Hの悲劇(The tragedy of H)
序
私は今回の「事件簿」を一人称で描かない事にした。なぜなら、今回の事件はそれぞれにの登場人物に歴史(?)があり、そしてそれぞれの歴史が皆ドラマチックだからだ。そういうことで今回は三人称になっている。
二〇〇一年七月一日、名古屋の自宅兼事務所にて。
FILE1、チケット
「えーっ、萌ったら彼氏いないの!?」
一人の女生徒が驚いた声が学校の食堂内に響いた。「彼氏」というアクセントが今時の若者らしく語尾上がりの口調だ。
彼女が驚くのは無理もなかった。なぜなら、彼女ことおなじみ浅香萌は男の目からはもちろん女の目から見ても可愛いからだ。宮崎駿アニメに出てくるような可愛く、オテンバで冒険好きなそんな少女だったから。
卵形の輪郭で幼顔の彼女。髪の毛は一度も染めた事のない、こめかみまでというショートヘアの黒髪。全体としてまだあどけない印象が拭い切れない正に「少女」である。目はぱっちりと大きいのもそれに拍車をかけているのかもしれない。
しかし、物の考え方は立派な大人だ。かと言って夢を忘れてるわけではない。礼儀正しいという意味だ。廊下ですれ違った先生には知らない先生でも挨拶をするし、授業中寝た事はない。唯一の校則違反は携帯を学校に持ち込んでいるという事位だ。
「だったら、好きな人は!?」
「えっ」
萌は思わず自作の弁当の卵焼きを箸から落としてしまいそうになった。それを慌てて左手で受け止め口の中に放り込んだ。
「い、いるわよ・・・。それ位」
ほんのり顔を朱に染めて言った。もう一人の女生徒は、ニヤニヤと笑いながら
「へー。告らないの?」
「う、うん、だって彼の完璧な思考回路に支障をきたすといけないから。彼の頭脳に恋っていう感情が入るとどんな精密機械に砂粒が入り込むよりも大変なんだから」
「あれ?その人受験生?」
「社会人」
友人の尋問を若干、うっとうしく思ったのか短く答える。
「何してるの?」
立場を説明するのは困難だと彼女は感じた。
「えっと・・・、プログラマーよ。インターネットで使うチャットとか作ってる」
「告っても大丈夫だと思うけど・・・」
と怪訝そうに顔色をうかがう女生徒。
「それだけじゃないの。彼の仕事は」
「他にどんな仕事やってるの?」
「うん。性格にはお金もらってないから仕事と言えないかもしれないけどね。ねえ、競馬場から馬が消えて馬主も殺された事件知ってる?」
「ああ、あの事件?確か犯人はトレーナーだったよね?」
「それ、解決したの彼」
と彼女は得意げになって言った。信じられない様子で、
「またまたー」
「んじゃあね、建設会社社長が殺された事件は?」
「確か、当初は有・・・何とかって人が疑われてたんだけど別の人が犯人だったんだよね?」
「有沢翔治よ。その人なの」
と萌が訂正した。
「えーっ!?確か自分で疑いを晴らしたっていう?」
彼女は得意げにうなづいた。
「彼は時々ああやって難事件に取り組んでは解決するの。だから、私が告ったことで彼の推理の妨げになるといけないでしょ」
女生徒二人は顔を見合わせた。こんな純な娘(こ)は滅多にいない。
「ふーん。でもさ、一生付き合わないつもり?」
萌は今までそんな事一度も考えた事なかったので返事に困った。
「ねっ。あっ、そうそう」
と言いながら財布をスカートから取り出した。彼女は財布から二枚の縦長の券を取り出すと萌に渡した。
チケットは横十センチ、縦二十五センチ程のツヤツヤとした白い紙だった。山と雲がクレパス調に描かれており、さわやかな感じを出している。
これは小さな旅行のチケットで言わばキャンプとツアーのアイノコみたいな物だ。いや自炊しなくてもいいキャンプと言った方が正確だろうか?朝、晩は中央の大きなコテージで食事をとり、昼はお弁当とお茶が支給される。後は大自然をたっぷり満喫するっていう企画なのだ。
「これ、何?」
まるで見た事のない材質であるかのように萌は光に透かしたり一字一字をしっかり調べた。大野恵美は簡単には旅行の事を説明した。
「うん、実はね、彼氏と行くつもりだったんだけど。私、古文が二十七点で赤点でさ。うんで行けなくなったの。あげるよ。どうせ行けんし」
彼女はお礼を言うと、チケットを自分のスカートのポケットに押し込んだ。
「でも、いいの?」
申し訳なさそうに言う浅香萌。
「いいの。いいの。それに萌だってちゃっかりポケットに押し込んでるじゃない」
「えへ」
彼女はいたずらっ子のように舌をぺろっと出した。
FILE2、誘う
それから約六時間後、萌は尊敬と甘い恋心の混ざった思いで見つめている有沢翔治のもとにいた。彼は丁度、プログラムを組んでいる最中だった。
「ねえ。八月の八日、九日、十日って暇?」
彼は仕事をしているにも関わらず浅香萌は勇気を出して話し掛けると、キーボードを打つ手を休めた。そして丸い灰色のボロ椅子をギーと甲高い嫌な音を立てて回しながら彼女の方を向いた。そして彼は携帯を取り出すと、
「ちょっと待ってね」
と言いながらそれを手慣れた手つきで予定を確認する。
「入ってないけど・・・。会議とか、商談とかは、オフ会とかは。二十五日はオフ会だけどね。でもどうかしたの?」
と何でそんな事訊くんだろうと不思議に思いながら訊いた。
「はい。これ」
もじもじして友達からもらったチケットを取り出した。
「ん?何?このチケット」
有沢は二枚のチケットをよく見比べた。萌は簡単に昼放課の出来事を話した。もちろん、自分が彼の事を好きだと言う事は伏せて。
「ふーん。家でぐうたらしてるよりも面白そうだね。行こうか」
彼は休日はチャットかコーヒー飲みながらクラシック音楽を聴くか、推理小説を読むかしかしない。そうするよりは彼自身、旅行は嫌いな方ではないのですぐに飛び付いた。
「でも、一つ問題があるの」
と顔を真っ赤にしてうつむいて小さな声で言った。
「ん?このAっていうの、日程を表してるんじゃないの?Aは八日から十日までって言うふうに」
何も知らないある意味ノーテンキな・・・しかし、彼は何も知らないのだから仕方のないことかも知れない・・・彼をよそに彼女の赤さはますます増していく。アメリカの事件で一緒の部屋で泊まった経験があったにしてもやはり同じ部屋、というかコテージだとは彼女にとっては言いづらい。
「実はね部屋番号なの」
やっと聴き取れるか聴き取れないかの声で彼女は言った。彼はステンレスのコンロでやかんにコーヒーをいれるため湯を沸かそうと流し台へ向かっている最中だった。
「同じ部屋なの」
翔治の頭の中で何度もエコーされた。
もちろん彼女と一緒に旅行へ行けるのは楽しいが、同じ部屋に泊まると言うのは好ましくないことだと思っていた。第一、恥ずかしいと言うか・・・いや、ここは恥ずかしいと言う言葉しか思い付かないので恥ずかしいと言う事にしておいてほしい。
今度は彼が顔を火のように真っ赤にほてらせた。
「どうする?」
と独り言のように彼が言った。
「う、うん・・・。ジージョが行きたいんなら私は行くけど。丁度、二人分ペアの物だから二人一緒じゃないといけないし」
「そりゃあ、行きたいけど・・・」
二人とも顔は真っ赤で、ある種異様な空間だった。
「相部屋だって言うのはねぇ・・・」
チケットをくれた友人を萌は恨めしく思った。何で最初に言わないんだというふうに。
「でも今更返す訳にも、メグに悪いし・・・」
メグとはもちろん大野恵美の事だ。
「うんじゃあ、行くの?」
彼が訊いた。
「うん、行こう。着替えるトコを別にすればいいしね。とりあえず」
彼はそう言う問題か、とも思ったがあえて言わなかった。どうやら彼女は自分の事を男としてみていないのではないか。と時々思う事がある。むろん、そんな事はないのだが。
言わなかった理由はせっかくの大自然に触れる機会。そして密かに好きな彼女と近付けるチャンスかもと思ったからだ。
そんな訳で彼らは小旅行に行くことになった。
FILE3、不倫
「文人(ふみと)」
本多文人の母親、佳子は彼女の息子を読んだ。
「何?」
ギリシア神話の神のように美しい青年が現れた。
彼こそが本多文人、十八才の高三であった。長野県内の公立高校に通っている。脚本家か俳優を目指し、演劇学を勉強できる大学への進学を希望している。
「はい。お誕生日プレゼント。川田さんと一緒に行くんでしょ?」
と言ってチケットを二枚渡した。川田とは彼の一つ上の恋人の事である。
「あれ?その二枚は?」
と彼は持っている別の二枚を見て言った。
「ああ。これ?母さんたちも行くことにしたの」
「行くって?誰と?」
「勇雄伯父さんとよ」
伯父さんとは文人から見て伯父に当たる人物。つまり、佳子からすると夫の兄である。
夜九時の柱時計の音と共にチャイムがなった。佳子は小走り出て行った。彼女の夫、武雄が何者かに毒物を盛られ、死亡した事件から約五年。それから、佳子夫人と勇雄との間は不倫とは呼べなくなった。
「じゃあ、母さんちょっと出かけてくるから」
そう言うと毎夜、夜の街に二人きりで繰り出すのだった。そんな母を不満に思っていたが母以上に彼は伯父である勇雄を憎んでいた。
彼は執刀医なのだが腕は三流以下なのに一流の腕を持ってるかのような傲慢で鼻にかかる態度を取っているということもあるのも一つの原因といえよう。おまけに医療ミスは看護婦のせいにする、死亡させた患者の遺族に謝罪の言葉はないという具合で総すかんを食らっている状況だ。それに加えてこの男、かなりの借金をしている。
父、武雄は小児科だったのだが腕は一流なのに開業医をして、生計を立てていた。誰からも恨まれるような人物ではなかった。もっと大病院への転職を勧めると決まって、
「これが天職なんだよ」
と豪傑に笑いながら寒いダジャレで答えてくれる。
さて、二人はもう一緒の布団で寝ていた・・・。
もう誰も二人を咎める事はできない。なぜなら佳子の夫は既に死んでしまい、勇雄は一人身なので。
実を言うと五年前の事件は一時期、二人で共謀したという説が強くてほぼ確定であろうと言う状況まで浮上した。しかし、警察は決定的証拠を上げられずに今日まで長引いていた。当時、かの名探偵として有名な有沢俊作も手掛けた事件だったが結局、未解決と言う事になってしまっている。
彼は今、妻の仕事上の都合でアメリカにいるそうだが、彼の探偵事務所と同じ敷地内で、彼の息子が小さなウェブで使うプログラムを作る会社を経営している。一応、株式会社だが市場には規模が小さすぎるために出回っておらず、株主は両親とごく親しい友人だそうだ。
さて、彼の会社はどうでもいい。
重要なのは彼もまた、数々の何事件を解いているということだ。実は文人はオンライン小説家の小説、戯曲を読むのが好きで有沢翔治の小説もまた数作読んでいた。
実際の事件と照らしあわせると合致する点が多々あった。また彼の新作「スペード一家殺害事件」に自分の父親は有沢俊作であると書いていたし、「予告された死の事件」では彼の特徴が事細かに書かれている。事情聴取に訪れた彼の特徴は鋭い顎とVの字の眉毛というかなりインパクトの強い顔であったので文人は覚えている。
メールでも出して事件の依頼でもするか。そう文人は思った。自信はなかった。
文人は自室の机に向かうと、試験勉強・・・ではなく演劇部の脚本を書き始めたのだった。演劇部の脚本の締切が近付いていたからだ。
彼が書くのは専ら悲劇で、しかも親の仇討ちを描いたシェークスピアの「ハムレット」のような劇がほとんどだ。
「あ、もうこんな時間だ」
十二時を指している時計を見て脚本に熱中していた文人は思い、呟いた。
(また朝帰りか。)
今度は口に出さなかった。思っただけ。
本当のことを言うと伯父を殺したい程憎かった。なぜならあの人の良かった父を殺し・・・少なくとも彼はそう確信している・・・母を言い包め毎晩一緒に寝、そして幸せな家庭を奪ったあの伯父を。
しかし、高校生の自分に何ができようか?と思って半ば復讐を諦めていた。それに復讐なんかしても川田優子が悲しむだけである。そう思って復讐は諦めかけていたが、五年前の事件の真相は明らかにしたい。
それが文人青年の願いであった。
これから彼、本多文人はどう言う行動に出るのだろう?
FILE4、メール
有沢翔治は日課でメールを見ている。彼のパソコンは一日中つなげっぱなしである。おまけに自作のプログラムでメールが届いたらディスプレイに表示されるようになっている。
チェーンメール数通、エロサイトの広告、そして仕事であるプログラム作成の依頼・・・・。その中に文人のメールがあった。前者二種類を削除し、数十通に渡るメールの返信・・・もちろん部下たち全員でやるのだが・・・が終わった頃にはもうかなり疲れている。
ところが文人が送ったメールの内容を読むと疲れも吹き飛んでしまった。彼にとって論理的思考を養うという事はこの上ない楽しみだからだ。
拝啓
突然のメールをお許し下さい。
ぼくは本多文人という者です。
実はあなたのお父上である有沢俊作様が担当した事件を引き継いで頂きたく
このようなメールを差し上げた次第でございます。
事件は五年前の1995年、七月二日に起きました。
その日は休暇で伯父が珍しくいらして、
母も伯父に豪勢な料理をふるまってあげようと台所に立って料理を作っていました。
夕食は楽しく進みました。
ぼくはその日、早く寝てしまってよくは覚えていませんが、
しかし朝起きたら父が死んでいた事は確かです。
ぼくは八月からのキャンプに参加しますが、あなたはいかがなされますか?
