音符に隠された遺産

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FILE1、暗号

 以前どこかで書いたと思うのだが、私は「推理倶楽部」というホームページのチャットに出入りをしている。このホームページへの参加条件は「推理小説が好きあれば誰でも参加可能」と言う割とラフな物である。
 ただし、推理小説の核心に触れる発言はしないといいう当たり前の条件以外の条件としては「自分の気に入っている作家の名前をハンドル・ネームに含ませる」と言う珍しい物がある。
 私はシャーロック・ホームズやエラリイ・クイーンなどの古典から黄金期にかけての作家がを愛読しているのだが、中には私の嫌いな西村京太郎や内田康夫愛読者もいる。
 そう言うチャットで私はいつものようにモカを飲みながら、「亡国のイージス」等、最近のミステリーについて楽しく談笑していた。
「あっそうそう。〈ホームズ〉」
 〈ホームズ〉と言うのは私のハンドル・ネームだ。時々、赤川次郎の「三毛猫ホームズ」が由来かと勘違いされる。
 〈スペード〉に画面上で「呼びかけられた」私はすかさず何か用かとタイプする。彼は〈スペード〉と言って、好きなジャンルはハンドル・ネームからも解るようにハード・ボイルドだ。私はハード・ボイルドには余り詳しくないのだが「長き別れ」、「マルタの鷹」等、有名所は一通り読んでいる。ちなみにオフで会った事があるのだが、髪を銀色に染め、目付きの鋭い、小説の中に出てくるサム・スペードのような男である。
「何々?」
 横から〈有栖〉が口を挟む。彼女――自分では二十一才の女と名乗っている――は有栖川有栖ファンで、「月光ゲーム」がお気に入りなのだそうである。私も読んだが、完成度が高い作品として私も好きだ。
「〈ホームズ〉は本格派が好きだったよな?」
 何故急に、と訝りながら、私はその通りだとタイプする。
「なら」
 と彼は発言し、
「暗号とかも好きか?」
 私は「暗号」という一言に反応した。何せ私にとって「密室」、「暗号」、「不可解な事件」は正に猫にマタタビなのだから。
「好きだよ」
 私は思わずエクスクラメーション・マークを五つも付けてしまった。
「興奮するなよ」
 笑いながら・・・と言ってもチャットなので「(笑)」と言うマークを語尾に付けているだけなのだが・・・〈有栖〉が言う。
「それでどう言う暗号なの?」
 私は暗号が解ける喜びにニヤニヤと顔を綻ばせながらタイプした。傍から見るとさぞかし異様な光景だったと思う。
「うーん・・・。チャットだと言いにくいな」
 私は公開するのを憚る程重大な暗号かと思った。〈有栖〉もそう思ったらしく、
「私、出ていこうか?」
 と提案した。そう言う問題でないと〈スペード〉は告げた。
「いやいや、暗号が特殊でちょっとやりにくいんだ」
「特殊?」
 私と〈有栖〉はほぼ同時に発言した。
「その暗号って言うのは、文字じゃなくて音楽だから」
「音楽の暗号・・・」
 私はモカを飲みながら呟いた。
「そりゃ、確かにチャットじゃ公開しにくいわな」
 と〈有栖〉。
「じゃあ、二人とも明日開いてるかな?」
 〈スペード〉が待ち合わせの発言をした。私はカレンダーを見て、日曜だと言う事を確認した。
「私は構わないよ。日曜だし」
 〈有栖〉はそうタイプした。私も開いていたのでその旨をタイプした。私は名古屋で〈有栖〉は三重産業大学に通っているため、三重に下宿している。一方、〈スペード〉は長野だが限りなく愛知よりである。つまり、車で行けば一時間弱と、そう大した距離はない。事実、私を含めるこの三人は結構、会っていた。

