ジュリアス・シーザーからの手紙


このエントリーをはてなブックマークに追加
後輩のK氏へ。感謝の意をたたえて。

FILE1、思い出

 有栖川有栖。私はこの作家に特別な思いを寄せている。しかし、そうは言っても彼の作中に出てくる暗号やトリックなどは興味がないし、探偵で言ったらホームズの方が私に取っては魅力的である。また、あの特徴的な文章もさほど、私の興味を惹く物ではない。
 ふと、私はカレンダーを見る。五月の連休も半ばに差し掛かっていた。
「ちょうど、今頃だったな」
 私は炒れたてのモカを飲みながら空を見上げる。連休中で会社は私一人である。
「皆はどこか行くんだろうな」
 ふと、その言葉が想い出の人と重なり、フラッシュ・バックが起こった。あの日もちょうど、今日みたいに五月晴れ。雲一つない快晴だった。ふと、何の気なしに灰色の古びた椅子に腰掛ける。錆びた椅子はキーっと甲高い音を立てて、回転した。
 そして、机の引出しから一枚の写真を取り出す。私は懐かしさで胸がいっぱいになった。ふっ、と短い微笑をする。
 写真の日付は私が高校二年生だった頃の子供の日。写真は私と南川さくらを写したものであり、観覧車がバックとなっている。以前彼女と遊園地に行った事がある、と書いたがその時の写真なのである。
「あれから三年、か・・・」
 私は写真をソファに持っていく途中で呟いた。そして、私は愛飲のモカで昂ぶった気を落ち着ける。今でも瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。遊園地の機械の音、彼女の声、そして草花の匂い・・・。
「あの時は夜景が綺麗だったな」
 誰に問い掛ける訳でもなく呟いた。私はコーヒーの苦みを堪能しながら思い出す。 ふと、彼女に電話をしたい衝動に駆られる。しかし、この話を読者諸君に語ってからでも遅くはないだろう。そう思って私はパソコンに向かい、カタカタとキーボードを打ち始めた。
 そう、あれは今日のような日だった。

FILE2、後輩の誘い

「皆、どこか行くんだろうな」
 ふと南川さくらにぽつりと漏らす。五月の新緑が目に眩しい。私はその頃、親友を永遠に失ってしまい、悲しみに暮れていた所だった。その時、彼女と出会ったのだ。その親友は中学生の頃、文芸部に入っていた。そして同じ部活で一学年下の南川さくらを文化祭に呼んだ。私はその頃、秘かに練ってあった本格推理小説と自称する小説を発表したのだが、これがきっかけで彼女と出会う事となった。
 その小説の内容と言うのが、前々から構想を練っていた小説だ。物証を手掛かりに進めてきた探偵の捜査方を変え、今回は動機面から、という内容だ。もっとも、暗号、死体の瞬間消失等、従来のテーマには則しているのだが。
 それで、私たちの通っていた高校に入った、という具合なのである。私の下らない小説のお陰で入ったのか、それとも、何か別の目的があったのかは定かではない。
「先輩、どこか行かないんですか?」
 不思議そうに私の顔を見つめた。
「うん」
 私は答えた。悲しくなると言うので死んだ私の親友の話はタブーとなっていた。そのため、私たちはいつも他の話をしていた。
「親父が仕事でね」
「へえ・・・」
 彼女は軽く相槌を打ってから、どんな仕事か尋ねる。サラリーマン、と嘘をつく事も出来たが探偵小説好きな彼女のことだ、きっと目を輝かせて喜んでくれるに違いない。そう思った私は、
「嗤わない?」
 と念を押して探偵と答える。彼女は目を活き活きとさせて、
「素晴らしい」
 やはり、と私は思った。彼女は有栖川有栖の探偵、火村英生助教授が好きなのである。私も彼女に薦められて初めて読んだのが『ロシア紅茶の謎』という小説だった。私と同じ趣味を持つ人に会えて好かった、と思う。そうは言っても、彼女は可愛いが私は彼女に対して恋心を抱いてはいなかった。
 私が恋心を抱いているのは心理治療で遠くに引っ越してしまっている死んだ親友の妹のみだ。私は電話したいと思いながらも、私の声を聞くと事件の事を思い出させるから、と言って電話はおろか、メールのやり取りもしなかったのである。彼女は、落ち着いたら戻ってくると告げたのだが、いつになったら戻ってくるのだろうか、と思う事があった。
「親父が今、ペットショップの横領の調査を頼まれててさ」
「へえ、それじゃ横領犯が誰か突き止めるってわけね」
 それは違った。横領犯は誰か解っているが、中々白状しようとはしない。そこで親父に証拠捜しを依頼したという経緯だ。私は彼女にその事を簡単に説明した。
 私は今読んでいる小説のトリックを考えていた。ふと気が付くと彼女は私の顔をじっと見つめている。
「どうしたの?」
 と私。彼女は少し俯いて、
「いえ、何でもないです」
 私は変なの、と思いながらもまた考える事にした。コンビニのある十字路に差し掛かった。いつも通り、私の通っている高校の学生がだらしなくタムロしている。いつも、ここで彼女と四方山話をしながら、また明日と別れる。しかしその日は、私は自分の帰路に向かおうとした時、
「あ、あの。有沢さん」
 と彼女に呼び止められた。私は、急だったので間の抜けた返事をした。
「は?」
「あの、もし好かったらゴールデン・ウィークのいつか、遊園地行きません?」
 私は特に予定がなかったので好いと答えた。
「それでいつにしますか?」
 そうだな、と一思案して顎を撫でる。
「いつでもいいよ」
「じゃあ、五月五日」
 と彼女は答える。
「オーケー、何時集合にする?」
 十時半、伏見の改札と言う事になった。私はさっき、彼女が私を見つめていた理由が解ったような気がした。遊園地に誘うために切り出そうとしたのだが、私が黙りこくってしまっていたため話す機会が見つけられず、戸惑っていたのだろう。
「五月五日、十時半に伏見の改札ね」
 確認のために私は言った。
「はい」
 彼女は明るい声で答えた。いつもより弾んだ声なのは気のせいだろうか?そう思いながら家へ向かった。
「ただいま」
 と私は言った。両親はおかえりと言った。母は脚本をタイプしているようだったし、父は父で横領の証拠の書類を灰色のデスクに並べていた。このデスクは私が今も使っているのだが、使い心地が好い。両親は忙しそうだったので、私は階段を登りまっすぐ自分の部屋へ向かった。
 そして、南川さくらの薦めで最近熱を上げた有栖川有栖を読み始めた。彼の作風はエラリィ・クイーンに似ておりで、クイーンが結構好きな私にとっては親しみやすいのだ。もっとも、アンフェアな作品も多数あるが。
 探偵役、火村は博識、冷徹、女嫌いなどの点からホームズを思わせ、有栖はその助手で伝記作家という事からワトソン博士を想像させる。ホームズの熱狂的なファンの私にはとってみれば、正にクイーンとドイルを足して二で割ったような夢の作家なのだ。しかし、南川さくらと話す時はつい、どこどこがフェアではないと言ってしまうが、彼女は気分を害する事なく相槌を打ってくれている。
「しかし」
 私は最後まで読み終わったので本棚に戻しながら呟いた。
「どういう風の吹き回しだろう?」
 確かに少し妙な気がする。なぜなら、彼女は男の人と接するのが苦手なのである。しかし、私の両親が今引き取っているコーデリアのように実の兄に姦淫されたわけではない。中学時代、非道い振られ方をしてそれがトラウマとなった。よくある話と言えばよくある話だがそれが彼女にとっては凄いショックだったのだろう。
「なんで僕は大丈夫なの?」
 と尋ねてみた事がある。
――先輩は紳士的だからです。
 確かそういう内容の答えだったような気がする。
「紳士的・・・か」
 私はぽつりと呟く。確かに私は三度の飯よりも血腥い殺人小説が好きで小遣いを他の高校生ならアイドルのCDやらブランド物の服を買うのに、ブック・オフや近所の書店で使っている。
――あれ以来、男性には近寄り難くなってしまって・・・・、しかし、先輩なら大丈夫です。
「僕なら大丈夫か・・・」
 私は呟く。突然、親父からお呼びの声がかかった。私は思考を中断されたので少し不機嫌になった。しかし、むくれていても仕方がないので、一先ず扉を開けて下に下りた