もし参加なさるのであればその時、じっくり話を聞いて頂きたいのですが・・・。
では失礼します。 敬具
翔治は何回もそのメールを読み返した。そして来る事が解っているメールを読んだかのように嬉しそうな笑みを一人漏らした。
好奇心に駆られた有沢。自室兼事務所の奥に引っ込み、ほとんど推理小説ばかりの本棚に行った。そして一番奥の一番下か青いクリア・ファイルを取り出した。これは彼の父親、有沢俊作の扱った事件ファイルである。
そしてその横から緑のクリア・ファイルを取り出した。これはかの有名な「三億円事件」や「世田谷一家殺害事件」などの国内外の彼の興味を引いた事件を集めている。海外の事件はかの有名な「ジョンベネ事件」がある。
流石、推理オタクだ。この他にも「模範六法」や毒物の専門書が並んでいる。知らない人が入ったら「本当にプログラマーか」と疑問に思うような本棚である。
もちろん「C++言語入門」などのプログラミングに関する本もある。それらの本は仕事机からすぐ手の届く三十センチとないステンレスの本棚に立っている。
彼はクリア・ファイルの内容をじっくり読んだ。そうやって事件の大まかな流れとその時、容疑者として上がっていた人物を頭に叩き込んだ。
そしてコンピューターの前に向かった。キーボードをカタカタと叩いて文人青年に引き受けるという内容、自分も参加するという内容の文章を送った。
FILE5、恨んでいる人々
加藤昭三は娘を本多医師の医療ミスで亡くした。
初歩的な手術で日本でもよくやられている。そう本多医師は昆虫の足のような嫌らしい感じの口髭をひねりながら言った。
一時間で済むと告げられていた。そのはずが二時間、三時間・・・。八時間後にようやく返ってきた。ただし冷たくなった身体で。
絶望感。その時の彼の気持ちはこの一言だった。そう、一か月後の病院側の訂正を聞くまでは。
当初、病院側は幼い体力が手術に耐えられなかったと説明した。
確かに入園式を一週間後に控えた美代は幼かった。しかしなぜ?よくやられている手術と言ってたではないか・・・。
加藤は激しく動揺した。しかし、医学の専門知識がない彼である。病院側から郵送されてきた資料を確かめる事ができない。ただ信じるしかなかった。
一か月後、幾分落ち着きを取り戻した彼のもとに突然、白衣を着た二人組の男がやって来た。時刻は夜の九時。彼はこの時間を一生忘れない。
彼らの名誉も考えて、仮にH病院としておこう。H病院の医師だった。
「大変、言いづらいんですが・・・、美代さんのことなんですが」
「はい」
「つい先日、麻酔薬と消毒液を取り違えていた事が解りまして・・・」
しばし呆然としていた。しかし事態が飲み込めていた時には相手の胸ぐらをつかみかかっていた。妻が夫を医師から引き離した。
「あの・・。それでこれはほんの慰謝料ということで・・・」
百万の札束を別の医師がスーツケースから取り出した。が彼は受け取らず床に叩きつけた。
「帰って下さい」
わなわなと震える唇で言った。
「美代・・・」
泣きながらスナップ写真に語りかけていた。写真に映し出されている加藤美代はいつまでも笑顔を絶やさないでいる・・・・。
そして、書斎の引き出しに隠してある“凶器”を確認した・・・。
橋本智仁はベッドに横たわった女性を見ていた。彼女は山本幸といって橋本の恋人。植物人間で透明な管(チューブ)を体中に巻かれている。
外は蝉がうるさい位に鳴いている。彼は彼女の頬にそっと手を触れた。
「もう、バイクやめたよ・・・乗るの・・・」
涙を流しながらそう何度も呼びかけた。反応がないということは彼にも解っていた。ただ反応するような気がして彼はならなかった。
一カ月前、橋本は彼女をバイクに乗せていた。スピード・オーヴァなのは彼にも解っていた。ただ彼女にカッコイイ所を見せたかったのだ。
それが数秒後、あんな悲惨な事になるとは・・・。二人を乗せたバイクは対向車と衝突。二人とも宙を舞っていた。幸が、
「スピード落とした方がいいよ」
と言ってくれたにも関わらず聞き流した。
屈強な智弘は腕の骨折だけで済んだ。しかし、華奢な体付きの幸は折れた肋骨が臓器に突き刺さっていた。すぐさま彼女は事故を起こした対向車のドライヴァーが通報してくれて、一命を取り止める。はずだった。
見舞いに来た彼を少しも怒った様子もなく、むしろ笑顔で出迎えてくれた。
「ごめんな。本当に」
「だから言ったじゃない。スピード落とした方がいいって」
無邪気な笑顔で言った。
「う、うん」
「あっ、それから、自分を責め過ぎないようにね」
智弘は涙を流した。そして、相手の唇にキスをした。幸は突然の相手の行動に多少驚いた表情を浮かべた。これが最後の反応となるとも知らずに。
翌日も見舞いに行った。彼はプレゼントとしてチケットを持っていった。今回、文人や翔治が行くのチケットである。
しかし、「面会謝絶」。看護婦、関口綾美をつかまえて訊いてみると容態が急変したそうだ。どうしても納得が行かなかった。そこで資料を取り寄せた。それをかかりつけの医師に相談した結果、思いも寄らぬ返答が。
「幸さんの体に合わない薬だ。きっと誰か別の患者さんのと取り違えたのだろう」
と。彼はその回答を聞いて愕然とした。そしてこらえ切れない怒りが込み上げて来た。
復讐するために色々な事を調べた。当時担当だった医師の名前、住所・・・。そして、今回、彼が小旅行に出かける事を知ったのだ。
関口綾美は橋本の患者取り違えの件を自分のせいにされていた。そのため本多医師を恨んでいた一人だ。あの時、確かに
(この患者さんにこの薬を投与するのはおかしい。)
と薄々感じていた。そこで本多医師に
「山本さんにあの薬を投与するのはどうかと思いますが」
と廊下ですれ違った際に自分の意見を述べた。
「いや、あってる。看護婦は医者の指示にさえ従えばいいのだ」
と攻撃的な口調で言われたので反論しようにもできなかった。
ところが二、三日後、容態が急変したのである。嘔吐、下痢、発熱、そして立つのもままならない程の関節痛・・・。
そこで今度は外科へ押しかけるようにして訊いた。
「あの四〇四の患者さん容態が急変してます」
のんびりした調子で、薬の副作用だと告げた。
しかし、植物状態になって、薬が違っていたことが明らかになった。その時、本多は自分のミスを否定した。それどころか矛先を関口に向けたのだ。しかも自分の身に覚えのない事をつけ加えて。当時、山本幸の担当だった彼女は本多医師にとって「罪かぶり役(スケープ・ゴート)」の恰好のターゲットだった。
関口はそのせいで看護婦の職を失った。しかも、自分の身に覚えのない事とは全て本多の医療ミスで彼に責任があったのだ。
それが解った途端、こらえようのない怒りが込み上げて来た。彼女の感情の起伏が激しく短気で、しかも、しつこい性格が拍車を掛けて殺意を生んだのだ。
下村道雄は彼の友人で内科医だった。
自殺志願というサイトを本多と運営し、医薬品を不正に売買していた。最初、この話を持ちかけたのはやはり本多だった。睡眠薬、塩酸メタンフェタミン、青酸カリ・・・。
塩酸メタンフェタミンとは麻薬の一種で摂った瞬間、脳の働きを落ち着かせるような感じに捕らわれる。戦後、まもなくはヒロポンと言う名で闇市で売買されていた。麻薬なので当然強い依存生があり、幻覚症状、倦怠感などを引き起こす。
「絶対バレない、絶対儲かる」
本多は自信を持ってそう言っていた。もちろん彼は最初は首を横に振った。しかし、当時の下村は唯一の楽しみの麻雀で大損をこいていた。そのため、本多にかなりの借金を
していた。実はこの麻雀もイカサマだったというウワサもあるのだが。
「借金を帳消しにしてやる代わりに協力しろ。それにあのことを病院内で言ったら今の恋人とも別れなきゃいけないよなあ」
と半ば強制的に協力させた。
最初は大もうけしていた。が、実にやっかいな事が起きてしまったのだ。というのもニュースで取り上げられたのだ。「インターネットで購入した毒物を夫に盛る」という新聞記事がどこの新聞社の紙面にもあった。
何とかバレずに済んだ。しかしマスコミがH病院をうろうろ死骸をあさるハイエナのように嗅ぎ回って立場が危うくなって来た。
ある日、病院の会議室で彼はこう発表した。
「私は誰が横流しをしていたのか知っています」
下村は一瞬ドキリとした。しかし、彼は、本多は矛先を他人に向けるのだろうと考えた
。
「内科医の下村君です」
と下村の方をびしっと指差して言った。証拠は次々と出て来た。出てくるのは当たり前だ。彼が“犯人”なのだから。
下村にとって裏切られた気分だった。いや、事実本多は下村を裏切った。「トカゲの尻尾」のように扱われ、しまいには医学界の追放も同然。週刊誌にも掲載され、アルコール漬けの毎日・・・。
医者時代の下村は人の良さそうな好青年だった。しかし今となってはそのの面影はどこにもない。目がぎらぎらと輝き、慢性的なアルコール中毒で手足も震え、いつも酒瓶を手放さない。
そんなわけで彼も恨んでいた一人だった。
高坂里美は二つの恨みを本多に抱いていた。
一つめの恨み。それは関口同様、医療ミスを自分のせいにされていた事。
もう一つの恨みは実は下村の恋人だった。当時、下村はある理由から大量に借金をしていた。もっとも、その理由は彼の名誉を傷付けるためここには書かないが、裁判で負けて慰謝料を請求される羽目になってしまったのだった。
理由を聞いた彼女は
「少しは工面しましょうか?」
と提案した。しかし、
「いや、そんな迷惑は掛けられないよ。それに、ぼくは金の貸借は例え兄弟の間でもしないことにしてるんでね」
「そう・・・。体壊さないようにね。夜は交通整理のバイトしてるって聞いたから」
「ははは、そんなのデマ、デマ」
と笑い飛ばしていた。しかしコンビニの帰り、彼が非常灯を振っているのを高坂は見てしまった。幸い下村は彼女の存在に気付かなかった。
次の日、高坂はあえて問いたださなかった。そんなことをしても彼が喋ってくれる訳はない。それは高坂が一番よく知っていた。
しかし、横流しし始めて塩酸メタンフェタミンを自分も大量に摂っている。もちろんこれは本多が流したデマである。しかしこの手のウワサの伝染というのは凄く、チェーンメールのごとく広がっていく。
このことが原因でアルコールなしでは生きていけなくなってしまった。そんな下村とは別れたもののやはり放っておけなく、ダラダラした関係が今なお続いている。
FILE6、出発とバスの中
本当は出発の日、つまり八月五日から始めるべきだったのかもしれない。
いつも一人称で書いているのでその方が書きやすい有沢翔治は少し後悔した。しかし、すでに第一部、第二部を自分のホームページ上で載せてしまっている。
今更、後戻りはできないので三人称の形式を泣く泣く取ることにした。
「次から書く時は絶対に一人称にしてやる」
バスの中でそうぶつぶつ誰かに対して文句を言うように言った。
「どうしたの?」
心配そうに声をかける萌ちゃん・・・いや浅香。
「何でもないよ」
有沢はそう言うとバスの乗客を観察した。
「この旅行は色んな意味で面白い旅行になりそうだよ」
バスに乗っている乗客を観察した有沢は知的好奇心に駆られてそう呟いた。全く不謹慎な知的好奇心である。
有沢はそう思い、一人苦笑いを浮かべた。
「えー。ここで皆様の親睦を深めるために自己紹介をしてもらいたいと思います」
添乗員である大神皐(おおがみさつき)が事務的な調子でそう言った。
有沢は再び苦笑いを浮かべた。
(このメンバーなら充分、団結力あるよな・・・)
と思ったからだ。
「加藤昭三です」
ぼそぼそと小さい声で言った。
この加藤は第二部にも書いたように娘を亡くしている。その心境を未だに引きずっているのか常に暗い表情である。二、三ミリメートルの不精髭、ぼさぼさの髪が印象的な丸顔の五十三才の男だ。
薄汚れた青のジャケット、木のような茶色のズボンを履いている。
「橋本智仁。二十三才の大学生です」
加藤よりは幾分、明るめの声だった。しかしどこか陰のある青年、という印象を有沢は受けた。恋人の“死”を無理をして明るさで隠そうとしているせいかもしれない。そう彼は直感で感じた。
顔は浅黒く、日に焼けた感じである。かつてはバイクを乗り回していた事もあるせいだろうか。二の腕も太く筋肉質であった。
ここまで書くと陽気そうに見えるかも知れない。しかし暗く、陰を落とした表情のために全く正反対の印象を受ける。
自分が幸を殺した、という自責の念の表れだろうか。手首には深くえぐれたような切り傷の跡が平行して幾本もついている。そう。自殺しようとしたのだ。しかも何回も。何回にも渡るリスト・カット(手首を傷付ける自殺方法)のために彼の手首はぼろぼろだ。心の傷と同様に・・・・・。
「関口です」
元看護婦の関口は軽く一礼をすると自分の座席に腰を下ろした。
肩までのセミ・ロングの髪型に小さい瞳をしていた。体格は看護婦と言う職業柄、逞しい体付きだった。その面影は今でも残している。
しかし看護婦として最も大切な、人を癒すあの優しい笑顔。「白衣の天使」とも呼ばれる由縁の一つだろうか?あの笑顔が今はない。昔はあったに違いない。
着ているワンピースは木々の葉をイメージしたのだろうか。彩やかな緑色である。その下地にアクセントとしてダリア、バラなどの花が“咲いて”いる。
「本多文人です」
よく通る声だ。彼はミケランジェロの『ダヴィデ像』のような体格の男だった。さらに顔はギリシア神話の愛と美の女神、アフロディーテのように美しく、均整のとれた顔だちだった。正に美男子の一言につきよう。
「川村優子です」
高めの声の女性が挨拶した。ロングヘア、明るい茶色の混じった黒髪をしている。少し前に明るい茶色に染め、それから面倒なのか似合わないと思ったのかそのままにしていることがこの事からも解る。曇りのない、吸い込まれそうな大きな目。純白のワンピースを着ている。
かなりの可愛さである。まさに容姿だけでもベスト・カップル上位にはランクインしそうだ。
心は彼女の目のように大きく、曇りがない。
次に挨拶したのは、かの悪名高い本多勇雄医師だった。昆虫の足のような髭をしている。細長い馬顔。頬が痩け、顎は四角い。常に何かを企んでいるような目をしている。
漆黒の胸元が閉まっている半袖シャツ、ダーク・グレイのズボンのポケットからは空色のハンカチが顔を出している。
「本多勇雄です」
彼は慇懃に一例をするとバスの席に着席した。
「本多佳子です」
次に挨拶したのは本多武雄医師を彼の兄、勇雄医師と共謀して殺害した元妻の妹だ。この際言っておくが本多文人の想像はおおかた合っている。ただ一つ大きく違う事があるのだが。
落ち着いた色の紺のシャツと黒いスカートをはいている。そして色白で和服が似合いそうな日本的な女性だ。げじげじ眉毛におちょぼ口、きりりと上につり上がった細い目などはオーヴァーな表現ながら、江戸時代の浮世絵を想像させる。
「ジージョ?寝ちゃったの?」
隣の席の浅香萌がそう訊いた。マイクが回ってきたのだ。返事はなかったので仕方なく自分だけ名前と職業を述べた。
「あら、あなたの彼氏、お休み?」
佳子がイタズラっぽく笑みを浮かべた。
「彼氏じゃ、ないです!」
力一杯否定したので有沢は薄めを開けて
「もうちょっと静かにしてくれる?昨日、なかなか眠れなかったんだ・・・」
とさも眠たそうに注意した。
「あっ、ゴメン・・・・」
とちっとも悪びれた様子も見せずに謝った。その声も聞く間もなくまた窓の寄りかかって寝てしまった。
「彼、相当お疲れみたいね」
「だから、彼氏なんかじゃないですって!」
今度は少し小さめに。
「あら、今度は代名詞としてよ」
とからかうように言った。浅香萌はぶーっと頬を風船のように膨らませた。
「あら、ごめんなさい」
佳子は慌てて、しかしくすくすと笑って謝った。
「あなたが可愛いものだからつい・・・、何やってる人なの?」
有沢翔治の立場を説明するのはすこぶる困難な事だ。
「プログラマーです」
と探偵稼業をしている事は面倒になるので伏せて言った。
「名前は?自己紹介しなかったけど」
「有沢翔治です」
その名前を聞いた途端、本多勇雄も鬼のような形相で一瞬、彼の顔を見た。いや、運転手と添乗員の大神以外、乗客の視線はその寝顔に降り注いだ。
まるでかの大怪盗、アルセーヌ・ルパンが乗っているような反応。
浅香の耳には乗客たちが彼の名前を驚き、不安、そして狼狽のこもった感情で呟くのが聞こえた。
しばらく動揺していた佳子はまだ幾分声がうわずってるものの、落ち着きを取り戻し、
「私、そろそろ前向くね」
と言って、前を向いてしまった。
「え、ええ・・・」
萌は知らない人から気さくに話されるのを好む社交的な性格。そのため佳子が話し掛けてきた事は何とも思わなかった。
(何か裏がありそうね・・・。)
と思った位だ。
色々と書いたがこれまでの事を時間経過を述べておこう。添乗員の大神が自己紹介を促したのはバス乗車から三十分後。自己紹介が五分から十分かかった。
「心配しないで、あと三年・・・。あと三年で・・・誰も裁けなくなるわ」
声を潜めて佳子が言った。
「あ、あ、ああ・・・」
「心配ないわ、これだけ経ってもまだ有力な情報はないじゃないの」
「あ、あ、ああ」
徐々に落ち着きを取り戻したらしい。声色もだいぶ安定している。
そんな母に息子の文人は冷たい視線を送るのだった。
「どうしたの?文人」
彼は内向的で思案深げなハムレットタイプ。そのため。ずっと黙っているのはいつもの事なのだが今日はどこか、いつもと変である。
「えっ?どこが?」
そして無理に微笑んで
「いつもと一緒さ・・・」
「そう」
彼の恋人は深くは追究しなかった。深く追究して余計なお節介を焼くよりは自分で考えさせた方が好いと言う考え方だからだ。この辺りは有沢翔治、浅香萌にも似た所があるような気がするのは気のせいだろうか?
