〈貴婦人の涙〉盗難事件
FILE1、思い出
この話もまた「ジュリアス・シーザーの手紙」や萌ちゃんが一筆執ってくれた事件と同様、私の学生時代の思い出として深く印象に残っているものの一つだ。かと言って、“不可能犯罪の美食家”を称する者にとっては、気の抜けたビールのような味わいではなく、むしろ長年寝かせたワインのような味わいとなってくれるだろう。
しかし、オードブルとして私がこの話を語ろうとした経緯を簡単に記そう。またいつもの通り私の片想いの少女がぶらりと遊びに来た時の事だった。私は推理倶楽部という行き着けのサイトに載せる「宝石と推理小説の関連」という小論文を書くためにパソコンに向かっていた。
「何々・・・『宝石と推理小説の関連』?」
と私の肩越しにパソコンのモニターを見た彼女は言った。私は、さらさらとした清潔感溢れる彼女の黒髪が頬に触れたのでどきどきした。私の感情を悟られないように、
「ソファに座って待ってて」
と言うと、彼女は兄に従う妹のようにソファに腰を下ろした。彼女は私に対しての「好き」という感情は恋愛感情というよりは兄妹愛に近いものかもしれないので、正にこの喩えは適切だろう。私もその時書いていた一文を終わらせると、ソファにコーヒー・テーブルを挟んだ向かいに座った。
「どんな事書くの?」
私は萌ちゃんの指摘する「どんな事」の内容を理解するのにたっぷり五秒は掛かった。
「ああ。宝石の話?」
「そうそう。『青いガーネット』とか『録柱の宝冠』とか?」
彼女が言った作品は、両者ともにドイルの作品だ。確かに推理小説には多くの宝石が登場する。彼女の言う作品の他にコリンズの『月長石』、クリスティの『〈西部の星〉盗難事件』、刑事コロンボの『ロンドンの傘』等数え上げれば実にキリがない程である。
「うん、そんな所からアプローチを仕掛けるつもりだよ。でも僕にして見るとあんな石ころ一つに数万の価値が付くなんて信じられないね。だって化学的に見れば炭とダイヤモンドも炭素の結晶であることには変わりはないんだよ。と思うけど、萌ちゃんは女性としてどう思う?」
相変わらず夢のない男だと思ったらしく、彼女はくすくすと笑った。
「そうね・・・・」
人差し指を顎に当て、しばし考え込んだ後、
「でも、私はやっぱりそれでも欲しいな。例え、ダイヤが炭と成分は変わらないと知ってもね。だってキレイじゃない」
「そりゃ、キレイな事はキレイさ。でも万は高すぎるよ」
私は苦笑しながら言った。確かに、と相手も私に釣られたように苦笑した。
「そう言えば、僕も宝石に二、三回携わった事があるよ」
萌ちゃんは驚いたような声を上げた。
「へえ」
私は肩を竦めて、
「全部、事件だけど」
相手もその事は承知していたらしく、解っている、と言った。
「もし好かったら聞かせてくれない?」
と言って私が語り出したのが今から書こうとする話である。
FILE2、消えた宝石
私の父の元に〈貴婦人の涙〉と言うアクアマリンを守ってほしいと言う依頼が舞い込んで来たのは私の欝が回復の兆しを見せ始めた、五月の晴れた日の事だった。当時の私の状況を語っておくと、高校には一応籍を置いてあったが、通学する気には到底なれなかった。
しかし、前述したように回復の兆しを見せ始めていた。なぜなら、半年程前はドアには鍵を掛け一日中、ベッドの中で友人が死んだのは自分のせいだ、という自責の念に苛まれ続けてきたからだ。夜中の一時頃と四時頃に夕食の残りを電子レンジで温めて食べる事と、トイレに行く時以外はベッドからは決して出なかったのだ。今の言葉を借りるなら、「引き篭り」の状態だった。
「お前は人殺しだ」
と言う幻聴まで聞こえる有様だった。そのような「ベッドでの生活」から抜け出せた事を考えると私のこの時の状態は大きな進展と言えるだろう。
しかし、徐々に「ベッドでの生活」がベッドから這い出し本棚へ向かう生活へと変わっていった。やがて本棚とベッドと机の間を行き来出来るまで回復し、ついには自分から鍵を開けたのだ。
とにかく、この事件と関わったのは、上のような一種の病的とも言える精神状態が回復し始めて、両親や友人も一安心した時だった。私は五月晴れの元、アーム・チェアに腰掛けて読書出来るまでに回復したのだ。
「お父さん、お客さんだよ」
迷い犬の調査を引き受けていた父が電話の受話器を置いたのを横目で確認して、言った。
「ふむ」
と父は興味のなさそうな声を上げる。その時、ノックの音が聞こえたので依頼人が来たのだと思った。椅子に座って、女性週刊誌を読んでいた母は面倒そうに立ち上がり、コーヒーの準備を始めた。
「どうぞ」
父はまるで診察室に入ってくる患者を呼ぶ街医者のように言った。体格はがっちりしているが、妙に落ち着きがない。父がソファに腰を下ろすよう、客に勧めた。
「どのようなご用件ですか?」
依頼用紙とボールペンを父がすっと客の前に出すのが見えた。書き終わるのを見計らって、母が三つ、コーヒーカップにコーヒーを注いだ。そして客、父の順に出す。母は愛想笑いを浮かべ、一礼すると、自室に姿を消した。カタカタというパソコンの音から仕事の脚本制作に執り掛かったようだ。
「実に不可解な出来事が起きたのだ」
この威圧的、高圧的な声の調子からして、会社社長か、人の上に立つ立場だろう。父は笑って
「私の所に来る大半の人がその台詞を言いますが、何でもない事が多いのです」
「しかし私の身に起きた事ほど、不可解な事はない」
彼は狼狽して言った。父は何が起きたのか、と訊いた。
「〈貴婦人の涙〉と言う宝石はご存じでしょうな」
「生憎、私は宝石には興味がないんですよ」
父がそう言う声がソファで読書をしている私の耳に届く。私は椅子を微かに揺らした。
「それでその宝石がどうかしたのですか?」
「盗まれたのです」
「ほう」
まるで関心がないように父は言った。
