Lの悲劇

THE STUDY ROOM FOR DETECTIVE STORY/自作小説/Lの悲劇

Lの悲劇

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 死体が一瞬にして消える。例えば、煙が上がった瞬間、あったはずの死体が影も形もなくなっていた。これらは私のような不可能犯罪の“美食家”たちに取ってみれば、正に至上の味わいである。
 さて、今回語ろうとしている事件も読者諸君の舌を満足させてくれるに違いない。

プロローグ

 髪が白くなりかけている初老の男が、ベッドに横たわっている。顔に刻まれた皺は彫刻を連想させ、また、その程よく肥った身体付きは熊のようである。喘息持ちだろうか、時折、咳をしている。彼の名は有名マジシャン、キング・リアである。正に彼のマジックはキングの名に相応しく、大胆なものだった。彼の手に掛れば巨大なエスエルすら消えてしまう。
 そのベッドの傍らには三人の女性が立っていた。ブロンドの髪が魅力的なすらりとして、百八十センチメートルは祐にある背の高い女性のゴネイル・リアは彼の長女だ。よそいきの紅いドレスで着飾っていて、胸には蝶のブローチが飾られている。
「私もそろそろ長くはないようだ」
 老人がそう言うと、ゴネイルは甘美な声で、
「そんな事、仰らないでお父様。お父様にはまだまだ、ファンの方が多くおられるのよ」
 と流暢な日本語で言った。
「いや、今度の長野公演で引退する事に決めたよ」
 また咳き込む。ゴネイルの隣にいる門下生の里元千絵(さともと ちえ)が、水を差し出した。マジシャンは礼を言って、脇に置いた。彼女はわざわざパリから取り寄せた今、流行のドレスを着ている細面の日本的な女性だ。
「それでな、遺言を今のうちに書いておこうと思ってな」
 里元は笑って、
「嫌ですよ。先生。遺言なんて縁起でもない」
 ゴネイルもそうだと笑ってうなづいた。
「いや、私はもうそういうふうに決めたのだ。さあ、ゴネイルから何が欲しいか言ってみよ」
「急に言われても・・・・。そうですわ。このお父様が立てたお屋敷が欲しいですわ。家を守るためにも」
 解ったとばかりに大きくうなづいた。
「千絵君、君は何が欲しい?」
 門下生は驚いたように、
「ええ!私なんか貰って好いんですか?」
 家族と一緒の付き合いをしたのだから当然だと言った。
「じゃあ、トリックノート下さいます?先生の素晴らしい手品を絶やしたくはないのです」
「おお、君は相変わらず勉強熱心だな」
 と感激したように言った。
「最後に里奈。お前は何を望む」
 養子の項出里奈(こうで りな)は茶髪にピアスを付けている。
「あ?何もいらねえよ」
 と言って、里元の汲んできた水に煙草を投げ入れた。じゅっと音がして灰で水が黒くなる。ゴネイルが激怒した。
「里奈!なんてことするの!千絵さんに謝りなさい」
 里奈はゴネイルを睨んだだけで謝ろうとはしなかった。そして、機嫌悪そうに彼女は扉を荒々しく閉め退室した・・・。

FILE1、世紀のイリュージョニスト

 薄暗いホールの中、舞台が明るく照らし出されている。舞台の上には箱があり、今、美女がその箱に入って行った。そして覆面の男が、箱に剣を貫通させた。私はこの好くあるパターンのマジックならテレビで何回も放映されているのを見てきたと思いながら見ていた。そして無傷の美女が出てくると・・・。
「さあ、傷一つございません」
 わっという歓声とともに拍手が巻き起こる。私はワン・パターンではないかと少々呆れて拍手をした。
「どうだ?解ったか?」
 西口警部が肘で私の方を突く。どうやら、警部はこのマジシャンと高校時代一緒だった。それで、現役の警察官なら種を見破れるだろうと思って、とある賭けをしたらしい。賭けと言っても夕食をおごる程度らしいのだが。
「俺も意地だからな。刑事としての面子が掛ってる」
 真面目くさった表情で彼は言った。私は呆れて、
「はいはい」
「それで、楽屋を見せて頂けると言うのは本当なんですか?」
 萌ちゃんが目を輝かせて訊いた。男に二言は無いと警部は胸を張る。
「以上、かのキング・リア氏の愛弟子である里元千絵さんのマジックでした」
 司会者がそう言った。黒いドレスのマジシャンは恭しく一礼すると、割れんばかりの拍手を浴びながら舞台を後にした。
「さあ、いよいよ。トリでありながら、今世紀最大のイリュージョニストと謳われているキング・リア氏のご登場です」
 割れんばかりの拍手喝采が巻き起こる。怪しげな音楽とともに、熊のような体躯の男が出てきた。年は六十前後だろうか、頭は白髪混じりの頭である。
 指で誰かを呼ぶとブロンズの髪をしたヨーロッパ系の女性が巨大な檻を引っ張って出てきた。そして白い布が被せられる。マジシャンは指をパチンと鳴らして、布を取った。
「えっ?」
 これには私も度胆を抜かれた。なんと、虎が消えてしまったのだ。美女はくるりと檻を一回転させた。しかも、虎は後ろの舞台の袖から颯爽と姿を見せたのだ。どうやって消したと言うのだろうか?
「おい、解ったか」
 西口警部が言う。
「最初の人間切断は解りましたけど、虎の瞬間消失は全く・・・」
 それだけで好いと彼は明るく答える。
「頭役と足役の二人の女性が入っていたのですよ。しかし、あの瞬間消失のトリックは解りません」
 司会者がキング・リア氏に拍手をするよう求めると、私は心から拍手を送った。私は奇術のタネを考える事が大好きでなのである。マジシャン側にしてみれば実に迷惑な趣味だと自覚しているのだが、不可能と思われていたものが可能になると解った時の喜びはない。
「最後に、団長のキング・リア氏にインタビューをしたいと思います」
 そして止めるのは本当かと燕尾服の司会者が英語で尋ねると、リアは日本人顔負けの流暢な日本語で肯定した。
「本当です。手品のように颯爽と、とは行きませんが、私はステージから消えます」
「何でお止めになるのですか?」
 手品師は喘息が酷くなったと答えた。流石のイリュージョニストも自分の病気は消せないらしい。後継者は誰にするのかという質問には、じきに正式発表があるとだけ答えた。
「では、最後に盛大な拍手を」
 と司会者が言うと、大きな拍手がホール内に谺した。