(実行すべきか否かそれが問題だ。もし実行したらぼくは殺人犯になってしまう。ああ!獄中とはどんな所だろう?)
と文人は思った。
二時間程バスは走ってトイレ休憩になった。そしてそれぞれはジュースを買ったり、トイレをしたり、そしてトイレ休憩になった事も知らずにぐっすり眠っている幸せな男も約一名。
突然、彼の首に冷たいものが押し当てられた。
「目が覚めた?」
「目が覚めた?じゃないよ・・・。人がいい気持ちで寝てるのに・・・。まだ目的地じゃないんでしょ?」
とあからさまに不機嫌な調子でいった。有沢という男は寝起きがものすごく悪いのだ。
「大体ね・・・・、人の首にジュースをあてるの辞めて」
「はいはい。ジージョの寝起きの悪さはいつになったら治るの?」
と慣れっこになっている浅香は苦笑しながら言うと、缶コーヒーを渡した。もちろんブラック。彼はコーヒーと推理小説にはうるさいのだ。そしてコーヒーを飲むと一発で目覚めが良くなる。全く、器用な体だ。
プシュッ。そう勢いのよい音が響いた。そして、缶を口に当てると一気に半分まで飲み干した。
「ぷはぁ」
そう言うとすっかり心地よいお目覚めだ。
「サンキュ。いくら?」
「百五十円」
コーヒーは小振りの缶にも関わらず高めである。有沢は焦げ茶色の財布を取り出すと百円硬貨一枚、五十円硬貨一枚を手渡した。
「あと消費税五パーセントね」
浅香はクックと鳩のような忍び笑いをして言った。
「はいはい。マージンね」
苦笑して有沢は「消費税」を渡した。
そしてまた缶コーヒーを飲み始めた。
「ねえ、あとどの位かかるの?」
有沢は浅香へ訊いた。浅香は一時間半と答えた。
「あれ?皆は?」
「さあ?ジュースとかじゃないの?」
と浅香は皆の行動なんか興味ないというように答え、自分のダイエット・コーラの缶を開けた。
FILE7、秘密会議
「おい。まいったな」
一人の男がそう言った
「ああ・・・。有沢翔治が乗っているとなるとかなり行動を起こしにくいな」
別の男がそう言った。
「ねえ、いっそのこと彼を殺したら?」
女が平然とした口調でそう言った。何人もの人を平気で眉一つ動かさず殺してきた。そんな冷酷さがその言葉の中にあった。
「気は確かか?罪のない人間を殺してどうする?」
二番目の男の声。
「あら。優しいのね?」
女は冷やかすように、
「でも邪魔物は消す。これが私のやりかたよ」
と言った。
「俺たちの目標はただ一つ医師だけだ。あとのやつらには構っておられん」
「俺もそう思う」
女は不服そうな顔をしたが、
「解ったわ」
と妥協した。しかし、何か企んでいるような冷たい笑みを浮かべていた。
「何、心配するな。お互いに見かけたとでも言ってアリバイを立証すればいいことだ。いくら彼でもまさか遺族全員・・・おっと遺族じゃない人もいたっけな・・・が犯人だとは思うまい」
と加藤は自信満々の表情で言った。
「ええ。そうね」
看護婦も同意した。
「それで、凶器は大丈夫でしょうね」
「俺が凶器としてこれを持ってきた」
加藤は黒い凶器を取り出した。
「それ、本物か?」
橋本は疑うように見た。
「ああ・・・。間違いない。トカレフだ。弾丸はフルメタル・ジャケット。おまけにサイレンサーまでついている」
「すげえ・・・」
橋本は子供のようにそのロシア製の拳銃に見入った。そして彼はそれに触ろうとした。加藤は慌てて銃を引っ込め、
「指紋がつくだろ!馬鹿!」
小さい声で怒鳴った。
「す、すまん・・・」
橋本は慌てて謝った。
「なんで拳銃なんて選んだのよ!」
関口が冷ややかにに言った。
「拳銃なんて特殊な凶器、すぐにばれちゃうじゃない。それに」
「硝煙反応を調べるなんて気の利いた道具、山奥にあるとおもうか?」
加藤は関口の言葉を制し嘲けるかのように言った。
「それはそうだけど。拳銃なんて凶器すぐに見つかると思うわ!」
「近くに川がある。そこに捨てればいいさ」
興奮する関口をなだめるかのように言った。そして時計を見た。
「おっと三分前だ。バスに戻ろう」
と言ってバスのステップを上がり、娘の、恋人の、はたまた濡れ衣を着せられた怨みを胸に各自の席に着いた。しかし、思いも寄らぬ結果になる・・・。
FILE8、キャンプ場
バスでもう一時間ほど揺られてキャンプ場に着いた。川のせせらぎ、小鳥のさえずりが聴こえている。
寝起きの有沢翔治と浅香萌はAと書いたキーを大神から渡された。キーの特徴は結構ありきたりのものだった。十センチ程度の長さのある長方形の棒の先に鎖で繋がれたキーがぶら下がっている。
有沢、浅香のコテージはダイニング・コテージと呼ばれる食堂から百メートル行った所にあってAからZのコテージの中では最も遠い。しかも道はまるで獣道。酷い悪路である。
「一雨、きそうですね・・・」
加藤がどんよりと雨雲に覆われた空を見て呟いた。有沢は寝起きなのでまだぼんやりとしている。これではシャーロック・ホームズと双璧をなす頭脳も使い物にならない。
鍵がそれぞれに渡ると、
「それでは皆様、お荷物をご自分のそばに置いておいて下さい。私どもがお運びします。ご自由に召し上がって頂いて結構です。果物、紅茶、コーヒーは自由に私どものサービスですので」
と大神が説明した。
どんな小さな鍵でも書く必要があると思うので参加者全員の部屋番号、そして位置を述べておこう。
橋本はC、本多佳子と本多武男医師はH、本多文人と川田優子はI、加藤はL、関口はN、添乗員の大神はダイニング・ルームにある添乗員室に泊まる。あと他に現地スタッフはナースの大橋洋子、料理係の宇田幸助、木村祥子、池上さくらの三人だった。
部屋番号はダイニング・コテージを中心に時計回りにA、B、CとなりX、Y、Zとなっている。つまりAとZは隣の部屋である。
ダイニング・コテージの回りには。大橋洋子が寝泊まりするナース・コテージ、ビリヤードや卓球、そして屋外にはテニス・コートもあるエンターテイメント・コテージがある。
念の為、言っておくが、現地スタッフは本多医師を始めとする参加者とは初対面だ。
もし、参加者の誰かが殺害されても疑うだけ無駄と言う事である。
有沢翔治と浅香萌は百メートルの道のりを二、三十分かけて歩いた。そう険しい道でもなく、二人は周りの木々を楽しんで歩いた。
有沢は木の名前、星座の名前、花の名前などは全く無知。花の名前に関してはケシ、麻などの麻薬、トリカブトなどの毒薬の知識だけ。園芸用の花と言えば精々、桜、チューリップが精一杯なのだ。メタン、アンモニアなど化学物質、LSD、アンフェタミンなど麻薬の名前と症状、ガモフ、ニュートン、ゲーテルなどの数学者の名前などは知識豊富なのだが。
山の澄んだ空気をあくびと言う形で有沢は吸い込んだ。
「ふあ」
「もう!バスの中でたっぷり寝たでしょ?」
雰囲気を打ち壊されて多少、怒った調子で言う浅香。
「昨日全く寝てないんだよ」
この言い方は不正確なので訂正しておく。寝てないのではなく寝れなかったのである。興奮?いやいや。もともと旅行好きな彼にとって山や川、海に行く前に興奮して寝れない事なんかない。
ではなぜか。答えは簡単である。彼の性格からして三日間、相部屋になると考えるとドキドキして寝れなかったのである。
二人はAコテージに着くとまずその外見に驚かされた。中世ヨーロッパのお城・・・なんかではなく洒落たコテージだったからだ。中に入ると冷暖房完備、トイレ、シャワー付き、冷蔵庫の中には別途料金ながらもジュース・酒類などが入っていた。
また、果物カゴにはキウイ、リンゴ、梨などが入っていて、近くに果物ナイフが置いてあった。
ベッドが二つあったのは有沢にとって唯一の救いだった。
トイレ、シャワールームなど一通り見終った二人。当然次に提案として出てくるのは
散策をしようと言う意見だったが今にも雨が降りそうな空である。散策はお流れになってしまった。
しばらく有沢は浅香と喋っていた。いや、有沢がムカつく友人に関しての愚痴を聞いてあげたと言った方が正確な言い方かもしれないが。
喋り始めて一時間後、コテージの屋根を叩くものすごい雨音が聞こえ始めた。
「すごい雨だね・・・」
その時、誰かがノックする音が聞こえた。
「誰だろう?こんな時間に」
何も聞かされてない浅香萌は首をひねった。有沢は立ち上がるとドアノブをひねった。
「あなたは!」
あまりの意外さに浅香が素頓狂な声を上げた。
そこには『ダヴィデ像』のような体付き、アフロディーテのような顔の持つ本多文人が立っていた。本多、有沢、浅香の三人は軽く挨拶を済ますとそれぞれナイト・テーブルの周りの椅子に着席した。
誰に頼まれる訳でもなしに浅香はお茶を入れてくると言った。ポットに水を入れ、コーヒー・カップを三つ出して一つはコーヒー、あとの二つは紅茶を入れた。
「何もこんな雨の中、いらっしゃらなくとも・・・」
狭いコテージだ。苦笑して言うのが浅香の耳にも聞き取れる。
「いえ、父の死の真相を知る事ができるとなるといても立ってもいられません」
「そうですか・・・」
「それで、どうでした」
「受け取った日、父のファイルを見ました」
この事件に大変な興味を持っているのが浅香には・・・、いや誰にでも解る。
「ぼくが読んだ限りだと本多武雄氏は本多勇雄氏、佳子氏に殺害されたと見てまず間違いないでしょうね」
不謹慎な微笑を浮かべて有沢は言った。
「そうですか・・・。解りました」
がっくり肩を落とし去ろうとしている本多文人をつかまえ、
「まだこの雨の中です。少しここで雨宿りしていかれては?」
「いえ、大丈夫です。優子・・・というのはぼくの彼女ですが、心配しますので」
「そうですか?なら、お気を付けて」
本多は軽く一礼すると出ていった。
「何なの?彼?」
コーヒー・カップを運んで来た浅香萌は興味津々といった目付き、声色で訊く。
有沢は彼女の入れたコーヒーを飲みながら説明した。できるだけ詳しく説明したので、ゆうに二時間はかかった。
そして、彼女の事件に関しての質問に色々答えるのに一時間は要した。事件を聞いてくれる相方は有沢にとって必要なのだ。かの有名な名探偵の傍らにはほとんどワトソン博士がいたように。(コナン・ドイルの書いた“正典”では六十作品中、五十六作品でホームズとワトソンは行動を共にしている)
ドアをノックする音が聞こえた。
「はーい」
有沢は返事をすると
「夕食ですのでダイニング・コテージにお集まり下さい」
という池上さくらの声が聞こえた。
「はーい。今行きます」
そう言うと二人は靴を履き、傘をさし彼女に着いていった。
FILE9、死体
「あと、本多勇雄様、佳子様、文人様がお集まりになっていないようですね」
リーダーでもある大神皐がそう言った。
「携帯電話で連絡を取ってみては?」
橋本がそう提案した。
「残念ながらそれは無理です。橋本様ここは圏外ですから」
「私、ちょっと文人の様子を見てきます」
「止めときな。この雨じゃ、風邪ひいちまう」
加藤がそう呟くように言った。
「で、でも・・・」
と言って様子をレイン・コートを着て見に行った。
数十分後、川田が本多文人を連れて戻ってきた。
「いやあ、遅くなってごめんなさい」
有沢は本多の服が自分らのコテージで見た時と変わってるのに気付いた。が帰る時、濡れたから着替えたのだと思った。
「あれ?お母さんと伯父さんは?」
「それがまだなのよ」
川田が答えた。
「仕方ないなあ・・・・。見てくるか・・・」
「私も行くわ」
川田がそう言った。
「俺も行くぜ、あのおっさんにガツンと言ってやる」
と言ったのは橋本。
「こうなったら皆で行きましょう?」
「そうね」
関口は短く同意の意を示した。
こうしてぞろぞろと雨でぬかるんだ道を歩く事、十分。一行はHの札のかかったコテージの前にいた。
橋本がドアノブをひねった。
「あれ?開いてる」
「物騒ね・・・」
関口はそう呟いた。
「伯父さん?お母さん?」
本多文人はそう呼びかけながら明かりを灯(つ)けた。カチッという音がして明るくなる。その途端、全員が息を飲んだ。
そう、殺されていたのだ。血まみれの姿で。
「警察に連絡を」
そう呟いたのは有沢だった。
有沢は死体の上に屈んだ。
「あなた、解るの?」
関口がそう訊いた。
「ああ。一応ね」
死体を目の前にしても少しも冷静さを失わない現場検証の様子を浅香は尊敬の念で見ていた。法医学の知識がある彼にとって死亡推定時刻と死因を割り出すのはそう苦ではなかった。
コテージに移動した有沢は、
「死亡推定時刻は、死班、死後硬直などを考慮に入れて、今から多くとも四時間前。死因は心臓を鋭利な刃物で刺された事によるショック死と見て間違いなさそうですね」
「多くとも、とは?」
橋本がそう質問した。
「少なくとも四時間以降には殺されていないということですね」
淡々と述べる有沢の調子はいつもながら、小説から出てきた探偵を思わせる素振りがあった。
「今から、四時間も前って言うと・・・」
橋本が腕時計を見て、
「午後三時頃。つまり皆が解散したあとですね・・・」
「そんなのは警察にやらせておけばいいじゃないですか!」
本多は机を両手で勢いよく叩いて立ち上がった。
「伯父が殺された時に不謹慎です!皆さん」
しばしの沈黙。時計のチクッタクッという音だけががダイニング・コテージに響く。沈黙を破ったのは有沢だった。
「この雨では警察も動けませんよ」
と鋭い調子で言ったのだった。
「大神さん」
出し抜けに言われた大神は驚いた様子だった。
「は、はい。何でしょう」
「食事を取り終ったら何か予定は入っていますか?」
大神はエンターテイメント・コテージで皆で娯楽を楽しむ手筈になっている事を告げた。
「そうですか」
「ええ」
「では殺害されたHコテージの鍵の合鍵を誰の目にも止まる場所に置いておいて下さい」
「なるほど!そうすれば犯人は戻っても現場に立ち入ることができない!現場維持のためにはなかなかの名案ですね」
橋本はそう言った。
「ええ。まあ」
と受け流すように短く答え、解ったかどうか念押しをした。
「ええ・・・」
「それと一応、警察に連絡を」
大神はよろよろと電話の方に歩いていき、震える手で受話器を持ち上げ一一〇番にダイアルしようとした。
「つ、つながりません・・・」
蚊の泣くような小さい声で大神は言った。
「何ですって?受話器を貸して下さい!」
有沢は受話器を受け取るとこう呟いた。
「電話機室に案内して下さい」
と。
激しく動揺する大神に案内され、電話機室に来た有沢。電話ケーブルの入っている箱を開けてみるとズタズタに切られた電話線が入っていた。
「だ、誰がこんな事を・・・!?」
その問い掛けを有沢は無視して、
「ねえ、大神さん」
「は、はい」
「ここのあり場所を知っているのは?」
「過去に参加なさったお客様全員のはずです。ここは湖がとってもきれいでして、その案内途中にここを紹介したことがありますので」
「過去とは?」
「私が担当になってからですので・・・」
しばらく彼女は考えて、
「去年と五年前の二回でございます」