「完璧なセキュリティ・システムを誇る我が屋敷で盗難があったのだ」
それでは「完璧」という言葉は使うべきではない、と私は思った。
「塀は二メートル半、番犬五匹、警備員七名!この徹底した防犯体制の元で盗難など起こる訳がなかろう」
自己満足で言っているように私は思った。父はさらりと、
「まるで要塞ですな」
「さよう、従って誰も内部に侵入出来るはずがない」
「少なくとも部外者は、です」
父が訂正して言うと、さっと立ち上がり、怒りを露にした。
「では、内部犯だと言いたいのか!」
「外部犯の可能性が否定されると必然的に内部犯だと言う事になります。もっとも、あなたが超自然現象(ルビ:オカルト)を信じるなら話は別ですがね」
父はさらりと言うと、
「しかし超能力は私の領分ではないので、内部犯でも外部犯でもないとお思いならユリ・ゲラーにお願いしたらいかがです?」
彼は静かに、そう言った。俯く姿勢、手を山のように組み合わせる姿が私の目に浮かぶ。依頼人は幾分落ち着きを取り戻したようだ。
「これは失礼した」
そう言う声が聞こえ、煙草の嫌な臭いが鼻を突く。恐らく、葉巻をふかし始めたのだろう。
「あなたもやりますかな?」
男は尋ねた。父は、
「今、ドクター・ストップが掛けられていましてね」
これは嘘である。父は禁煙家で、煙草の臭いは平気なのだが、自分からは吸わない。恐らくは依頼人の気分を害さないための配慮だろう。
「それで、さっきのお話の続きを」
とすかさず軌道修正をする。男は、
「そうだった。それで、もし内部犯だとしても塀の外に持ち出せるはずがない」
「家の中はお調べになったのですか?」
「もちろんだ。池の中もさらって調べたし、庭は全部掘り返した。また、家のタイルは全てひっぺがえした」
「徹底していますな」
父は呟くように言った。
「当たり前だ」
不機嫌そうな声で高圧的に言った。
「宝石の大きさはどのようなものですか?」
「握り拳くらいだ」
まるで世界地図を見せられ、日本の場所を訊かれたが北極を差した男を見たような口調だ。
「それでは、外に持ち出す事は不可能ですな」
「当たり前だ。外に持ち出そうものならたちまち、ブザーがなる。塀の上には警報装置がついているんでな」
実に面白い事件だ、と私は思った。徹底した防犯システムの中、拳骨大の宝石が盗まれた。そして、その宝石は、家中探してもなかった。〈貴婦人の涙〉は一体、どこに消え失せたのだろうか?
「費用はいくらでも払う。宝石を見つけだしてくれ」
まるで神父にすがる、罪人のように言った。
「落ち着いて下さい。とにかくあなたがその〈貴婦人の涙〉を手に入れるきっかけをお話願えますか?」
口調がはっきりとしてきたので依頼人は落ち着きを取り戻した様子だった。
「そうだな、まずそこから話さなければならん。この部屋には私とあんた以外はだれもおられないでしょうな?」
「十八になる息子がそこのアーム・チェアで読書をしています」
「ではあんたの子供も出してくれ」
「いやいや、こう言う迷めいた事件を解くのが好きでしてね。私も恥かしながら息子の世話になっております」
これは事実だ。私は父や・・・そして時には警察の・・・捜査協力をして、細やかな知識を持って、事件解決へと導いている。そして、二十歳になった現在も協力要請は時々来る。男は馬鹿にしたように、
「血は争えないわけだ」
「そう言う事ですな」
そして父が私を呼んだので、読みかけの推理小説を伏せ、立ち上がった。
「お話は拝聴致しました。実に興味深い話ですね」
私はソファに腰を下ろしながら言った。
「それで、さっきの続きを」
「誰にもお話にならないで下さいよ」
個人情報は絶対守ると言った。
「私は米村鉄太郎と言って金融会社を経営していましてな・・・もちろん合法的な金利だが・・・、ある日、ある会社の・・・会社名は事情があって言えないのだが・・・経営者がやってきた。それで〈貴婦人の涙〉を担保に五百万程借りたい、と言ったのだ。担保の方は申し分ない金額だったので、すぐに金庫から五百万を出した」
「それから?」
私は後を促した。
「二日前、五百万円と利息が帰って来た。それで、昨日、担保の保管場所を探ってみたら」
「盗まれていた、という訳ですね」
私が素早く言った。
「それで、保管場所はどこにしておいたのですか?」
「私の部屋の戸棚の中だ」
「米村さんのお部屋に鍵は?」
鍵はいつも掛けない、と言った。私がその理由を尋ねると、
「我が屋敷の防犯システムを破れるものはいない」
仏頂面で米村は言った。
「しかし、現に盗まれているではありませんか」
私は必死で笑いを堪えながら言った。
「そうだ。しかも持ち出されている」
「あなたが捜索した場所にはなかっただけかもしれませんよ」
「捜索していない場所はない」
「僕の読んだ推理小説で、目の前にぶら下がっていた、と言うものがありますよ」
私はくすくすと笑いながら、言った。米村は不機嫌な様子で
「もちろん、そんな事はない」
「解りました」
大富豪は苛々した様子で、
「それでお引き受けしてくれるのですか」
「もちろんです。しかし私は今、別件の捜査をしており、忙しいのです」
その「別件」がまさか「迷い犬の捜査」とは口が裂けても言えないらしい。
「従って、翔治に行ってもらう事になりますが、宜しいですかな?」
米村は父が赴くとばかり思っていたらしく、驚いた様子で、
「子供に行かせるのですか?」
父は何でもない、と言いたそうに手を振った。
「いやいや、子供一人は十二人の警官より役立ちますよ」
そういう訳で、父の勝手な判断で私は米村邸に赴く事になったのである。
「誇大表現ではなさそうだな」
私が黒塗りのポルシェに乗って、門をくぐった時、そう呟いた。塀は刑務所のように高く、それだけでも外部からの侵入は不可能である。しかし、塀の上には有刺鉄線が張り巡らされており、いかめしい形相の男が二人、警備に当たっている。