FILE2、警部の旧友

 私は幅が狭い古いホテルの廊下を歩いていた。今にも切れそうな蛍光灯と木の軋む廊下は夏の夜に来たとしたら、絶好の肝だめしスポットになるに違いない。このホテルは経営が成り立っているのだろうか?しかし、この公演で宿泊客がかなりお金を落として行ってくれるだろう。
 今、私たちが見た、奇術団はそこそこ名の知れたグループらしく、遠くは沖縄や、北海道から観に来ているという。
 私たちはT字に曲がった廊下を左折した。突き当たりの部屋に「King Lear Masic group 里元千絵、文香様」と書いてある。キング・リア・マジック・グループと言うのが彼らのグループ名らしい。
「里元、俺だ。西口だ」
「はあい」
 意外と若い、恐らく私とそう変わらない年代の声がした。警部に部屋を間違えていないかとアイ・コンタクトを送る。扉を開けてみて驚いた。そこには私と同じ位の若々しい女性が立っているではないか。確か、相手は彼の高校時代の同級生ではなかったのか?
「部屋、ここであってますか?」
 萌ちゃんが心配そうに訊いた。その視線を見てか、若い女性は、
「西口さんですね?母から伺っております」
 何だ、娘さんか。道理で若いわけだ。
「娘・・・さん・・・」
 警部がやっとの事で声を絞るようにして、出した。きっと生き写しなのだろう。
「それで文香さんは?」
 文香。それが警部の旧友の名前らしい。
「母はじき来るかと・・・」
 コツコツと高い足音が聞こえてきた。ほら、というように里元は私たちを見る。やがて、扉が開かれる。
「あら?西口君、久しぶりね」
 人懐っこい笑顔の里元文香は、さも懐かしそうに言う。そして、警部の隣に腰を下ろす。
「千絵、紹介するわ。この人が名うての刑事、西口令士君よ」
 警部は大袈裟な紹介に照れ笑いを浮かべながらも、始めまして、と言うように会釈をした。
「この人たちは?」
 私が自己紹介すると、警部の旧友は訝しげな目付きで、
「まさか、教えてもらったんじゃ・・・」
 この女性は鋭い、と笑いを抑えるのに私は必死だった。
「まあ、いいわ。取り敢えずタネは解けたの?」
「おう。実は二人いて、足役と頭役に別れてたんだろ?」
 私の言った答えではないか、と私は思った。恨めしそうな視線を警部に送るが、警部はそ知らぬ顔で胸ポケットからラークを出して吸い始めた。 「警部。正直に白状したらどうです?」
 私はにやにや笑いながら言った。警部に少し意地悪をしてやろうと思ったのだ。警部は慌てて何の事だと言う。
「僕の力を頼った事ですよ」
 里元は思っていた通りだと言う顔をして、
「やっぱりね」
 警部はラークをホテルの灰皿で揉み消すと、おもむろに立ち上がった。そして白々しくこう言う。
「さあて。俺はこの辺で・・・長居しちゃ悪いしな。おい、帰るぞ」
 そして、立つようジェスチュアで示した。
「逃げる気ですか?」
 私は笑いながら言った。
「待ちなさい、西口君!」
 警部は居心地悪そうに座ると渋々事情を説明した。
「高校の追試以来ね」
 里元夫人が言うと警部は慌てて、それは言わない約束だろうと言った。途端に皆が大笑いする。
「あんパンおごってやったのを忘れたのか?」
 けちくさいと私は些か呆れてしまった。
「いいじゃない。もう二十数年も経ってるんだし。時効よ、時効」
「何の科目をカンニングしたんですか?」
 萌ちゃんが鋭い質問をする。
「数学、物理、化学・・・」
 面白そうに、里元夫人が言う。
「俺は文系なんだ」
 警部は面白くなさそうに言う。
「でもその割には英語、二だったじゃない」
「外国の言葉なんてどうでもいいんだ」
 不機嫌そうに警部が言った。そして、このストレスを発散しようとしてか、胸ポケットをまさぐる。やがて、皺くちゃになった紅い煙草の箱を取り出すと、口に銜え、ライターで火を点けた。
「じゃあ、警部の得意科目は何だったんですか?」
 私は笑いながら言った。
「体育」
 と煙草を口に銜えたまま言った。典型的な腕白坊主である。警部はゆっくりと紫煙を吐き出した。しばらく警部の高校時代について語っていると、ノックの音がして、胃潰瘍にでもなっていそうなサラリーマン風のが入ってきた。彼は雰囲気からしてマジシャンではなさそうだ。しきりにハンカチで額の汗を拭っている。
「ああ、紹介するわ。キング・リア・マジック・グループの広報担当兼マネージャーの田中貴文さん。こちらは私の古い友人で愛知県警殺人課の西口令士君」
 紹介を受けた中年の警部は挨拶をした。
「それで、何?」
 里元千絵が尋ねる。田中は黒いハンドバッグから手帳を取り出した。
「ちょっと、例の檻の仕組みが故障してしまいましてね。一日で直りそうもないんですよ」
 ほとほと困り果てた様子だ。例の檻とはあの瞬間消失に使われた檻の事だろうか?
「それは困ったわね・・・。今から演目を変更する訳にはいかないし・・・」
「そうなんです。どうしましょう」
「とにかく、今から来て下さい」
 マジシャンは承諾して、狭い廊下を走っていった。
「大丈夫かしら?」
 彼女の母親も心配そうに娘の後ろ姿を見送った。
「私も心配だから様子を見てくるわ。西口君、この続きは夕飯食べながらにでもしない?奇術団のメンバーにも紹介しておきたいしね」
 そして夕飯の場所と時刻を告げると彼女も去っていった。

FILE3、七人の団員

 七時半になり、レストランに入った。里元が微笑しながら手を振っており、周りには数人の団員たちがいた。少し小走りに、私たちは里元に駆け寄る。
「空いている席座って」
 言われるがままに私は腰を下ろす。
「紹介するわ。私の旧友の西口さん」
 どうも、始めましてなどの声が団員たちから漏れる。
「それで、この隣の方は・・・」
「有沢です」
 私は彼女を遮って挨拶した。なぜならば、よく「有坂」だの「栗沢」だの、名前を間違えられるからだ。
「ああ、有坂さん」
 若い団員の一人が案の定間違えた。私はそんなに間違えられやすい名前だろうか?少なくとも有栖川有栖よりは複雑な名前ではないと思うのだが。
「有沢です。有る無しの「有」りにサンズイの「沢」」
「これは、失礼しました」
 彼は急いで謝った。里元は私の話が終わるのを見計らって、
「それで、団員は私含め、七名いるの」
 十五名はいるかと思っていた私だったので七人と聞いて意外と小さいと思った。
「左から順にキング・リア団長。世紀のイリュージョニストよ」
 熊のような体躯をしたリアはお辞儀をした。あの虎の瞬間消失を成し遂げた男だ。タネを訊きたくて仕方ないのだが、企業秘密だろう。仕方がない、自分で考えるとしよう。
「そして、その子供のゴネイル・リアさんと項出里奈さん」
 項出は私の苦手なタイプの少女だった。できるだけ関わらないようにしよう。彼女は挨拶もせずに安物の紙煙草から紫煙をくゆらせた。一方、ゴネイル・リアはキング・リアの助手として壇上に上がったブロンド・ヘアの女性だ。やはり、マジックには細身の女性が付き物だ、と私は思った。
「宜しく」
 と微笑んで挨拶した。
「次はカード・マジックの桜井隼人さん」
 桜井隼人という男はいかにも貴族のような優雅な男だった。色白で細面の顔には、気品を漂わせている。私の名前を間違えたのはこの男だ。
「でも、カード・マジックって舞台でやる時、どうするんですか?」
 萌ちゃんが彼に訊いた。私も彼女と同じ疑問を抱かずにはいられない。
「そう言う時は、客席からアトランダムに指定するんですが・・・」
「するんですが?」
 萌ちゃんが後を促した。
「サクラと間違えられるんですよ。ほら、私の名前、桜井でしょう?」
 流石、その場を瞬間冷凍させるとはマジシャンである。一瞬、警部は彼の顔を見上げたが、桜井が始めからいなかったかのように、黙々と料理に手を付ける。
「あ、あれ?」
 彼は自分の親父ギャグが滑ったのを不思議に思ったらしく、一同の顔を見回す。私たちは彼の仕草を無視し、なおも無言のまま食べ続ける。老キング・リアがぎこちなく空咳をした。
「客人たちよ。桜井君の行いを許していただきたい。場の雰囲気を好くしようとしただけの事じゃ」
 堅苦しく、いかにも英語の文章をそのまま、訳したという感じの言い回しだ。桜井は少し照れ笑いを浮かべる。貴公子という私のイメージが親父ギャグ一発で音を立てて崩れ去ったのだ。
「そう言えば、そちらのお嬢さんの名前を伺ってなかったような」
 老奇術師は優しい笑みを湛えて、言った。萌ちゃんは人差し指を自分自身の方に向けて、自分の事かとジェスチュアで私に問い掛けた。私はうなづくと、
「浅香萌です」
 と軽く自己紹介をした。
「もしや、有沢さんの彼女?」
 里元千絵がからかうように問い掛ける。私はまだ出されたビールを一口も飲んでいないにも関わらず、赤面しているのが自分でも解った。
「違います!」
 萌ちゃんは赤くなりながらも、剥きになって否定した。私はその様子を横目で一瞥して、些か残念に思った。
「本当かなあ?」
 訝しげな目線を私たちに送る。その半ば挑発的な言葉と目線に浅香萌はますます、顔を赤くした。
「本当です!」
 ここまで剥きになられると私の方も悄然としてしまう。
「そうなの?」
 今度は私の方に問い掛けた。
「そうです」
 私は何事もないように答えようと努めるのだが、どうも浅香萌の話になると声が弱々しくなってしまう。
「なんだ、つまらないの」
 その言葉とは裏腹に里元千絵はさも愉快そうに笑っている。私と萌ちゃん以外は声を立てて愉快そうに笑った。
「里元さん、悪い趣味ですよ・・・。人をからかうのは」
 田中がハンカチで汗を拭きながら言った。どうやら、彼女が私たちに失礼な事を言っていないかと冷や冷やしていたようである。
「あっ、大丈夫ですよ。僕も馬鹿騒ぎが好きですから」
 私は出された小ジョッキに入ったビールを一気に飲み干して、言った。ほろ酔い気分になって、好い気持ちになる。この琥珀色の液体で幸せになれるのだから、何という安上がりな事だろうか。
「それで日本へはいつ頃からいらしているのですか?」
「私は産まれてからずっと日本にいるわ」
 ゴネイルが言った。なるほど、道理で日本人のように流暢に日本語を話す事ができるわけだ。
「キングさんは?」
 警部が枝豆を片手に、言った。
「三十年位前じゃな。若い頃はドイツ、イタリア、フランス等でも公演を行っていたんじゃが、今は年老いたせいもあってか、日本から離れられん」
 と少し自嘲的な笑みを浮かべた。そして、ビールを一気に飲み干した。ゴネイルがそれを見てそのようなことはしないようにと注意した。
「お父様、ビールの一気飲みはお止めになって」
 しかし、その声には愛情など微塵も感じられず、上面だけのご機嫌取りのような印象を受けた。養子の項出はゴネイルを睨み付ける。
「何なの?言いたい事があるならはっきり言ってちょうだい」
 私たちの前と言う事もあり、多少声を抑えているようだ。しかし、彼女の言葉には多かれ少なかれ敵意の籠もった語調だった。
「別に」
 義姉とさも口を利きたくないような素振りだ。どうしてこうも、大富豪の子息たちは中が悪いのだろうか?そう思いながら、私はロースト・ビーフに口に運んだ。
「止めて下さい。お客様の前ですよ」
 田中が汗を拭きながらそう言うと、二人は口を噤んだ。マネージャーというのも実に気を使う職業だ。
「浅香さん?」
 気まずい雰囲気を追い払うかのように、ゴネイルが言った。鶏の唐揚に箸を付けていた萌ちゃんは急に呼ばれて驚いた様子でゴネイルの顔を見た。
「後で楽屋見に来ない?」
 とゴネイルに誘われた彼女は子供のようにはしゃいだ。
「わあ、好いんですか?」
 ゴネイルは微笑してうなづいた。
「有沢さんもいかがです?奇術師の楽屋なんてそう滅多に見れるものじゃありませんよ」
 私としても、例の檻の仕掛けがどうなっているか知りたかったのですぐに承諾した。
「ただし、奇術道具がおいてある部屋は見せられないから、衣装部屋だけで好ければだけどね」
 やはり、そう簡単には見せてくれないらしい。私は些かがっかりしたのだが、それでも好いと答えた。
「そういう事だから、今から案内してきますわ」
 彼女は父親にお辞儀をすると、私たちを楽屋に案内した。