「その時の参加者を覚えていらっしゃいますか?」
「去年は加藤様、関口様でした。五年前は・・・ちょっと覚えてないですね」
「そうですか、それではここに出入りする鍵は誰がお持ちに?」
「鍵なんてございません」
「ない?」
驚いて有沢は訊き返した。
「はい」
「そうですか・・・」
(電話線を切った犯人は関口さん、加藤さんのどちらかに違いない)
「もう戻りましょう」
そう有沢は言ってダイニング・コテージへ戻った。
FILE10、Hコテージでの現場検証
「大神さん!」
出し抜けに有沢に声をかけられた大神皐。その驚きようは首筋に氷か何かを当てられたようだった。
「は、はい」
「Hコテージの合鍵を。現場検証をしてみたいので。それと手袋を・・・」
「二組」
「そうそう、二組・・・」
しばらくして
「えー!?」
という有沢の素頓狂な声が聞こえた。後ろには浅香萌が満面の笑みを浮かべて立っている。どうやら二組と言ったのはこの女のようだ。
「萌ちゃんも現場に行くの!?」
溜め息混じりに言う有沢をよそに浅香は満面の笑みで即答した。
「ふう・・・。解ったよ。その代わり、邪魔だけはしないでね」
いつもながら彼女には弱い。高校生に死体を見せていいのだろうか?そういつも悩む有沢だった。
数分後、二人は悲劇の舞台、Hコテージにいた。二人は軍手をはめ、現場検証を行った。
「あら」
と浅香は小さい叫び声を上げた。
「何?」
「果物ナイフがないの。ジージョ、さっき鋭利な刃物で心臓を・・・って言ってたよね?」
「ああ。傷口の形、深さからしてそこにあった果物ナイフとみてまず間違いないだろうね」
淡々と言う有沢。彼はクローゼットを開けた。何もなし。
「ふーん、ならそのナイフはどこへ?」
「さあ?現場にもなかったし、犯人が持ち去ったと考えるのが妥当じゃないのかな?それよりも気になるのは」
彼はトイレを開けて言った。便器とシャワーがあるだけ。
「何?」
興味津々と言った表情を顔一杯に表して尋ねた。どことなく、尻尾を振る子犬のようだ。
「あれ?気付かない?」
イタズラっぽく言いながら彼は洗面所のドアを開けた。何もなし。
「佳子さんがいないということに」
「じゃあ、まさか佳子さんが犯人?」
浅香はバスの中の出来事を思い出した。
「いや、解らない。彼女も既に殺害されている事だって考えられるし、森で迷ってる可能性もある」
有沢は終始、冷静な態度で話した。
「まあ、それは一つの可能性として考えておくけどね」
と有沢は言うと
「消えた凶器・・・か・・・」
と呟いた。
「ねえ、萌ちゃん。この殺人って計画殺人と見る?それとも何の計画もなしに即興で行われた殺人だと見る?」
「即興ね。私は」
有沢は彼女の答えを聞いても黙りこくっていた。しかし、浅香は深く問い詰めようとはしなかった。事件に集中させておいてあげたい。事件を解いている彼の姿がありきたりの表現で言うと、一番輝いている。
「さっき、萌ちゃんは即興で殺人を犯したって言ったよね?」
浅香萌は有沢にだしめけに訊かれて驚いた。
「え、ええ」
有沢は少しイタズラっぽい笑みを浮かべて
「こんなものが落ちていても?」
黒光りするものを拾いあげた。浅香はそれに顔を近付けてよく見た。
「け、拳銃!?」
「ああ、ロシア製の極めて殺傷能力の高い拳銃、トカレフだ。口径は四十五口径」
拳銃一つ見てここまで言える男はガンマニアか警察しかいないだろう。
「弾は発射されてるの?」
有沢は装填(そうてん)されている弾を調べて言った。
「いや、発射されてない。一発も」
そしてその後、
「フルメタルジャケット弾か・・・」
と呟いた。
「ならなぜ拳銃を使わなかったの?」
浅香がそう疑問に思うのも無理もない話だ。読者諸君も疑問に思ったに違いない。しかし、有沢には集中しているため、彼女の声など耳に入らなかった。
そんな時、浅香は少し寂しそうな顔をするが、それだけだ。事件に集中すると他人の声などまるで耳に入らないのを知っている。
浅香は自分も手掛かりを見つけようとクローゼットをよく調べたり、シャワー・ルームを調べたりした。しかし、めぼしいものは何も発見されなかった。有沢もそれは一緒だった。
「あっ、萌ちゃん。ベビー・パウダーとセロテープ持ってる?」
「ベビー・パウダーは持ってるけど、セロテープは持ってないよ。でも何に使うの?」
「指紋をとっておこうと思って。警察はアルミの粉を使うけど原理的にはベビー・パウダーでも大丈夫なはずさ」
「へー」
敬服と尊敬の入り混じった声で言った。その後、たっぷり一時間はトリュフを探す豚のようにくまなく探した。しかし、発見できたのは例のロシア製の拳銃一つだけだった。
「さあ、戻ろう」
と言って有沢と浅香は拳銃を元の場所に置いてエンターテイメント・コテージに引き返した。
FILE11、加藤の話
「今の所、誰が殺人を犯してもおかしくないな」
そう有沢は彼の父の事件ファイルを思い出して呟いた。
「そうね」
と彼の幼なじみも相槌を打つ。
「ねえ、まず誰から当たる?」
彼女は興味津々といった目付きで訊いた。
「うーん・・・・。まず加藤さんからだね」
ポーカーをしていて手近にいた加藤昭三に話を訊いた。
「ああ!役なしか・・・。こりゃ負けだな」
そうである。ハートの七、スペードの七、ハートの九、ダイヤのキング、クローバーのジャックだった。加藤は手持ちのカードを見て苦笑して言った。
一ラウンド終わったので有沢は声をかけた。勝敗は最下位だった。
「惜しかったですね。ポーカー」
と切り口を設けて言った。
「ええ、でもポーカーの敗因を語るために話し掛けたんではないんだろ?」
微笑しながら加藤は言った。
「ええ。実は本多さん殺害時刻、あなたのアリバイを訊こうと思いましてね。解散してからのあなたの行動は?」
「それは答えなければいけない質問かい?」
加藤は意地悪っぽい笑みを浮かべた。
「ええ。できれば」
「いいだろう。俺は解散してからずっと部屋で本を読んでいたよ。本当は散策をするつもりだったんだけど、この雨だろ?外に出られなかったんだ。証明してくれる人も必要かい?」
「いいや。結構です。どうせ一人部屋のあなたにはあなたのアリバイを証明してくれる人はいないと思いますしね」
「解ってるじゃないか」
と加藤はにやっと笑って言った。有沢はそれを無視して
「では次の質問」
「何だ?」
「あなたは本多医師を恨んでいましたね?」
「さ、さあ。知らないな。何の事だか」
「そんなはずはないですね。お子さんを・・・美香ちゃんでしたっけ?を医療ミスで亡くされていますね。原因は薬の分量を間違えた事による・・・・」
当時のニュースを思い出しながら有沢は言った。
「解ったよ!」
吐き捨てるように加藤は言った。
「娘の名前は美香じゃない。美代。美しいに世代の代でね。確かにあんたの言う通り美代は本多に殺されたよ。薬の分量を間違えられて。でも俺はやっちゃいねえよ!それにあれはもう和解してるんだ」
「和解?」
口をはさんだのは浅香だった。
「ああ、そうだよ。俺の自宅に百万持って来た」
「それで和解した訳ですね」
と言ったのは有沢。
「ああ。娘の生命(いのち)には安すぎる値段だ」
苦笑して言うとシガレット・ケースを取り出して安い紙タバコに火を付けた。
「何でそれで和解を?」
「誠意さ」
と呟くように言った。
「誠意?」
浅香はおうむ返しに訊いた。
「ああ。土下座までして謝ったから許したんだ」
と加藤は紫煙を吐き出して言った。有沢翔治と言う男は大の嫌煙家なので、
「あっ、ぼくの前でタバコ吸うの止めてくれませんか?煙で頭の働きが鈍くなりますんで」
と言って煙草を止めさせた。
「あっ、すまねえ」
と言ってタバコの火を黒くて丸い携帯用灰皿の上で消した。
「いえいえ。ぼくの方こそ、わがままですみません。
それで、さっきの話に戻りますが本多医師が直接謝りに来られたんですか?」
「ああ。確かそうだったと思うけど。もう忘れちまった。話はそれだけかい?探偵さん」
「いいえ」
「おいおい。いくつ質問するんだい?」
と加藤昭三は苦笑いを浮かべた。
「これで最後です」
「あいよ。何だい?」
「拳銃に見覚えは?」
「拳銃?」
「ええ、トカレフと言ってロシア製の拳銃です」
その時、関口が呼んだ。
「おーい!加藤さん・・・でしたよね?二ラウンド始まりますよ」
「おう。今行く!」
そう言うと加藤は
「悪い!ゲームが始まっちまった!また後でな」
と有沢と浅香に手を振りゲーム・テーブルに再び着いた。
FILE12、関口の話
次に話を訊いたのは関口綾美だった。
「私は犯行のあった時刻ならシャワーを浴びていたわ。もちろん、証明してくれる人なんかいないけどね」
有沢が訊く前に喋ったので驚いた。
「話はそれだけでしょう?」
ポーカーでフルハウス、フォアカードなどの上位の役を出していた関口は、ゲームの進行を妨げられ不機嫌そうに言った。
席から立ち上ろうとした時に浅香は裾を引っ張り無理やり着席させた。
「何?」
溜め息混じりに関口は言った。
「あなた、本多医師のことをどう思っていました?」
「どうって?」
それから関口は冗談めいた、道化けた(おどけた)、あるいはからかうような口調で、
「私が先生の事を愛していたとでも?私と彼は看護婦と医者の関係。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「いえ、ぼくが問題にしているのはあなたが本多医師に対して怨みを抱いていたかと言う事です」
「怨んでいた?何で?」
強い口調で引退した看護婦は言った。
「い、いえ・・・」
今まで冷静さを保っていた有沢は関口の強気な態度と口調に多少どぎまぎした。なぜ?仕事、あるいは趣味で事件を解いている限り怨みを買う事は必然である。しかし、どんな人間でも怨みは買いたくないものだ。
冷静な有沢翔治がどぎまぎした理由はそこにあったのだ。
「動機探し?」
「ええ。まあ。そんな所です」
冷静さを取り戻した探偵は微笑して言った。
「残念だけど私は彼を殺すような怨みなんて持ってないわ。冗談じゃない!」
嫌悪感をあらわにして言った。
「解りました。最後の質問です」
「何?」
と関口はぶっきらぼうな口調で言った。
「拳銃が落ちていました。殺害現場に」
「で、私に心当たりは?と訊きたい訳ね」
「ええ、まあ」
「残念だけど心当たりなんかないわ。あっ、そうそう。あの人、大変なガンマニアだったから。もしかしたらダイイング・メッセージじゃないかしら?」
「ありがとうございました。お手間取らせてすいません」
「少しはお役に立ったかしら?探偵さん」
「ええ」
「そう。良かった」
「またお話をうかがう事になるかも知れません」
「そう。解ったわ。それじゃ、私ポーカーに戻るわね」
FILE12、橋本の話
次に話を訊いたのは橋本智仁だった。彼はビリヤード台でナイン・ボールを本多、川田とともに楽しんでいた。
「解散してから何をしていましたか?」
前の二人と同じ質問。
「ああ、俺なら雨だったので部屋でテレビを見ていました。それを証明する第三者なんかいませんがね」
有沢は
「あなた、何か辛い事がありましたね」
と真顔で言った。微笑するほど鈍感ではない。
橋本は一瞬驚いたが
「ああ、これですか?実はですね・・・」
彼はバイク事故の事を話した。
「確か、その時かかった医師が本多医師でした」
と橋本は言った。
「それで今、幸さんは?」
「ちょ、ちょっと、ジージョ!」
浅香が有沢の訊くべきではない質問を制止しようとした。
「植物状態です」
哀しげに呟いた。
「そうですか・・・」
しばしの沈黙。
「それともう一つ。拳銃が落ちてたんですが、心当たりは?」
橋本は激しく動揺した。
「さ、さ、さあ?お、俺は知らないぜ。うん」
「そうですか。ありがとうございました」
FILE14、本多の話
次に有沢が事情を訊いたのは本多文人だった。
「解散してからあなたは何をしていましたか?」
「ぼくはあなたをお伺いするまでIコテージにいましたよ。その前もその後も優子と一緒にいました」
「服が変わっていますが、どうなさったのですか?」
本多青年は服をちらっと見て、
「ああ、これですか?あなたのコテージから帰る途中に雨で濡れてしまったので着替えたのですよ。それが何か?」
「いえいえ。どんな些細な情報でも知っておこうと思いましてね」
有沢は微笑して言った。
「そうですか。話はそれだけですか?」
「あと、これだけです」
と有沢は三本指を立てて言った。
「後三つもですか?いいでしょう」
「まず一つ目は、あなたが本多医師をどう思っていたかと言う事です」
「どうって?ただの伯父と甥の関係ですよ」
「怨みは抱いていませんね?」
「もちろんです」
多少憤慨して言う本多青年。
「でもぼくの報告を聞いて多少殺意は芽生えなかった訳ですか?」
「いいえ。父の事件はもう終わった事ですので」
「そうですか。では次の質問。あなたは隣のコテージだった訳ですよね」
「はい」
「では、変な物音とか聞きませんでした?」
「いいえ。あっ、そう言えば・・・」
「そう言えば?何です?」
有沢と浅香は身を乗り出した。
「酷く罵る声が聞こえたような気がします。雨の音で内容は聞こえませんでした」
「それ何時頃か解りますか?」
厳しい声で言う有沢翔治。
「ええと・・・。あれは、あなたのコテージをお伺いするために伯父のコテージを通ったのですから・・・。お伺いしたのは何時頃でした?」
「ええと・・・」
有沢は思い出そうとした。
「四時よ」
と浅香は言った。
「だそうです」
と有沢は微笑を浮かべて言った。
「なら三時半ですね。IコテージからAコテージまで三十分はかかりますので」
「相手の声は男の声でしたか?それとも女の声でしたか?」
本多は申し訳なさそうに首を振った。
「ただ伯父の剣幕がものすごくて」
「いやいや、いいんですよ」
有沢はなだめるように言うと、
「では、最後の質問です」
「はい」
「現場に落ちていたトカレフに心当たりは?」
「トカレフとは?」
逆に本多が質問した。
「これは失礼しました。トカレフとはロシア製の銃の一種です」
「ふうん。いや。残念ですが心当たりはありませんね。伯父は拳銃のコレクターでしたから、その関係かもしれませんね」
「実弾を込めていましたか?」
本多青年は首をかしげた。
「実弾?いいえ、ぼくの知ってる限りでは・・・」
「そうですか。いや、参考になりました」
「早く伯父を殺した犯人を捕まえて下さいね」
本多は一礼すると去っていった。
FILE15、川田の話
川田はバスの時と変わらない白いワンピース姿で登場した。ただ赤い斑点が着いていた。
(血痕だ)
有沢はその暗紅色の斑点をみてそう感じた。しかもかなり時間が経っている。
「その血痕はどこでお付けになったものですか?」
「血痕ですって?」
「ええ、その白いワンピースに付いている赤い斑点です」