「まるで要塞ですね」
私は「屋敷」と言うよりは「要塞」と呼んだ方が相応しいと思った。大富豪は私のその台詞に対しては何も言わなかった。庭が所々、膨らんでいるのは、掘り返して探したためだろう。
「さあ、入りたまえ」
メイドが二人、私と大富豪を出迎えてくれた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「うむ」
とだけ言って、彼は奥の間に引込んでしまった。メイドが大富豪の脱いだ革靴をきちんと揃える。私もスニーカーを脱ぐが、彼女たちに気を遣い、靴は自分で揃える。
「おい!何をしているんだ。鞄はメイドに渡しておけば運んでおいてくれる!」
急かすように階段の上から怒鳴り声を上げる。
「今、行きます」
と言って、私は三日分の着替えが入った鞄をメイドに預けた。
「これ、頼みます。すみません」
早口にそう言うと、私は階段を駆け登った。凄い館である。まるで中世の王侯貴族が住む屋敷だ。壁には美術の教科書に載っているような様々な絵が掛けられ、蛍光灯が不釣り合いである。
「あんなもの、メイドにやらせておけば好いのだ」
階段の上で大富豪は言った。
「すみません」
私は謝ると、事件の起きた部屋はどこか尋ねた。数多くの部屋があって解らないのだ。これだけ部屋の数があったら自分の部屋を間違えても好さそうなのだが流石に住んでいる本人は間違えるはずがない。
「今、案内しようとしている所だ」
急かすな、と言いたそうな調子だ。
「ここだ」
もはや何番目の部屋か解らない。階段が遠くに見えている事だけは確認出来る。重たそうな木の扉を開けた。
「いつも鍵は掛けていないのですか?」
大富豪は肯定する。
「君も見たから解ると思うが、外からの侵入は不可能だ」
私は微笑して、相槌を打った
「どこにしまわれたのですか?」
机の引出を開けて、指で示した。私は書類や封筒が入ったその引出を一目見て、引出を閉めた。手掛かりになりそうなものは何一つなかった。
「部屋を開ける時間は何時ごろですか?」
九時から五時までだと答える。どうやらその事については家のもの全員が知っているそうだ。従って、誰にも持ち出せる機会はあったという事になる。
「でも」
私は呟いた。
「どうやって持ち出したのだ?」
私は窓について調べた。全開に開くと草野球をしている少年なら、簡単に塀の向こう側に届きそうである。
「窓から投げた、という事はありえませんか?」
「ない」
きっぱりと米本は言った。私がその理由を尋ねると、警備員を配備しているから間違いない、と言った。
「ふうむ」
私は唸った。
「何なら、警備員に訊いてみると好い」
「外に持ち出す事は絶対に不可能ですか?」
そうだ、と大富豪は言った。
「〈貴婦人の涙〉を知っていた人は?」
「家族皆が知っている」
憮然として米本は言った。
「ふうむ、他の部屋も見せてくれますか?」
勝手に見るが好い、と大富豪は言った。タイルの一枚一枚まで調べた事を考慮に入れろ、と言いたそうな顔付きをして、私を見送った。
結局、私は各部屋の捜索は行っても無駄だと言う事がやる前から解っていたので行わなかった。依頼人が部屋中・・・庭まで掘り返してまで捜索しているのは、庭の凹凸を見れば簡単に推察出来るし、第一、彼自身がそう言っていた。従って、もし私がやろうとしていた事は遠の昔にやられている事であり、徒労に終わる事は目に見えていた。
FILE4、家族
やがて、柱時計が八時を告げると夕食になった。ダイニングも相当なもので、上からはシャンデリアが吊されており、壁には金細工が並べられている。広さは高校の教室程もあり、私はその広さに驚いた。
「どうだな、我がコックの腕前は」
目の前に並べられた豪勢なフランス料理を見て、圧倒された所へ、米村鉄太郎が訊いた。やはり、専属コックを雇っているらしい。警備員がダイニングの門に立っている。警備ご苦労様、と一声掛けたくなる。
「はあ、結構ですね」
これは皮肉などではない。圧倒されて、それしか言えなかったのだ。
「それよりも家族を紹介して下さいませんか?」
豪遊するためにこの米村邸へ足を運んだ訳ではない。〈貴婦人の涙〉を見つけるため
にこの豪邸へ足を運んだのだ。
「右から、妻の真澄」
洒落たドレスを着込んだ貴婦人は恭しく一礼した。気品溢れる口許や、ぱっちりと大きな目、色白の肌はどれをとっても伯爵夫人の典型だ。私も釣られてお辞儀する。
「次に息子、鉄治」
控え目だが、趣味の好い服装をしている米村鉄治は数学学科の大学生である。決して笑わないような厳しい表情は間違いなく父譲りのものである。結構な美青年だ。
「宜しく」
にこりともせずに、米村鉄治は言った。
「こちらこそ」
私は微笑を浮かべ、挨拶した。
「次に娘の飯田幸代とその夫、飯田正臣(いいだ まさおみ)君」
二人同時にお辞儀をした。飯田幸代はどことなく人を見下すような目付きをしている。もっとも、このような家庭環境では仕方のない事かもしれない。と私は思った。しかし、気品溢れる真赤な口紅でその目付きも少しは和らいでいるように思われる。
一方、その夫の飯田正臣は米村鉄太郎と同じ雰囲気を醸し出している事から、どこかの会社の重役なのだろう。もしかすると、これは戦国時代に好くやられたような政略結婚かもしれない。
「次に住込で働いている芸術家、横山大(よこやま まさる)君だ」
横山大は不精髭を生やした四十じみた男で、髪もぼさぼさである。顔は赤ら顔で、一般的に言う「芸術家」の様相だ。絵は勿論の事、石膏で彫刻を掘る事もするそうだ。
「ここにある絵は皆、彼が模写したのよ」
飯田幸代は解説してくれた。
「ルノアール、セザンヌ、マネ、モネ・・・」
