑しながらそれを見ていた。

「さて、お訊きしたいのは二つあります」
 杏奈たちが席に座るのを確かめて、わたしは言った。
「待って待って。呼び出したのはそっちでしょ? ならそっちから先に教えなさいよ」
 恵理子が言うと、女子高生たちも口々に不平を言い始めた。杏奈が、
「静かに!」
 と叫ぶと一斉に黙る。杏奈は仲間全員の顔を順々に見回して、姉が妹たちに言い聞かせるように、
「ここは私に任せるって約束でしょ?」
「そうだった……」
 田中は堂々と、
「その前に名刺を渡さないと。……あぁ、こいつは新米なんでまだ持ってないんですよ」
 と財布を開けて名刺を五枚出してみんなに配った。私は声を潜めて、
「どこで作ったの?」
「あぁ、ナンパ用にさ。大学生だと余り釣れないのよ。ケータイだけは本物だぜ」
 わたしは呆れてものも言えなくなってしまった。その涙ぐましい努力をもっと別の方に向けてもらいたい、と思いながらわたしはみんなの顔を窺う。疑いもせず見る者もいれば、胡散臭そうに田中の顔を見る者もいた。
 杏奈は一まず納得したようだ。名刺を財布にしまうと、
「それで浅井さんと麻紀のことはどっちから話した方がいいですか?」
「まずは浅井さんのことから」
 かなり有名人らしいから、その気になれば知っている人はいくらでも出てくるだろう、と考えて、
「……主に性格を中心に」
 と付け足した。
「解りました」
「浅井さんは……電話でも話しましたけど結構人気でした」
 と言うと、恵理子が口を挟む。
「そうそう、中にはお金払ってもいいからデートしたいっていう人もいたみたい」
 とカバみたいな口を開けて、ゲラゲラ笑い声を立てる。麻薬でも打っているのかと本気で疑ってしまった。杏奈に睨まれて、恵理子は慌てて口を噤む。慎重に杏奈は続けた。
「性格は……そう変に真面目でしたね」
「変に真面目?」
 わたしは身を乗り出して尋ねると、彼女はうなずいた。
「例えば私たちには酒もタバコも勧めませんでした。私たちがやっていても別に何も言いませんでしたけど」
「なるほど」
「それにエッチをイヤがったら即、やめたしね」
「そうそう、私が浅井さんを勧めた理由もそこなのよ。あの子、初めてみたいだったしさ」
 恵理子が言う。わたしが下手に尋ねるより、黙って雑談を聞いている方がいいようだ。
「真面目って言ったらさ、麻紀も真面目だったよね」
 例の耳障りな間伸びした声で、恵理子が言う。他の子もうなずいて、
「麻紀があんなことするなんて意外だよね。学校じゃ優等生ぶってるクセに」
「ああ見えて欲求不満だったんじゃないの?」
「真面目、というと……?」
 わたしは気のない振りをして尋ねてみる。
「あぁ、あの子、うちらが誘うカラオケには断わらずにちゃんと出ててさ。ほら、あるじゃん。無遅刻無欠席だともらうやつ。あれ何て言ったっけ?」
「皆勤賞のこと?」
 田中がちゃっかり口を出す。どうやらこれを足がかりとして話に交ざろうと考えているらしい。
「そうそう、カイキンショー。ま、うちらには関係ないけどね」
「でもさ、麻紀って何か近寄れなくない?」
「何で?」
 杏奈が訊くと、怯えたように、
「だって居酒屋やってるんだよ。うちらの親父も来るかもしれないし……。そこからばれたら……」
 女子高生たちは笑って、心配ないだの考えすぎだの口々に言う。しかし彼女をなだめているというよりは自分たちに言い聞かせているようだった。
「そんなに不安だったらさ、麻紀の親がやってる居酒屋に張り込めばいいじゃん? ヤモメだったっけ? カモメだったっけ?」
「バカね」
 脇で聞いていた杏奈は笑いながら言う。
「店がやってるときじゃなくても親と話してるじゃない。そのときに話しちゃったらどうするのよ」
「ちょっと待って下さい」