FILE3、暗号

 階下に下りた私に親父は封筒を渡した。
「こう言うのはお前の方が得意だろう?」
 こう言うの、と言われてもまだ中身を見ていないのだからどう言うのか解らない。彼は私に透視能力があるとでも思っているのだろうか?
「お父さん、僕には透視能力なんてないから封筒を開けないうちに得意だろうと訊かれても解らないって」
 私は苦笑しながら封筒を開けた。出てきたのは二つおりにされた一枚の白い紙。その紙には、

 高岡 名古屋 広東 浜松 岡崎 魚津 陸前 与那国島 ウィーン 萩 ングル 高松。滋賀 ヨーク 宇治 高知 白村江 福井 ローマ 津 ひたちなか イェルサレム。

 と書かれていた。
「何?これ?暗号のようだけど」
 私は親父に向かって言った。
「どうだ。お前の読んだ小説の中で似たような物はないか」
「そうだな」
 私は呟いた。江戸川乱歩の『幻影城』によると置換暗号、排除暗号、寓話暗号に大別されると言う。置換暗号とは、例えば「あ」を「~」に置き換える方式の暗号である。排除暗号はある文字を取り除くと一つの文章になるものだ。例えば「スイカ」の「ス」を除くと「イカ」になる。寓話暗号は例えば「金太郎」なら「鉞」、「熊」と言った文字から連想していく物だ。
 私はそのことを彼に言うとV字の顎を細長い指で撫でた。
「これはお前の領分だな。俺にはさっぱりだ」
 と言って私に紙を渡して、書類と睨めっこしてしまった。全く身勝手というか子供っぽいというか、と思いながら机に向かって、文庫本を開いた。しかし、親父からもらったあの地名の羅列が頭から離れず、本に集中出来なかった。  私は一先ず地図帳で調べる事にした。世界地図が表紙についている地図帳である。
「高岡・・・」
 私は呟きながらページを繰った。高岡は富山にある市である。引っ掛かるのは何故「陸前」という昔の地名が入っているか、ということだ。陸前は独眼竜と称された伊達政宗が治めていた土地で、今の宮城県に当たる。
 ウィーンと言えば音楽でモーツァルトやその他大勢のクラシック作曲家が留学に訪れた場所である。また、第一次大戦の勃発の原因となったフィルディナント夫妻もオーストリア出身だった。
 私はこういうふうに、思い付く事柄を羅列していった。しかし、共通点は都市の名前だけという事だ。
「滋賀・・・琵琶湖、浅井長政・・・」
 いう風に。
「滋賀・・・滋賀・・・」
 私は繰り返し暗唱しているうちに、そう言えば志賀潔という生物研究者がいたことをふと思い出した。赤痢菌に関して研究を行っていた人だ。もしかしたら、人名?岡崎という人も、私の中学時代の友人にいる。浜松や高岡と言う人もいるだろう。
「でも、そうなれば」
 私はここで呟く。
「広東はともかくウィーンや、ングルなんて名前が日本人で存在するのだろうか?」
 苦しいがウィーンは医院だとしてもングルやローマ、イェルサレムはどうしても、思い当たる単語はない。そうするとやはり地名だと考えるのが自然か。
「待てよ?」
 私は呟いた。駅名を点で結んだら一つの文字になるのではないか。私は試しにやってみた。陸前は宮城と言っても、南部に当たるので宮城南部を示すのだとしたらどうだろうか?
 私はシャープ・ペンシルを取り出し、高校で使っている地図帳に暗号中に現れる地名をマークし、線で結んだ。しかし、何の文字も浮かびはしなかった・・・。