恐らく芸術家の名前なのだろうが、生憎、皆知らない。しかし芸術家の名前など知らなくても絵の美しさは解るつもりだ。風景画などは割と好きである。抽象画(ルビ:キュビズム)は全く持って理解不能なのだが・・・。
飯田正臣がステーキにナイフを入れながら、
「ちなみに有沢さんは風景画、抽象画どちらがお好きですか?」
「絵には余り感心がありませんが」
突込んだ質問をされると答えられないので、そう言った後、
「風景画ですね」
「ミレーの『落ち穂拾い』はお好きでしょう」
ミレーと言う画家も、『落ち穂拾い』という作品も知らなかったが、風景画家なのだろう。とりあえず私はうなづいた。
「ええ。まあ・・・」
「印象派の画家は許せる範囲ですか?モネの『睡蓮の咲く庭』等がそうですね」
モネと言う画家もその作品も好く解らないので、幸代のその質問には答えられなかった。ずっと沈黙を守ってきた、米村鉄治がようやく口を開いた。
「ところで有沢さんは、この中に犯人がいるとお考えですか?」
私は微笑して、はい、と答えた。
「外部からの侵入は極めて困難です。と言う事は内部犯に決まりです」
「成程」
と答えるだけで、また黙々とナイフとフォークを動かし始めた。給仕が次の料理を運んできた。私は礼を述べると、一同は妙な顔付きで私を見た。
「しかし、どうやって持ち出したのですか?」
正臣はそう訊いた。
「犯人は持ち出していないと思います」
一同は何を言っているのだ、と言った表情で私を見つめた。
「有沢さん。それはないかと思いますよ。この屋敷内は探し尽くしました」
鉄治が嗤うのを堪えている様子で、そう言った。
「では、まさかアクアマリンが気化したとでも?」
「い、いや、そうではありませんが・・・」
「外部から持ち出す事はこの屋敷の防犯システムを知っているあなた方なら、いかに困難かお解りでしょう」
「確かに」
とうなづいて見せたが、まだ納得の行かない様子で鉄治は、
「しかしどこに隠したと言うのです?」
「この屋敷の中です」
それを聞いた芸術家はホールに響くぐらいの大声で嗤った。
「これは傑作だ。この屋敷の中にだと?本気で言っているのか?」
私は落ち着き払って、はい、と答えた。
「ちょっと、横山さん」
正臣が窘めるように言ったが、横山はそれを無視し、
「小僧、池もさらったし、タイルも一枚一枚、全てひっくり返した。でも、見つからない。これ程大捜索を行ったのだ。探していない場所はあるか?」
「あるから見つかっていないのです」
私は落ち着いて答えた。
「僕の読んだ推理小説の中には、動物の体内に拳銃を隠した、と言うものがありましたし、韓国では実際に指輪を飲み込んで隠した、という事例もあります」
「お言葉ですが有沢さん、それはないと思いますわ」
米村真澄が発言した。
「医師を呼んできてレントゲン検査を行いましたの。結果、見つかりませんでしたわ」
「そうでしょうな」
私は言った。レントゲン検査も当然予測出来た。
「でも、犬の体内からはどうでしたか?」
「メイドに糞を調べさせたが見つからなかった」
米村鉄太郎が言った。
「ふうむ・・・」
私は唸った。しばし考えた後、
「僕の方からも質問させて下さい」
反応がない、と言う事は質問しても構わないという事だろうか?私はしばし迷った後、
「それで、〈貴婦人の涙〉が盗まれて一番得をするのはどなたですか?」
「父以外の誰もが得をするはずです。あの〈貴婦人の涙〉は相当な額になりますので」
米村鉄治が正直に言った。
「一昨日の九時から五時の間どこにいたのか教えて頂けますか?」
気を悪くしたように、幸代は
「私たちを疑っておられるのですか?」
「率直に申し上げて、そうです」
あからさまに嫌そうに、まあ、と彼女は言った。
「僕は現実的な男でして、幽霊は小説の中だけだと信じております」
「どういう意味ですの?」
「つまり外部犯でも内部犯でもないとすれば、幽霊の仕業としか考えようがない、と言う事です」
幸代は納得した様子を見せたが、不機嫌そうに、
「パーティに出席していましたわ。お母様とある会社の創立三十周年パーティですわ。朝九時に出発して、美容院に行ったりして・・・帰りは夜の八時でした」
私は真澄の方を向き、本当かどうか尋ねた。本当だ、と言ったのでアリバイは一応、成立した。
「正臣さんも同じパーティに?」
「そのはずだったのですが、部下から急に大事な用件・・・これは言えないのですが・・・で呼び出されまして」
「それは何時頃です?」
「八時頃です。PHSの着信履歴を見れば解りますが」
そう言って、私にPHSを渡した。この頃は携帯電話よりもPHSが主流だったのである。
「これは確実なアリバイですね・・・帰ってきたのは何時頃ですか?」
私は小型の機械を操作して、着信履歴を見た。確かに八時〇二分となっている。十二時頃だと答えた。
「おや。十一時頃に真澄さんから電話が掛かってきていますね」
「ああ、それですか」
米本真澄は微笑して答えた。
「私たちでパーティは何とかするから、ゆっくり休養するよう言いましたの」
優しい心遣いだと私は思った。こう言った屋敷の人間は大概、お互い憎しみあっているのが常である。もっとも私と言う客がいるので仮面を被っているのかもしれないが。
「従って、正臣さん、あなたには・・・」
微笑して、ないと答えた。
「次は鉄治さん」
「僕は数学のレポートを書いていましたよ」
彼は憮然として私の質問に答えた。
「ではアリバイはない、という事ですね」
私は微笑して言った。はい、と相手も肯定した。
「次に横山さんはどこにおられましたか」
「絵を描いてた」
憮然として、芸術家は言った。
「従ってアリバイはない」
「そういう事になるな」