FILE4、楽屋

 楽屋と言っても、ホテルの部屋の一室だった。洗面台には様々な瓶や容器などが整然と並んでいた。
「へー、意外と少ないんですね」
 萌ちゃんが並べられた化粧瓶を手に取って、言った。
「それに、どれも色の濃い化粧みたいだし」
「舞台で見えなくては意味がありませんので」
 とゴネイルが説明を加える。私はキャスター付きの大鏡に驚いて、何に使うのか尋ねた。
「全身像を映したい時に使います」
 衣装などを着る時に、全身像を映す必要もあるだろう。
「折畳、可能なんですか?」
 こんなに巨大な鏡を持ち運ぶのはさぞかし大変だろうと思ったので、訊いた。
「ええ、そうです」
 と彼女は折りたたんで見せた。高さが私の腰許くらいに縮まり、幅も半分の五十センチ程に縮まった。かなりコンパクトになったと私は感慨して、呟いた。彼女は元の大きな鏡に戻した。私はそれをしげしげと眺めた。
「いや、凄いものですね。継ぎ目一つ見えません。まるで手品を見ているようでしたよ」
 私はこの鏡に感服して言った。五秒掛ったか掛らなかったかで組み立てられるとは驚きだ。
「実際の手品ではお使いになるのですか?」
 萌ちゃんが訊くと、意地悪っぽく笑って、
「さあね」
 やはり、秘密らしい。
「あと他に面白そうなものは・・・」
 ゴネイルが思案深げに呟く。
「あ、こんなのは?」
 と言って洗面台から一つの小瓶を取り出した。私はグリム童話に出てくる魔女が使っていそうな妖しげな小瓶を見つめる。緑色のゼラチンのようにぷるぷると震えたその物質は何であろうかと私は好奇心に駆られる。
「何ですか?それ」
 萌ちゃんが息を飲んで訊く。青酸カリや砒素、シンナーの瓶なら見た事があるのだが、今、私の目の前にある物質は私が見たどの化学薬品とも異なっていた。ゴネイルは瓶の蓋を開け、私たちに渡した。
「何でしょう?」
 悪戯っぽく微笑みながら問い掛ける。私は臭いを嗅いだり、手の感触で確かめてみる。
「あっ、耐火ジェルだ」
 私は呟いた。
「当たりよ。これは脱出マジックに使う耐火ジェルです」
 例えば、火の点いた樽からの脱出という危険なマジックをやる場合、万一の事故に備えて身体に耐火ジェルを塗るものだとゴネイルは言った。
「塗ってみる?」
 ジェルを戻そうとした時、はっと思い出したようにゴネイルは私たちに尋ねた。萌ちゃんは辞退した。やはり気味が悪いらしい。私は、面白そうなので塗ってもらう事にした。何事も挑戦してみるのが一番である。十分程でメイクが完成した。
「どんな感じ?ジージョ」
 萌ちゃんが私に尋ねる。
「うん、何か顔が引っ張られるような感じだよ」
 私が専用の洗顔液でジェルを落としている間、萌ちゃんは衣装を見せてもらっていたようだ。
「わー、綺麗な衣装」
 彼女は夢を見ているかのようにうっとりした声を出した。そして、私たちの楽屋見学は幕を閉じたのだった。

FILE5、深夜の訪問客

 その晩、私が床についたのは十二時弱。しかし、警部の鼾でなかなか寝付けれず、二時ちょっと前位に目が醒めてしまった。
「うるさいな」
 私が迷惑しているのに警部は安穏と鼾をかいて寝ている。いや、その暴走族のバイクのような鼾に迷惑しているのだから「のに」という表現は当てはまらないかもしれない。台風が近付いているらしく、窓ががたがたと揺れている。それに激しい雨音も聞こえる。それらの音が警部の鼾とミックスされ、不調和音を醸し出していた。
 私が警部に対して悪態を吐いていると、部屋の扉がノックされた。
「誰だよ。こんな時間に」
 微睡んでいた私は鼾とノックのせいで、また目が醒めてしまった。寝ぼけ眼を擦りながら、私は夜中の訪問客に悪態を吐く。そして、扉越しに、はいと応対する声が私自身でも解るように不機嫌だった。
「有沢さん?」
 この声は確か項出なので、私は意外な客人だと思った。
「ええ」
 項出は短く答える。
「とにかく開けて下さい」
 彼女は鬼気迫る様子で私に言う。どうしたのかと尋ねると理由は後で言うという。私は訝りながらも、扉を開けた。
「里元千絵さんの様子がおかしいんです」
 恐らくフル・ネームで行ったのは母と子を区別するためだろう。
「だから、一緒に来て下さいませんか?」
 どうおかしいのか尋ねると、解らないと言った。
「解らない?」
 私は素頓狂な声を上げた。
「はい、先程、電話が掛ってきて世紀の大奇術の始まりだと・・・」
「世紀の大奇術・・・」
 私は彼女の言葉を口の中で復唱した。悪戯ではないかと尋ねると、一応行ってみようと言う。私は早く寝たいのだが仕方なく、彼女に付き合う事にした。
「部屋が開いてる・・・」
 里元母子の部屋が開いていた。そして、私たちが見たものは天井から首を吊って死んでいる里元千絵の姿だった。月明かりで朧げに映し出されている里元の姿はまるで糸の切れた傀儡人形)のようだった。
「西口さんを呼んだ方が好くありません?」
 弱々しくも、そう言う。私は彼女に従って、警部を呼ぶ事にした。
「千絵さん!里元さん」
 私は呼びかけながらどんどんと扉を叩く。しかし、応答はない。扉はいつの間にか閉まり、鍵が掛っている
「くそ!」
 私は警部と扉をぶち破る事にした。頑丈な扉でなかなか開かない。桜井やキングまでも起きてきて、扉で一斉に体当たりを仕掛ける事にした。四人の男の体当たりには流石にかなわないらしく、二、三回で止め金が外れた。
「な、ない・・・」
 私は唖然とした。死んでいるはずの里元の首吊り死体はまるで何事もなかったかのように煙のように消えていたのである!

FILE4、消えた死体

 死体が消えた。あの首吊り死体は、まるで初めからそこに何もなかったかのように一瞬にして消えてしまったのだ。夢だったのだろうか?いや、確かにあれは現実だった。桜井が大きなあくびをして、
「何もないじゃないですか。それにここは空部屋ですよ。彼女が殺されているのだとしたら、彼女の部屋じゃないですか」
「この娘に担がれたのよ」
 ゴネイルは項出を睨みつけながら言った。
「そ、そんな」
 項出は義姉に向かって反駁した。
「現に死体はないじゃないの!」
 確かにそうである。今、目の前にあるはずの死体がないのだから項出が嘘をついているのではないかと疑われるのも無理もない話だ。
「だって、本当に見たんだもん」
 助けを求めるような視線を私に投げ掛けてきたので、
「待って下さい」
 と口を挟んだ。
「確かに死体はありました。それは僕が保証します」
「じゃあ、お聞きしますけど」
 とゴネイル・リアが腰に手を当て挑戦的に言った。
「死体はどこに行ったの?」
「それは・・・まだ解りませんが、確かに僕たちは死体を確認しました」
「夢でも見たのでは?」
 老マジシャンがあくびをしながら言った。夢?そうなのか?二人揃って同じ夢を見る事はありうるのだろうか?いや、ない。では、ゴネイルが言うように死体はどこに消えたのだろうか?昨日私たちが見たキング・リアの奇術、虎の瞬間消失を思い出した。
 項出は突然、
「誰かいなくない?人数が合わない」
 ゴネイルは話を誤魔化すなと項出にぴしゃりと言った。しかし、私も誰かいないと思っていた所だったので、項出に異は唱えなかった。
「確かに、どなたかいらっしゃらないようです」
 私は遠慮せず思った事を言った。
「田中君、念の為確認してくれんか?」
 マネージャーがキングの言葉を受け確認する。
「本当だ・・・・。里元さんがいません」
「きっと寝てるのよ。彼女の部屋、ここから離れているから」
 私は昨日、訪問した時の事を思い出した。成程、随分遠くである。これならば私たちの騒ぎ声や、扉を打ち破る音等が聞こえなくとも無理はないだろう。
「確認しておいた方が好いのでは?」
 田中が言う。
「止めておいた方が好くない?ほら、あの人寝起き超悪いし」
 項出が現代の女子高校生風のアクセントで言った。私に向かって喋っている時は思いの他、丁寧なので好感が持てた。しかし、また彼女のイメージが私の中で下がってしまった。
 そうね、とゴネイルは項出の意見に同意する。昨日の夕食で姉妹仲が悪いという印象だったので私は意外に思った。
「ほう」
 桜井が驚いたように声を上げる。
「珍しい事もあるものだ」
 ・・・項出とゴネイルが同意見だと言う事はやはり珍しいのか?
「やだ、田中さん。私たちだってたまには意見が一致する事だってありますわ」
 顔は笑っているが、どことなく偽りの笑顔で、心の奥底では彼女の事を憎んでいる感じである。田中が突然大きなあくびをして、
「僕は寝させてもらういます」
「そうね。私も寝させてもらうわ」
 ゴネイルが言った。そして聞こえるか聞こえないかの声でわざとらしく
「誰かさんのせいで酷い目に遭ったわ」
 と言ってさも忌々しそうに舌打ちした。それを受け、項出はゴネイルの後ろ姿をきっと睨んだ。やはり仲が相当悪いらしい。
「俺たちも寝ようぜ」
 警部のその言葉で私は一先ず部屋に戻る事にした。