FILE2、奇妙な遺書

 翌日の朝、私は車の中で〈スペード〉の車の中で暗号の事について話していた。私は推理小説の中で用いられる暗号を置換暗号等、百五十種に分類し、それについてのちょっとした論文も自分のサイトに出しているのだが音声による暗号は初めてだ。
「もっと詳しく話を聞かせてよ」
 私は暗号の入手経路について話を聞かせてもらう事にした。
「うん、一週間位前に俺の伯父さんがなくなったんだ」
 身内の死を淡々と語るその口振りと、小説のサム・スペードがパートナーの死を悼む様子もなく「死んですっきりした」と言う場面と重なった。
「それで、俺もよく解らんだけど、美佐子義姉さん・・・これは俺の従姉だが・・・に突然、伯父さんが死んだから、友達を一人連れてこいと言われたんだ。俺も実は、暗号の中身についてはしらない。しかし、音楽の中に隠されているって義姉さん言っ てた。それで伯父さんの別荘で身内一同、集まると言う訳よ。と言っても俺と義姉さ んと義兄さんしか呼ばれてないらしいが」
 手書きの地図を見ながら向かっている所を見ると、彼もその暗号が発表される場所 へ行くのは初めてらしい。
 長野山中をうねうねと蛇のように曲がりくねったみちが続く。そして、「ギリシャ 館」と称される屋敷に着いた。アーチには知恵の女神、アテナの像が置かれていたし、まるでパルテノン神殿を移築したような建物を見ると「ギリシャ館」と呼べるのもうなづける。庭には、噴水とオリーヴの木があり、ギリシャの庭園そのままである。
「ほへー」
 私と〈有栖〉はしばらく魅入っていたし、当の〈スペード〉さえ煙草に火を点けるのを忘れて、呆然としていた。
 とそこへ中から〈有栖〉と同年代の女性が出てきた。彼女は髪に軽くウェイヴを掛け栗毛色に染めている。肉付きが好く、長身で活発に車を乗り回していそうな女性だ。真赤なワン・ピースにオリーヴの葉を型取ったブローチをしている。
「政義君」
 〈スペード〉はくわえていた煙草をポケットに押しやり、恐らく従姉と思われる女性に手を振った。
「ああ、お義姉さん」
 私たちを見回し、この人たちは、と尋ねた。
「ん?俺の友達だよ」
 私たちはその女性に挨拶した。
「ところで伯父さん、こんなものを建ててたんだな」
「ええ・・・、お父さん、私たちに何も知らさなかったから。ただ、古代ギリシャの建築についての本を多量に買って来た時は私も変だな、位には思ったんだけどね」
 どうやらこの建築物は家族にも秘密で建てたらしい。
「ささ、お友達も中へ」
「は、はあ・・・」
 リビングの内装は至ってシンプルだった。長方形の大理石で出来た机に木の椅子が六個あるだけ・・・。どうやら金も内装の方になると底を尽いたらしい。壁にはギリシャ神話の各名場面を描いたモザイク画が掛っている。
 このモザイク画の内容が物語の本筋と大きく関わっているので一つ一つ取りあげていく事にしよう。トロイの木馬で有名なトロイ戦争、ミノス島でのイアソンのミノタウロス退治、ギリシャ神話では最初に火を与えたとされているプロメテウス、決して開けてはならないと神に言われたにも関わらず箱を開けてしまったパンドラの匣、ペルセウスのメドゥサ退治、そしてヘラクレスの十二の仕事の絵がある。
 〈有栖〉と私はそのモザイク画の素晴らしさにしばし魅入っていた。絵の事は全く無知な私だが・・・実にピカソも知らないのだ・・・素晴らしい絵は素晴らしい。
「どう?気に入ってくれたかい?」
 髪を七三に分け、丸縁の眼鏡を掛けた、小男が訊いた。丸々と子豚のように肥っており、こう言っては大変失礼だが、周りの温度が一度は上昇するだろう。黄色いトレーナーとジャージを履いている。
「に、義兄さん。義兄さんも呼ばれてたの?」
 〈スペード〉が驚いたように訊いた。
「ああ、親父の下らん暗号遊びにな」
「それで、その暗号というのは・・・」
 小男は・・・後々、解った事だが名前は菅原尚之と言うらしい・・・テープを私に渡した。今時、テープとは古風な。
「あ、あの・・・。僕、テープレコーダー持ってきていないのですが・・・」
「それなら、私の部屋にあるのを使いなさい」
 先程の女性・・・〈スペード〉の話だと菅原美佐子と言う名前だそうだ・・・が優しく言った。私は礼を言った。そして、彼女が取ってくるテープレコーダーを私は丁重に礼を言った。そのテープをセットして聴く・・・。ザザザザというノイズ音の後、
「美佐子、政義、尚之・・・。こんな事もあろうかと遺産を少し残しておいた。ただし、遺産のありかは一分後位に流れる音楽の中にある。その前にルールを説明しなければならない。まず政義、お前は立会人・・・できれば法律に詳しい人間・・・を長野のギリシャ風建築に連れてこい。次に美佐子、お前は政義と尚之に儂が死んだ事を伝えるんじゃ。そして、尚之、お前はこのテープを美佐子の所へ持って行くのじゃ」
 しばし間があって、再び、
「では、ルール説明に移る事にしよう。遺産は現金で九百万程ある。ただし隠し場所は儂しか知らぬ。最初に暗号を解いた者が全額手にする事になる。もし三人が共同で解けば三百万づつ手に入るし、立会人が最初に解いたとしたら、九百万全額、彼・・・または彼女・・・の者になる。半日経っても解けなかった場合は、全額、古代オリエント文化研究委員会に寄付するものとする」
 要は私は立会人として招かれた訳だ。そして、しばらくしてギリシア風音楽が約一分間に渡って流れた。
「どう思う?」
 流れ終った後、〈スペード〉こと菅原政義が訊いた。
「変な遺書だね」
 私は第一印象をそう述べた。
「そういう事じゃなくてさ。遺産のありかだよ」
「まだ何とも言い難いけど面白そうじゃないの」
 私は興奮しながら言った。
「受けて立つよ」
「しっ、まだ何か言っているわ!」
 〈有栖〉が遮った。
「・・・・音符は儂の書斎の引出だ」