FILE4、遊園地

 そして、遊園地に誘われた当日、私は白い半袖シャツにカーキ色の長ズボンを着て地下鉄に乗った。平針から伏見までは四十分弱かかる。地下鉄に乗っている間、私はずっと彼女が何故私を誘ったのか不思議に思い、それについて考えを巡らせていた。 そして彼女が見せるじっと見て私と目が合うと逸らすという不審な行動も。
「もしかしたら、南川さんは僕の事を」
 私は彼女が時折見せる行為の意味に大きな困惑を寄せた。なぜなら、彼女は軽い男性恐怖症に陥っており、振ると傷をえぐる事になりそうだからだ。かといって、私には浅香萌という彼女のためなら命も惜しくはない、という少女がいる。
「まあ、そうと決まった訳じゃない・・・か」
 私は呟き、待ち合わせ場所へ向かった。彼女は黒いショルダー・バッグ、ジーパン、スミレ色の上着を着ている。彼女は私を見つけるとすぐに、こっちこっちと言わんばかりに手を振った。私は時計を見た。待ち合わせには五分も時間があるのに。
「待ったようだね」
「ううん、私も今きた所なんです」
 と相手は私を気遣ってか否定した。
「でもその割には小説かなり進んでない?」
 私は彼女が手にしている文庫本に目をやった。
「ほら、ページの角が折れている。これは南川さんがどこまで読んだか示す目印だよね。僕は図書室で会う時に君が本の角を折り曲げてから別れてるのを知っているから」
 私は彼女の本のページを繰った。折った跡が付いている。
「ほら、ここのページはごく最近折られたものだ。今日ここに来た時はこの跡だろう。つまり、僕がここに来る前、本を読んでいた事になる。では本を読む時はどう言う時か?待ち時間である。ゆえに、君は僕を待っていた。QED」  QEDとは数学で証明完了を意味する言葉である。
「そういえばQEDって何の略なんですかね?」
 しばしの沈黙の後、南川さくらが口を開く。
「ああ、ラテン語のQuod erat Demonstrundum(クォド エラト デモンストランドゥム)だよ。つまり、日本語に訳すと証明されるべきであった所のものである、っていう意味だね」
「先輩って、何というか、博識ですよね」
 後輩は感服した様子で言ったので私は照れて頭を掻いた。
「ところで昼飯は?」
 私が訊いた。彼女は遊園地の中の売店で食べると言った。私は相槌を打つと、背筋をピンと伸ばした。そして道化て
「さっ、参りましょうか。遊園地へ」
 と言った。遊園地は休日という事もあり、家族連れや若いカップルで賑っていた。後輩は目を輝かせて喜んでいる。どうやら何から乗ろうか、頭をフル回転させているようだ。私も遊園地は久々なので興奮している。しかし、彼女程ではない。
「早く乗りましょ!」
「慌てなくても時間はたっぷりあるって」
 私は興奮している彼女を落ち着かせた。私はまず何から乗るのか訊いた。
「あれです」
 指差した先に待ち受けていたのは銀色のレールがくるくると回っているものだった。確かテレビ・コマーシャルで最高時速、最長、最大傾斜の三つがギネスに載ったと言っていたジェット・コースターだ。
「あ、あっちにメリー・ゴーランドがあるよ」
 絶叫マシンが大の苦手な私は慌てて、ジェット・コースターに乗らせまいと反対方向の大人しい乗り物を指差す。後輩は嗤って、
「先輩、ジェット・コースターが苦手なんですか?」
 私はそれをひた隠しにしようとする。
「そ、そんな事ないよ」
 しかし彼女にお子様、と言われてしまって私は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「もう、ジェット・コースターは遊園地の醍醐味なんですよ」
 南川さくらは困ったように言う。そんな醍醐味いらない、と私はきっぱりと言った。
「何回か乗ってるうちに慣れますよ」
 何回も乗るなんて考えただけでも恐ろしい事を頼むから言わないでくれ。
「乗らなきゃ慣れる必要ないって」
 彼女は流石に苦笑した。そこで、じゃんけんで勝負しようと彼女が提案した。
「じゃーんけーん」
 私はグーを出した。彼女を見ると・・・、パーである。結局負けてしまい、私は魔の十三階段を登る心地でジェット・コースターの階段を登った。ここは潔く、乗ろう。
 徐々に緑色の竜の描かれた台車が上がっていく。私は恐怖を紛らわすためにふと思い付いた事を呟く。
「ジェット・コースターって、予防注射と似てるよな」
 隣に座っている少女は不思議そうに私を見つめ、それはどう言う事かと尋ねる。
「怖いのは最初のうちで、終わってしまえばどうってことないって事だよ」
 私の意見に彼女は賛同した。
「あと、十三階段を登る死刑囚も一緒ですね」
 この女は私の恐怖を煽って何が楽しいのだろうか?私は彼女を恨めしく思った
「嫌な例えだな」
 私は苦笑した。彼女はどこかボルトが緩んでるかもしれないと冗談っぽく私に告げた。絶対、私の恐怖心を楽しんでいる。
「おいおい」
 私は苦笑した。もうすぐ発車するから喋るなと後輩は私に告げた。ピーという係員の女性が吹いた甲高いホイッスルの音(ね)と共に死刑台の床が外れたように急落下。未消化の朝食が胃酸とともに逆流するような感覚に襲われる。吹き付ける突風。重力異常・・・。私の記憶はそこでなくなった。
「先輩、先輩」
 南川さくらは私を揺さぶる。ジェット・コースターで死ぬかと思った、と言っても大袈裟ではないだろう。
「ん?ああ、気持ちいいんで寝ちゃったよ」
 虚勢を張るが彼女に白目を剥いていた、と指摘されてしまった。
「くっ・・・」
 私は反論もできず、ただ大人しく彼女の言われるままに軽く嗤われ続けた。私は気分が少し落ち着いた所でやっと口を開いた。
「それで次は何に乗るの?」
 それから彼女の希望通り、バイキング、逆バンジーなど私の苦手な絶叫マシーンを数種乗った後腹時計が昼飯を催促した。もう、彼女とは二度と遊園地に来るか、と肚の中で呟いた。
「そろそろお昼ですね」
 彼女は言った。私は気分が悪くてそれどころでなかったのだが、体の催促には応じずにはいられない。空腹ではあるが吐き気を催すという実に奇妙な状態で昼食を取る事になった。
 赤い屋根が洒落ている、遊園地内のレストランに入った。私はコーヒーとサンドイッチのみを注文した。彼女はと言うと・・・、グラタン、ピラフ、オレンジ・ジュース、そして、チョコレート・パフェを注文した。
「よく入るな」
 太ると言いたいとでも思ったのだろうか?私は言うと少しむっとした様子で、
「それどういう意味ですか?」
「いや、別に」
 私は慌てて深い意味はない、と言った。太ると思うならそんなに食うな、と喉元まで出かかったが後々怖いので言うのを止めておいた。