FILE4、失踪

 朝はいつもより早く目覚めてしまった。というのも隣で寝ている中年の刑事は地震かと思うほど、豪快な鼾をかいて、寝ていたからである。私はあくび混じりに朝食を取りに、宴会場へ向かう。
 廊下に出てみると、キング・リア・マジック・グループの面々が話している。本日の公演の段取り確認でもしているのだろうと思い、通りすぎようとした。しかし、田中が私を呼び止めたので、
「どうか、したのですか?」
 と軽い気持ちで訊いた。
「警部さんは・・・どこですか?」
 彼の様子が只事ではないことに気付き、もう一度、ただし今度は問い詰めるような感じで繰り返した。
「どうか・・・、したのですか?」
「里元さんの様子がおかしいのです」
 私はおかしいとはどういう事かと尋ねた。
「はい、今日は六時に本日の打ち合わせを兼ねて、朝食というスケジュールになっているのですが・・・・」
 私は携帯電話で時刻を確認する。七時半。
「里元さんにはその事を確かに伝えたのですか?」
 田中は肯定する。
「彼女は遅刻の常習犯でしたか?」
「五分くらいは遅れても、一時間も遅刻はしない人でしたわ」
 ゴネイルが言う。
「そうしたら、彼女の部屋に行きましょう」
 私が言うと、団員たちは嫌そうな表情を浮かべた。何か拙い事でもあるのかと訊くと、項出は、
「あのですね、彼女凄い寝起き悪いんですよ」
 そう言えば、昨日もそのような事を言っているのを思い出した。
「でも、行ってみなければ状況は解らないじゃないですか」
 しかり、と古めかしい言葉でキングは言った。
「誰が起こしに行きますか?」
 桜井は自分はパスと言いたそうな調子で言った。田中は、
「僕は嫌ですよ」
 その後、全員パスの意を表明した。
「僕、一人で見てきますよ」
 これでは埓が開かないと苛立った私は、そう言った。桜井は真顔で、
「枕時計飛んできますよ」
 ・・・それは確かに恐ろしい。全員が拒む理由も解る。しかし、男に二言はない。枕時計が恐ろしくない訳ではないのだが、私は意を決して彼女の部屋の前まで来た。団員たちは、あたかも、零戦で敵艦に体当たりする特攻隊員を見送るような目で私を見ている。
 ごくりと唾を飲む。そして、ノブに手を掛け、回す。何の抵抗もなく、ドアノブは回った。私は飛んでくるだろう枕時計から身を守るために、外開きのドアの陰に身を潜める。何も飛んでこない。
「里元さん」
 と小さな声で呼びかけながら、電灯を灯した。その時、私は今、目の前に広がっている光景に驚愕した。誰もいないのだ。恐らく寝はしたものの、夜中にどこかに出て行ってしまったのだろう。
「誰も、寝てませんけど」
 と私は言った。
「そんな、馬鹿な」
 田中は叫んだ。
「でも確かにここで寝ていたようですね。ベッドの掛布団が捲れています」
「じゃあ、千絵はどこに?」
 ゴネイルが苛立った様子で尋ねた。私は解らないとジェスチュアで示した。
「夢遊病の気はありましたか?」
 ゴネイルは否、と答えた。
「早朝に特別な習慣、例えばジョギング等はありましたか?」
「それがあったら苦労しないわよ」
 ゴネイルは私に刺を含ませた言葉で言った。
「ゴネイル、客人の前じゃぞ。そんな語気はよしなさい」
 と団長が彼女の口調を窘めた。娘は悄然となってしまった。
「有沢さん。娘の無礼をお詫びする。しかし、私たちも彼女が見つからない事で苛立っているのです。どうか娘の心中も察してやって下さい」
「解ってます」
 私は微笑んで答えた。
「でも、本当どこ行っちゃったのでしょうか?」
 田中が頭を掻き毟りながら言う。ほとほと困っているようだ。
「身代金要求の電話とかはないのですね?」
 私は誘拐された事を考慮に入れ、発言した。
「いや、ありませぬ」
 キング・リアが言った。
「それに、ここは四階ですよ?賊が忍び込める状況ではないと思いますが」
「いや、わざわざ四階まで上る事はないと思います。一階から侵入して、宿泊客の振りをして四階まで上がれば好いだけですので」
 キングは白くなっている立派な顎髭を撫でながら、確かに、と言った。
「しかし、身代金要求もない以上、誘拐の線は薄そうですね」
 項出はぽつりと呟いた。あの空部屋、と。
「まだそんな事言っているの?」
 客である私の前だろうか、口調は優しかったが、どことなしに馬鹿にした感じだ。キング・リアは優しい声で、
「まあまあ、ゴネイル。里奈も空部屋を見たら気がすむじゃろうから、行ってみたらどうかの」
「お父様がそう仰るのでしたら」
 とT字に曲がった狭い廊下を右折し、例の空部屋に来た。ゴネイルは大袈裟に、ノックまでした。電気は点いていなかったので手探りで電気を点けた。ここの部屋の構造はどの部屋も、一緒らしく、割とすぐに電気が灯す事ができた。。
 ゴネイルは悲鳴を上げた。昨日見た光景が蘇っているのだ。首吊り死体はぶらりぶらりと大きな振子のように揺れている。
「そ、そんな」
 私は里元が死んでいるという事実と、消えたはずの光景がまた再び蘇ってくるという現実ではありえないような出来事が一度に起きてしまったので、混乱してしまった。しかし、現実ではありそうもない事が事実起きてしまっているのだ。
「ひ、一先ず警察に連絡を」
 桜井はやっとの事で声を絞り出した。
「それは無駄ですよ」
 後ろから西口警部の声がする。
「今、私が携帯電話で連絡を取りましたが、この雨で来れないようです」
「そ、そんな・・・」
 桜井がへたりこむ。
「でも、どうしてここが解ったんですか?」
 私が訊くと、どうやら朝起きると私がいない事に気付いたので、不審に思い、捜すために廊下に出た。そして、T字路に差し掛かかった時、里元が死んでいたのが見えたとの事だ。その時、地元の警察、長野県警に電話を掛けた所、先のような返答が帰ってきたと言う事だろう。
「私も警察の人間です。できる限りの事はしましょう」
 西口警部が言う。
「で、でも・・・、検死とかは誰がやるの?早くやらないと拙いんじゃないんですか?」
 ゴネイルが尋ねる。私は法医学の知識も多少あり、また今まで本田文人事件や東北の晩古村の密室事件を始めとする幾つかの事件でも実際に検死は行った事があったので、
「僕がやります」
「あなたお医者さんなの?」
 否、と私は答えた。
「でも検死は数回、行っています」
 彼女は、私が警察の人間かと訊いた。私は、そんな所だと答える。一先ず、警部と死体を下ろし、検死を開始した。死体を触り、死後硬直を確かめたり、様々な検死の作業を行った。その結果、死亡推定時刻は昨夜十一時から、三時の間。死因は、索状痕が認められたため、頚部圧迫による窒息死、つまり絞殺されたという事が解った。
 昨日、犯人による『奇術ショー』を見たのが深夜二時頃なので、犯行に要した時間を三十分と見ると、深夜一時半。
「ちょっと、待って」
 ゴネイルが叫んだ。何かと桜井が尋ねた。
「昨日、里奈と有沢さんが見た死体が本物だとすると、死亡推定時刻は・・・」
 項出は一時、と義姉の代わりに答える。確かにあれは深夜一時の出来事だった。誰だと眠い目を擦りながら、ホテルの枕時計を見たのを覚えている。
「そう言う事になりますね」
「でも、どう言う事じゃ?君らの話だと、死体は消えたそうじゃないか」
 キング・リアの声がする。私もそこが不思議である。ほんの数秒のうちに、正確には十秒そこそこのうちに死体を片付ける事など果たして可能だろうか?例えヘラクレスの肉体とヘルメスの脚をもってしてでも、二人の女性を担ぎ上げ、始末するなど不可能だ。
「たった五秒かそこらで死体を下ろし、別の部屋に動かすなんて不可能よ。しかも、曲がり角には里奈が見張ってたそうじゃない」
 ゴネイルは言った。
「確かに・・・」
 私は呟いた。
「でも、僕たちが見たのは紛れもなく事実ですよ」
「更に不可解な点がありますよ」
 桜井が私たちの会話に口を挟む。
「あの時、この部屋は密室だったのですよ」
 確かにそうであった。そうなると犯人は里元母娘とともに消えてしまったのだ。打ち破るのに要した時間はわずか五分足らず。五分足らずのうちにあの空部屋で何が起きたのだろうか?正にこれはデビット・カッパーフィールドばりのイリュージョン・マジックである。
 死体の瞬間消失という、不可能犯罪。ディクソン・カーなどの推理小説が三度の飯より好きな私にとって、あの言いようのない興奮に襲われないでいられようか?