 わたしは思わず大声を出してしまった。なんとなく解ったような気がする。だけどまだしっくり行かない。なんとなく解ったような気がする。だけどまだしっくり行かない。そんなもどかしい気持ちを吐き出そうとしたのだ。女子高生たちはきょとんと顔をさせたり、目をぱちぱちさせたりしている。
「何ですか?」
「その居酒屋って二本松のバス停が向かいにあるところですよね?」
「そ、そうだけど?」
 やはり浅井は偶然「鴎」に入ったわけじゃなかったのだ。そうすると新井や三重子は知っていたんだろうか。そこまで考えて、わたしのケータイが鳴り出した。見るとメールが入っている。
「しまった!」
 そのメールを見て思わず小さな声を上げる。この前サボった医学のプリントを友だちからもらう約束をしていたのをすっかり忘れていたのだ。どこにいるか彼に告げ、これから行くとメールを送る。「そっちに行こうか?」という返信を見て、慌てて「わたしが行くからいい」と送り返した。こんなところを見られたら恥ずかしくてたまらない。
 わたしは席を立つと、もっともらしく、
「大変申し訳ないのですが急用ができました」
 そう言うとスケジュール帳の一ページを破った。そしてケータイの番号を書いて手渡すと、
「何かありましたらこちらに」
 と言って店の外へ勢いよく飛び出した。

「ごめんごめん」
 掃除のおばさんにぶつかりそうになりながらも、息を切らせて待ち合わせ場所に着いた。疲れてラウンジの椅子に倒れ込む。友だちは笑いながら、
「そんなに慌てなくてもいいのに」
 とプリントを渡した。わたしは、
「ありがとう」
 そう言うとザッと目を通す。頭痛のことをやっていたらしい。わたしにとっては事件のことが頭痛の種なんだけどさすがに特効薬はないだろう。そんなばかなことを考えながら眺めていると目が止まった。
 「頭を打って数分後から数時間後に死亡した事例」と書いてあったのだ。プリントには「別紙新聞記事参照」と書いてある。わたしが身を乗り出して、
「ちょっとこの別紙って持ってる!?」
 と尋ねると、
「なんだ?急に」
 笑いながらもう一枚プリントを取り出した。その新聞記事に食い入るように目を通す。それは次のようなものだった。

 日本赤十字社は七日、三〇代の男性が献血直後に倒れて頭部を強打したことが原因で死亡したと発表した。献血でめまいや気分が悪くなる血管迷走神経反応(VVR)を起こした可能性があり、日赤は再発防止のため、各血液センターに注意を促す一方、発生原因や対応策を探る検討会を今月中にも設置する。
 日赤によると、男性は先月二六日、東京都内の献血ルームで成分献血をした。採血後、ビル内のトイレに行ったが、数分後、倒れているのを通行人が見つけ、救急搬送されて緊急手術を受けたが、今月六日に死亡した。
 日赤の調べでは、採血による副作用被害は献血者全体の約一%で、昨年度は約五四〇万人の献血者のうち、〇・八%の人にVVR被害があった。九七年度以降では、少なくとも〇一年度に同じように転倒して死亡したケースが一件ある。
 日赤血液事業本部は「男性の遺族には誠意を持って対応したい。全国の血液センターに再発防止を徹底させる」と話している。

(二〇〇五年十月八日 毎日新聞 朝刊)
 窓から光がゆっくり差し込んで、新聞記事を明るく照らした。

 空はどんよりと曇っていて、雨が降り出しそうである。わたしはガラス戸の前でたたずんで、空を眺めた。街を行く人はわたしを振り返ることなく、足早に通りすぎていく。
 わたしは「鴎」のガラス戸を静かに開ける。開店した直後の店内はまだ誰もいない。
「おう。ここんとこほとんど毎日だねぇ」
 元気よく声をかける。わたしはそんな威勢のいい声とは裏腹に沈んだ声で、
「折り入って話したいことがあります」
「な、なんでぇ」
「自供をして下さい……」