冷ややかに横山は言った。今までのアリバイ調査の結果を簡単に纏めるとしよう。真澄と幸代はアリバイがあった。アリバイがない人は、芸術家の横山大、大学生の横山鉄治、そして会社で仕事をしていたが十二時頃戻ったという、飯田正臣だ。内部犯には違いないのだ。しかし、隈無く探し回った、というのも間違いないだろう。私は呟いた。
「犯人は一体、どこへ宝石を隠したんだ?」
私は鉄治の部屋を探し回って、屋敷内をきょろきょろしていた。何せすこぶる広い屋敷だ。私の家の何倍だろう、と考えるのは気が滅入るだけなので止めておくが、とにかく前述したように部屋がいくつもある。更に悪い事には、米村鉄太郎は大富豪にありがちなドケチな性分らしい。廊下の蛍光灯は全て落としてある。幽霊屋敷のように不気味だ。
「おや、どうしたのですか?有沢さん」
後ろから突然、声がした。驚いて振り向くと、米村鉄治だった。丁度好かった、と私は思った。
「ああ、鉄治さん」
私は急に声を掛けられたので、心臓が高鳴っている。中世ヨーロッパの騎士の甲冑が置いてある薄暗い廊下で声を掛けられたら、いくら神経の図太い人間でも誰だって私のような反応を示したに違いない。
「びっくりさせてしまいましたか。僕もあなたに用があったのですよ」
鉄治が私に用があるとは実に意外だったので私は再び、驚いた。
「僕に・・・ですか?」
「ええ。ちょっと思い出した事がありまして・・・」
「事件に関わる事ですか?」
私は鉄治と歩きながら、そう会話をした。ある、という答えだった。
「ほう」
私は驚きの声を漏らす。
「ここが僕の部屋です。さあ、どうぞ」
ノブを回すと、広い部屋が見える。鍵穴があるのに施錠しないとは不用心だと思った。
「鍵を掛けないのですか?」
鉄治ははい、と答える。そしてメイドを呼ぶための呼び鈴を鳴らした。
「外部からの侵入は・・・有沢さんもお解りでしょうが、極めて困難です」
「まあ、そうですね」
「訪問販売等は時々、やってくる事がありますが、警備員が母に名刺を渡し、許可が下りるまでは絶対に、侵入は不可能です。おまけに警備のしっかりしている、居間で話し合います」
「しかし、現実に盗難事件は起きています」
私はナイフのように鋭く言った。その時、扉をノックする音が聞こえた。お入り、と言って客を中に通す。メイドが一礼して、
「鉄治様、何かご用ですか?」
「コーヒーを一つ。それから、有沢さんは・・・」
「じゃあ僕も同じので」
「好きな銘柄とかあります?」
モカ、と私は答える。
「じゃあ、モカとキリマンジャロで」
「かしこまりました」
とまた恭しく一礼をした。まるでホテルのルーム・サーヴィスのようだ、と私は思った。
「それでですね」
メイドが出ていくと鉄治は声を潜めた。
「盗難事件は父の自作自演ではないか、という感じがするのです」
「いや。ありえませんね」
私は鋭く言った。
「そうだとしたら僕を呼ぶ理由がありません」
「義兄さんの提案なんです。有沢さんの所にお願いしたらどうか、というのは。ですから何かの理由で自作自演して、収拾が着かなくなった」
「前にもそのような事・・・つまり鉄太郎さんが自作自演をした事はあったのですか?
」
大富豪の息子は重々しく首を振った。
「いえ、ないですね。でも僕たちは〈貴婦人の涙〉を実際には見てないのです」
「写真は?」
ない、と答えた。
「ふうむ・・・」
「さっき、有沢さんが『宝石が気化したとでも?』と言われたのを聞いて、もしかしたら、と思ったのです」
「成程、始めからなければ見つかるはずもないですものね」
その時、メイドがコーヒーを運んできてくれた。私はメイドに礼を言うと、コーヒーをすすった。
「しかし、その説はどうかと思いますが・・・」
「何でです?」
数学が好きな証拠だろうか、自分の説を否定された事をむしろ喜んでいるような口振りだ。
「鉄太郎さんがそのような事をする根拠がありませんね」
「そうですよね」
数学好きの男はうなづいた。私はモカのカフェインで脳を刺激した。コーヒーの苦みが口一杯に染み渡る。私は何気なく辺りを見回した。高木貞治の「代数的整数論」、吉田耕作の積分に関する著書等、私にとって実に興味深い本が並んでいる。
「本棚の調べましたよ」
じっと見つめていた鉄治は素気なく私に言った。
「ちなみなこのポスターの裏もね」
コーヒーカップを持って洒落た女性の映っているポスターの前に歩み寄った。そして、画鋲を外すと丁寧に机の上に置いた。まるで宝物を扱うかのような手付きでポスターを捲った。恐らく芸能人のポスターなのだろうが、その人物が誰なのかは私にはさっぱり解らなかった。
「ほら、何もないでしょう。まあ、とっくに父が探していますが」
成程、と私は呟いた。
「ではこの部屋も隈無く探されたんですか?」
「そりゃあ、もう」
うんざりしたように、鉄治は言った。父親を失望している様子が目からありありと窺えた。
「プライバシーも何もあったものではありませんでしたよ」
苦笑しながら鉄治は言った。私は黙ってコーヒーを一口飲んだ。
「そうですか」
私は呟いた。
「これだけ探してもないと言う事は、やはり僕の言った最初からなかった、という推理ではないのでしょうか?」
いや、と私は答えた。
「頑固ですね、あなたも」
不快に思ったのではないらしく微笑して、鉄治は言った。
「僕は〈貴婦人の涙〉はこの屋敷内にあると信じております」
「ではどこに隠したのですか?」
まるで議論でも楽しむかのように、相手は言った。
「それがこの事件の極めて興味深い点なのです」
私はそう言うと、残っていたコーヒーを飲み干し、
「失礼します。これから正臣さんの所と、横山さんの所へ行かなければなりません」
FILE6、芸術家
私は嗤われた手前、横山を訪れるのは後にしようと心に誓っていた。しかし飯田正臣が今、手が離せない、と言うので、渋々横山から訪れる事にした、と言う訳だった。
