ワインでさよなら


 この男を見ただけで虫酸が走るわ!
 わたしが住むアパートの玄関先でこの男を出迎ると、肚の中で呟いた。彼、佐藤亮介はだぶだぶのズボンという格好をはいている。恐らく本人にしてみれば格好いいつもりなのだろうが、わたしに言わせるとだらしないようにしか見えない。
「さあどうぞ」
 と言ってドアを開けた。まず飛びこんでくるのは、真ん中にはコーヒーテーブルと、左手手前のステンレスでできた流し台と調味料である。
 亮介は上がりこむと、まず隅に置かれた本棚からマンガを探す。しかし化学関係に本ばかりだと解るとつまらなそうに真ん中に座る。
「あぁ、そうそう。手ぶらじゃなんだから手土産持ってきたぜ」
 そう言うと、コンビニの袋から惣菜やらワインやらを取り出す。ひとしきり並べ終ると、
「でも驚いたぜ。亜由美が俺と会ってくれるなんて滅多にないことだもんな」
「ごめんなさい。最近、大事な実験があって・・・」
 一日に十数件も会いたい、というメールを送られたら会うしかないだろう。こんな男と付き合ってたのかと思うと、恥かしくなる。
 まぁいいわ、亮介とも今日でお別れなんだから。わたしはキッチンに並んでいる瓶に一瞥を投げ、呟いた。調味料の瓶に混ざって、硝酸ストリキニーネが置いてあるのが見える。それを見て、静かに笑みを浮かべた。
「で、今何やってるんだ?」
 亮介の声がして、ハッと我に返る。
「私は塾で講師をしながら、大学院に通ってる」
「俺はマックでバイトしながら、バンドやってる」
「ふーん」
「ふーんって何か冷たいな・・・」
 亮介がどうなろうと知ったことじゃない!
「ごめんなさい。何か実験で疲れてて・・・」
「寝たらどうだ?そんなに疲れてるなら」
「ありがとう、でもいいわ。亮介がいる前で寝たら失礼でしょ?」
「いいよ、別に。なんなら添い寝するぜ」
「い、いえ・・・遠慮しておくわ」
 わたしはニヤついた亮介の口許を見て、鳥肌が立つと同時に怒りが込み上げてきた。
「遠慮するなよ」
「冗談じゃないわ!」
 とわたしは言って、
「私がこの手の話、嫌いなの知ってるでしょ?」
「怒るなよ、皺が増えるぞ。今日は機嫌が悪いな」
「あんたと一緒にいるからよ」
「おいおい、冷たいな・・・」
「下品な男には冷たいの」
「あの日じゃないのか?」
 笑いながら亮介が言うのを聞き、
「いい加減にして」
「おや、怒った顔も中々可愛いな」
「いい加減にしてって言ってるのが聞こえないの!?」
 とうとう不快さのあまり叫んだ。
「あんたの脳ミソ、下半身に付いてるんじゃないの?」
「こっちは冗談で言ってるのに・・・冗談が通じないなんて」
「冗談でも嫌なものは嫌なの!」
 彼がやれやれ、と言いたそうに溜息を吐く。それを見て、わたしは、
「あんたはどうしようもない馬鹿ね」
「何だと!」
 そう亮介は叫ぶと拳を固める。
「もう一回言ってみろ」
「何回でも言ってあげるわ。馬鹿って言ったのよ!」
「この野郎」
「あら結局は暴力なのね」
 そう蔑まれると、拳を下ろしてどこかに立ち去ろうとした。恐らくはトイレだろう。彼は都合が悪くなるとトイレに逃げ込むのだ。
「どこ行くの?」
「トイレだよ」
 亮介がいなくなりシーン、と静まり返る。
 毒の瓶を取ってワインに混ぜると、苦しむ姿が早くも目に浮かんできた。あんなに愛し合ったのが嘘みたい、と自嘲する。何も知るよしもない、亮介の足音が近付いてきた。

「おかえり、さっきはごめんなさいね」
「気にするな」
 と言って、亮介は腰を下ろす。わたしは相手のグラスが空なのに気付き、
「ワイン、もっと飲むでしょ?」
 相手のコップにワインを注いだ。亮介は訝しそうにわたしの顔を見つめ、
「何か、優しくないか?」
「な、何が?」
「お前だよ。今までこうして注いでくれることなんてなかったじゃないか」
「そ、それは・・・」
「それは?」