鋭く有沢に指摘され、川田優子はゆっくりと目を落とした。血痕を確認した途端、激しく動揺し始めた。
「こ、これは・・・・」
「これは?」
有沢は追求の手を緩めず厳しく訊いた。
「これは・・・・」
「まあいいでしょう」
有沢は微笑して言った。
「本多さんはずっと部屋にいたとおっしゃっていますが、本当ですか?」
「ええ。Aコテージに行くといって三時半ごろに出ていきましたけど」
「ええ、確かに本多さんはいらっしゃいました」
「ではあなたを訪ねたんですね」
有沢は無言でうなづいた。
「そして四時三十分ごろにびしょ濡れになって帰ってきました」
「それで、あなたの行動は?」
「着替えを彼のバッグから出して手伝いました」
有沢は満足げにうなづいた。
「それであなた自身は何をしていらっしゃったのですか?」
「ずっと文人とお喋りをしていました」
「ほう」
有沢は興味がなさそうに言った。
「最後の質問です」
「はい。何でしょう」
「拳銃に心当たりは?」
「拳銃?」
川田は少し眉をひそめた。
「ええ。現場に落ちていたんです」
「さあ?知りませんね・・・」
「そうですか」
「お役に立てなくてごめんなさいね」
軽く会釈をして去って言った。
FILE16、大神の話
「最後は大神さん。あなたです」
「は、はい。私はどんなことを答えればいいのでしょう?」
びくびくして言う大神とは対照的に、
「ええと、解散後はあなたは何をしていましたか?」
と冷静な口調で訊く有沢。
「私は皆様のお荷物をお部屋まで運んだり、食事の支度をしたり、皆様を呼びに行ったりしていました」
「なるほど、もし晴天だったらどうするおつもりでした?まさか山を歩き回って全員探すなんてことはしなかったでしょう?」
有沢は事件に全く関係ないが個人的に疑問に思った事を訊いた。
「いえ、まさか。あそこの拡張マイクで皆様に呼びかけるつもりでした」
「拡張マイク?」
「ええ、ほらあそこに見えるでしょう?」
有沢と浅香は窓の外に目を向けた。なるほど竹くらいの支柱にラッパのお化けのようなものが付いている。
「あれですか」
有沢は微笑を浮かべて言った。
「それで、この参加者はどうやって選んだんですか?」
「え、ええ。当社にお申し込みになったお客様から定員二十六名の所、今回はなぜかお申し込みになられたお客様が少なくて・・・」
「そうですか。それと、参加者とあなたとの面識はありますか?」
「いいえ。加藤様と関口様以外は初対面でございます。むろん加藤様と関口様もお客様と添乗員以外の付き合いしかございませんでした」
「それともう一つ。これが最後です」
「はい。何でしょう?」
「殺害現場に落ちていた拳銃に心当たりは?」
「拳銃?」
大神皐は驚いた様子だ。
「ええ、トカレフというロシア製の拳銃が現場に落ちていたんですが」
「いいえ。しかし・・・有沢様。お客様が凶器は鋭利な刃物だとおっしゃったんじゃ・・・」
「ええ、言いましたよ」
鋭いナイフのような口調の有沢翔治。
「では・・・、なぜ拳銃が?弾は発射されていたのですか?」
「いいや。全然」
「それでしたらなおの事、おかしいじゃありませんか」
「ええ、おかしいですよ」
翔治は更に続けて、
「でも、それを解くのがぼくの役目です」
とナイフのように鋭い口調で言った。それから優しく微笑して、
「さあ。これで結構です。ありがとうございました」
ほっと一安心した様子で去っていった。
その後、池上さくらたち従業員にも話を訊いたが、概要は大神皐のものと同じだった。また彼女が完璧なアリバイを持っていることで容疑者から外された。
FILE17、実験
エンターテイメント・コテージからの解散後、有沢と浅香がが向かったのは自分たちのAコテージではなく川田、本多の泊まっているIコテージの前にいた。
中からは彼らの話し声が聞こえる。が、笑い声ではなく沈んだ声だ。
(無理もない。伯父が殺され、母は行方不明なのだから)
ここから走って自分たちのコテージまでどれだけかかるか測ろうという実験をしようというのだ。
走る役目はもちろん・・・、
「もう!こんな嫌な事ばっかり私に押しつけるんだから」
と言う割には有沢の役に立てて嬉しそうな浅香だった。こういう体を使う実験はいつも浅香萌にお鉢が回ってくる。要は有沢は運動が嫌いだと言う事なのである。
「まあまあ」
と有沢がなだめる。
「よし、三回とって平均を取ろう」
「私に三回も走らせる気?」
恨みつらみのこもった目で有沢を見る少女。
「冗談だよ」
有沢は苦笑して言った。数分後、こう言うやり取りが交わされた。
「それじゃあ、いくよ」
「オーケー」
まさにつうかあ(と言っても某携帯電話会社ではない)の呼吸の二人。有沢は後から行って時間を計測する役目である。
浅香は走った。
「あっ、ゴメン。開始の時刻見るの忘れた」
「えーっ!」
浅香から顰蹙(ひんしゅく)の声が飛ぶ。有沢はイタズラっぽい笑みを浮かべて、
「なーんてね」
「ああ。良かった・・・」
しかし、次の瞬間、真顔で
「二十八分、四十五秒・・・だいたい三十分だな・・・」
と呟いた。
FILE18、謎が五つ
「ねえ、萌ちゃん」
シャワー・ルームから出てばかりでショートヘアの髪が濡れている少女に有沢は話しかけた。灰色の短パンと白いTシャツというもう寝巻き姿の浅香萌。なぜか有沢の心臓は少し速く打っている。
「なあに?」
「バスの中での皆の服装、覚えてる?」
「うん。覚えてる」
「服変えた人いた?」
「っていうか変えなかったの川田さん位よ」
「えっ、本当?」
「うん」
しばしの沈黙。有沢はロダンの『考える人』のようなポーズで別の事を考えていた。
全員の訊き込みの結果を書いた手帳と睨めっこをしながら。
有沢翔治が抱える謎は以下の通りだ。誰が電話線を切ったのか?また、殺害犯と同一人物か?拳銃を使わなかったのはなぜなのか?本多佳子はどこにいるのか?そして、川田優子の服の血の跡。
探偵は頭をかきむしった。その様子を見た「妹」は、
「シャワー浴びてくれば?案外いい考えが浮かぶかもよ」
「ああ、そうだね」
と言って着替えを持ってシャワー・ルームに入った。
「ふう・・・」
シャワーを浴びている最中も着替えている最中もこの五つの謎の事が頭の中を支配していた。
「どう?さっぱりした?」
有沢はベッドに座ると、
「さっぱり解んないよ」
とジョークで言ったのかはたまた真剣に言ったのか・・・。
「まず一つ一つ処理していきましょ」
「ああ、解ってるよ」
「ねえ、いくつあるの?」
有沢は無言でパーの形をして見せた。
「五つ?」
有沢は無言で肯定した。
「何?話すと少しは頭の中が整理されるかもよ」
「うん。まず一つ目の謎は誰が電話線を切ったかってことだね」
「電話線、切られてたの?」
浅香が驚きの表情で探偵の顔を見た。
「うん。これは加藤さんか関口さんのどちらかに間違いない」
「何で?」
有沢は大神から聞いた話を話した。
「ふうん。それでね」
「うん。次の謎は電話線を切った犯人が本多医師を殺した犯人かどうか」
「同一人物じゃないの!?」
「いや。そういう可能性もあるってことだよ。同一人物じゃないという可能性が」
「第三は?」
浅香萌が興味津々と言った表情で訊く。
「拳銃だよ」
「ああ、そういうこと。つまり拳銃よりナイフを選んだ訳ね」
浅香は勝ち誇ったように叫んだ。
「うん。それもあるし、ダイイング・メッセージだって言う事も考えられる」
「そして第四は本多佳子の行方。彼女が犯人なのか、あるいは犯人によって拉致、監禁されているのか」
「五番目は川田さんの服の汚点(しみ)ね」
「うん。手はケガしていなかった。見た所はね」
しばしの沈黙。今度は浅香萌も真剣な顔付きで考えている。
「まあ、もっとも第三の謎は今夜解けるけどね」
「どういうこと?」
浅香萌は怪訝な面持ちで訊く。
「あれ?気付かなかった?」
と有沢はニヤリと笑った。
「何に?」
「ぼくが全員に拳銃に付いて心当たりがないか訊いていた事に」
「ああ。それなら気付いてたけど・・・」
「ところで今夜はコーヒーを入れて。徹夜しなきゃいけないから」
浅香萌は探偵が何を言っているのかさっぱり解らないと言った表情を浮かべた。そんな表情をよそに探偵は意味深長な、そして自信に満ち満ちた微笑を浮かべているのだった。
FILE19、夜の出来事
浅香はコーヒーを入れてきた。そしてコーヒー・カップをナイト・テーブルに置いたFILE19、夜の出来事
浅香はコーヒーを入れてきた。そしてコーヒー・カップをナイト・テーブルに置いた。
「サンキュ!」
有沢はそう、礼を言うとコーヒー・カップを口に付けた。
「ねえ!これから何が始まるの?」
「さあね」
有沢は含み笑いをしてコーヒーを口に含んだ。外でやる事だと浅香はそう直感で思った。
「ねえ、毛布持ってった方がいい?」
目をイタズラっぽく目を輝かせながら訊いた。
「うーん・・・。どうだろう?」
しばしの沈黙。
「って、えー!!?」
と有沢が素頓狂な奇声を発した。
「萌ちゃんも行く気?」
「いけない?」
浅香は含み笑いをして言った。
「犯人かも知れない奴と直接対決するんだよ!?そんな危険な所に女の子を連れていける?」
「あら、それならなおさら私が必要じゃない」
浅香はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「おいおい・・・」
この時点で彼女の「兄」は諦めモードに突入していた。
「だって、ジージョ格闘技とかやってないでしょ?」
「うう・・・。それは・・・」
「それにボズウェル(イギリスの文豪、サミュエル・ジョンソンの優れた伝記作家、ジェイムズ・ボズウェル。事実に忠実な伝記作家の代名詞)も必要だと思うし」
「おいおい。萌ちゃん。ぼくの物語はぼく自身が書いてるんだよ」
と苦笑いを浮かべて言った。
「でも、一作は私が書いてるじゃない?」
有沢は苦笑を浮かべた。もはや許可するしかなさそうだ。
「解ったよ!連れていくよ。これでいいでしょ?」
「うん」
と漫画だったら語尾に八分音符でも付きそうなご機嫌な調子で言った。
「じゃあ、私着替えてくるね」
と言って彼女はシャワー・ルームに着替えを持って入った。
「なるべく軽装ね」
有沢はできるだけ大きい声で叫んだ。
「解ってる」
と浅香萌もできるだけ大きな声で答える。有沢はコーヒーを一口すすった。
(さてと、萌ちゃんが着替え終ったらぼくも)
やがて浅香がシャワー・ルームから出てきたので有沢も着替える事になった。ベッド傍らの毛布や枕の入っている戸棚から毛布を引っ張り出し、羽織った。
扉を開けるとヒューっと冷たい風。できるだけ厚着をしているものの山の気候は夜ともなると寒い。
「萌ちゃんも毛布持ってった方がいいよ」
浅香萌は有沢同様、毛布を引っ張り出した。
「ねえ、これからどこいくの?」
「Hコテージ」
まるでこれからの冒険を楽しむかのような口調の有沢。雨は上がったが山の土は湿っている。
二人は終始、無言のままだった。有沢は神経を集中させているのだ。浅香はその邪魔をしないように一人で空にちりばめられた宝石に見入っていた。
二人の土を踏み締める足音。それ以外は聞こえない。
数分してHコテージに到着。二人は草むらに身を潜め、じっと“獲物”が来るのを待った。
一時間後、急に有沢の片想いの少女が、
「くしゅん!」
有沢は親切にも自分の包まっていた毛布をそっと浅香の体に包ませてやった。やはり一枚では寒いのだろう。
しかし、今度は有沢がほとんど丸裸。五枚着込んでいるとはいえ、半袖か袖無シャツ。長袖なんて気の利いた物など持ってきていないのだ。
(くそーっ。毛布二枚持ってくるべきだったな・・・・。こんなに寒いとは)
「寒そうだね。やっぱり返すよ」
「いや、いいよ」
と言った物のやはり寒いのか有沢の身体(からだ)は小刻みに震えている。
「寒いんでしょ。震えてるもん。ジージョの身体」
有沢翔治は寒さのため震える身体で腕時計を見た。十時。もう毛布を取りに行く時間はない。
突然、毛布が有沢の体に包まれた。浅香萌が自分の毛布をかけてやったのだ。ただし身を寄せあい一緒に包まっている・・・・・。
浅香萌の大胆な行動にさすがの名探偵も顔を赤らめている。心臓の動きも速い。まるで走った後のように。
「ほ、星、きれいだね」
何か話題を作ろうとする有沢のことが好きな少女。
「う、うん」
空一面の色とりどりの宝石たちが二人の祝福を祝って微笑みかけている。なかなか恋人同士にならない二人をじれったそうに見ている星たちもいた。
自分が告白したら彼の思考回路が狂う。そう思っている少女だったが、恋心のせいであろうか?彼の温もりを確かめたくなるのである。
何か話題を作らないと。そう顔を赤らめながら必死で考える有沢翔治。だが、彼女の温もりのせいでなかなか、話題が思い浮かばない。二人とも顔は真っ赤である。
つい一時間ほど前までは五つの謎が頭の中を支配していた。しかし今は・・・。
「寒いね」
顔を赤くして少女は言った。
「うん、寒いね」
と小さい声でうつむいたまま言った。
「『寒いね』と話し掛ければ『寒いね』と答える人のいる温かさ」
浅香萌は俵万智の句を詠い上げるように読んだ。まさに今の二人を表した句。
何時間過ぎただろうか?二人にとってはそれは永遠のものに感じたに違いない。本来の目的もすっかり忘れ、とろけるように甘い、そして優しく包み込む甘い恋に浸っていた。
二人はほとんど無言だった。互いに顔を紅色に染め、会話など成り立たなかったのである。突然、有沢の肩が重くなった。
「萌ちゃん?」
呼びかけた。しかし反応しなかった。
少女は寝てしまったのだ。
「夜の二時。か」
腕時計を見て有沢は呟いた。
眠ってしまうのも無理のない話かもしれない。有沢はこの時間帯はコーヒーを飲みながらチャット、メッセンジャーをやっている。テレホタイムの方がよく人が集まるからだ。しかし健全な子供にとってもうお休みタイムなのだ。
すーすーというかわいい寝息。無邪気でまるで天使のような寝顔。そっと少女の腰に手を回して抱き寄せてみた。温かい。それと同時にほのかに香る清潔感漂うせっけんの香いや恋のように甘い香い香水の香いが有沢の鼻をくすぐる・・・。
車のクラクションはもちろん風の音も、また木々のざわめきもない。聞こえるのは少女の静かな寝息と自分の心臓の音だけ。
艶やかな愛しい少女の唇。それにしても無防備極まりない。いつでも唇を奪えそうである。有沢はショートヘアのまだ一度も染められていない漆黒の髪を見た。
このまま時間(とき)が止まってしまえば・・・、そう有沢は思った。一時間ばかり至福の時。
草木も眠る丑三つ時。だが有沢の他にもう一人、眠っていない男がいた。
彼はゆっくりとHコテージに近付いていた。有沢はその音を聞き逃さなかった。甘い恋の時間はもう終わりだ。探偵は厳しい調子で、
「あなただったんですか!」
と懐中電灯を当てて言った。その光に映し出された男は加藤だった。
FILE20、加藤が犯人?