FILE5、空部屋

 私はゆっくりと唯一ある窓の方に向かった。まだ朝なので陽の光の眩しさに、私は思わず目を細めてしまう。
 この窓からは市が見下ろせる。いや、実を言うと、どの部屋も市を一望できる間取りになっているのだ。更に言うなら、インテリアの配置も全て一緒だ。そして夜には、街灯りで幻想的な光景を醸し出す。
 質素だが清潔感漂うベッドへ、目を視線を移した。掛布団が捲れていないことから、ベッドは使われていないとみて相違ないだろう。
 次に窓の近くのクローゼットを開けた。クローゼットには部屋用のスリッパと浴衣が置いてあり、いずれも未使用のままだ。仮にここに死体を隠したとしたらどうだろうか?下ろして、クローゼットの中に押し込める事なら・・・
「いや、無理だ」
 私は呟いた。浴衣は皺一つ寄ってない。仮にそこに隠したとしたならば、浴衣に皺が寄るのではないだろうか。いや、皺の寄らないように浴衣を真中に寄せたらどうだろうか?そもそも、クローゼットの中に隠す理由はどこにもないのではないだろうか?あの時、見えていた部分はホテルの部屋の構造上、限られる。見取り図を載せておくので参考にして頂きたい。X地点は私たちが死体を発見した所である。

 警部を呼んでいる間に扉から死角になる場所、例えばベッドの上等に死体を隠す。そして、扉を閉め、時間を稼ぐために内側からロックする。窓から脱出する。窓の鍵は開いていたし、このトリックなら十分可能なように思われる。
「いや、不可能だ」
 私は自分の打ち立てていた推理を否定した。事件当夜は豪雨が降っており、下は花壇だ。花壇には荒された形跡はないし、仮にこれを実行したら、死体は多かれ少なかれ濡れているはずだ。しかし、死体の衣服は全く乾いていた。従って、外には出ていないと言う事になる。
 ではあの時いた、団員全員に気付かれることなく窓以外の場所から脱出する事などできるのだろうか?
「不可能だ」
 私は呟く。そうだとすると犯人は一体、どのようにして脱出したのだろうか。
「バス・ルームに見を潜めていたら?」
 しかし、女性とは言え、二人の大人の体重は百キロを祐に越えるだろう。そのような「錘」を担ぎ五分で行けるだろうか。例えば桜井のような体躯の人なら不可能ではない。
「行けそうだ」
 私はにやりと笑って呟いた。そう考え、何か証拠が残っていないか調べようと私はバス・ルームへ行った。

 バス・ルームの洗面台には水滴一つなく、タオル等も整然と並べられているため、使われていない事が解った。毛髪等、何か証拠になりそうな物はないかと隈無く捜した。
「ふう」
 ホテルとは言え、トイレに寝そべるのは不衛生だと感じたので、腰を屈めて作業していた。そのため腰が痛くなってしまったのだ。私は海老のように曲げていた腰を農家の老人がやるように反らせ、軽く叩いた。十分に調べた挙句、何も・・・、髪一本すら見つからなかった。
 黄色い、診療所で好く見かけるカーテンを捲り、浴槽を調べた。浴槽にも水滴一つなく、使われた形跡は全くない。
「どうやら」
 私は首をマッサージしながら呟いた。
「僕の推測を裏付ける証拠は何もないようだな」
 「発見」時刻である夜中の二時から団員が起きてくるであろう時刻、六時までには四時間の差がある。それまでに犯人が証拠を消し去る充分な時間はあったはずだ。
「でも待てよ」
 私はここで自分の推理の小さな穴を見つける。もし、私が犯人なら、毛髪が抜け落ちても好いように、死体を浴槽に入れる。その方が、シャワーで洗い流せるからだ。そして、犯人は間違いなく証拠隠滅のために、犯人に不利になる証拠の有無に関わらずシャワーで浴槽を洗うだろう。にも関わらず、水滴が一滴もないのはどういうことだろうか?あれほど、大胆な事をした犯人がこんな事を忘れるとは考えにくい。やはり、私の推理は間違っていた事になる。

FILE6、相方との話

 我がワトソン役、浅香萌がようやく八時頃になって起きてきた。私は簡単に事件の経緯を説明した。
「五秒かそこらで死体が消えちゃうなんて、ありえない事よ」
 彼女は私の話を聞き終えると、そう感想を漏らした。
「でも、その“ありえない事”が実際に起きているんだよ」
「まるで虎の瞬間消失みたいね」
 それは私も思った。あれは一秒で虎の瞬間移動を果たしたのだったが今回の事件はくどい程言っているように五秒で瞬間消失を果たしたのだ。
「そう、それなんだよ!」
 私は焦れったい思いで叫んだ。
「あの瞬間消失のトリックが解れば、解けるはずなんだ」
 マジシャンとて魔法を使う訳ではない。何らかの種があるのだ。そして、それは本格推理小説とある意味では似ている。なぜなら、不可能な事が実際に起きているのだから!
 私が萌ちゃんの部屋で死体の瞬間消失のトリックについて論じ合っていると、ノックの音が聞こえた。
「はい」
 彼女が高いソプラノ歌手のような声で答える。
「今、着替え中かな?」
「いえ、入っても構いませんよ」
 と萌ちゃんは丁寧に答える。
「有沢はいるか?」
 と訊かれたので私は何か用かと扉越しに尋ねる。扉越しなので声も若干、大きめの声だ。
「団員の事情聴取も兼ねて、朝食を一緒に、とキング氏に誘われたんだが、一緒に来ないか?お前にも第一発見者として色々と尋ねたい事があるんでな」
 私は勿論、と答えるとすぐに立った。事件の謎を解くヒントが得られる他でもない機会だ。相方も行くと行ったので、
「じゃあ、一緒に」
「待って、これパジャマなの」
 「浅香」と名前の入った母校の緋い(あかい)短パンにフィラのTシャツ。寝巻きと言えば寝巻きだが、普段着でも充分通用する。事実、私は母校の運動着である青い短パンに上は市販の柄入りアンダーシャツなど軽い服装でコンビニエンス・ストアなどに好く行っている。
「だから・・・」
 ほんのり朱を走らせて彼女は言った。
「解った。出てくよ」
 私の方も彼女に恋心を寄せている事を悟られないように、背を向けて出て行った。
「じゃあ、後でね」
 彼女が言うと、
「うん。また」
 と短く答え、四階の宴会場に向かった。

FILE6、証言(I)

 宴会場には奇術団員の面々が既に集まっている。団長でイリュージョニストのキング・リアとその娘のゴネイル、キングの養子である項出里奈、カード・マジシャンの貴公子、桜井隼人、マネージャー兼広報担当、田中。そして、西口警部、着替えを済ませた萌ちゃん、私。ただ、二人の姿は見えない。そう、里元母娘の姿は・・・。
 この章の内容は事件当夜の確認だが、読者諸君の頭を整理するために、一言も端折らないで書くとしよう。ここで、第二の資料として部屋割りを提示しておくので、見ながら読み進めた方が好いだろう。