私は深呼吸して、「横山」と書いた部屋を二回ノックする。半年前、高校に「通って」いた時、職員室の扉をノックする時と同じ感覚に襲われた。屋敷と私の通っていた高校の構造が好く似たせいもあるかもしれない。
返事はなかった。私は自室に戻って考えを纏めるか、不法侵入を試みるか二つに一つだと考えた。しかし考えを纏めるには、まだ情報不足だったので悪いと思いながらも勝手に部屋を捜索する事にした。ドアノブに手を掛けると、何の抵抗もなく開いたので容易く入る事が出来た。最新式の錠だったので、もし施錠されていたらどうしようかと考えていた所だったのだ。
「失礼します」
そう呟きながら、入る。油絵具の臭いが鼻を突いた。どうやら窓から見える夜景を描こうとしていたらしい。キャンバスには白い画用紙に、ラフな輪郭が描かれている。その他には自分で作ったとみられる石膏像や木彫りの彫像等が所狭しと並べられており、まるで高校の美術準備室を思わせる部屋だった。
カーテンと窓は開いており、外には横山大の姿が見えた。何やら、庭に植えてある花を触っている。あの花を描いていたが、どうしても質感が表現出来ず、とうとう現場まで赴いたのだろうと私は考えた。その証拠に、デッサンには何度も消した形跡がある。
「何だ?この部屋」
奥に部屋があるのを私は見つけて、呟いた。ドアノブを捻ると、鍵が掛かっていなかったので、中に入る事が出来た。中に入ると、ひんやりとした冷気が私を包み込んだ。寒さのため私は、ぶるぶると水に濡れた犬のように身体を震わせた。
「どうやらここは乾燥室らしいな」
私は呟いた。肩がぶつかって壊れでもしたら大変なので、私はその部屋には足を踏み入れなかった。それに半袖シャツの上にウィンド・ブレーカーを羽織っただけの今の状態でこの部屋を探したら凍死してしまうかもしれない。
私は寒かったので急いでこの扉を閉めた。寒さのせいだろうか、まだ悪寒がした。
「帰ったら、台所まで言って何か温かいものでも貰おう」
と呟き、この部屋も当然捜索したのだろうと考え、手をつけなかった。花を摘み取り、屋敷へと引き返す美術家の姿が窓から見た私は、これ以上の長居は禁物だと考え、そそくさとその部屋を後にしたのだった。
FILE6、飯田正臣
「そりゃ、もちろん横山さんの部屋も探しましたよ」
飯田正臣はデスクトップ・パソコンをタイプする手を止めて、椅子を回しながら言った。
「乾燥室もですか?」
はい、と飯田正臣は肯定した。
「ですから、この屋敷内で調べていない所はないと思います」
「ふうむ」
私は呟いた。犯人にとって鉄太郎氏が〈貴婦人の涙〉を預かる、と言う事は予想だにしなかったはずだ。従って前もって隠し場所を確保しておくのは不可能だ。しかも拳骨大と、かなり大きい。
「この部屋も当然、隈無く探されましたわ」
飯田幸代も補足した。
「でしょうな」
考え事をしていた私は素気なく言い返した。
「もし、この部屋をお調べになりたいのでしたら僕たちは拒否しませんよ」
同調を求めるかのように、視線を彼の妻によこす。彼女もうなづいた。
「ええ。そのために有沢さんはいらしたのでしょう?」
「ふうむ、身体検査はなさったのですね」
飯田幸代は勿論、と言う。
「メイドも、警備員も父と母がしましたわ」
やはり、と私は思った。レントゲン検査をする位だから、当然、身体検査も予想出来た。
「ふむ」
私は考え込んで呟いた。また身体の中に隠し持っていた、という一つの可能性が消去されたのだ。
「幸代さん」
私は正臣の隣の椅子に座っている、幸代に声を掛けた。
「パーティ会場からここまでどの位ですか?
「そうですね・・・」
と思い出すように虚空を見つめた。
「大体三十分位ですわね」
「一時間以上席を外された事は」
「ないですわね」
馬鹿な考えね、と言いたそうに唇を微かに歪めた。実際、私の〈貴婦人の涙〉はまだこの屋敷内にある、という説は彼らにしてみたら馬鹿げているのかもしれない。屋敷内は隈無く探した。しかし、見つかってはいない。だとしたら外部に持ち去られたと言う考えの方が自然ではなかろうか?
「第一、妻には犯行は無理です。運転手兼執事の門脇さんがいないと屋敷には帰れませんよ」
と飯田正臣は妻を庇うように補足した。私はふと、郵便で送ったらどうか、という考えが頭を過った。
「ここ二、三日に小包を送られた事は?」
「ありませんわ」
「誰も?」
飯田幸代はええ、と澄まして答える。
「第一、私にはアリバイがありますわ」
「アリバイなんていくらでも崩せますよ」
私は言った。一見、確かなアリバイがあるかのように見えても、クロフツや鮎川哲也の作品のように簡単に崩れる事がある。
「でも私は犯人ではありませんわ」
飯田幸代は微笑して言った。
「私が犯人です、と言う犯人は聞いた事がありませんね」
「第一、妻が犯人だとして、宝石はどこに隠したのです?」
それが問題だ、と口の中で言った。屋敷内に探していない場所はないように思える。まだ解答が出ていない私はさり気なく話題を転換した。
「ところで横山さんはいつも部屋に鍵は掛けていらっしゃるのですか?」
「常に時は掛けています。誰か入ったとすれば大変、怒るのです」
成程と私は相槌を打った。すると私が忍び込めたのは偶然だと言う事か。
「すみませんが、有沢さん」
と大変申し訳なさそうに飯田正臣は言った。
「僕、これから仕事をしなければいけませんので」
私は長居した事を詫びると、激励の言葉を述べ、極力音を出さないように退室したのだった。
幕間~読者への挑戦状~
「ダイヤモンドの実態は炭である」これは私が浅香萌に言った台詞だ。このように、一見、複雑そうに見える問題でも外観に捕らわれずにものの本質を追究すれば、あっけない位に簡単な場合がある。
さて、賢明なる読者諸君よ。この事件の本質を突いて、事件を解いてくれたまえ。誰が犯人で〈貴婦人の涙〉はいかにして厳重な捜索を潜り抜けたのか?