Hコテージの中でいつもの推理披露をする探偵。
「まず、あなたは電話線を切り、外部との連絡方法を遮断。Hコテージで拳銃を持って本多医師を射殺しようとした。しかしここで予想外の事態が発生した」
「何?予想外の事態って」
探偵の相方が訊く。
「拳銃さ。加藤さんは拳銃を落としてしまった。ほら、暗かったろう、あれは拳銃を持っている事を本多医師に気付かれないようにするためだったんだ」
「ああ、なるほど」
納得したように相方は叫んだ。いつもながら敬服するばかりである。
「それで拳銃よりもナイフで殺害したんだ」
「本多佳子さんは恐らくゴート・ケープ(罪の着せられ役)として気絶させどこかに放置した。まあ、明日皆で大捜索を行えば出てきますがね」
「ま、待ってくれ」
加藤が口を開いた。
「確かに俺はここに来たさ。奴を殺しに。でも俺は殺っちゃいないよ」
「えっ?」
「本当さ。俺がここに踏み込んだ時にはもう既に奴は死んでいた。それに電話線を切ったのも俺じゃなくて関口だ。」
「えっ?えっ?」
有沢は自信満々の推理が音を立てて崩れて行くのを感じた。むろん、彼が嘘をついている可能性はある。
「でも、関口さんとは初対面じゃないんですか?」
「ああ。うわべではな」
「うわべ?」
「そうだ。被害者共の会というサイトで橋本も関口も知り合ったんだ。そりゃあ、最初は慰めあったりごく普通の関係だった。でも共通の敵、本多が・・・」
加藤は思い出して怒りに震えた。
「もういいです」
探偵は同情を込めた調子で、しかし冷静に言った。どことなく哀しい声だ。
それから深夜と言う事もあり加藤と二人は別れた。
「萌ちゃん」
Aコテージへ引き返す道のりの半分まで差し掛かった時に今まで無言だった有沢は真剣な面持ちで相方の名を呼んだ。
「何?」
浅香は眠そうにあくびをしながら言った。
「彼の事どう思う?」
「彼って?加藤さんの事?」
有沢は無言でうなづいた。
「そうねえ・・・。好い人っぽいけど・・・」
「ぼくが訊きたいのはそういうことじゃない」
探偵はいらいらして言った。
「彼が犯人かって事だよ」
「一応、ジージョの推理は筋は通ってたけど」
と戸惑いながら言った。
「でも第五の謎はあれでは説明が付かない」
探偵は頭を掻き毟りながら言った。
「まあ、明日、彼と関口さんに事情をもう一度訊く必要がありそうだな」
と呟いてドアノブをひねった。そしてベッドに倒れ込んだ。
FILE21、死体がもう一つ
次の朝、激しくドアを叩く音で目覚めた。あまりよい目覚めとは言えない。
「何ですか?朝っぱらから」
有沢は不機嫌な様子で言った。
「し、死んでいるんです。加藤様が」
「何ですって?」
呟くように言った。そして相方を起こすとできるだけ速く着替えた。相方の少女はシャワー・ルームで。
そして数分後には現場の森の中にいた。
有沢の検死によると死因は銃殺、四時以降には殺されていないということだった。
「第一発見者は」
関口が静かに手を上げた。
「ではその時の様子をできるだけ詳しく」
冷静な口調の探偵。
「ええ。朝六時頃に目が覚めました。早く目が覚めたなと思いましたので散歩に出かける事にしました。そしたらこれです」
死体を一瞥して言った。
さすがは元看護婦。死体を目の前にしても冷静である。
「その時、誰か見かけましたか?」
「いいえ。あっ、そう言えば近所の方かしら?酔っ払いを見つけましたけど」
「酔っ払い?」
探偵はおうむ返しに訊き返した。
「ええ。同僚に似ていたからよく覚えています」
「他には?」
「ええと・・・。その酔っ払いの娘さんかしら?二十代後半の女性に会いました」
「酔っ払いとその娘、か・・・」
しかしこの辺りは民家など一軒もない、陸の孤島だ。
「ねえ、登る途中に民家なんかあった?」
探偵は相方に訊いた。相方は首を横に振った。
「おかしいな・・・」
と呟いた。今度は大神にも同じ内容の質問をした。相方が見落としている可能性もないとは言い切れないから。
「いいえ、この辺りには民家などございません」
「それは確かですね?」
「ええ。確かでございます」
元看護婦は狂ったように叫んだ。
「そんなはずないわ!確かに見たもの!」
しばらく肩で息をしていたが落ち着きを取り戻し、
「どうせ山狩りするんでしょ?」
「え、ええ」
「その時探したらいいじゃない」
「そうします」
探偵は微笑した。その時、大神皐が口をはさんだ。
「あ、あの・・・。皆様、朝食の用意ができましたのでダイニング・コテージにお集まり下さい」
FILE22、山狩り
朝食後、ダイニング・コテージで有沢は、
「皆さん、山狩りをしたいのですが」
と言って、山狩りに対する意見を皆に求めた。真っ先に賛成したのは本多文人である。
「いいですね。そうすれば母も見つかるかもしれませんし」
と嬉しそうに褒め称えた。
「私も協力するわ。私の見たお爺さんをあなたは信じてくれないようだしね」
と関口綾美も賛成の意を表した。
「あなたはどうします?橋本さん」
この状況だと参加するしかなさそうだと橋本は感じた。何であんなヤブ医者のためにとシャクに触る気もしたが、ここで断るとあの変な探偵気取りの男に疑われかねない。そう思い、
「ああ、俺は別にいいですよ、行っても」
「大神さんはどうします?」
有沢は添乗員の方を見て、言った。
「それで本多佳子様が見つかるようでしたら喜んで参加させて頂きます」
「よし!これで決定ですね!」
本多文人はさも嬉しそうに言った。
「それで何人かのグループに分けたいのですが、もちろん部屋割りで山狩りをしてもらいます。しかし・・・」
「しかし?」
橋本が言った。
「それぞれ、一グループにつき一人スタッフさんにご同行願えますか?」
「ええ、構いませんが・・・」
「それで監視するというわけですね?」
本多が口を開いた。そして、
「ぼくと優子のグループも一人、添乗員さんが付くのでしょうか?」
本多は恋人に一瞥を走らせて言った。
「ええ。一応」
探偵は微笑を浮かべた。
「監視?冗談じゃない!俺はやってないって言ってるだろ!?」
橋本が急に叫んだ。
「まあまあ。橋本さん。念のためです。それに監視を付ける事であなたが犯人でない事が証明されるんですよ」
「そ、そうか」
彼は急に生気を吸い取られたかのようにストンと腰を落とした。
「皆さんもそれで宜しいですか?」
有沢が訊いた。
「もちろんです、名案ですよ」
と有沢のアイディアを本多は絶賛。
「ええ。もちろん」
と川田も言った。
「ええ、いいわ」
と関口。そして、
「ああ」
と不服そうにも賛成の旨を言う橋本。
「それでは、決まりですね」
と有沢はいつもの謎めいた微笑を浮かべて言うのである。
五分後、一同は山狩りを行っていた。
「ねえ、この山狩り効果あるかな?」
浅香は探偵にそう訊いた。しかし彼は意味深長な微笑を浮かべるだけ。このグループに付いてるのはもちろん大神皐である。
「あっ。そう言えば」
と浅香萌は出し抜けに言った。
「ん?」
「麻薬か何かを販売して話題になった病院じゃなかった?本多さんや関口さんの勤めてたH病院って」
「えっと・・・。あれは確か塩酸メタンフェタミンじゃなかったかな?ほら、今は効き目が速い事からスピードって言われてる・・・。でも犯人の下村道雄は医師免許剥奪と医学界からの永久追放っていう処分だけだったんじゃなかったっけ?」
「同僚に似てたって言ってたよね?関口さん」
「うん」
「もしも、あの人が下村さんだとしたら?そして復讐するためにここまで山を分け入ったとしたら?」
「彼が犯人だとでも?」
浅香は無言でうなづいた。有沢は苦笑して、
「おいおい。いくらなんでもその発想は突飛すぎるよ。それだったらまだ・・・」
「まだ?」
「いや。ぼくの悪い癖が出てしまいそうになったよ。物的証拠が一切ないのに状況証拠だけで犯人を考えてしまう癖が。状況証拠って言うのは曲者でね、見方を変えれば百八十度違った結論に行き着くものなんだよ」
と相方の意見を肯定も否定もせず、ただただいつもの謎めいた笑みを浮かべるのであった。
本多、川田のグループには池上が付いていた。
「早く見つかるといいですね」
「ええ、母が無事でいてくれさえしたら・・・」
心配そうに言った。川田は優しく微笑みかけ、
「大丈夫。ちゃんと見つかるわよ」
「そうだといいんだけど・・・」
「もう、ちゃんと見つかるってば」
苦笑いを浮かべる彼の恋人。ママがいないと泣き叫ぶ幼児をなだめる優しい姉のような口調である。本多もそれに応え、気のない微笑を投げかける。
「お似合いですね」
池上が言った。仕事上でカップルに言う決まり文句だが、本心から言ったのである。
「ええ、まあ・・・」
二人はほぼ同時に照れ笑いを浮かべた。
それにしても、ものすごい悪路!草木が生い茂り、見渡すばかり草、草、草!芝のように背の低い草ではなく人の膝丈の高さの草ばかり。むろん、きちんと人間によって整備された道ではなく、まさしく獣道であるのだが酷い所は草の上を踏み分けなければならない。
荒地ではないから石などは落ちていないがその分、草が行く手を阻む。しかも一昨日の雨で濡れているため、スカートを履いている川田に取ってはかゆくて仕方ない。
「ズボン履いてくればよかった」
と川田がそう言った。
「今からコテージで着替える?」
「でもコテージとは逆方向よ」
「今から引き返すんだよ」
面倒そうに本多は言った。
「池上さんはぼくたちの監視役ですのでずっとついていなければいけませんよね?」
「ええ・・・。そう言う事になりますね」
「ではついてきて下さい」
橋本の「監視役」は木村祥子だった。
「この山狩りは効果あるでしょうか?」
「さあ・・・どうですかねえ」
あまり関心がない、ぶっきらぼうな口調で言った。
最初は有沢に対して名探偵と謳われて(うたわれて)いるので期待していたが、犯人が解らないまま二人目の犠牲者が出てしまった。一体何をしているんだろうという最初は疑念、そして今では怒り、憤りを感じているのである。
(まあ、俺も他人のことは言えないけど。犯罪計画の片棒を担いでしまった俺には)
橋本は心の中で苦笑した。
しかし、誰がやったのだろう?本多を殺したのはてっきり加藤だと思っていたが・・・。関口か?いや、内線で今後の“完全犯罪”について確認を取っていた。むろん、有沢には言わなかったが。第一、あれは加藤の銃だ。間違いない。
考えれば考えるほど混乱するのが推理の常である。そのため彼は考えるのを止めた。中には有沢翔治のようにその混乱を楽しむ者もいるが。
関口についたのは宇田幸助だった。
(それにしても)
関口綾美は昔と森の中で見た老人を思い出していた。
(あのお爺さん、下村さんに似てたわよね。そう言えば、彼も本多の“被害者”の一人だったような)
関口はそう考えごとをしながら悪路を宇田と共に歩いたのだった。
話は変わり、有沢のグループ。大神は時計を見て、
「もう十二時ですよ」
と心配そうに言った。
「うーん・・・」
二時間も捜索をしている。しかし本多佳子は一向に見つからない。もはや、一同の顔に諦めの色が濃く出ていた。
その時、
「ねえ!」
相方が出し抜けに叫んだ。探偵が目を向けると人が倒れているではないか!探偵は駆け寄った。しかし、探していた本多佳子ではなかったのである・・・。
FILE23、乱入者
「ね、ねえ。その人死んでるの?」
恐る恐る訊く浅香萌。有沢は倒れている人の様子を診た。
「心配ないよ。多分、お酒の呑みすぎだろうね」
と少女を安心させようと優しい笑みを浮かべるが、落ち着き払った口調である。
「とにかく、運ぼう」
「は、運ぶって、どこに?」
「ナース・キャビンですよ」
大神は無線で山狩り打ち切りの一報を入れると、男を下のナース・キャビンまで運んだのだった。
一同はナース・キャビンに集まった。問題の男を一目見ようと言う理由からである。
「関口さん、この男に間違いはありませんね」
有沢は関口に尋ねた。
「ええ、そうよ」
と短く答えた。
「あっ、そうそう。一つお訊きしたいのですが」
「はい?」
「実はですね、あなたと橋本さん、そしてお亡くなりになった加藤さんとが一団となって本多さんを殺害したという話を訊いたものですから・・・・。この話本当ですか?」
突然、橋本が叫んだ。
「冗談じゃありません!初対面です!」
「まあまあ、橋本さん」
関口はなだめるように言った。
「橋本さんの言う通りです。仮にその話が本当だとして、なぜ私が本多さんを殺さなければいけないのです?」
探偵は答えれなかった。
「ほうら。答えられないでしょう?」
嘲笑う(あざわらう)ように元看護婦は言ったのだった。
しばらくして、微かな呷き声が聞こえた。
「うーん」
男は目を覚ましたのである。
「ここはどこだ?」
男はガンガンする頭を抑えながら言った。
有沢は今の状況を端的に説明した。
「まずお名前は?」
探偵は彼の名前を尋ねた。
「下村だよ」
下村と名乗る酔っ払いはロレツの回らない言葉遣いで言った。
「下村さん!」
突然関口が叫んだ。旧友に逢えた、そんな口調で。
「ああ、そうだよ」
痛そうに頭を抑えながら言う下村。
「あんたは?」
彼は仏頂面で言う。
「私です。関口、関口綾美です。病院で働いていた」
飛び上がらんばかりの嬉しさである。
「関口・・・。関口・・・」
下村は彼女の名前を呪文のように何回も唱えた。彼ははっという顔になり、その後激しく動揺したのである。
「い、いや。そんな奴は知らない」
酒の臭いを辺りにプンプンさせながら言う。
「そうですか・・・」
残念そうな顔をして言う。
下村は激しく動揺していた。まさか、こんな場所で勤めていた頃の仲間に会うとは!彼に取って勤め先で何を得たか?金でも名誉でも、恋人でもなかった。ただ一つ、裏切りだけ。そのような理由から勤めていた思いで封印したのである。
ああ、何と言う事だ!彼に復讐するためにこんな険しい山道を登って来たと言うのに、この優男(やさおとこ)の話だと彼は既に彼は殺されていると言うではないか!