FILE6、ジュリアス・シーザーからの手紙

 「回しすぎだろう。未消化のサンドイッチが出てきそうだよ」
私はコーヒー・カップに乗った後、彼女に抗議した。彼女はカップを勢いよく回しすぎたので、私はその台詞通りに胃の内容物が出てきそうになった。
「ごめんなさい」
 悪びれる様子もなく一応謝る、という態度だ。
「さっ、次何に乗る?」
 彼女に尋ねると、きょろきょろしていたが、やがて人混みを見つけて、
「あっ、あれ何だろう?」
 私は行ってみるかどうか尋ねた。彼女は行く、と言ったので私たちは何か解らないがそのアトラクションらしきものに向かって歩いた。
「何のアトラクションでしょうか?」
 彼女は目を活き活きとさせる。私は、肩をすくめた。
「でも、あれほどの人だかりだ。楽しいものに違いないよ」
「先輩は何だと思います?」
 絶叫物でない事を心から祈った。私は、お化け屋敷だろうと言った。これはそう思ったのでなく、彼女を怖がらせるためだ。案の定、彼女の顔は曇る。
「おや?まさか高校生にもなって怖いとか言うんじゃないだろうね?」
 私は意地悪っぽく言うと、
「高校生になったらトイレにも一人で行ける年齢ですよ」
「トイレなんか小学校に上がった時点で一人で行けるよ」
 と言うようなやり取りをしているうちに着いたので、並んでいる人の一人に何のアトラクションか尋ねた。
「は?何言っているんだよ。殺人事件が発生したらしいんだ。俺も詳しくは知らないが」
 殺人事件・・・。私はその言葉に反応して、いてもたっても居られなくなった。そして、周囲の人を掻き分けて中に入ると黄色いテープが見える。警察がよく使う立ち入り禁止のテープだ。
「栗越警部!被害者の身元が割れました!」
 制服警官の一人が信楽焼の狸のようにでっぷりと太った警部に報告する。
「まったくゴールデン・ウィークもぱあですね」
 その制服警官が言うと警部は軽く叱った。
「馬鹿もん。刑事には休みと言う文字はないよ」
 私は栗越警部の許可を得て、黄色いテープを黙って潜り死体を見た。
 私は細やかながら、捜査に協力し、事件を解決に導いた事がある。栗越警部も最初の二、三回か偶然だと思っていたらしい。しかし、五回目ともなると「偶然」では済まされなくなり、私の細やかな能力を認めた、という次第だ。例えば親友が殺された事件や祭りの最中に飛び降りた人を目撃したり・・・。十七年間で奇異な体験をしている。また、うち半分はこの後輩と一緒だったため、ホームズとワトソンとして受け止められているらしい。私などシャーロック・ホームズの足下にも及ばない、と言うのに。
 理知的な眼鏡を掛けた若い男性の死体。ジーパンと白い清潔そうなYシャツを着ている。私は栗越警部に、
「それで指紋は取られたのですね」
 取った、と答えたので私は遠慮なく、死体の頭を素手で持ち上げた。死体はまだ温かかったので、私は少し寒気がした。頭には大きな裂傷があり、頭を打って死んだものだと判断される。
「他に何か解る事は?」
「そうですね・・・、ペット・ショップを経営していて、未婚だが婚約者がいる。車は国産のもので、車の中には芳香剤がある。しかし、ここへは徒歩か自転車で来た。タバコを吸うがそんなには吸わないと言った所でしょうか?」
「どうして、解ったんですか?」
 私に着いてきた後輩は目を丸くする。
「何、簡単な事だよ。まず、これだ」
 と言って死体の衣服に付着していた茶色い毛を二、三本採って彼女に見せた。
「何ですか?これは」
 犬の毛だと私が言うと彼女は、
「でも犬の毛だったら近所の犬でも着きません?」
「死体の服を好く見てよ。南川さん。まだ他にも猫の毛、インコの毛・・・、色々服に付いているだろう。これほど多くの動物を買っている家がある?」
 彼女は私に言われるままに死体を見回した。犬がいる動物園なんていない。従って、ペットショップだろうと結論に達したのである。
「未婚だけど婚約していると言うのは指輪ですね」
 彼女は左手薬指の指輪を見つめて言った。彼女はなぜ車が国産車か訊いた。
「車は国産のものというのは、腕の日焼け具合だよ。国産車、というよりは右ハンドルというべきだったね。この人、左手の方が焼けているだろう?これは右ハンドルだと言う証拠さ。芳香剤があると言うのはこの人、芳香剤の臭いがするんだ。僕の親父の車と同じ臭いの芳香剤がね」
「徒歩か自転車というのは?」
「ああ、車の鍵がなかったからさ」
「地下鉄という可能性は?」
 後輩が言う。
「わざわざ、お金掛けて来る?車があるのに。駐車場も半分は空いていたし」
「じゃあ、タバコは?」
 私は答える代わりに死体の胸ポケットからライターを取り出した。
「それでですね」
 後輩は明るく言った。
「うん」
 そうこうしているうちに救急車が到着、死体の搬入に移った。その際、一枚の紙が落ちた。私はつまみ上げるとその紙にはこう記されていた。