 疑いを持つなんて予想外のできごとだった。わたしは頭をフル稼働させて、言い訳を考えた。それは・・・、ともう一回口籠もる。
「何だ?」
 身を乗り出して、容赦なく詰め寄る。気付くと、咄嗟に口をついて言葉が出ていた。
「ほらさっきの口論のこと、本当に悪いと思ってるから」
「あぁ、なるほど。てっきり毒でも入れたかと思ったからさ」
 わたしはドキリとしたが、必死で動揺を押し隠した。原始人だけあって、どうやら野生の勘だけは鋭いようである。
「そ、そんなわけないじゃないの」
「いや、悪いって言ってるだろ」
 一口ワインを飲む姿を見て、心の中でほくそ笑む。そして自分でも気味が悪くなるような甘ったるい声でわたしは、
「ねぇ」
「何だ?」
「いいこと教えてあげようか」
「何?」
「私ね、このワインに毒を入れたの」
「まさか。冗談だろう」
 と言いながらも、引き攣った笑みを浮かべている。薄々感付いてたんじゃないかしら、とわたしはその表情を見て考えた。
 なぜこのことを言う気になったのかは、わたしでもよく解らない。多分、この計画を誇示したいと思ったのだろう。または、せめて殺される理由を教えてやろうという憐憫の気持ちからかもしれない。
「いえ、本当よ」
「だ、第一何で俺を殺さなきゃ・・・」
「あんたを殺す必要?自分の胸に手を当てて訊いてみたら?」
「俺は何もしてない!」
 そう亮介は気が狂ったように喚くと、口の中の春雨サラダを撒き散らした。わたしは飛んできたそれを手の甲で拭う。
「何をしたっていうんだ」
「何もしてないのにあんたを殺すと思う?」
「なら何で殺すんだよ」
 この声が近所に聞こえてないかな、と心配になってきた。誰かが聞いたところで酔っ払って暴れてた、と言えばいいだけである。そう思いつつも、どこから足が付くか解らないという不安から気を揉んでしまう。
「本当に解らない?」
「解らないから訊いてるんだろ」
「浮気よ、あんたの」
「浮気だって?」
「そうよ、別れる原因となった浮気」
「あぁ、あんな下らないことか」
「下らないですって?」
 わたしは亮介を睨み付けて、
「あのことでどれだけ私が傷ついたと思ってるの!?」
「好きになっちゃったものは・・・仕方ないじゃん」
「私はそこを問題にしてるんじゃないのよ!」
「じゃあ、どこを問題にしてるんだ?」
「あの時の態度よ」
「態度ぉ?」
「そうよ、あの時ヘラヘラしながら私にこう言ったわよね?『ごめーん、俺、こいつのことが好きになっちまったみたいなんだ。悪いけどさぁ、別れてくれない?』って」
 気分が悪くなるのを抑えて言うと、
「言ったっけか?」
「・・・やっぱりあんたを殺して正解だったわ」
「それどういうことだ!?」
 わたしが次の台詞を言おうとした途端、亮介が一瞬フラついて、倒れた。わたしは急いで脈を取る。
 もうこの男に悩まされることはないわ・・・。そう思うと安堵感に包まれた。これでよかったのよ。
 ストリキリーネの瓶を丁寧に洗う。流し台でこういうものを洗うのは気が引けたが、向かいの公園で洗うよりはマシである。誰かに見つかって怪しまれるかもしれない。八時なら誰にも会わないかもしれないが、やはり用心にこしたことはない。
 誰もいない向かいの公園をぼんやりと見ながら、計画を思い出す。本来なら浮気のことを持ち出して、トイレに立たせるつもりだった。少し計画が狂ったが問題ないだろう、と心配する自分に言い聞かせる。
 警察へは愉快犯だと思わせて、わたしは容疑者から外れる。これがわたしの考えだった。
「我ながら上手い方法ね」
 と調味料の瓶に置いて呟く。前々から化粧用の瓶に塩などを入れていて、まったく違和感がない。ストリキリーネの瓶をどうやって処分しようか。そう頭を悩ませていたが、この方法を思い付いたときは自画自賛した。
「手抜かりはないわね」
 辺りをぐるりと見回して呟く。そして携帯を取り出し、
「もしもし・・・。警察ですか?と、友達がワインを飲んだら急に苦しみ出したんです!」