「では」
 西口警部が空咳をして言った。
「皆さん、雑談でもするような感覚で気楽に話して下さい」
 桜井が不満げな表情をする。きっと、こんな時に気楽になれないとでも思っているのだろう。
「はい」
 ゴネイルが堅くなって答える。
「では、死体発見時の様子を詳しく」
「項出さん。細かい部分については僕が補足しますから、電話の一件から話して下さい」
 かなり緊張していたので私がそう言った。
「は、はい・・・、昨日夜中の二時位に私の内線で電話が掛ってきたんです」
 内線ならば、支配人に頼んで記録を見せてもらえるだろう。警部は後を促した。
「それでどうしました?」
「はい。有沢さんの部屋に行きました」
「間違いありません」
 私が証言する。警部が電話の内容を尋ねる。
「『世紀の大魔術の始まりだ。タイトルは里元母娘の瞬間消失』と」
「『世紀の大魔術』?」
 田中が驚いた声を上げる。警部がどうかしたのかと尋ねると、今回の宣伝文句だという。しかも、虎の瞬間移動と言う煽り文句だと言う事も告げた。
「ふうむ。チラシに準えているという事ですな。それであなたはどうなさいました?」
 警部は何故、私の部屋に行ったのか尋ねた。
「一人じゃ、怖くて」
「しかし、それではお義姉さんの部屋でも好かったのではないですか?」
 すらすらと答えていた項出はここで初めて口籠もった。
「それは・・・」
 桜井が助け船を出した。
「いえ、彼女は行きたくなかったのだと思います」
 警部はその理由を訊く。桜井の話だと、この姉妹は普段から物凄く折合が悪かったらしい。
「元々、養子と実子ですからね」
 桜井が肩を竦めて、こう締め括った。
「成程、項出さん、あなたが行かなかった理由は解りました」
 ほっと安堵の溜息を吐く。
「一つこれに関して、質問して宜しいですか?」
「何ですか」
 まだあるのかと言いたそうな顔をして、桜井は言う。
「それでしたら、僕でなくても隣の田中さんでも好かったのではないですか?」
「確かに、それはそうだな」
 警部が呟く。
「どういう訳か、理由をご説明願えますかな」
「はい。彼、ぐっすり寝ていた様子だったから、仕方なく有沢さんを起こしに行ったのです」
 成程と私はうなづいた。
「納得しましたか?」
 項出が不安そうに尋ねたので、微笑して肯定する。
「それで、どうなりましたか?」
「物置の角から死体を発見しましたので、私は恐ろしくて腰を抜かしてしまったんです。それで、有沢さんが皆さんを呼びに行きました」
 ここまでは私も見たので間違いない。
「怪しい人は通らなかったんですね?」
 項出ははい、と肯定した。
「有沢、死体発見から俺を呼ぶのに何秒位かかったか解るか?」
 と警部は囁いた。約五秒だと私は答える。私は項出に、
「僕が着いた時には、開いていた扉は閉まっていたようですが、閉まる瞬間を見ましたか?」
 彼女は見たと言う。
「それではその時の様子を教えて下さい」
「普通に閉まりましたけど・・・」
 ここは外開きである。犯人が一旦廊下に出なければ閉める事は不可能だ。無論、テグスをノブに括り付け、引っ張れば話は別となる。しかし、そのような事をしようものなら、ドアノブに傷がついてしまう。
 警部は、
「普通に、とはどう言う事ですか?」
「だから・・・」
 彼女は自分の語彙力のなさに苛々している様子だ。
「私たちが閉めるように、じゃろ?」
 キングは助け船を出した。
「そうそう!」
「でも、ここの扉は皆、外開きですよ」
 田中が言った。
「里奈さんには悪いのですが、閉めるなら犯人が外に出なければいけないような気がしますけど・・・」
 私もそれは思った。きっと、田中が指摘していなくても、私が指摘していただろう。警部はどう言う事かと尋ねた。
「誰かを庇っているのですか?」
 と私。
「い、いえ・・・」
 唇を震わせて答えた。
「では、どう言う事ですかな」
 警部が威嚇するように言った。普段では滅多に見せない顔だ。旧友の無念を犯人を捕まえる事で晴らしたいのだろうと私は思った。窓の外では秋雨がしとしとと降っている。
「警部さん。彼女気が動転しているのよ。きっと」
 萌ちゃんの言葉に、さも悔しそうな顔をして食い下がった。彼女の言葉に説得力はなかったが人を想う優しさに溢れていた。
 そして煙草を吸っても構わないかと断ってから、ラークに火を点けた。煙草嫌いな私も、今回ばかりは悲しみを煙草で紛らわそうとする警部を思い、何も言わなかった。

FILE8、証言(II)

 事件についての確認が終わり、話題は里元自身の事に移った。いわゆる動機調べだ。
「では、今度は里元さん自信の事についてお伺いします」
 警部が丸テーブルに座る団員たちの顔をぐるりと眺めて言った。
「実を言うと、私は里元とは高校時代の同期でして、知る限りでは何も恨まれるような事はなかったのですが」
「私もあの二人については何も恨まれるような心当たりはないな・・・」
 キング・リアも言う。
「お金の貸借だとか、交遊関係とかはいかがでした?」
 誰もが異口同音にない、と答える。私は困ってしまった。
「それどころか」
 とゴネイルは義妹を一瞥して、
「この娘だったら、千絵に恨まれる可能性は充分にあるんだけど」
「何ですって?」
 私はあまりに意外だったので素頓狂な声を上げ、訊き返した。
「そうよ。喘息持ちのお父様に水を差し出した所に、煙草の灰を入れたものね」
 項出に意地悪な笑みを浮かべて言う。私はこの笑みを見た時、思い浮かべたもの。それは、王侯貴族の血に塗れた権力争いに勝った権力者の冷たい笑みだ。
「どうして、そのような事をしたんですか?」
 私が訊いても、項出は黙って俯いたまま返事をしない。
「まあまあ、ゴネイル」
 キングが優しく言った。私たちの前だからだろうか、それとも元々温和で怒らない性格なのだろうか?
「里奈も難しい年頃なんじゃ、その辺の事も解ってやりなさい」
 コネイルは不服そうに、
「はい、解りました」
 どうしてお父様は里奈の肩ばかり持つの、と言いたげな表情である。しかし、私ならば反論するのに、なぜ反論しないのだろうか?もしかしたら、フランスのルイ十四世やイングランド王、ヘンリー八世のように絶対的な権力を持っているのかもしれない。
「里奈も里奈じゃぞ。どうしてあんな事をしたんじゃ?」
 項出里奈は、まるで彼女自身の問題を父親に咎められ、関係ないとでも言いたそうに父親を睨みつけただけだった。
「まあまあ」
 しばらく傍観していた警部は穏やかに言った。
「とにかく、里元さんは誰からも恨まれてはいなかったんですね」
「ええ。僕たちの知る限りでは」
 田中がハンカチで額を拭いながら答えた。
「では、彼女の経歴を教えて下さい」
 私は言った。
 どうやら娘ははここの魔術団に来る前は看護婦をやっていたらしい。母親の文香の方は、D大薬学部卒で薬剤師として働いていたが、当時の恋人である新井雅史と結婚。しかし、大会社の商社マンという彼は忙しい身である。夫婦間の距離はどうしても疎遠になってしまい娘が看護学校に進学したのを機に離婚したとの事だ。
「それでは、その新井という人に恨まれていなかったのですか?」
 これは萌ちゃんの質問だ。
「いや、彼とはもう決着が付いていたよ。双方の合意があったようじゃし」
 キングが言った。どうやら、慰謝料も不貞行為があった訳ではないので取る必要もなく、また、親権の問題も双方の合意の上、母親が引き取ったらしい。
「解りました」
 彼女は納得したらしく、食い下がった。私は新井なる人物がここに来ていなかったか尋ねる。
「さあ?もう、フランス支社に転勤になったから帰ってこれないはずじゃが」
 キングは言った。何で新井の事にこんなにまで詳しいのだ?ある種の奇々怪々さを覚えながら彼の話を聞いていた。
「誰からも恨まれてなかったのか・・・」
 私は呟く。私はキングの方を向き、兼ねてから疑問だった事を尋ねる。
「事件とは全く関係ないのですが」
 と一言挟み、なぜそんなに新井について詳しいのかを尋ねる。キングが言うには、どうやら新井はアメリカに留学しており、その時の友人だったと言う。

「納得して頂けましたかな?」
 私は微笑して、肯定する。警部が耳打ちするようにひそひそ声で言った。
「有沢、里元は誰にも恨まれるような人じゃないぞ。それは俺が保証する」
「文香さんは、ね」
 私が言うと、不服そうに眉を潜めながらも警部は、
「まあ、確かに娘の方は解らんが」
 と認めた。
「そして、母親の方が巻き添えを食ったと」
 警部は苦々しそうに、考えたくはないが恐らくそうだろうと吐き捨てた。団員たちはひそひそ声で話し合う私たちの様子を不思議そうに見つめていた。

FILE9、証言(III)