FILE3、譜面

 私は自慢ではないが高校の音楽の成績は二だった。そのため、モーツァルト等のクラシック音楽を聴く事は好きでも譜面の上のオタマジャクシを読む事は出来ない。幸い、故人の部屋に音楽関係の書籍と〈有栖〉に訊いて何とかオタマジャクシを解読する事が出来た。
 故人の部屋で見つけた音楽関連の書籍で私の目に止まったのは、階名だ。ずっとバッハの「小フーガト短調」の「ト」は何であるかずっと疑問だったのだ。どうやら階名と言うのがあり、「ドレミファソラシ」の代わりに「ハニホヘトイロ」と言う日本の音階があるらしい。〈スペード〉にこの事を話すと、
「下らん」
 と言って一蹴されてしまった。どのくらい経っただろう?楽譜の読めない私たち三の苦心した成果は紙三枚以上にも及んだ。五線譜に並べられたオタマジャクシを音階にするのには大変な苦労だった。〈有栖〉が突然、
「階名よ!」
 と叫んだ。〈スペード〉は
「階名?」
 と鸚鵡返しに訊いた。
「そう、さっき〈ホームズ〉が言った階名」
「僕が言ったハニホヘトイロ?」
 私は彼女の言っている事が好く理解出来ず、訊き返した。
「そうよ!」
 と力んで、
「つまり、この音符を階名通りに読めば・・・」
「〈有栖〉、悪いけどそれは無理だな」
 〈スペード〉が言った。私も同感である。
「どうして?」
 私は試しに読んでみるよう促した。彼女はリズムを付けて、
「えーと、ハニヘ、ニヘ、ハニヘ、ハ。ニホハニ、ニホハニ、ニホニホ、ハハニハ・ ・・」
 最初は自信満々だったが、最後の方になると、段々弱気になった。
「なっ?意味通じるのは最後のハハニハぐらいだろう?」
「でもアルファベットでやったら」
「アルファベット?」
 私は鸚鵡返しに素頓狂な声で訊いた。彼女は書籍を指差し、
「ほら、ここ」
 私は指を差された所を声に出して読んだ。
「英語圏の国ではC・D・E・G・A・Bで表記される」
「うん、だからこれで英語作れないかな?」
 一応母音はAとEの二つある。しかし、英単語で思い浮かべることが出来るのは「虫(ルビ:バグ)」、「難聴の(ルビ:デフ)」、「死んでいる(ルビ:デッド)」、「悪い(ルビ:バッド)」・・・、こんな貧弱な語彙でどうやって文章が作れるというのだろうか?第一、やってみれば解る事だが、文章にはならない。
「望み薄し、だね」
 私は答えた。執拗く彼女は階名に拘っているようであるが、「拘る」という事は漢字からも想像出来るように考えを「拘」束しかねない。〈スペード〉は
「ハニホヘトイロから離れようぜ」
 と煙草を更かしながら言った。
「うん。そうしようか」
 煙草の煙が苦手な私は煙を手で追い払った。