有沢は質問する。
「それで、下村さん、今朝彼女を見かけましたか?」
「見かけてない」
「そうですか。ありがとうございました。」
「水を一杯くれないか」
下村は呷くように言った。有沢は大神にコップのありかを訊き、コップ一杯の水を彼に渡した。下村は礼を言うと水を飲み、コップを有沢に返した。
「俺の隣に女、いなかったか?」
「女の方?」
突飛なことを言われたので有沢は面食らった。そう言えば、関口が娘だか何だかも一緒に見たとか言っている。有沢は首をゆっくり振った。
「そう、か・・・」
残念そうに呟いた。やはり、昔とは言え、愛し合った仲だ。恋人の高坂里美が気にかかるのだろう。
結局、橋本と関口を除いて再度山狩りを行ったが出て高坂は見つからなかったのである。
FILE24、生きているか死んでいるか、それが問題だ
「こうなると」
と関口は真剣な面持ちで言った。
「ますます本多佳子さんの疑いが濃厚になりましたね」
「というかむしろ俺は本多佳子さんが殺したと思いますけど」
「あら!あなたも?」
「ええ」
本多文人が出し抜けに叫んだ。
「いい加減にして下さい!」
彼女の恋人、川田優子は彼の怒りを静めるため、慰めの言葉をかけた。それと同時に
「皆さん。少しは文人の気持ちも察してあげて下さい」
静かに言ったがしかし意志の強い様子が窺える口調である。
「あ、ああ、すまない」
「ごめんなさいね」
橋本はそれでもまだ懲りずに有沢の耳元に囁いた。
「あなたの意見は?」
「そうですね・・・・。To be or not to be,that is a questionと言った所でしょうか」
「『生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ』?」
有沢の突飛な引用に浅香萌は少々面食らったような表情である。
「はははは。萌ちゃん。『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』じゃなくて『生きているか死んでいるか、それが問題だ』だよ(この引用は不定詞と動名詞が同じ働きをすることを利用したものである)」
そして犯人は
「To be or not to be,that is a questionか。実に巧い表現だな」
と呟いたのであった。
FILE23、本多佳子犯人説
その後、川田と本多は自分たちのコテージに戻った。疲れたので休ませてくれ。それが本多の帰った理由である。彼らの姿が見えなくなるのを橋本は窓から確認すると、ここぞとばかりに本多佳子犯人説を打ち立てる。
「俺の考えによるとですね」
という出だしから始まった橋本の推理は、こういうものである。
当時、元夫の本多武雄は自宅を診察所にしていた。夜は薬の点検や、医療器具の整備、そして急患の対応・・・。昼はもちろん、診療所の経営・・・。
そんな夫の仕事が好きで結婚した本多佳子だったが次第に不満が募ってきた。よくドラマなんかで言ってる、
「仕事と私がどっちが大切なの!?」
あれと同じ状態である。子供が生まれてから、本多武雄はますます仕事、仕事になっていった。子供を養うためには仕方のない事かも知れない。しかし、そうやって次第に溝ができ始めて、隙間風が吹くようになったのである。そうした中で夫の状態を大いに不満に思っていた本多佳子は、弟の勇雄医師と出逢うのであった。
初めは当然、喫茶店でお茶を飲む程度の付き合いだっただろう。しかし、マンネリ化した夫が原因で、あろうことか不倫をしてしまったのである!エリート医師である事も彼女の惹かれた要因の一つだろう。貧乏暮らしはもう懲り懲りだと心の片隅で思っていたに違いないから。
初めは当然、言いようのない押し潰されそうな罪悪感に駆られた。夫に気付かれない事が余計に彼女の罪悪感を膨らませたのであろう。そしてある日、彼の高級アパートで一緒に寝たの事である。
「ねえ、もう止めましょう?こんな関係」
すると本多勇雄は邪悪に満ちた笑いを浮かべ、
「止めたいんだったら、それはあなたの意志です。どうぞご自由に。ただし、止めたらぼくは兄に言いますけど」
「馬鹿おっしゃい。誰があなたの言う事なんて信じますか」
笑いながら言った。
「確かに言葉だけではね」
と言いながら本棚を探った。盗撮用の小型カメラを取り出したのである!
「いやあ、最近のビデオカメラの性能は凄いんですよ。こんなに小さくともこんなに鮮明に撮れてるでしょう?」
突然、佳子の顔から笑いが消えた。
「とりあえず、五百万と言った所でしょうか」
「五百万ですって?ば、馬鹿言わないで!そんなお金」
本多勇雄という悪魔の化身は冷静に、獲物を前に喉をゴロゴロ鳴らしている猫のような調子である。
「むろん、兄の家はそんな裕福ではないのはぼくも知ってます。だから、一回十万として、あと五十回ぼくと寝たら許してあげる事にしますよ。もっとも、返済が遅れれば追加料金を請求しますがね」
「わ、解ったわ、その条件で」
「物分かりのいい奥さんを持ってぼくは兄が羨ましい」
何と言うひどい男!
そしてある日、本多佳子は
「特別サービスです。これを兄の夕飯の中に入れてくれたら、借金を帳消しにしてあげますよ」
と言って粉薬を渡したのである。薬の中身を知らない彼女は言われるままにした。するとみるみる内に本多武雄は蒼冷め、喉を掻き毟り死に至ったのである。
「あなたは」
にやにや笑いながら本多勇雄は言った。
「夫を殺してしまいましたね」
本多佳子は死人のように蒼冷めた顔をしている。
「さあて、いくら請求しましょうかね?とりあえず一千万とでも。ただし二か月以内で。それができないようでしたら、追加料金を払うか今見た事を話すかどちらかですよ。まあ選択権はあなたに持たせてあげましょう」
これはもちろん百回抱かせろと言う意味である。ああ!一年通っても三分の一以上かかってしまう!
「これに一緒に行きません?」
とある日、本多勇雄から受け取った物はこの旅行のチケットである。もちろん彼の勧誘とは強制を意味するので行かざるを得なかった。
昨日、Hコテージで恐らくこんな会話がなされたのであろう。
「昨日の段階でまだ三百万円分しか支払いが済んでませんよ。さあ、どっちを選びますか?一番、追加料金。二番、暴露」
「第三の選択があるじゃない」
本多佳子は怒りにわなわなと手を震わせて言った。果物かごの上のナイフを手に取り、本多勇雄目がけ突進した。本多は現場の銃を手に取ったが刺されてしまった。
次の日、加藤に呼び出された彼女。
「一千万」
「えっ?」
「本多を殺したのはあんただろう?この拳銃が証拠だ。俺と取り引きしようじゃないか。一千万くれたらこの事は誰にも言わないよ」
「解ったわ」
その時、本多佳子の頭のある悪魔の考えが浮かんだのである。
「物分かりがいいじゃないか。奥さん」
「ねえ、こういうのはどう?一千万なんてそうそう払える物じゃないわ。五百万は私の体っていうのは?」
加藤はそのしなやかな体にごくりと唾を飲んだ。
「あ、ああ。それでもいいよ」
「それじゃあ、拳銃を渡してちょうだい」
「ほらよ」
拳銃を渡すと悪魔のような高笑いをした。
「お馬鹿さんね」
そう言うと加藤に向けて弾丸を発射。加藤は「く」の字に折れ曲がって倒れる。走り幅跳びのような美しいフォームである。ただし、跳んだのは前ではなく後ろだったのは言うまでもないだろう。
そして行方をくらました・・・。
「というわけです」
と熱弁と迫真の演技を交えて橋本は説明した。
「ねえ、どう?今の推理」
浅香萌は不安そうに探偵の耳元で囁く。探偵はそれに答えるかのように立ち上がり、微笑して、
「その推理には矛盾点と推理するに当たって決してやっては行けない事をやっています」
「何?」
浅香萌はわくわくしている。
「何?」
同じ台詞でも自分の推理にケチをつけられた橋本は不快そうである。
「まず、なぜ初参加の人が電話線を切る事ができたのでしょう?それにあなたは事実を元にして推理してませんね。事実は本多さんが消えたと言う事、拳銃が落ちていた事と言うだけです」
「ほう・・・。それじゃ、あなたの推理を見せて下さいよ」
と橋本は挑戦的な口調で言った。
「ぼくはまだ証拠集めです。でも真実を見つけますよ」
といつもの謎めいた笑みを浮かべるのだった。
FILE24、川田優子の決意
Aコテージでは浅香が有沢にコーヒーを飲むかどうか訊いた。彼はこっくりと首を縦に振る。
有沢は例のロダンの『考える人』の姿勢で推理をしていた。
「コーヒーでも飲んで気分転換したら?」
浅香はクスクスっと可愛い笑みをこぼす。
その姿は兄を気遣う妹のようでもあったし、社長にコーヒーを入れる秘書のようでもあった。しかしこの二つよりも、更に的確に比喩がある。同棲相手にコーヒーを入れてあげる恋人・・・・。それがこの場の状況を最も的確に表現した比喩である。
「ありがとう」
礼を言いながら少女の運んで来たコーヒーカップに口を付ける。
「また、降り出して来たね」
浅香は窓の外の林を見ながら言った。外は桶狭間の合戦を想像させるような豪雨。ひっきりなしに雨がコテージを容赦なく打ちつける。
「ねえ、電気消して」
Iコテージで川田は決意をして本多にそう言った。本多は躊躇いながらも言われた通りにする。
「ねえ、本当にいいの?」
と本多の問いに優しく微笑して、
「うん。恋人同士が一緒の部屋に泊まるって事はこう言う事が起きるのを覚悟の上で私はオーケーしたのよ」
そして二人は一時間ほど愛を確かめ合う最高の行為をしたのである。その行為が終わり、十分ほど経過した頃だろうか?川田優子は本多文人に、
「ちょっと出かけてくるわ」
と言って、レイン・コートを着込んで出かけていった。ただしいつもとは違う強張った表情で。
「心配しないで。すぐ戻ってくるわ」
と弟を慰める姉のような優しい微笑を浮かべる。しかし、
(さよなら。文人、永遠に)
と思いながら。そして心の中で彼に私なんかよりもいい彼女を見つけてと祈りながら。本多文人の体の温もりがまだ微かに残っていて、それがより一層、川田優子の心の迷いに拍車をかけるのである。
そして、川田はIコテージからもう帰らないと決意をして立ち去った。手には例の血のついたワンピースが握り締められてるのだった。
「自首しよう」
と呟き、そして
「さよなら。文人」
川田優子の頬に熱い物が伝わってくる。彼女は決心してAコテージの扉をノックした。
「誰かしら。こんな時間に。どうぞー」
浅香萌の声が川田の耳に入る。
「これは川田さん!」
驚きの声。コーヒーを飲んでいる有沢の声である。有沢は彼女の姿を見てシャーロック・ホームズに出てくる『五つのオレンジの種』の依頼者、ジョン・オープンショー青年(雨の中、事件の依頼に来た青年)を思い出したに違いない。
有沢は来訪者に椅子を勧めると、向かいの椅子に自分も腰掛け、
「何でしょう?」
と優しく微笑しながら言った。
「震えていますね。ストーブにお当たりなさい」
「いえ、私は寒さに震えているのではありません」
「では何に震えているのです?」
ここまでそっくり『五つのオレンジの種』と同じ会話。しかし、こちらで答えられた回答は「恐怖」ではなかったのである。
「はい、自分自身の罪の重さに震えています」
そして静かに、しかし、押し出すように、
「私が殺しました」
と言ったのである!
FILE25、川田優子の告白
私には幼なじみで三才上の前の恋人で九瀬広尚(くぜ ひろなお)という人がいた。彼は元々体が病弱だった。そのため、よく風邪をこじらせては軽い肺炎を患って入退院を繰り返していたのである。そして私はあの日を死んでも忘れないだろう!四年前のクリスマス・イヴの前日。この段階では私はまだ彼とは付き合っていない。
休み中は毎日書かさずお見舞いに行くことにしていた。それでこの日もお見舞いに行くといつものように、
『毎日来てくれるのは優子ぐらいだな』
と優しい微笑みを浮かべて言ってくれたのである。
『えへへ。どうせ暇だから』
暇と言うのは真っ赤な嘘である。私は彼の事を愛していた。いや、過去系にするのは変である。なぜなら私は今も彼の事を愛し続けているから。
それからいつものように学校の勉強を教えてもらったり、色々な取りとめのない話をしたりして、楽しく時間は過ぎていった。たまたま、好きな人の話になり、当然、
『なあなあ、優子に好きな人っているのか』
私は意を決して告白したのである。
『そうか・・・。俺の事がね・・・』
私は広尚の返答をどきどきしながら待った。
『ようし。一日早いけど俺からのクリスマス・プレゼントだ、目をつむって』
はぐらかされた気がしましたけど言われた通り、目をつむる。
するとどうでしょう!柔らかい何かが私の口に触れたのである!薄目を開けると彼の唇だった。あの感触、あの味!今も目をつむったら蘇る。
それで翌日のクリスマス・イヴ私はケーキを買って病院に向かった。そしたら。彼はは冷たい体たったのである。
“犯人”の告白は以上である。
「だから・・・、だから・・・」
川田優子はわっと泣き出した。浅香萌は、静かに
「もう、聞きたくありません」
有沢は川田の告白中、ずっとワンピースを見ていた。聞き終ると彼は、血で斑点のできているそれを見ながら不敵な笑みをこぼす。
「なるほどね」
そして川田優子にナイフのように鋭い調子で言うのだった。
「萌ちゃんの言う通りです、川田さん。あなたはもう何も言う必要性はありません。この服が全てあなたが犯人ではなく、そしてあなたの告白で真犯人を物語っているのですから」
幕間
さて、賢明な読者諸君。なぜ私、有沢翔治は川田優子が犯人ではないことが解ったのだろうか?そして犯人は誰をずばり指摘して頂きたい。
FILE26、真相I
「嘘じゃありません!本当です!」
狂ったように川田優子は叫ぶ。
「いや、あなたは嘘をついています。そして嘘をついた事事態がある特定の人物を犯人だと示しているのですよ」
探偵は厳しい声と顔付きをして言う。
「嘘じゃありません」
寒さのためか、あるいは何か別の理由があるのか彼女の身体はガタガタ震えていた。
「何で自白してるのに犯人じゃないの?」
的確な質問だった。
「萌ちゃん」
と川田優子のワンピースを広げながら言った。
「この服には血があんまりついていないよね?」
「あっ!そういうことね」
相方が納得したようにうなづく。
「そう、この服には返り血が全くと言って言いほどついていない」
有沢は川田優子の方を向き、
「さあ、なぜ返り血がついていないのかを説明してもらいましょうか?」
「そ、それは川で洗い落としました」
声が震えている。探偵はなおも追及を続ける。
「ほう。ならあとで知り合いの刑事に見てもらいましょうか。ルミノール反応はわずかなヘモグロビンでも反応しますからね」
探偵は言葉を続ける。
「恐らく犯人はあなたの恋人、本多文人さんでしょう。彼以外に川田さんがそこまでしてかばう人はいませんからね」
「違います!文人は決して犯人ではありません!」
「To be or not to be,that is question!」
と男は呷くように言った。
月明かりに照れされ、その逞しい肉体が浮かび上がる。ドアの所には「I」というアルファベットがかかれていた。
男はこの上ない、そして例えようがない物憂げな顔でベッドの端に座っている。
彼は気が気でなかった。落ち着かなかった。と言うより伯父を殺した罪悪感で胸の内は一杯である。今、恋人が「自白」にAコテージに向かった。しかしそれは自分をかばうための自白だったのだ!もし、これが法廷なら偽証罪になってしまう。
「ああ!」
呷き声、叫び声、唸り声、そして喘ぎ声。悲痛、苦悶、懺悔、そして罪悪。この声にはそう言うあらゆる悶々とした物が含まれていた。
何で人を殺したのだろう?復讐である。この簡単な答えはすぐ導き出せた。しかし父は本当に復讐を望んでいたのか?おそらく、答えはノーであろう。
男は伯父をどうしても許せなかった。彼を殺しても平和で優しい家庭が戻って来ない事は彼も知っていた。なのに、なぜ?