 洗いものをしていた三重子はぴくりと動く。
「昨日の三重子さんとの会話で、違和感があったんです」
 名前が出てきたのに驚いたんだろう。こっちを振り向く。怯えたような目をしていた。わたしはやめようかとも思ったが、恵子のことを考えるとやめるわけには行かない。
「確か、こう言いましたよね? 『浅井さんが死んだ夜』って」
 三重子は頷くと、わたしを見た。
「ええ、言ったわ……でもそれがどうかしたの?」
「なんで被害者の名前を知ってたんですか?」
「そ、それは……」
 口ごもると新井が助け舟を出した。
「そりゃあ嬢ちゃん、新聞で読んだからさ。うちの店で起きた事件で、しかも名前の響きが似てるんだ。こいつだって覚えるって」
「私が訊きたいのはなんであのとき『浅井さん』って名前が出てきたのかってことです」
「……どういうこと?」
「つまり『浅井さん』って何気なく出てくるのは、ある程度知ってる仲だってことです」
「私、あの人とずっと不倫してたの。それであの夜いさかいになって……」
 これ以上、ウソで塗り固めてほしくない。わたしは首をゆっくり振ると、奥を眺める。薄暗かったが明かり漏れていた。娘さんがいるんだろう。
 車が水を跳ねて走り抜けていく音がして、わたしは思わず窓の外を眺める。まばらについている水滴を見て、ようやく外では雨が降っていると解った。
 わたしはまた目を三重子に向けると、
「オレンジジュースがありました。普通、居酒屋にきたらお酒を頼みますよね。でも連れはそうしなかった。未成年だったからです……。そしてこの場にいた未成年はただ一人」
 わたしは溜め息をつくとこう呟いた。
「麻紀さんだけです」
 カウンターの横にぶら下がっている鍵を見る。客の誰かが車で乗りつけたとは考えにくい。あの時、車は一台しか停まっていなかったのである。しかもその鍵はここにあった……。わたしはあの夜のことを思い出しながら、ハンカチを出した。カウンターの上に広げて、例の破片を摘まみ上げる。
「ほら、両面に血がついてるでしょ? 片側は私の血だとして、両面に血がつくのは難しい。でも下になっていた面まで」
 わたしは水を一口飲んで二人の様子を窺った。新井は真っ赤になって掴みかかろうとする。私は思わず目をつむった。殴られたって構わない。しかしいつまで経っても拳が飛んでこなかった。わたしが目を開けると、三重子は手で止めているのが見えた。
 新井は唇を震わせて、
「ケガしたら血はどこについたって不思議じゃねぇ。そうじゃねぇか?」
「確かにおじさんの言う通りです……。でも裏側の血はすっかり乾いてました。今はもう私の血と混じっちゃって見分けがつきませんけど、鑑識にまわせば二種類の血痕が見つかるはずです」
 三重子の唇が震えている。
「そ、それならトイレの内側からはどうやって鍵をかけたの? ずっと寝てたあの子にそんなこと……」
 わたしは首を振ると、
「あれは浅井さんが鍵をかけたんです。後頭部を強く打つと初めは何ともないけど後で傷が開いて死ぬことがあるみたいです」
「ち、違う。全部私がやったのよ!」
「だったらなんで……」
 わたしが言いかけると奥のドアの軋む音がする。わたし、三重子、新井の三人が奥に目を向けると、制服を着ている女の子が立っていた。整った顔立ちは泣きはらしていて台なしである。
 やがて疲れたような声が響いた。
「わたしが全てやりました……」

「麻紀!」
 新井は声を荒立てて麻紀を揺さぶる。彼女は揺さぶられるままになっていた。まるで人形みたいである。三重子が割って入ると、がっくりと膝を落としてうなだれた。
「どうして出てきたりしたんだ!」
「私、もう耐えられないの!」
 と叫ぶと、
「頭を殴った場面が目をつむると見えるのよ……」
 わたしに向き直り、
「親父が鬱陶(うっとう)しかったの。自由もお金ももらえないし」