FILE4、使われている音符と使われていない音符

 〈スペード〉は革製の黒いジャンパーから安物の紙煙草を取り出した。そして、煙草に紫色の百円ライターで火を点けた。本日三本目の煙草。これが彼の考える時のスタイルらしい。スペードの隣にあぐらをかいて考えに耽っていた私に、煙草の嫌な臭いが鼻を突いた。しばし、私は暗号に集中していたがごほ、ごほと余りの辛さに喘息持ち患者のように、とうとう咳き込んでしまった。煙草と言う物を吸った事がない私にとって、その煙はかなり辛かった。
「あっ、悪い。煙草の煙、苦手か?」
 私は肯定した。
「うん」
「なら、早くそう言えよ。ハンドルの割には煙草苦手なんだな」
 茶化すように彼はそう言った。確かに、私の最も尊敬する探偵で、私のハンドルの元にもなっている、シャーロック・ホームズはかなりのヘヴィ・スモーカーで、煙草の煙で部屋がまるで霧のようになっていた、という記述も見られる程だ。しかし、私とホームズは別であり、彼の足下にも及ばないと思っている。
「んじゃ、俺、外で吸ってくるわ。ついでに探索も兼ねて、な」
「アクティヴだねえ」
 私は「まず、この暗号を解け」と言う意味を込め冷やすつもりで、その台詞を言った。しかし、〈スペード〉はけろりとして、親指を立てて
「任せろ、サム・スペードはいつも行動派だ」
 と言って〈スペード〉は書斎を出ていった。
「とにかく、暗号、暗号、この暗号を解かなきゃ始まらないんだから」
 〈有栖〉は自分に喝を入れるかのようにそう言ったのが聞こえた。「聞こえた」と表現したのは私という人間は一つの物に集中していると時を忘れて考えてしまう性分なのだ。しかも、かなり大声で言われるか、身体を揺すられるかして始めて気付く始末だ。 「ん?ああ」
 と私は五月蝿く思いながら生返事をした。その後、数分間はしばらくお互いじっと黙って・・・無論、音楽関係の書籍のページを繰りはしたがそれ以外は何もしていない・・・暗号を睨んでいたが、やがて、あっと声を上げた。
「どうしたの?」
「見て見て、この音符、ドレミファしか使ってない」
 私はそのような事、暗号を写した時点で気付いていたので、
「その事か」
「気付いてたの?」
 〈有栖〉は私に言った。私は返事をするのが面倒だったので、首を縦に振った。
「なんだ」
 と、さも残念そうに言った。私はそれを無視したのだが〈有栖〉は執拗く話し掛けてきた。どうやら集中力が切れたらしい。
「ねえ、ギリシャ音楽ってドレミファしか使わないの?」
「さあ?」
「だって日本の音階ってファとシが抜けているでしょ」
 私は肯定した。
「だからそれと同じようにギリシャ音楽も何か使わない音があるんじゃないのかな?と思って」
「聞いた事ないな。そこにギリシャ文化事典と言うのがあるからそれ見なよ」
 ギリシャ神話をよく読む私でも流石にギリシャの音楽の事までは知らない。壁にあった本棚を指差しながら、言った。ギリシャ文化事典は広辞苑くらいの大きさで、かなり重たい。
「どれどれ・・・」
 私は音楽、と言う事項を引いてみた。
「オメガ(註:Ω、ω。ギリシャアルファベットで最後の文字)、オルフェス(註:ギリシャ神話に出てくるハープの名手)、あった、音楽」
 私はそれを黙読した。どうやら、三つの説に別れているらしい。一つは「社会契約論」の著者、ルソーが唱えた「言語起源説」と呼ばれるもので、歌はアクセントや言葉の抑揚等が起源だと唱える説。恐らく、興奮して声が裏返ったりした時等が起源だと言う物だろう。
 もう一つは「進化論」のチャールズ・ダーウィンが唱えた「異性吸引説」で、カラスが求愛の時期になると高い声を上げ、雌を引き付ける行動と同じなのだと書いてあった。
 三つ目はタイラーと言う者が唱えた「呪詛起源説」と言うものである。これは古代の人々はアミニズムと言って火、樹木、天地、そして河川等あらゆるものに霊が宿っていると信じてきた。例えば地震が起こると大地の霊が怒ってるのだと考えた。それを鎮めめるために音楽が出来たのではないかという説だ。
 私が中でも意外に思ったのは三平方の定理で有名なピタゴラスが私たちが使っている音階を完成させたという事である。他にも歴史だとか様々な事が書かれていたがこの話は本筋にあまり関係ないので省く事にしよう。
「へー」
 一緒に本を読んでいた〈有栖〉は感嘆と感慨が混じった声で言った。
「でも、この本によると、古代ギリシャには七つの音階がちゃんとあった事になるわね」
「うん」
「だったらどうして、ド・レ・ミ・ファしか使わなかったのかしら」