「では最後に」
 と私は言った。
「昨夜、一時から二時頃までのアリバイを教えて下さい」
 この要求に対して桜井は猛反発した。
「ちょっと、待って下さいよ。刑事さん。深夜のアリバイなんて立証する方できませんよ!」
「いや、可能ですよ。僕、少し考えを整理するために部屋割を書いてみたんですが、大抵近くですよね」
 読者諸君は私が「証言(I)」の章で載せた見取り図をご覧頂きたい。
「ええ、そうですね」
 田中も同意する。
「そしてこのホテルの廊下は狭い。つまり、誰かが起きて、廊下で何かやっていたら、向かいの部屋の人に気付かれると思います」
「ふうむ、しかし、それはちと無理じゃな」
 キングが言う。私はその理由を尋ねた。
「皆、死んだようにぐっすり眠っていたのです。例え、同室も者が出て行ったとしても気付きませんよ」
 団長は皆の顔色を見て団員たちの同意を求めた。桜井が団長の言葉を補足するように、そして私にとっては追い討ちを掛けるかのように、発言した。
「ええ、公演初日だという事もあり、長旅の疲れと公演の疲れで団長の言うようにぐっすり眠っていました」
「では、昨日、何時頃に寝られました?」
 私は質問を変えた。
「ええと、私は明日のスケジュールの確認と器具の点検で寝たのは十一時半頃だったと思います」
 上司から失敗を責められる胃腸の弱そうなサラリーマンのようにおどおどして、言った。
「器具の点検は何時から何時までですか?」
 九時から十時だと答える。そして、その後、一時間半、テスト寸前の学生のように、三日間の公演のスケジュールを頭に叩き込んだと言う。
「次は隣の桜井さん」
「僕は、翌日披露するカード・マジックの練習をしていましたよ」
 警部は一人で練習していたのかと訊いた。
「ええ。一人でした。警部さんの言いたいことは解ります。カード・マジックは二人いて始めて成り立つものではないかと言う事でしょう?しかし、例えば観客が引いたカードを当てる初歩的なマジックでは、自分が見ずに伏せて置くんです」
 警部は成程、とだけ答え、
「では、アリバイはないと」
「ええ、ありませんね」
 私はゴネイルに視線を向けた。ゴネイルは不服そうに、
「私もマジックの練習をしていました。それはお父様が証明して下さいます」
 と言って隣の父親に同意を求める視線を送った。
「ええ、彼女の言う通りです、イリュージョン・マジックと言う物は私の腕より、娘の演技力に掛っていますので」
 確かにそうである。例えば、箱と箱の間にマジシャンが立っていて、美女が中に入る。そして、一つの箱に彼女が入り、蓋を閉め、次、蓋を開けたら誰もいない。このトリックは裏から出て、そしてマジシャンの間を通り、隣の箱に移動するという単純極まりない物なのだ。しかし、観客たちはころっと騙されてしまう。
「確かにそうですね」
 私は相槌を打つ。
「ではこの二人についてはアリバイが成立していると考えますが、皆さん異論はありませんね」
 ない、と口々に団員たちは言った。
「項出さん、あなたは?」
「テスト一週間前ですので、勉強していました」
 私は誰かに解らない問いなどを訊かなかったかと尋ねた。
「はい、日本史、世界史、数学など比較的暗記科目ですので」
 数学は暗記科目ではないと反論しようと思ったが、事件とはあまりにも無関係すぎるのでやめた。
「それではアリバイはないのですね?」
 警部が言った。
「ええ。でも私には犯行は不可能だと思います」
 警部がそれはどうしてかと訊く。
「だって死体は五秒で消えたのですよ」
 そう、そうなのだ。結局そこに戻ってしまうのだ。五秒で死体を消すなど、現実には不可能だ。
「これは警察の人間より、マジシャンであるあなたがたの領分ですね」
 私は微笑しながら言った。
「何か、あなたがたの使うマジックの中で、思い付くトリックはありませんか?」
「そう、ですね・・・」
 マジシャンたちは頭を捻って考えだした。考える事数分。
「私には何も面白いアイディアは思い浮かびませんわ」
 ゴネイルが音を上げた。
「マネージャーの私にはトリックなんて思い浮かびません」
「僕もカード・マジック専門なのでイリュージョン・マジックは僕の領分ではないですね。残念ですが」
 田中と桜井はキブ・アップというように両手を挙げる。
「キングさんは?」
 私は尋ねる。世紀のイリュージョニストは何か思い付いたようにはっと顔を上げた。しかし、その後、力なく首を振った。おそらく、自分の思い付いたトリックは不可能だと思ったのだろう。
「いや、何も思い浮かばぬ」
「そうですか・・・」
 私は最後だと宣言しておきながらも、重要な事を訊きそびれていた事を思い出した。
「あっ、そうそう。部屋割は誰がお決めになったのですか?」
 田中が遠慮がちに手を挙げた。
「私ですが・・・」
 まさか、部屋割を決めた人が犯人なぞ言いださないかと恐れている様子だ。
「いつ発表しましたか?」
「一カ月位前ですね。ホテルの予約と同時に発表する事に決めていますから」
 私は微笑しながら礼を言った。

FILE10、虎か虎たちか

 現場百回というように、捜査に行き詰まった時は殺害現場に戻れと言うのが鉄則だ。私もその鉄則にのっとり、現場である空部屋へ行こうとした。しかし、物置の前を通ると獣のような低い唸り声が聞こえるではないか。
「何だろう?」
 そう、不思議に思って私は呟くと物置に向かった。カーテンは閉まっており、そして、その前には、例の大鏡があった。勝手に動かして壊しでもしたら大変だと思った私は電気のスイッチを探って、蛍光灯を灯す。すると、人程の体長はあろうかという大きな虎がいるではないか。檻の中にいることが解ったので、私はすんでの所で叫び声を押し殺す事ができた。
「ああ、びっくりした」
 心臓がバクバク鳴っているのが自分でも解った。動悸が一段落付くと、
「驚かすなよな」
 虎に怒ってみる。虎は私を驚かすつもりなど微塵もないのだろうが、ホモサピエンスという動物は他に責任転嫁する習性がある。
「ん?」
 私は目を擦る。虎が二重に見えたのだ。
「そんな馬鹿な」
 私は自嘲して、別角度から見ると、虎は二匹いたのだ。私は昨日見た光景が鮮明に思い出される。
 虎は二匹いて、消えた虎と出てきた虎は別物だったのである。しかし、もし、そうだとしたら最初に入った虎はどこに消えたのだろうか?あの檻という中が全て見えるでは密かに出す事など不可能である。そうだとしたら、それができるのは・・・。
 ある、一つの単語が頭をよぎる。
「確か部屋割は・・・」
 私はポケットからメモを出して、確認する。私の思い付いたトリックは可能なのだ。何もかも見透かしたような笑みを浮かべ私は呟いた。
「成程、成程。解ったよ、全ての謎が」

幕間~読者への挑戦状~

 親愛なる読者諸君よ。ここで犯人を特定するのに重要な手掛かりが出揃ったので、話をあえて中断しよう。
 私は物語中でも述べているが、推理小説家と読者は手品師と観客の立場に等しいと思う。不可能と思える事が実際に起きており、種明かしをされれば感嘆の溜息を吐く。
 さて今回は死体の瞬間消失、そして瞬間出現だ。「無からは無しか生まれず」というように現実には不可能であるのだが、実際にそれが起きているのである。犯人はいかにして里元の死体を五秒で消し去ったのだろうか。そして、それをなしえる人物は物語中でたった一人しかいない。その人物は誰なのだろうか?
 