 『麒麟 鮟鱇 鼠 狼       J ulius=Ceaser』

と。

FILE7、南川さくらとの会話

 私はこの動物の羅列を見た時、あの国名の羅列を思い出した。
「難しい漢字が並んでますね・・・」
 それが後輩の率直な感想だった。私は意地悪っぽく、
「おや?現国の成績好いんじゃなかったっけ?」
 現国とは現代国語の略で、安部公房等の近代作家を扱う。
「でも、精々、欺く、阻む、奴隷、出納とかですよ。魚に「安い」なんて漢字見た事ないです」
「仕方ないなあ、教えてあげよう」
 と渋々言うのを装って言うと、キリン、アンコウ、ネズミ、オオカミと読み仮名を言った。読み仮名を言った時、私は国名の羅列を思い出た、彼女にどう思うか訊こうと思ってここに持って来たのである。
「あっ、そうそう。南川さん」
「何ですか?」
 彼女は不思議そうに私の顔を見つめている。私はポケットを探った。やがて紙片を見つけると、それを彼女に渡した。
「これ、どう思う?」

 高岡 名古屋 広東 浜松 岡崎 魚津 陸前 与那国島 ウィーン 萩 ングル 高松。滋賀 ヨーク 宇治 高知 白村江 福井 ローマ 津 ひたちなか イェルサレム。

 と相変わらず意味不明だ。
「何ですか?これ」
 奇怪な生物でも見るような顔付きだ。しばし眉間に皺を寄せ、一言も喋らず考えていた。彼女はこう言ったパズルのようなものが好きなのだ。私なら新しい玩具をもらった子供のように喜ぶだろう。
「あっ!有栖川有栖さんの・・・」
 私は首を横に振った。
「僕もその方法を真先におもいついたけどね」
「えー、なら解らないです。というか有沢さんにも解らない暗号が私に解るはずないじゃないですか」
 私はにっこり笑った。
「暗号を解く能力は大差ないよ。むしろ南川さんの方が若いんだから」
「若いって言っても先輩とは一個しか違わないじゃないですか」
 後輩はくすくすと笑った。しかし、真顔になり、
「でも、さっきのジュリアス・シーザーからの手紙と何か関係あるんですかね?」
「ジュリアス・シーザーからの手紙?」
 今度は私が面食らった。
「あっ、すみません。ジュリアス・シーザーからの手紙というのは動物が羅列してある暗号の事です」
 そう言えばパークス・ロマーナと呼ばれたローマ帝国全盛期の独裁者である、ジュリアス・シーザーの名前がサインしてあった。
「あっ、シーザーで思い出したんだけど、英語の七月って意味のジュライは彼の名前から取ったんだよ」
 後輩は感服したような顔で私を見つめる。
「ちなみにオクトーバーはオクタヴィアヌスから取ったと言われている」
 後輩は目を活き活きとさせてこの暗号と何か関係があるのかと訊いた。
「さあね、でも関係あるかも知れないから一応言っておいたんだ」
 しばらくこの事について話していると、栗越警部が私の下に来た。来ただけで周りの温度が五度は上昇するだろう。
「関係者集めたが、一緒に訊くかい?」

FILE8、鹿野友紀(かの ゆうき)

 「おや?君は」
私に会うとグレイの服を来た男性はそう挨拶した。私は一瞬、思い出せなかった。
「ほら、事務所で会った」
 ようやく霧のようにぼんやりとしていた記憶が晴れ、思い出す事ができた。彼が事務所で待っていた時に、私が帰ってきたのだ。それで軽く二言三言話して私は部屋に引っ込んでしまった。そう、彼は依頼人なのだ。
「会ったことあるのかい?」
「ええ、ちょっと」
 と曖昧に返事をする。というのも、依頼人の素性は誰にも明かさないのが基本なのだ。
「この子とは、探偵事務所で会いました」
 と正直に告白した。栗越警部はほう、と無表情に返した。
「何について調べてもらったのです?奥さんの素行調査ですか?」
 探偵と言ったら浮気調査くらいしか思い浮かばないらしい。私は少し苦笑した
「いえ、違います」
 友紀は死体を一瞥して、
「田中の横領の証拠捜しです」
「横領?」
 栗越警部が眉を吊り上げると、鹿野は、
「はい。実は私、死んだ田中とは大学の同窓生でして、ペット・ショップをやっております。こいつが経理で私が販売です。そこそこ繁盛してきましたので二人、バイトを雇いました」
「今日、ここにきた人たちはその職場仲間だというわけですね」
 私が訊くと鹿野は大きくうなづいた。
「それで、横領はいつから始まっていたんですか?」
 栗越警部が訊くと、即座に昨年の四月からだ、と答えた。警部もこの裏には横領があると察知したらしい。横領の理由に心当たりはないか、という栗越警部の問いに鹿野は、
「たぶん、あいつの婚約者の事だと・・・・」
 栗越警部は浪費癖のある女性か、と尋ねた。ところが彼の予想とは裏腹に、
「いえ、ただあいつの運転する車が事故に遭いましてね。田中は軽いムチウチ症ですみましたが・・・」
 鹿野はそこで言葉を切らせた。
「婚約者の方が重傷を負ってしまったと」
 私は相手の代わりに答えた。鹿野は黙って肯定した。警部は鱈子唇を太い指でゆっくりとなぞった。やがて、警部は横領された金額を尋ねた。
「大体、平均すると月に二、三万です」
「それで、あなたは始めは黙認していたと」
 警部が冷ややかな口調で言った。
「はい、横領よりも彼が可哀想になってしまって」
 確かに田中は可哀想である。恋人の治療に万単位の金額が掛かるなんて、横領でもしなければ治療費は賄えないだろう。
「誰かに恨まれておいででしたか?もちろん、婚約者の家族は除いて、です」
 私が尋ねると、鹿野は少し戸惑った様子を見せたが、
「私が恨んでおりました」
 警部はそうでしょうな、と相槌を打つ。
「横領がありましたからね」
 私は控え目に発言すると鹿野は肯定した。
「あなた以外の人間から誰か恨みを買っているってことはありませんか?」
 彼は一思案して、
「多分ないかと、こいつは客の前に姿を見せませんでしたので」
 裏方に徹していたわけか、と私が呟く。
「では、最後の質問です」
 警部が威厳を持って言うと鹿野ははい、と短く答えた。彼はアリバイを尋ねた。鹿野は少し気分を害した様子で、
「田中と横領の件で会っていましたよ。田中の面子もありましたので二人きりでした」
 疑いの眼差しを警部は向ける。証言を疑っているのではない。恨んでた人間が二人きりで会うのは殺人に発展するかもしれない、と言う事だ。彼はそれを察知したのか、
「でも、私は殺していない」
 と喘ぐように言った。
「それは私たちが判断する事です」
 警部は威厳を持って答えた。そして南川さくらは私に、彼が怪しいと囁いた。