FILE5、地下室の冒険

 「ねえ、この館不思議だと思わない?」
私は〈有栖〉に言った。彼女は苦笑しながら、そもそも〈スペード〉の伯父が変であると意見を述べた。
「僕が言いたいのはそう言う事じゃなくて・・・この屋敷本当に彼の伯父住んでいたのかな?って事」
「どう言う事?」
 私は指を見せた。彼女はその指を訝しげに眺めた。
「それがどうかした?」
「埃だよ」
 そう言えばそうだ、と言う顔付きで彼女は言った。
「でも・・・、どうしたの?」
 私は腰を上げ、本棚の前に立つと、〈有栖〉に目線で本棚を見るよう指示した。彼女は何なのよ、と言いたそうに私を見つめた。やがて億劫そうに立ち上がると、私のもとに歩み寄ってきた。そして、うんざりしたように
「何なの」
「この本棚変だと思わないか?」
「変って?綿埃が溜ってるみたいだけど」
「それが変なんだよ」
「あっ!」
 私はにやりと笑って、
「気付いたようだね」
「でも・・・生活していない事と何の関係が?」
「生活しないのに時計は必要かい?」
 私は辛抱強く言った。彼女はしばらく考えて、ない、と言う。
「そう・・・。そしてこう言う時のセオリーとして・・・」
 と言いながら私は時計の針をぐるぐると回した。六の所まで長針が来ると、ガタンと時計が落ち、隠し通路が現れた。まるでルパンシリーズのお手本のような仕掛けだ。私は固唾を飲んだ。
「行こう」
 大理石の階段はひんやりしていた。おまけに薄暗く、〈スペード〉のライターがないと、とても危険だったので一先ず、彼を呼ぶ事にした。
 十分もしないうちに、彼は見つかりライターを灯して薄暗い階段を下りていった。コツン、コツンと私たちの足音だけが谺した。他に耳にするものは何もない。
「おっと、ここで行き止まりみたいだぜ」
 〈スペード〉はそう言うと、立ち止まった。
「確かにそうだ・・・、一本道だったよね」
 私も戸惑いを隠せずに言った。
「うん」
 〈有栖〉も私に同調する。
「行き止まり・・・なのか?」
 〈スペード〉が困惑した様子で言った。彼にしてみたら私が、あの音符の暗号を解き、ここに行き着いたと信じてたに違いない。そして、あの奇妙な遺言通りに行けば四百五十万を手に入れる事が出来るのだから。しかし、あの従兄姉も同じ事を考えているだろう。
「そうみたいだね」
 さも、残念そうに〈有栖〉。
「ちょっと!」
 〈有栖〉は鋭く言う声が暗い地下室の中で谺した。男二人が地下室内を呼び合って〈有栖〉の位置を確かる。目は慣れてきたが暗いため、ほとんど盲目の状態に等しい。頼りになるのは〈スペード〉のライターのみだ。
「風来てない?」
 そう言えば・・・、足の冷たいものが吹きつけるのを感じる。
「まだ地下があるぞ!」
 〈スペード〉の叫び声が地下室内に反響した。それはマンホールくらいの小さな蓋だった。三人とも屈み込む。ライターを私が持ち、照らした。大理石の蓋には、琴座のオルフェスが妻を取り戻すために冥王、プルートに謁見している場面が描かれていた。〈スペード〉が持ち上げると、いとも簡単に開いた。
「何だか、わくわくするね」
 〈有栖〉がそう言うと私も同調する。
「でも何だか、あの絵、意味あるのかしら」
「ここが冥界への入口っと事じゃないか?」
 からかうように彼は言った。
「やだー、気味悪い」
 嫌がるように言ったが、それは本心からではなく笑いながらだった。私は唇に人差指を当て、静かにと言うジェスチュアをした。
「どうしたんだ?」
 〈スペード〉が言った。
「いや、余り騒ぐなって言う事」
 彼は不服そうに解ったと言った。薄暗い中騒ぐのは危険だ。
「待って!」
 一斉に足音を止めた。
「どうしたんだ?」
 〈スペード〉が今度はお前か、と言いたそうな口調で言った。これ以上引き止められるのはうんざりした様子だ。
「誰かの足音、聞こえない?」
 そう言われて、しばらく耳を済ました。しかし、薄暗い地下室内はひっそりと不気味な静けさが当たりを支配している。
「そうか?」
 と〈スペード〉。私は足音が反響しているだけではないかと言った。
「そうかなあ」
 何となく落ち着かない素振りで後ろを気にしながら〈有栖〉が言った。
「そうそう、気のせいだって」
 〈スペード〉は言った。
「そんなに心配なら俺、見てくるわ。〈有栖〉を頼む」
 そう言い残し、ライターの火とともに消えてしまった。辺りは夜のような真の闇に包まれた。ただ聞こえるのはコツン、コツンと階段を上がる〈スペード〉の靴音だけ。まやがてそれも途絶えると、本当にここは地獄ではないかと思う程だった。
 やがて、上の方から、大理石の冷たい床を靴音が響いてきた。それから灯りが見え、それの灯りが徐々に大きくなっていく。やがて紅い百円ライターを持った〈スペード〉が現れ
「誰もいなかったぞ」
「そう・・・」
 偵察に行かせて申し訳なさそうに、彼女は言った。
「〈有栖〉の思い過ごしだよ」
 私は優しく言った。もうしばらく階段を歩くと灯りが見えた。大広間のようなのような場所で入口には三つ頭があり首に蛇が巻きついている犬の蝋人形があった。冥界をイメージしたらしく、まるでヨーロッパの王侯貴族が座る椅子が置いてあり、そこには蝋人形のプルートがいかめしい面構えで座っていた。
 コーヒー・テーブル程の木の机には、モザイク画で見たの場面と同じ場面が今度は金細工で再現されていた。一応、読者諸君のためにここに書いて置くと、トロイ戦争、プロメテウスの火、ミノタウロス退治、パンドラの匣、メドゥサ退治、ヘラクレスの話が再現してある。どれも見事で九百万の価値は充分にあるだろう。私たち三人とも、その金細工の繊細さ、優美さ、神々しさ、そして美しさに見とれていた。
 そして机の上の一通の手紙――