 携帯を切ると、息を大きく吸う。
「さぁ、これからが一番大事よ。警察の前でボロを出さないように気を付けなくっちゃ」
 しばらくして、遠くでサイレンの音が聞こえてきた。

「とすると、急に苦しみだしたんですな?」
 と太鼓っ腹の刑事が言う。どうやら西口という名前らしい。こう言っては失礼だが、見かけは愚鈍そうなので少し安心する。
 しかしこう言う時は余計なことを言わないに限る。わたしは怯えて、声も出せないのを装い、黙ってうなずく。
 亮介の死体はもう既に運び出されていて、チョークの白い線が残るばかりとなっていた。「鑑識課」と書かれている服を着た五人の男が指紋を採取しているし、警官たちは西口の指示で付近の訊き込みに出かけている。
「お友達をなくした悲しみは解ります」
 そこへ実験に失敗した化学者、という比喩がぴったりの男が通りがかった。西口は彼を見つけると、
「先生、何か解ったかい?」
「司法解剖せにゃ何とも言えんが、まだそんなに経ってないんじゃないか?死体が暖かいからな」
 この医師は妙に間延びした口調である。
「ふむ、そうするとこの娘の言ったことと合致するわけか」
「そいつは結構。あと他に訊きたいことあるか?」
 わたしは何が結構なんだろう、と会話を盗み聞きして思う。裏を取る手間が省けたからだろうか。
「死因は何だ?」
「頭に烈傷があるからそれが致命傷になったんだろ」
「あの、そこの刑事さんにも話したんですが・・・」
 わたしは遠慮がちに手を挙げた。毒が直接の死因ではないのか、とふと興味が湧いたのである。西口はわたしに向き直り、
「何ですかな?」
「一瞬、ふらついて倒れたんですが、毒が盛られてませんでした?」
「それはまだ何とも言えませんな。解剖してないもんだから」
 と医師は厳かに言った。
「それとも何か思い出したことでも?」
「は、はぁ、私の記憶違いかもしれませんが」
「構いませんよ」
 西口は、さり気ない優しさを込めて言った。
「買った時から少し封が開いてたような気がするんですよ」
 もちろん、これはわたしの容疑を逸らすための嘘である。誰かがイタズラで硝酸ストリキリーネをコンビニのワインに混入した。そういうことにすれば容疑者は無数にいることになる。
「うーむ、そうすると愉快犯か」
「あ、でもそんな気がするっていうだけですよ」
「解ってますよ」
 と西口は愛想笑いを浮かべる。
「ところで、どなたから恨みを買ってませんでしたか?一応、怨恨の線からも捜査を進めたいので」
「さぁ、でも彼と付き合ったことのある女の子は皆、恨んでると思います」
「と言いますと?」
「彼、かなりの浮気症でしたから・・・。」
「なるほど。あなたもその一人だったんですか?」
「・・・はい」
「解りました」
「でも私は殺してませんよ」
 手帳に何やら書き留めているのを見て、わたしは思わず強く言う。その口調から疑われていると感じたのだ。
「絶対に違いますからね」
「解ってますよ。その女性は何人ぐらいいましたか?できれば名前もおっしゃっていけると助かるんですが」
「七、八人はいたと思いますが・・・」
「お名前までは?」
「知りません。すみませんが」
「いやいや、構いませんよ。それにしても随分、多いですね・・・」
「そりゃそうでしょう」
 とわたしは言った。
「女の子を見かけたら絶対口説いてましたからね」
「なるほど」
 わたしの刺を含ませた言い方を気にも留めない様子でうなずく。
「そうすると、その線で当たるのは難しそうだな・・・」
 とわたしに断ってから煙草に火を点ける。普段は奥さんに煙たがられて家では吸えないんだろうな。すごく美味そうに紫煙を吐き出す姿を見て、そう考えていた。
「よかったらいかがです」
 じっと見つめているわたしに気付いて、煙草のケースをこちらに向ける。吸いたいけど、刑事と打ち解けると余計なことを喋っちゃうかもしれない。そう警戒して、
「結構です」
 と言った。