その答えは今すぐに導き出せる物ではない。
「怨みは怨みによってしか放されない、か」
彼は呟いた。
「ふう・・・・」
若い男の体はまるで老人のように疲れ、萎えていた。罪。それが男の胸の内を支配している。
自分は人間失格だな、そう思っていた。どんな理由であれ、殺人は殺人。決して許されるべき物ではない。それは彼も解りすぎるほど解っていた。それなのに、なぜ?
自分自身への軽蔑、怒り、憤り・・・。殺してしまった罪の意識。ああ、あの時さえ・・・。耐えきれないような後悔の念と罪悪感が重くのしかかっていた。男の頬を涙が伝う。
そして呟いた。
「自首しよう」
と。
しかし、その前に彼にはやるべきことがあった。彼はクローゼットに拉致、監禁してあった、女のガムテープ、そして縄をはずした。男は彼女に涙をこぼしながら謝った。女は許してくれた。しかし、男は自分自身を許せなかった。
そして数秒後、コテージの扉が開く重たい音が聞こえた。
「い、いいえ。違います」
声が震えている。それは探偵に言うというよりは自己暗示をかけているかのようであった。
しばしの間。いまだ激しい雨がコテージの屋根に叩きつけている。その音だけが静まり返ったコテージに聞こえる。
ノック音。男が到着したのである。
「文人!」
川田優子が叫んだ。そして熱くお互いを抱き締めた。まるで何年ぶりかに再開した恋人同士であるかのように。
「優子・・・、もういいよ・・・、これ以上、ぼくのために罪をかぶらなくとも」
男の頬を熱い物が伝う。そして、探偵の方を向き、
「有沢さん、ぼくがやりました」
と呟くように、しかし力強く言った。探偵は満足げにうなづいた。
「あなたなら自首してくれると思っていましたよ」
呟くように探偵は言った。文人は安堵の顔になる。
「いや!私がやりました!」
泣きながら有沢に訴える。しかし有沢にはどちらが犯人か既に解っていた。
「優子・・・、ぼくをかばいたい気持ちは痛いほど解る。でも、ぼくがやったという事実を曲げる事はできないんだよ」
泣きながら文人は言う。
「そう・・・。解ったわ」
「解ってくれたかい」
優子は文人の気持ちを察した。これ以上、自分が罪をかぶっても、かえって彼の罪の意識を苦しめる事になる。
「このワンピースに付いた血はおそらく川田さんが凶器のナイフを現場から持ち去った時に付いたものでしょう」
川田は黙ってうなづいた。
「ぼくが現場から立ち去る所を見てしまったのでしょう」
再び彼女はうなづく。
「でも、気になるのはなぜ現場に銃が落ちていたかということです。ぼくは銃なんて持ち込んでいませんよ。それに、伯父がいくら銃のコレクターだとはいえ、実弾を詰める事はありませんでした」
「ああ。その謎ならもうすっかり解けてますよ」
探偵はそう言った。
「あなたが本多勇雄さんを殺害した後、加藤さんが入ったんです。殺害しようとね。そして既に殺されているのを見て銃を置いて逃亡したというわけです」
「それなら、電話線を切ったのも?」
相方が訊く。
「うん。恐らくね」
「でもなんで彼は殺されたの?」
「団体心理と言うのは恐ろしい物で、一人抜けると言いだすとその人を場合によっては殺す事もあるんだよ。」
「それで彼を殺したのは誰なの?」
「関口さん、橋本さんのどちらかだよ」
「解らないの?」
探偵は肯定した。
「へえ。」
相方は驚いた様子で探偵を見た。彼は、
「つまりね、こう言う事だよ」
と言って説明をした。
FILE27、真相II
本多勇雄が殺される日のことである。本多勇雄、佳子は一緒にベッドで寝ていた。ただし橋本の推理は間違っている。脅迫されたのでは決してなかった。
脅迫したのは本多武雄の方だったのだ。その横暴ぶりから誤解を受けたのである。三十年前に遡る。
「ねえ、私たちいよいよね」
本多佳子、旧姓、法村佳子(ほうむら けいこ)がオレンジ・ジュースに口をつけながら言った。その席からはポプラ並木がよく見える。本多勇雄はまだインターン(医師の見習い過程)を終えたばかりのまだ駆け出しの医師だった。
「ああ、そうだな」
上の空で呟いた。
「お義兄さんにはちゃんと言った?」
法村の左手の薬指がキラリと上品な光を放つ。彼の婚約者の兄、本多武雄は誤解しているのだった。自分のために通いつめているのだと。
そもそも本多の父母の祖父母も医師、または医学教授である。弟より兄の方をかわいがり、褒め称えた。そのため武雄は絶対的な自身をつけてしまったのだ。
「そのことなんだけど」
気まずそうに本多は口を開く。まだ説明してない事が本多の口から告げられた。
「それじゃ、誤解したままなの?」
「ああ、それどころか親父もお袋もすっかりお前と兄貴が婚約したものだと思っている」
「で、でもこの指輪は?」
「そのことなんだけど兄貴から渡した事にしてあるんだ」
「ええ!?」
「本当だ。」
「じゃ、じゃあ、私はどうなるの?」
土下座をして謝った。
「すまない!この通り!兄貴と結婚してやってくれ」
「そう・・・。解ったわ」
哀しげに呟いた。
式当日、式場に本当の婚約者、本多勇雄の姿はなかった。一人、三畳一間の本多佳子と同棲した下宿で涙を流していたのである。
これをバネに医師の勉強に何かに取り憑かれたかのように打ち込んだ。そのためにエリート医師へと上がっていく。
「しばらく逢わない内にずいぶんと成長したわね」
例のよくデートをした喫茶店をお決まりの席に座った。そこからはポプラ並木がよく見える。予約もしていないのに予約席と書かれていた。店主はもう亡くなって息子が後を引き継いでいた。
息子は「予約席」に案内して、黙ってオレンジ・ジュースとアメリカン・コーヒーを運んできた。二人がほとんど毎回注文した品だ。
「ねえ、あれから大体十五年になるのね」
ああ、そうだな、と言うように笑みをたたえる。
「兄貴とはうまくやってる?」
「ええ、私ね、文人って言う子供がいるの。今度見に来て」
「ほう・・・。兄貴の知性と君の優しさが揃えば将来は名医かな?」
自虐的な笑みを浮かべる。
「やめてよ」
本多佳子は苦笑した。そして、本多佳子の誘いで例の三畳一間の下宿を見に行った。
背が高く可愛い二十才ぐらいの女性が洗濯物を干していた。女物のシャツなどの隣に男物の下着が干してあるのが見えた。突然、本多佳子は、いや法村佳子はクスッと笑った。
そして、数時間後、二人は罪悪感に押し潰されそうになる。
不倫が発覚したのは本多文人が十五、六になった頃である。本多佳子は夫にひどい生傷をつけられた。彼女は殺されるかと思った。いや、訪問客が来なかったら死に至っていたに違いない。
そこへちょうど本多勇雄がやってきた。不倫の事実は知っていたものの誰と寝たのかは知らない。
本多武雄は突然の来訪に驚き、歓迎した。本多勇雄は袖口から見える生傷を見てすぐに本多佳子が夫からの暴力を受けたと解った。そしてそれが毎日だと誤解してしまったのである。
「いや、往診で近くまで来た物だから立ち寄ったんだよ」
グラスに注がれたビールを飲みながら言った。そして密かに血糖低下剤を取り出し、本多佳子に渡した。そして、それを本多武雄の料理に入れるように目で促した。
「お茶飲む?」
そう、佳子は武雄に訊いた。武雄は飲むと言ったので、錠剤を静かに湯のみに落とした。
「勇雄さんは?」
コーヒーを飲む事を知っていたがあえて訊いた。
「コーヒーをお願いします」
コーヒーを入れて出した。その時、本多武雄の体が急変した。血糖低下剤が効き始めたのだ。発汗、迅なる(はやなる)脈、落ち着かない仕草・・・。
数秒して息絶えたのだった。
「ねえ!何入れたの?あの薬は?」
「血糖値を下げる薬だよ、たまたま今日は糖尿病患者だったんで、この薬を持ってたんだ」
ドアの音と共に文人が帰ってきた。
「ま、まずい。今、文人に見られたら。いいかい?ぼくが殺したことは秘密だよ。」
「ええ。これで私たち結ばれるのね、やっと」
ある日、
「ねえ、素晴らしいチケットが手に入ったんだけど」
と興奮して、本多佳子から電話をかけてきたのである。
「素晴らしい、チケット?」
おうむ返しに訊く本多勇雄。
「ふふふふふ」
と楽しそうに笑うだけなのである。
「とにかく、いつもの喫茶店でね」
本多佳子は受話器を置いた。そして、夜九時になると決まって、チャイムが鳴った
「じゃあ、母さんちょっと出かけてくるから。」
そのチャイムを合図として出かけて行ったのだった。
「八月二十六は暇だけど・・・」
「良かった」
そう言うと本多佳子はチケットを渡した。外は青々としたポプラの木が街のネオン、車のライトなどでライト・アップされている。
「行きましょう」
本多勇雄は黙ってうなづいた。
待ちに待った当日。Hコテージに着いた二人はいい部屋とか世間話をしながら雨の時間を楽しく過ごした。
その頃、加藤は娘の復讐を遂げるため、電話線を切断していた。
そして運命の夜。誰かがノックした。本多文人である。もちろんこの時点で殺意がは芽生えていないのは言うまでもない。
「伯父さん。父を殺した理由を教えて」
本多勇雄は激しく動揺した。しかしがっくり肩を落とし、哀しい誤解を語り始めたのだった。
「嘘だ。親父がそんなことするわけない!」
「よく訊いて。文人」
と駄々をこねる子供に言い聞かせるような本多佳子。
「嘘だ!」
次の瞬間、文人自身でも何をやってるのかが解らなくなっていた。ただ文人が我に返った時には血まみれの果物ナイフを持って呆然としていた。そして、川田優子の、
「文人、どこー?」
と呼びかける声を聞き、逃げ出したのだった。コテージから走り去るのを見た川田優子は文人を守ろうと決心する。まず血まみれのナイフは自分のワンピースで拭いて、川に捨てた。
「文人、おばさんにガムテープと縄で縛って私たちのコテージのクローゼットに入れましょう。罪をかぶってもらうのよ」
文人の足はがくがく震えた。恋人がこんなにもおぞましい一面を持っている事に気付いたからである。文人は川田の言う通りにした。
「やるべき事は全てやったわ」
緊張の面持ちで行った。加藤が娘の仇を取ろうとロシア製の拳銃を持ってHコテージに侵入しようとしていたのはその時である。
加藤は鍵が開いてるのを見るとしめたと思って入っていった。しかし既に彼の身体は冷たくなり、辺りは鮮血の海と化していた。加藤は
「ひゃあ!」
と驚きの声を上げ黒い凶器も捨て一目散に逃げたのだった。そして、
「えー!何を今更」
とこの計画を関口に止める旨を伝え、腹を撃って自殺しようとした。
「止めなさい!」
揉み合いになり銃弾は加藤の腹部を貫通したというわけである。
FILE28、後日談
「ふう・・・」
私はやりきれない思いでこの小説を書いている。まさにこの事件は悲劇の結末である。私は萌ちゃんからこの話を持ちかけられた七月一日、紀行文にしようかと考えていたのだが・・・・。
「ジージョいる?」
萌ちゃんが顔を覗かせた。
「やっぱ三人称で書くと疲れるね」
私はパソコンの画面を親指で差した。
「へー、読ませて」
私はいいと答えた後に二つの場面を・・・第一部と第七部で私が赤くなる場面を思い出して慌ててウィンドウを閉じた。
「けち!」
と彼女は頬を風船のように膨らませた。
「それにしても」
私は慌てて話題を変えた。
「本多文人さんと優子さんの最後のドラマ凄かったね」
西口警部が来て、本多がパトカーに載せられる場面である。二人の間でこういう会話がなされた。
「早くいい男、見つけて幸せになって。殺人犯なんかじゃなくって」
「うんん。私、待ってるわ。何年でも何十年でも」
「でも死刑だったら?」
「そしたら私も一緒に逝かせて」
「ああ」
そしてお互いに抱き締めあい、口付けを交わしたのである。
FILE29、フィガロにて
数日後、私は西口警部に頼み込んで手に入れた加藤美代のカルテを携えて行き付けのコーヒーショップ、フィガロにいた。
「何見てるんだ?」
興味津々と言った顔付きでカルテを覗き込む。マスターが固まった。ドイツ語なのでさっぱりだったようだ。
「なんてことだ」
私は呟いた。加藤美代は現代医学を持ってしても治らない不治の病だったのである。
カランカラン。そう高い音がして姿を現したのは何と橋本だったのだ。
彼は私を見かけると駆け寄って来た。挨拶よりも先にこう叫んだのである。
「聞いて下さい!有沢さん!幸が意識を取り戻しました!」
と。
二〇〇一年九月二十九日、名古屋の事務所にて執筆完了
この作品はいかがでしたか?
一言でも構いませんので、感想をお聞かせください。