 美佐子、尚久、政義、あるいは見ず知らずの方へ

 楽譜の暗号が解けたからここにいると思う。さて、暗号の示す場面の金細工を取りたまえ。ただし間違ったものを引くと、上の扉が閉まり、ここからは出れないだろう。

 〈スペード〉には悪いのだが彼の伯父は気が狂っているのだろうか、と私は考えた。このような事をするなんて気違いの仕事としか思えない。
「お、おい。大丈夫なのか?」
 〈スペード〉が慌てふためいた。
「俺はまだ暗号なんて解いてないんだ」
 その問いに私はにっこり笑って、
「ああ、余計なものを見ずにこの暗号に集中出来たから解ったよ」

幕間~読者への挑戦状~

 古代ギリシャ人は発想力が豊かで、夜空に浮かぶ星を見ながら、琴座のオルフェス等の悲しい物語を生み出した。私は実に彼らは想像力が逞しいと思う。さて、その古代ギリシャ人並の優れた発想力を持って、暗号を解読し、どの金細工を取れば好いのだろうか、当てて頂きたい。

FILE6、真打ち

 私はどう言おうか考えを纏めるために、冷たい大理石の床を歩き回った。私はまず真打ちに出てきてもらおうと考えたので、
「まず」
 私はくすくすと笑った。
「そこに隠れている尚久さんと美佐子さん、出てきて下さい」
 〈スペード〉は心底驚いたようだ。電気で打たれたかのように身体を震わせた。
「何だって!?義兄さんと義姉さんが?」
「そうだよ」
 と私は鋭い声で言った。
「そして、尚久さんか美佐子さんどちらか一方が煙草を吸う事も解っているよ」
「あ、ああ。義姉さんが煙草を吸うけど・・・」
 そんな事がどうして解るのかと言いたそうな表情で、彼は私を見つめた。
「何、簡単な事さ」
 私は笑いながら言った。
「ライターだよ」
 〈有栖〉は面食らったように私を見つめた。そして訝しげに眉を寄せ、
「ライター?」
 と鸚鵡返しに訊いた。
「正確にはライターの色、とでも言った方がいいのかな?ほら、僕たちが書斎で見た〈スペード〉のライターの色は緑だったよね?」
 〈有栖〉はそうだったかしら、というように首を傾げた。
「覚えてないけど・・・」
 確認を取るために私は〈スペード〉にそうだったよね、とアイ・コンタクトを送る。彼はうなづいた。
「でも、今は紅いライターだ」
 彼は今気付いたらしく、自分の持っているライターをしげしげと眺めた。薄暗いこの地下室なので、気付かなかったのも無理はない事だろう、と私は考えた。
「という事は俺らの他に誰かいる、という事か・・・」
「そう言う事」
 と言い終えて、私は心の中で少し自嘲した。というも折角、〈有栖〉に恐怖心を抱かせないように配慮したのに、私自身がその事を当の本人に話してしまったのだから。
「どうして話さなかったの?」
 〈有栖〉は私に言った。
「そんな事・・・」
 私は言葉を切って、肩を竦めた。そして一呼吸おき、
「女の子を怖がらせたくなかっただけさ」
 と幾分、自嘲気味に言った。
「でもいつ擦り代わったの?」
 〈有栖〉は私の心中を察したのか、それとなく話を別方向に持っていった。〈有栖〉のさり気ない優しさに私は感謝した。もし浅香萌だったら、自嘲する必要はないと言ってくれるだろうが、それでは話が前に進まない。
 いや、その前に萌ちゃん相手なら、私はこの二人がついて来ている事をいうだろう、と私は考えた。恐らく殴り合いになれば、格闘技をやっている萌ちゃんにかなう者はいないだろう。また密室の扉を蹴破って入った事は七、八回はある。その彼女に戦闘体制に入ってもらうのだ。
 そのような事を頭の片隅で考えながら、
「恐らくライターを落としたのは上に偵察に行った時・・・それ以外に僕たちと離れた時はないからね」
 と言って、壁に目を向ける。ケルベロスの像の向こうに、影が揺めくのが見えた。
「さあ、お二人さん出てきて下さい」
 影が再び揺めいた。どうやら話し合っているらしい。私は促すように、
「あなたがたが出て来ないと始められませんよ」
 と私は言った。薄暗い中、人の輪郭が朧げに見えた。やがて顔形もはっきりしてくる。
「確かに尾行してたわよ。それは認めるわ。でも、それはあなたたちがいなくなって探してたからなの」
 そうよね、と確認するように美佐子は尚久を一瞥した。小男はおどおどした様子で、
「そうだよ。俺たちが書斎に入った時、この入口を見つけたんだよ」
「で、暗号が解けたって本当なの?」
 興奮を押し隠すように美佐子が言った。私は何かあるな、と思いつつも説明する事にした。