FILE9、有馬朋美

 次に話を訊いたのは背の高い、胸までの茶髪の女性だった。龍の模様が入った中国風の印象を受ける真赤なワンピース。けばけばしい化粧と言った、私が苦手とするタイプの女性だ。
「放してよ!私が何したの?」
 思った通り少々近寄り難い。担当の刑事が二、三分話を聞くだけだというと、少しヒステリーは和らいだ。
「有馬朋美(ありま ともみ)、二十二才だ」
 警部が私に囁くと、彼はお掛け下さいと椅子を薦めた。彼女は座りながら私たちの事を尋ねた。レストランのウェイトレスが注文を取りに来た。コーヒー二つとオレンジジュースをさり気ない調子で注文する。
「何なの?この子たち」
 私たちの事を訊かれると巡査と紹介することにしている。童顔の巡査だ、といつも言われる。そりゃそうだ。まだ十七才なのだから。
「今日は非番で・・・」
 参ったと言うように頭を掻く。
「こいつの推理力は侮れないものがありましてな」
 どうでも好いよ、とでも言う投げ遣りな口調で栗越警部が私を紹介した。前置きはこれくらいにしておいて、質問に移った。
「つい三時間前どこにいましたか?」
 気分を害したらしい。言葉に刺を含ませて、
「安田さんと一緒にいましたよ」
 彼女の言葉に上がったのは恐らくもう一人のバイトの人だろう。
「田中さんに対して不満はありましたか?」
「田中・・・?ああ、経理の人。特に不満はなかったわ。強いて言うなら時給の値上げかしら。そこそこの時給だったけどね」
 時給に関しては大概の労働者が不満を言うので私たちはそれを無視した。
「殺したい程、憎んでいた人は思い当たりませんか?」
「鹿野さん位かしら。いつも言い争ってたし」
 口論の原因は横領の事に違いない。私たちは、礼を言って別れた。

FILE9、安田康史

 安田康史(やすだ やすし)は背の低い痩せた男だった。鯨が潮を噴いている絵がプリントされているTシャツを着ている。終始おどおどしている気の弱そうな男性だ。
「あ、あの。俺は何を答えればいいんですか?」
 警部に椅子を薦められると一礼をして座った
「有馬さんは三時間前あなたと一緒にいた、と証言していますが本当ですか?」
「はい、俺が離れたのはトイレに行ってる間でしたけどほんの二、三分でした。そんな時間で田中さんを殺して、戻ってくるなんてできませんよ」
 何で殺されたと解ったか尋ねると、刑事に聞いたと言う。
「では、彼が恨まれてたという心当たりは」
「さあ、副店長と口論していましたけど、恐らく経営方針の食い違いでしょう」
 どうやら、田中が店長で鹿野が副店長という立場にあるらしい。私はあえて、真実を、つまり口論の原因は横領だと言う事を言わなかった。
「あっ、そうそう。刑事さん」
 としばしの沈黙の後、彼の方から発言した。
「何ですか?」
 私が言うと事件とは無関係かも知れないと前置きをして、
「数日前、こんな手紙がロッカーに入っていたんです」
 と言って紙を取り出した。そこには、

 高岡 名古屋 広東 浜松 岡崎 魚津 陸前 与那国島 ウィーン 萩 ングル 高松。滋賀 ヨーク 宇治 高知 白村江 福井 ローマ 津 ひたちなか イェルサレム。

 ※日本人が首を切られた。

 と言う例の国名の羅列が。しかも注釈まで意味不明だ。広東は中国だし、ウィーンはオーストリア、ヨークはイギリスだ。日本の都市だけではない。
「この話を詳しく聞かせていただけますか?」
 私が目を輝かせて尋ねるといいですよ、と言った。
「見ての通りワープロ打ちで、しかも茶封筒に入っていました」
 私が彼だけ受け取ったのかと尋ねると、全員受け取ったと答えた。栗越警部は唇を指でなぞっている。
「それで、皆に聞いても知らないと言うんです」
 私は微笑して幾度もうなづいた。
「警部、恐らく犯人は鹿野でしょう」
 安田を返した後私は言った。警部もうなづき、
「残る課題はこの暗号めいた文章だよな」
「例えば有馬の名前には蟻が入ってるし、安田の名前には鮟鱇が入っている」
 私はくすくす笑って、それではジュリアス・シーザーのサインの意味は、と言った。しかもJとuliusの間が離れている。
「更に意味不明なのは、この安田が話した地名の方だ。日本人が首を切られた、と書いてあるにも関わらず、広東、ウィーンなど外国の地名も入っている。それにこのイェルサレムはエルサレムという表記の方が一般的だぞ」
「もう、暗号は解けているよ」  と言うと、警部と後輩は驚いて私を見つめた。
「ええ!どうしてですか?」
 後輩が言った。私は、彼女に感情を込めて、
「南川さくらよ。そなたの推理力は眠っているが、鎖に繋がれている」

幕間~読者への挑戦状~

 今回は犯人が解っているので「誰がやったか」と言う問題は出さない。今回読者諸君に解いてもらうのは暗号である。本編でも再三触れているように推理作家、有栖川氏の小説にも似たような暗号があるが、解読方法は全く異なる。さて、賢明な読者諸君、この暗号が解けるだろうか。

 『麒麟 鮟鱇 鼠 狼       J ulius=Ceaser』
 『高岡 名古屋 広東 浜松 岡崎 魚津 陸前 与那国島 ウィーン 萩 ングル 高松。滋賀 ヨーク 宇治 高知 白村江 福井 ローマ 津 ひたちなか イェルサレム。