FILE11、真相

 今朝十時からの公演は問題なく執り行われた。養子である項出里奈も死んだ里元の代わりに単純なマジックを披露して、観客たちを驚かせた。私たち三人は、それを観客席の最前列から眺め、しばし奇術のその華やかさに見入った。
 昨日と寸分変わらないプログラムで、トリはやはりキング・リアの虎の瞬間消失だった。私は最後の奇術が終わると、
「いや、素晴らしかったです」
 とキングに、私は微笑しながら声を掛けた。
「ところで、昼食はもう済ませたのですか?」
「まだですが」
 マネージャーの田中は言った。
「では、ご一緒しても宜しいですか?」
「構いませんけど・・・」
 奢らないと言いたそうな口振りだ。意外とケチな連中だと思ったが、彼の言いたい事ももっともである。それに、奢ってもらおうという腹黒い意識は微塵もなかったので、
「いや、何、死体をいかにして消したかが解ったので、実際に可能かとご意見を伺おうと思いましてね。奢ってもらおうなんてつもりはないですよ。ハハハ」
「解ったのですか?」
 キングは驚いて、言った。顔には人懐っこい穏やかな微笑が張り付いているのだが、引き攣っている。そして、何かに怯えている様子だったのは私の気のせいではないだろう。
 私がこれから語る真実は彼にとって辛いものだからだ。そして、私の憶測が正しければ昨日、その真実にイリュージョニストである彼は気付いてしまった。
「ええ、まあそれは歩きながら話しましょう」
 と言って、ホールの外に出た。
 外に出ると、太陽が南中になっており、日差しが目に痛い。商店、民家等が軒を連ねていて、屋根瓦が陽の光を鏡のように反射している。昨日の台風で街路樹の黄色く色付いた公孫樹(イチョウ)の葉もすっかり道に落ちていた。
「それで、どうやったのですかな?」
 奇術団の団長は興味深げに尋ねた。
「まず、その前に実際にあの部屋で殺人が行われていたのでしょうか?」
「どういうことですか?」
 ゴネイルが訊いた。
「あの時、僕は死体に差し込む月明かりで里元さんだと解りました。死体発見時刻は昨日の話でも解るように、一時頃でした。つまり月の位置は真南にあり、それが見えるという事は南窓だと言う事が解ります。ここまでは解りましたか?」
 団員たちは一同にうなづく。
「解りました」
 私はそれを確認して、話を進める。
「しかし、朝、僕が現場検証したときは窓から朝日が差し込んでいました。つまり、南向きであるはずの窓が東向きに変わっていたのです。従って、別の部屋で殺害が行われたという事です」
「ちょっと待って下さい」
 田中が口を挟む。公園を通ると子供たちが無邪気に遊ぶ声が聞こえてきた。
「別の部屋で行われていたものをどうやって、里元さんの部屋に見せる事ができるのです?」
 私はにやりと笑って、
「できるじゃありませんか、鏡を使えば」
 田中は鏡、と叫んだ。何時間も考えていた幾何学の問題が、補助線を一本引いただけで解決したという驚きを発見したようだ。
「そう。鏡を僕と物置の間に立て掛けておくのです。そうすれば錯覚するという訳です」
 中学校の物理で習ったと思うのでその仕組みはここに書き記す必要はないだろうし、読者諸君も経験上知っていると思う。従って、入射角と半射角についての講義は避ける事にする。
 私の意見に、桜井が反発した。
「待って下さい。そのトリックは危険すぎませんか?もし、直進したらどうするんですか」
「そう、だから犯人は僕に警部を呼びにいかせたのです。そしてそうしている間、犯人は鏡を折り畳んだのです」
「待って下さい」
 とキングは慌てて言った。
「それじゃ、犯人は里奈じゃと言う事になりますが・・・」
「そう・・・。犯人は項出さん、あなたですよ」
 項出は反論するかと思いきや、あっさりと罪を認めた。
「ええ、やったのは私ですよ」
 警部は早く罪を認めた事に驚いて、
「やけに早く罪を認めたな」
 彼の経験上、犯罪者は最後の最後まで言い逃れするものだと思い込んでいるらしい。これには私も少し驚いている、いや、「驚いている」という語より、入ってきた蚊に全く無視されたように拍子抜けしてしまった、という表現の方が的確だろうか。項出は、マジシャンの娘だから、トリックが見破られたら速やかに幕を下ろさなければならない、と言った。
「で、でもどうして」
 意外さのあまり、やっと口を開いたという調子で田中は言った。桜井は呆然としており、何も言えない様子だ。
「親父を、キング・リアを本当に愛していたから・・・。金の事しか考えない姉貴と手品のトリック・ノートのみが目当ての里元の手から親父を守るために・・・」
 項出は涙を流しながら言った。愛しているのに素直になれずついつい、反抗してしまう。私が両親について行ってアメリカに行かなかった理由も、それがあるかもしれない。
「じゃあ、私も殺すつもりだったの!?」
 ゴネイルは狂ったように叫んだ。無理もない事だ。自分の命が義妹に狙われていると解ったのだから。
「ええ、そうよ」
 きっと冷たい目線で項出はゴネイルを睨んだ。

FILE12、過去

 今、二人の女が話し合っている。一人はヨーロッパ系のブロンドの女、もう一方は日本人だ。部屋には、クロード・モネの「睡蓮」など印象派と呼ばれる数々の名画が飾られており、景観を損なわぬように、インテリアもクラシックな家具ばかりだ。窓からは月明かり朧げに差し込み、二人を神秘的に照らし出している。
「それで」
 ブロンドの女は声を押し殺しながら言った。誰にも聞かれたくない会話なのだろう。
「本当にばれないの?私には医学の知識がないから解らないけど」
 日本人はうなづうた。
「ええ、喘息持ちのあいつにはとっておきの手よ」
 彼女はゆっくりと葉巻の煙を吐き出した。
「でもどう言うつもりかしら?あいつが急に遺言状書くだなんて言いだして」
「さあ。親父の気まぐれじゃないの?」
 日本人の看護婦は不安そうに、
「まさか、あいつの罠じゃないでしょうね」
 大富豪の娘は嗤って言った。
「罠?そんな。考えすぎよ、千絵」
「そう、そうよね」
 そして、ゴネイルはワイン・セラーからヴィンテージ・ワインを取り出し、グラスに注いだ。
「さあ、ここまで来たらもう計画は半ば成功したも同然よ」
「ええ、そうね。未来の大富豪に乾杯」
「未来のデビッド・カッパーフィールドに乾杯」
 コチンという乾いた音が響いた。看護婦は、ワイングラスを傾け、一気に飲み干す。
「あっ、そうそう」
 と里元は思いだしたように言った。何かとゴネイルは尋ねる。
「里奈さんからこんな紙もらったんだけど」
 顔色はどことなく優れなく、蒼ざめている。何かよほど衝撃的な事でも書いてあるのだろうかとゴネイルは訝しそうに尋ねる。
「どんな?」
 里元はポケットから四つ折にした紙を取り出した。ゴネイルが紙を広げる。そして、その紙には、

 キングの件で話したい事がある。九月の公演で空部屋に来い。

 署名はなく、字体は定規を宛てがった様に不自然に角ばっていた。
「気味悪いわね」
 身震いしながら、言った。
「差出人はもしや、私たちのがあいつを殺そうとしている事、知っているんじゃ・・・」
 ゴネイルは引き攣った笑いを浮かべ、
「そんな訳ないじゃない。あの事を知っている人は私と千絵だけなのよ」
「で、でも、キングってかいてあるし、まさか里奈さん、私たちの計画に感づいて脅迫するつもりなのかしら」
 声は震えており、目からは怯えの色がありありと見てとれた。ゴネイルはそれに対して、まさかと鼻で嗤った。
「あの娘が?馬鹿馬鹿しい、そんなタマありゃしないわよ」
 とあからさまに嫌悪感を出して、吐き捨てた。里元も項出の事は計画を目茶苦茶にされ、憎たらしく思っていたので、ゴネイルと同じ様に吐き捨てるように罵る。
「全く、毒物をあのコップに仕込んでおいたのに偶然、煙草の灰を投げ入れてくれたからお釈迦になっちゃったわ」
「まあまあ、次の機会を伺いましょう。機会はいくらでもあるんだから」

 項出は扉越しに二人会話を聞いてやはりそうだったのか、と思った。薄々は感づいていたもののあの二人が父を殺そうとしている。そして、二人ならやりかねないだろう。現に今日だって、コップに毒を仕込んでいたではないか。前々から練ってあった二人の殺害計画を実行する事に決めたのだった。父を守るために。

エピローグ

 最後の公演は無事終了した。ただ公演の一か月後、喘息の発作が起き、病院に担ぎ込まれた。
 裁判中で刑期が確定していない項出も特別に一日のみという条件で釈放され、私たちと一緒に病に伏す、大マジシャンの病室にいた。ゴネイルも駆け付けていた。キングは入院したと言っても、元気に娘たちや団員たちと談話していた。
「お久しぶりです」
 私は彼女と握手を交わして挨拶した。
「お久しぶりですわね」
 彼女も私に同調した。私はキングの容態を訊いた。
「かなり悪いようですね」
 項出は言った。キングに聞こえないようにと声を潜める。
「余命、あと少しだと」
 彼女の涙が頬を伝う。ゴネイルは遺言の事ばかり気にしていた。どこまでも金の亡者だ。突然、キングが激しく咳き込み出した。
「どうしたんですか!?団長」
 桜井が慌てて訊いた。只事ではないと判断した私は、
「項出さん!ナース・コールを!早く」
 私の指示に従い、ボタンを押して、看護婦に事情を説明する。しばらくして、咳きは収まったのだが、ぐったりした様子でベッドに倒れ込む。
 看護婦と医師は処置を懸命に施したのだが、
「駄目です。もう・・・」
 医師は重々しく、こう告げた。 「何で、何で・・・」
 項出は私に言った。
「馬も、鼠も、鳥も、虫も皆、息をしてるのに、何で親父だけは息をしてないの!?」  私はそれに何とも言えず黙るしかなかった。ゴネイルはしばらくして、
「遺言状開封しましょう」
 とさらりと言った。警部は彼女の首根っこを掴みそうになったが、私が取り押さえたのでそれは免れた。私も彼女に憤りを覚えない事もない。しかしその遺言状にある仕掛けがしてあるのを知っていた私は、むしろ今のうちに喜んでおけという気持ちだった。
 彼女は遺言状を開封して、私たちに自分が正当な遺産相続者である事を示すかのように、見せつけた。遺言状にはこう書いてあった。

 遣言状

 私の土地、その他、有価証券等、財産は全てゴネイル・リアに、知的財産でるトリック・ノートは里元千絵に譲るものとする。

 印鑑が突かれいて、書かれた日付まで正確に記されていた。
「待って下さい」
 私は笑いを堪えながら言った。
「この遺言状は無効です」
「法律的な問題はないように思うが、どうしてだ。有沢」
 警部が尋ねた。
「よーく、見て下さい、遺言の「遺」の字が違いませんか?」
 一同は、あっと声を上げた。
「そう、そして実際の遺言状はこちら」
 弁護士でもない私がキングに遺言状の開封を依頼されるのは妙だが、彼から預かった黄色い封筒を項出に手渡した。
 彼女はその封筒を破った。遺言状というよりは項出に認めた手紙である。項出の話だと、手紙は全部で五枚入っており、トリックノートは自分が最も信頼している桜井隼人に譲る事、土地も財産も全て憎くても実の親探しに使う事が記されていたそうである。
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