FILE7、解読

 「まず」
私は言った。〈スペード〉は高ぶっている気を落ち着けるためだろうか、煙草を吸いたくてうずうずしているようだ。その証拠に小刻みに指を動かし、腿の辺りをしきりに叩いている。〈有栖〉は目を輝かせて私を見つめているし、尚久と美佐子は焦れったそうに私を見つめている。
「問題の音楽はド・レ・ミ・ファしか使われていません。つまりソ・ラ・シは使われていないという事になりますね」
「当たり前じゃない」
 と美佐子は私を小馬鹿にするようにふふん、と鼻を鳴らした。私は些かむっとしたのだが、表情には出さず、
「この事と、ある事を知っていれば解けるのです」
「何よ、そのある事って」
 美佐子は挑むような目付きで私を見た。
「階名ですよ」
「な、な、何だい。そ、その階名ってのは」
 どうやら興奮すると吃る癖があるらしく、吃りながら尚久が訊いた。
「戦時中の言わば“日本版ドレミファソラシド”と思って下さい。ただしハニホヘトイロです。例えばドの音ならハ、レの音ならニという感じで考えてもらって結構です」
 美佐子と尚久は納得したように私を見つめた。
「でもどう関係するの?」
 〈有栖〉が皆目見当つかないと言いたそうに訊いた。私はそれには答えず、
「ハニホヘ、トイロ」
 と区切って言った。彼女はますます解らないよう顔付きをした。
「解ったぞ!」
 尚久が突然叫んだ。
「人の耳元で大きな声出さないでくれる?」
 美佐子が馬鹿にしたような口調で尚久に冷淡に言う。どうやらこの姉弟は折り合いが悪いらしい。
「悪い、でも思い浮かんだんだよ」
 興奮のせいと見て好いだろう、頬を紅潮させて尚久が言った。美佐子は大袈裟に溜息を吐き、
「何?」
 と訊いた。どうせ尚久の言う事なんて大した事ないと思っているに違いない。
「ハニホヘで、言葉を、作るんだよ」
 尚久は一語一語力んで発音した。そのために言葉が切れ切れになってしまったのだろう。私はやってご覧なさい、という視線を彼に投げ掛けた。
「ハハ、ハニ、ハホ、ハヘ。ハハハ、ハハニ、ハハホ・・・」
 全然言葉にならない。
「全然言葉にならないじゃないの、この役立たず」
 美佐子は嘲笑するような口振りで言った。
「いや、尚久さんは惜しい所いってますよ。大事なのは使われた音符でなくて、使われなかった音符なのです」
「つまり、トイロで言葉を作れって事?」
 〈有栖〉が確認するように私を見た。私はにやりと笑って、うなづいた。
「トイロ、トロイ・・・」
 私は目的とする「トロイ」という単語が出てきたので、手を挙げて遮った。
「トロイ・・・この言葉を聞いてなにか思い浮かびませんかね?」
 トロイ・・・、トロイ・・・と皆が何かの呪文のように呟いた。
「とろいのは尚久よ。この歩くコレステロール!」
 私はうんざりしながら美佐子を見つめた。どうやらまだ根に持っているらしい。ヘラのように嫉妬深い女性だ、と私は思った。
「トロイ戦争・・・」
 〈スペード〉が呟いた。
「そう、トロイ戦争だよ、〈スペード〉」
 私はにっこり笑って、
「インターネットをやっている人なら誰でも知っている、トロイの木馬の大元となった話だよ」
 私は身体を祭壇の方に向けた。
「紀元前一二〇〇に実際に起きた戦争をオデュッセウスが脚色した物語なんだけどね。ある時、ヘラとアテナ、そしてアフロディテが誰が一番美しいかっていうコンテストをやったんだ。審査員はパリスというトロイの王子様。でも、前日にアフロディテから『もし、私を選んだらギリシャ一の美女、ヘレーナを妃にしてあげよう』と言ったのね、今で言う八百長みたいなものかな。それで彼はアフロディテを選び、ヘレーナを見事、トロイにつれて帰るの。
 でも、彼女の義理のお兄さんを総大将とした大軍がヘレーナを取り返すために攻め込んできたの。嫉妬深いヘラに言い包められてね。でもトロイの城壁は堅くて中々、落ちない。そこでオデュッセウスの考えた兵士を乗せた巨大な木馬をトロイ側に講話の際の贈り物と偽って、プレゼントしたらどうかって言う作戦が見事成功して、トロイは陥落したという物語さ」
 その説明の間に私はゆっくりと祭壇に上がり、トロイ戦争をモデルにした金細工をつまみ上げた。何も起こらない。
「ほら、この通り」
「でも・・・よく解ったな・・・」
 〈スペード〉が私に言った。私は道化てシャーロック・ホームズ演じるウィリアム・ジレットの真似をした。
「初歩的な事だよ」
 私たち三人の哄笑が地下室に谺した。〈スペード〉が行こうぜ、というジェスチュアをしたので、私と〈有栖〉が踵を返した。その時を見計らってか、一発の銃声が轟いた。見ると美佐子と尚久が銃を構えて立っているのだった。