FILE5、隠し場所
私は再び、横山大の部屋をノックした。誰だ、とドアの向こうから不機嫌そうに怒鳴ったので、
「有沢です」
やや怯えて名乗るが、何を怯える必要があるのか、と言い終えた後で思った。今度は彼が不在ではなかったので、私は安心した。彼に用事があるので、再び肩透かしを食らったのでは仕方がないのだ。
「探偵の小僧か。何の用だ」
「宝石の隠し場所が解りましたよ」
私は微笑して答えた。
「そして盗んだ人物も。いや隠した、と言った方が正確かな」
「馬鹿馬鹿しい」
ドアの向こうで芸術家は毒突いた。
「一体、どこに隠したと言うのだ?この屋敷内で探していない場所はない」
横山の口調からして私の事を欝陶しいと思ったのは明らかだったが、大声を出すのが嫌だと思ったのだろう。鍵を開ける音が聞こえた。私は遠慮なく中に入った。
「失礼します」
と私は言った。まだ、職員室に入るような気がして緊張してしまう。中に入ると絵具などが散乱していた。コーナーには彼の絵、石膏像、彫刻などが丁寧に並べられ、小さな美術館に来たと錯覚したほどだ。横山は寒いのか、コートの襟を立てて画板に向かっていた。窓は開けっ放しで風が吹き込んでいる。半袖にウィンド・ブレーカーを羽織っただけの私は肌寒く感じた。
「それで何の用だ?」
横山は背中を私に向けたまま、答える。突然、しかも仕事中に訪問した私も私なのだが、横山の態度には、晩餐の事と言い、気分を害した。しかし、私は冷静に、
「解ったのですよ。犯人も隠し場所も」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりに芸術家は言った。
「好いか?小僧、もう一辺言う。この屋敷内で米村たちが手を付けていない場所はないのだ」
芸術家は凄みを効かせて言ったが、私は微笑して、いいえ、と言った。そう、死角があるのだ。
「それが、あったのですよ。あるから見つからなかった」
横山は絵を描くのを一旦、中止し、挑戦的に言った。何という花だろう・・・私には解らなかったが黄色い花が画板の側に置いてあった。恐らくデッサンしていたのだろう。
「ほう、どこだ、そこは」
「解りませんか?」
私は微笑を浮かべて言った。苛々した様子で、解らん、と言った。
「まさか隠し部屋があるのだ、と言うのではあるまいな」
横山はギロリ、と目玉を私に向ける。私は思わずからからと声を立てて笑ってしまった。
「そんな馬鹿げた事は申しませんよ」
焦れったい様子で、芸術家は、
「小僧、見りゃ解るだろうが俺は今、忙しいんだ。てっとり早く言ってくれ」
お望みとあらば、結論を言おうではないか。
「あなたの制作された石膏像の中です」
「ほう」
無表情に横山は言った。しかし、冷静に聞こえたその声もどことなく動揺している感じがした。私は下手な字で「乾燥室」と描いてある扉を見つめた。
「流石にあなたの作った石膏像を壊す訳にはいきませんからね」
内心は凄く興奮していたが、私は落ち着き払って言った。無言のまま、鉛筆を握っているその手は震えていた。私は更に厳しく追求した。
「そして、この犯行をやってのけられたのは、あなたしかいませんよね。いつも施錠しているのですから」
芸術家は、動揺を抑えながらも、
「俺の部屋に誰かが忍び込んだのかもしれない。宝石を隠すためにな」
私はありえない、とぴしゃりと言った。芸術家がその理由を尋ねると、私は答える代わりに廊下へ続く扉に向かって歩き出した。
「この鍵は最新式です。正臣さんの証言によると、鍵を掛けない時はないそうで」
つまり複製や外部からの侵入は不可能だと言う事だ。私はその事を芸術家に言った。私は深呼吸をして、
「石膏像の中に簡単に隠せた、と言う事からも犯人は横山さん、あなたしかいないのです」
私は微笑しながら言った。数分間、彼は私を見つめていた。窓から吹き付ける風が、まるで雀の巣のような芸術家の髪を揺らす。私は微笑して、
「違いますか?」
おもむろに芸術家は立ち上がると、まるで自分の作品が気に入らないかのように石膏像を床に叩きつけた。凄じい轟音の末、六つ目に壊したナポレオンを形取った石膏像から宝石は出てきた。辺りはまるで雪でも積もったかのように石膏で白くなった。
急激な運動のせいだろうか、肩が上下している。息も喘息患者のように荒いし、顔も少し赤い。彼は手近にあったコーヒーをひったくるように掴み、飲み干した。芸術家は〈貴婦人の涙〉をまるで、ゴミか蛆虫でも見つめるような目付きで、
「こんなもの、なくなってしまえば好い」
興奮が収まると、憎々しげに呟く。まるで悪戯をして、それが見つかるはずのないと思っていた子供があっさりと親に見破られたかのような口調で言った。
「でも、どうして俺が犯人だと解ったんだ?」
そして、横山は続ける。
「俺は小僧、お前を遠ざけようと屋敷は全て捜索し尽くした事を強調した」
「鉄治さんも繰り返しありえない、と仰られていました」
私は下を見つめ、呟くように言った。出てきた〈貴婦人の涙〉は、美しく煌めく碧い星のようだった。美しいカーヴを描き水滴の形にカットされている。
「しかし、僕は捜索されてない場所がある、と思ったのです。それはどこか?庭はないだろうし、部屋の引出もありえない。探そうと思っても探せない場所に隠したと言う結論に達しました」
もし、本当に屋敷の中を全部捜索したならば、見つかるはずである。しかし見つかっていない、と言う事は探していない場所があると言う証拠なのだ。
彼は黙ってうなづいた。私は続けた。
「あらゆる可能性を考えて、完全にありえない事柄を消去していけば最後に残ったものがどんなに途方もない事でも真実である・・・これは僕の持論なのですが、この場合に当てはめてみると、最後に残るのが石膏像なのです」
「消去方という訳か」