 誰でもそんな時期があるものだ。わたしだって二十歳を越えた今でもたまに親と口ゲンカになる。でも高校時代にお金も自由も与えられていたら不幸になっていたかもしれない。アルバイトを始めてようやく解ってきた。
 しかし今この子にそんなことをさとしても解らないだろう。かえって「大人」に肩入れしていると思われて、何も言わなくなってしまうかもしれない。わたしは黙って彼女の話に耳を傾けることにした。
「親父とケータイ代のことでもめてた後だったからムシャクシャしてた時だった。ちょうどその時、TVで援助交際のことをやってた。それでわたし決めたのよ。援助交際でもしてやろうって。ケータイ代を自分で払えば何も言われない、と思ったの」
「それにお父さんへのあてつけの気持ちもあったんじゃない?」
 わたしが言うと、麻紀はうなずいて、
「なんであてつけになるのかはよく解んないけど、困らせたかったのかな? でもなんだか空しくなってきちゃった」
「どうして?」
「だって全然気付かないんだもん。杏奈は『バレなくてラッキーじゃない』って言ってたけど……」
「ラッキーじゃなかった。それはどうして?」
「知らない。どんな男の人とデートしてお金もらっても、寂しくなったんだもん。でもお金はどんどん欲しくなったの。というよりは、ないと不安になっていった。お金なんか……」
 ときおり嗚咽をあげながら手で顔を覆って、何回も繰り返している。まるで壊れたテープレコーダーのようだ。お金がないと不安だったというよりは、むしろカラオケなどの遊びの誘いを断って、ひとりになることを恐れたんだろう。そしてそのためにお金が必要だった。
「……それから?」
 わたしが後を促すと、
「とうとう男の人と……初めてだった」
 とぼそりと呟いた。外の雨音にかき消されそうな声である。麻紀はしばらく黙っていたが、意を決したようにまくしたてる。
「ああいうことするのが。初めは何とも思わなかったの。でもこれからやるんだ、と思うと急に恐くなって……気付くと頭を殴ってた。わたしが慌てて駆け寄ると、起き上がって笑ったから安心したの。大丈夫なんだって」
「その後、浅井さんがトイレに立った」
「ええ、でも何分経っても戻ってこない。恐くなって部屋に駆け込んだ」
「なんでここにしたんだ!」
 新井は麻紀の胸ぐらをつかんで問いただした。麻紀はそっぽを向いて、乱暴に、
「解んないって!」
「そんなバカなことあるか!」
「だって本当なんだもん」
「たぶん麻紀ちゃんは心の暴走を止めて欲しかったんだと思います。お父さんに……」
 わたしが割って入ると、ようやく新井は何か気付いたように手を放した。そして麻紀の顔を問いかけるように覗き込む。
「そうなのか?」
 麻紀は強く首を振って、
「そんなことあるわけ……」
 と言いかけたが、呟くように、
「……そうなのかなぁ」
 誰かがガラス戸を開けた。ようやくお客さんがぽつぽつと入ってきたようである。
「そ、それじゃ私はこれで。本当のことが聞きたかっただけですから」
 そう言うとビール一杯分の四百円をそっと置いた。泣き顔を見られないように早足でガラス戸へと向かう。外に出ると、たまらなくなってケータイを取り出すと恋人に電話をかけていた。しかし電話に出ずに、すぐに留守番電話の機械的なアナウンスが流れてくる。
 どこかで母親が子供を叱っているようだ。その声を聞きながら、わたしはバス停へと歩き始めた。また雨がぱらつき始めたらしく、わたしは空を見上げる。家の近くまでタクシーを拾おう。そう思って手を挙げるがゆっくりと下した。毎日のように居酒屋に出入りしていてお金がないのに気付いたのだ。
 それに小雨が降る中を歩くのも悪くはない。
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