 ※日本人が首を切られた。』

FILE10、解読

 後輩と私は遊園地のベンチに腰掛けた。
「早く種明かしをして下さいよ」
 後輩がまるでデパートの玩具売場にきた子供のようにせがんだ。
「まあまあ」
 私はなだめるように言った。
「僕の数学の教え方知ってるだろう?」
 彼女から前に三角比の問題について質問を受けた事があった。その際に、答えは決して言わない。あくまでヒントを言う事にしている。質問をしている方は焦れったいだろうが、高慢ながらも考えて考えて、やっと解けた思わず叫びたくなるような愉しみを味わってもらいたいのだ。
「まず、首を切られるとはどう言う事だろうね」
 後輩はしばらくの間考えていたが、やがて解雇される事、と答えた。
「解雇からどう繋げていくつもりだい?」
 私は微笑しながら言った。
「解雇・・・解雇・・・」
 と口の中で呪文のよう暗唱している様子だったが、断念したように首を振った。
「そう。首を切られる=解雇されるではないんだよ」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
 後輩が尋ねる。その問いに、
「『前から順に首を切られ、さあ、楽しいリズムの始まり始まり』」
 私は詩を諳んじる国語教師のように抑揚をつけて言った。これはあるミステリーに出てきた暗号なのだ。
「つまりね。南川さん、あの暗号とこの暗号の本質は一緒なんだよ。つまり、頭文字だけ読めと言うことさ」
 最初の高岡は「た」、次の名古屋は「な」・・・という風に読んで言って、最後のイェルサレムは「い」と読むと、「たなかはおうりようはんた。しょうこはふろつひい」、つまり「田中は横領氾だ。証拠はフロッピー」となる訳だ。その事を愛すべき後輩に言うと、
「でも日本人というフレーズはどうなるんですか?」
 私は二枚の暗号が書かれた紙を出し、シーザーのサインがしてある方を見せた。
「これと区別するためさ」
 後輩は一瞬、訳が分からないように私を見つめた。
「ジュリアス・シーザーはどこの将軍でしょう?」
 何と関係あるのかという不満げな口調で後輩はローマと答えた。しかし、後輩は解ったと大きな声を上げた。
「シルクハット!」
 私は想像だにしない回答で面食らったが、言いたい事が想像ついた。クイーンの処女作の名が頭に浮かんだに違いない。
 私は面白そうなので間違いを指摘せず、そのまま彼女の推理を聞く事にした。
「それで?」
「シルクハットを捜すんです。シルクハットの中にはきっと横領の証拠が入っているに違いありません」
 まるでキング牧師のように熱っぽく語りかける彼女に、私は笑いながら首を振った。
「さっきも言っただろう?頭文字を読めって。エラリィ・クイーンとは関係ないし、レスピーギとも関係ないよ」
「レスピーギって誰ですか?」
 と後輩が訊いた。レスピーギとはイタリアの作曲家で『ローマ三部作』、つまり『ローマの松』、『ローマの祭り』、『ローマの噴水』を書いた。後輩はしばらく黙ってこの暗号について考えていた。
「ローマ字読みにしろと言う事ですか?」
 私は大きくうなづいた。
「そうすると?」
「K、A、N、O。鹿野になります!」
 私は大きくうなづいた。
「その通り。実に陳腐な暗号だけど僕も一瞬、訳が解らなかった。この出題者の巧い所は関連している言葉を羅列してある所なんだ。何か関係があるかのようにね」
 私は国名の羅列された紙を持ち上げて、更に続けた
「例えばこれが、卵、中田、缶ビール・・・・っていう風に全く無関係な言葉の羅列と今回の暗号のように、何か関係のありそうな言葉の羅列――今回の場合は国名だったけど――とどっちが見破られにくい?」
 後輩は後者と答えた。
「そう。文全体に目が行くからね。でも、それはカムフラージュだったんだ」
 私がレクチュアを終えると、
「でも、よく書く暇ありましたね。先輩の推理だと、突発的な事故だったのでしょう?」
 彼女が疑問に思うのももっともだ。私は恐らく、鹿野に殺されるかもしれないという事を薄々感じてたのだろうと説明した。
「じゃあ、匿名で送ったのは誰なんでしょう?」
「恐らく、田中さんだろうね」
 後輩は驚いたように目を見張った。
「えっ!?でも、それじゃあ・・・」
 私は諭すようにして、人間の心というものは自己の立場を守るために隠し通そうとする心と理性が葛藤するものだと言った。しんみりしている所に、栗越警部が大股でやってきて、
「事件の真相が解ったぞ」
 と言った。
「やっぱり横領が原因だったんですか」
 警部はマイルド・セヴンに火を点けて答えた。
「ああ。君も知っての通り、田中は恋人の治療費のために横領をしていた。それで、今日、彼が鹿野に詰めよって許してくれと哀願したそうだ。鹿野は横領の事実を警察に話すと言っていたからな」
 肥った警部は紫煙を吐き出した。
「でも、鹿野も頑固でな。まあ、相当額の横領をされて我慢していたという事もあったかもしれないが」
「それで田中は殴りかかってきたわけですか?」
 私が訊くと、警部は首を振った。
「いいや。襟元を掴んで、頼み込んだそうだ。それで煩いと突き飛ばしたら、たまたまそこにあった木にぶつけて死んでしまったと言うわけだ」
「それじゃ、正当防衛って事ですか?」
 後輩は控え目に発言した。これは違う。正当防衛と言うのは、刑法第三十六条に記されている通り、自分が殺されそうになった場合や自分のバッグが盗まれそうになった場合に相手を突き飛ばし、打ち所が悪くて死に至った場合を言う。
「いいや、僕が言ったように殴り掛かったなら話は別だ。これは立派な正当防衛だよ。でも、今回は過失致死と言って五十万円以下の罰金刑なんだよ。殺意はなかったからね」
 警部はゆっくりと立ち上がると、これから調書を取る必要があるので、と言って立ち去った。陽は既に落ちていた。
「でも人の命を奪っておいて五十万円以下って遺族は納得いかないでしょうね」
 後輩は怒ったように言う。私はそうだろうと答える。やがて後輩は、犯人に同情したらしく、
「・・・田中って人も可哀想ですよね。恋人の治療費のために莫大な費用がかかってやむを得ず横領に走ったんでしょう?」
「確かにそれはそうだろうけど、でも犯罪は犯罪だよ」
 私は厳しい口調で言った。しばらくしんみりとした哀しい空気が流れたので、ここは彼女の意見に優しく従うべきだったか、と懸念した。
「で、でも、きっと情状酌量が認められて執行猶予付きになるだろうね。まあ、ここからは裁判所が決める事だよ」
 何となく重苦しい雰囲気になってきたので、私はこの話を終わらせようとした。もう一つの理由は、後輩が同情してもの悲しい顔付きになってしまったからである。私の見解を聞いた彼女は明るい表情に戻った。
「先輩」
 と言って、インスタント・カメラを取り出した。
「記念撮影に」
 何の記念だと思って心の中で苦笑したが、
「どこで取る?」
 と言った。観覧車の前に移動し、シャッターを切った。眩しい閃光が私たちを照らす。
「最後に観覧車乗って帰りましょう」
 後輩がそう言った。