彼は呟いた。窓からの風が私と芸術家の髪を揺らした。窓から吹き抜ける風が机に残った石膏像の破片ら(ルビ:かけら)を吹き飛ばす。丁寧に手入れが行き届いた庭の木々がざわざわと揺れた。
FILE6、横山の回想
街往く人々を見つめ、横山は「はぁ」と短い溜息を吐いた。下手な字で「似顔絵描きます。一枚五十円」と書いてあったが、置いてある笊(ルビ:ざる)は五十円玉が五枚程度しか入っておらず、空に近い。辺りは赤くに染まり、時計は・・・と言っても近くにある床屋の時計をひょいと見ただけなのだが・・・四時半を指していた。
「そろそろ店仕舞だな」
彼は忌ま忌ましげに呟くと、段ボールに書いた“看板”と絵具、デッサン用の鉛筆を鞄に仕舞うと、やつれた表情で近くの安アパートへと帰っていった。とぼとぼと歩く若い絵描きの姿を夕焼けが赤く照らし出していた。
翌日もまた三百円程度の収入しかなかった。もうそろそろ空腹も限界だ。コンビニエンス・ストアのアルバイトでもするか、と考えていたその時、
「私の絵を書いてくれぬか」
と話し掛けてきた男がいた。その男はどことなく威圧感があり、何人もの人を召し抱えている身振りだった。隣の秘書らしい男が、
「社長、このような男に書かせなくても・・・」
社長と呼ばれた男は、その忠告を無視し、椅子にどっかと座った。足を組んでいるその姿は横柄な感じである。
「馬鹿。こう言う無名画家の方が気付かれないだろう」
椅子に座った。そして秘書の忠告を画家に気付かれないように、厳しく小声で非難してやると秘書はそれっきり黙ってしまった。
「お客さん、お名前は?」
絵筆をしきりに動かしながら、横山は訊いた。客を飽きさせないようにするための技だった。
「米村」
「かなり儲かっているようですが、お仕事は?」
「この辺りで画商をやっていてな」
男は嘘を吐いた。遠くで車のクラクションが鳴った。
「だから人材発掘、と言ったところだよ」
微笑しながら米村と名乗った男は言った。しかし彼の真意は自己破産申告が相次ぎ、会社が傾いているのを回復しようとミレー、ゴッホ、絵の複製を議員等、絵の価値が解らず、懐の豊かな連中に高く売りつけようという魂胆だった。
「ちなみに絵だけではなく彫刻とかはやるのかね?」
横山はこれが面接ではなかろうかと、緊張した。米村はそれを察知したのか、
「あっ、いや。これは世間話だと思ってもらえれば好い」
「はい、少々」
米村のその台詞にほっと安心したのか、リラックスして言った。街往く人々は横山と米村を興味深げな目で見ていた。
「この絵に俺に人生が掛かっている、頑張らなければ」
と心の中で呟いた。そう思うと絵筆を握る絵にも力が入る。
「お客さん、出来ましたよ」
平静を装いつつ言うが、一生貧乏暮らしか、それとも画家として幸先の好いスタートを切るのかの境目なので、かなり緊張している。
「ふむ」
横柄そうに足を組み直して、言った。
「好く描けているな。鼻のラインと目元がイマイチだが・・・、時間の制約があるとこうなってしまうのも無理はないだろ」
その米村に指摘された部分は横山自身、不出来だと自覚していた。従って、画商だけあって、かなり目利きの利く男だと認知したのだった。
「どうだ?うちに来ないか?」
米村はパレットと絵筆を見つめ、そのような汚い道具では上手い絵も下手に見えてしまうと言った。
「という事は・・・」
「うむ、好く書けている。うちで雇おう。とは言っても、最初は複製の仕事ばかりだけど好いかね?」
若き芸術家にとっては願ったり叶ったりだったので、思わず叫び声を上げた。
「それから俺は十七年間、複製を描き続けてきた」
「つまり、彼の罠に見事にはまった訳ですね」
私・・・つまり有沢翔治、は言った。
「しかし、だからと言って、〈貴婦人の涙〉を盗む事などなかったのでは?単にガツン、と『もう俺はあんたの操り人形ではないのだ』と一言言ってやれば・・・」
しかし横山は私の言葉を遮った。
「それが出来なかったから苦労したんだ!拾ってもらった負い目もあったしな」
「細やかな反抗だったのです・・・か」
私は呟くように言った。
「しかし、さっきの口調だと〈貴婦人の涙〉に怒りを感じているご様子でしたが・・・」
ふっと短く笑って、
「内緒だ、小僧。お前の頭脳で解いてくれ。もしくは永遠の謎、という事にしておくか」
私は微笑して、
「永遠の謎にしておきますよ。人の過去を探るのは余り好きではありませんので」
横山は微笑して礼を言った。
「さて、どうする?俺を米村に突き出すか?」
煮るなり焼くなり好きなようにしてくれ、と言いたそうな顔付きで言った。
「いや・・・。僕は宝石を見つけてくれ、と頼まれただけですので」
私は微笑して言った。羽織っただけのウィンド・ブレーカーの裾が風になびく。私は〈貴婦人の涙〉とともに横山の部屋を出て、こっそりと米村の部屋に向かった。ノックして不在である事を確認すると忍び込んだ。そして角に置いてある米村の黒い鞄の中に宝石を滑り込ませた。
数十分して、米村が帰ってきた。
「宝石は見つかったのかね?」
「それが、どうしても見つかりません。だから、この部屋にないかと確かめに来たのです」
不快そうに鼻を鳴らした。
「何度も言っているように・・・」
「お鞄は探されましたか?」
私は米村の鞄に視線を注ぎながら言った。無論、と米村は言った。
「もう一度好くお探し下さい」
米村は渋々、鞄の中をまさぐり探し始めた。数秒後、あっと声にならない声を上げて、まるで彫刻のように固まった。
「信じられん。これだ」
そして、一体、どうやって見つけたかを尋ねた。それには答えず、私はホームズを真似て、
「僕にも外交上の秘密がありましてね」
この作品はいかがでしたか?
一言でも構いませんので、感想をお聞かせください。