FILE8、危機

 従兄姉の豹変振りに〈スペード〉は何が起こったのか掴めず呆然とするばかりだったし、また〈有栖〉は怯えて震えていた。美佐子はふふふ、と薄ら笑いを浮かべた。
「ラッキーだったよ。政義君がこんなに頭の好い子をつれてくるだなんて。私と尚久が一日フライングして解けなかった暗号をたった一時間かそこらで解いちゃうなんてね」
 こうなる事をある程度予想していた私は、落ち着き払って。
「お褒め頂いて光栄です」
 と余裕の笑みを浮かべて言った。趣味で事件に首を突込む事からこうなる事も多い。そのため私はすっかり慣れてしまい、もう動じなくなっていた。
「さあ、渡すんだよ」
 私は金細工を心臓の所にまで持っていき、
「撃ちますか?狙いを外せば貴方が欲しがっているこの金細工は粉々ですよ」
 私は落ち着き払って言った。私には美佐子は撃ってこないという確信があった。それは彼女が欲しがっているのは金細工であって私の命ではないという考えに基づくものだった。
「それに尚久さん」
 私はまず、仲間を減らすために臆病な尚久を強気に攻める事にした。尚久は姉に無理矢理手伝わされている、という印象だ。足はがくがく震えている。
「な、なんだよ」
「その銃、モデルガンですよね」
 精巧に出来ており、薄暗い中では見分けがつきにくいが確かにモデルガンだ。
「ほ、本物の銃だぞ」
 声が震えている。犯人のこの動揺振りもまた楽しい。私は落ち着いた声で、
「そうですか」
 と言った。
「なら、撃ってみて下さい」
「う、五月蝿い」
 尚久が明らかに動揺していると解る声で言った。
「そうよ。さっさと渡せば好いのよ」
 私は一歩進んだ。
「僕をここで殺しますか?もしも僕を殺した場合、刑法一九九条殺人罪に問われ、三年以上・・・最悪の場合、無期懲役に問われます。しかし、今のままでは精々二二二条、脅迫罪に問われるくらいです。しかも僕たちが揉み消せますが、僕を殺した場合、そうはいきませんよ」
「な、なにごちゃごちゃ言ってやがる。お、俺たちにさっさと渡せ」
 動揺しながらも、尚久は言った。
「そうよ!さっさと渡しなさいよ!」
 美佐子の怒鳴り声が地下室に谺する。私は落ち着いて、
「どうやらお二方はこの金細工が二十四金、もしくは十八金だと信じていらっしゃるようですね。残念ながらこれはメッキですよ」
「えっ?」
 美佐子は嘘だろうと言うように唇を歪め、引き攣った笑いを浮かべた。尚久はメドゥサに睨まれたかのように石化してしまった。また〈スペード〉もこの金細工が九百万の価値があるものだと信じていたらしい。呆然と口を開いたまま、虚空を見つめていた。
「おかしいと思いませんか?五体の金細工を作るのに四千五百万かかりますよね。そうしたら、この屋敷を建てる資金がなくなってしまうじゃないですか」
「そう言えば・・・そうだな」
 美佐子と尚久は我に返ったらしい。
「さあ、出ましょう」
 と恥かしそうに言って、元来た薄暗い道を登っていった。地下室から出た時、私は眩しさに目を細め、久々の新鮮な空気を肺一杯に取り込んだ。
「ふう」
 私は新鮮な空気を吸い終わると、〈スペード〉と〈有栖〉を誘い庭に出た。噴水に腰掛けると〈スペード〉は、
「結局は幻だったのか・・・」
 私はそれでも好いではないか、と言った。
「まあな」
 〈スペード〉は言った。私は落ちていたオリーヴの葉を拾い上げた。そして、手で弄びながら、
「それに僕に取っちゃ、それなりに価値のある暗号を解かせてもらったしね」
 と言って噴水にオリーヴの葉を落とした。〈有栖〉は水に浮かぶ木の葉を見つめて、
「私思ったんだけど、〈スペード〉たちはお金には代えられない大切なものを手に入れたと思うよ」
 陽の光を受け、きらきらと噴水は輝いていた。
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