FILE10、告白

 南川さくらは終始、夕焼けのように顔を赤らめていた。熱があるのかもしれないと心配した程だ。
「ごめんね。事件に巻き込んじゃって」
 私が謝った。
「いえいえ、先輩のせいじゃないです」
 はにかんだように笑って見せた。確かにそれはそうだが後輩を放っぽりだして、事件に没頭した私に非がないとは言い難いだろう。
「つまらなかっただろう?僕が暗号に没頭しちゃって」
 自虐的な微笑をすると、後輩は大袈裟に手を振った。
「とんでもありません。とても楽しかったです」
「そういってくれると嬉しいよ」
 観覧車から見る夜景が綺麗だったのを今でも記憶している。それは星を地面に鏤めたような光景だった。
「先輩」
 私はその綺麗さに心を奪われていたので、呼ばれている事に最初、気付かなかった。
「ん?あ、ああ」
「先輩」
 何だか言いにくそうに口をもごもごさせている。
「見てごらん、夜景が綺麗だよ」
 私は彼女にそう言って、窓を向かせた。
「本当・・・」
 彼女は、うっとりと夢を見ているように呟いた。これに勇気付けられたのかどうかは定かではないが、意を決したように今、付き合っている人はいないかと尋ねた。鈍感な私は、いない、と答えてその質問の意味を考えなかった。
 後輩の顔はぱっと明るくなった。
「先輩、実は前から先輩の事が好きだったんです」
 恐れていた事態が起きた。彼女を傷付けないないよう、断らなければならない。私はその自信がなかったし、今でもないだろう。しかし、もしここでイエスと返事をしたら、彼女は自分を愛していない人と付き合う事になる。そうなれば断ったよりも大きい心の傷を負う事に違いない。私はどう言おうか頭の中で言葉を纏めた。
「ごめん・・・」
 無意識にその一言が出ていた。
「実は僕、好きな人がいるのね」
 私はゆっくりと慎重に言葉を選びながら言った。そして、浅香萌と言う私の愛している少女について話した。もちろん浅香萌の事は“彼女”という代名詞で全て通した。
「そういうことだから、本当にごめんなさい」
 無意識に丁寧語になっている自分に気付いた。しばしの沈黙。後輩は俯いて私の話を聞いていたが、やがて満面の笑みを浮かべた。
「解りました。その人が早く帰ってくるといいですね」
 南川さくらの心境がどうであれ、私はその台詞を心から言ったと信じている。
「南川さんも、僕なんかより相応しい人を見つけてね」
 自嘲的な笑いを浮かべている自分が恥かしく思えた。観覧車を降りると、
「先輩、お願いがあります」
 気まずい雰囲気の中、彼女が言った。
「ん?キス以下の事なら何でも聞くよ」
 私は道化けて言ったが、彼女はそれを真剣に受け止めたらしい。言いにくそうに俯いてしまった。
「抱き締める事はキス以下なんでしょうか?」
 呟くように訊いた。私は優しく彼女を抱き締めたのだった。彼女の心臓の鼓動がはっきりと私の耳へと聞こえてきた。これは浮気に入るのだろうか?
「さっきのカメラに納めてないだろうね?」
 私は道化て訊いた。彼女は、笑うだけのリアクションしか見せなかった。私は焦って、
「お、おいおい」
「撮ったって言ったらどうしますか?」
 まさか、この女本当に撮ったのか?
「お、おい」
 私が焦るのを面白そうに見つめ、
「心配しないでください。私はそんな悪女じゃないです」
 私は心の中でほっと安堵の息をついた。私に取って伏見の地下鉄駅までの道のりが何百メートルにも思えたのは言うまでもない。気まずい雰囲気の中、私たちは黙々と一言も喋らずに歩いたのだった。互いに自分の靴や落ちている煙草の吸い殻などを初めて見るような不自然さで眺めた。
「そ、それじゃ」
 植田駅で彼女が降りた時、私は妙なぎこちなさで手を振った。しかし、彼女は深々といつものようにお辞儀をしてくれた。これで好かったのだろうかと自分の胸に改めて問い掛ける。しかし、答えは出てこない。ティーンズ・エイジだった私にとっても、もちろん彼女にとっても、血の滴るような命掛けの行為だったに違いない。

 決して忘れる事のない思い出の日から数日が経過した。彼女からはメール交換はしばらく止めるというメールが来た。授業中喧しい女子高生たちを半ば軽蔑、そして呆れの意識で見ていた私にとってはあのような読書家の女性がいると解り、その彼女とメール交換を止めるのは惜しかった。しかし、それも彼女の心境を考えると仕方ないだろう。
 それ以来、私は彼女が薦めてくれた作家、有栖川有栖を貪るように読んだ。彼の本を読む事で、まるで南川さくらの亡霊が蘇ってくるような錯覚に陥る。そして、あの言葉が蘇ってくるのだ。
――解りました。その人が早く帰ってくるといいですね
 その言葉が頭の中で鳴り響くたび、
「いくらでも待つよ」
 と呟いてしまうのだ。そして、南川さくらの事を他人に言う時、こう呼んでいるのである。〈あの女性〉と・・・。
ツイッターで感想を一言!

この作品はいかがでしたか?

一言でも構いませんので、感想をお聞かせください。