"> THE STUDY ROOM FOR DETECTIVE STORY/自作小説/犯罪には向かない女(A Woman Unsuitable Clime)

犯罪には向かない女(A Woman Unsuitable Clime)

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FILE1.横領

 まだ朝の六時だというのに、広田は喫茶ボルトンの「管理人室」と書かれた部屋に呼び出されていた。何が始まるのだろう、少なくとも唯事ではない、と思いながら、
「店長、何の用でしょうか」
 その部屋は六畳程の小さな部屋で片隅にテレビが置いてあった。テレビの他には卓袱台(ルビ:ちゃぶだい)が置いてあり、その上には味噌汁茶碗と湯飲、魔法瓶などが置いてある。今、食べ終わったのだろう、と彼女はぼんやり考えた。
「まさか私がレジからお金を着服しているのがばれたんじゃ」
 彼女はそう独白する。彼女は一ヶ月程前から、毎日一万円から二万円、レジの売上金を着服していたのである。その金はシャネルのバッグ等、ブランド物に消えて行った。広田雅美はそれが発覚する事を恐れているのだ。
「そこに座れ」
 いつにない厳しい顔つきで、店長の渡辺智昭は言った。やはり発覚したのではないか・・・・?広田は不安に駆られた。しかし、言われた通りに無表情に彼女はちょこんと座った。
「お前、レジの金を盗んでるな」
 ずばり的中。横領犯は必死に動揺を押し隠そうとするが声が震えている。
「な、何の事でしょうか?」
 彼女は店長から視線を反らす。
「レジの金だよ」
 凄みを利かせて、渡辺は言った。一瞬、広田は自白しようかどうか迷ったが、最後まで白を切る事にした。
「店長、私横領なんてしてません」
 広田はきっぱりと言おうとするが、弱々しい声でしか言えない。
「ほう」
 と彼は呟いた。証拠を見せるしかなさそうだ、と彼は思った。
「証拠があるんだ」
 男はにやりと笑って、テレビの方に歩みよった。
「証拠ですって?」
 彼女は独白したが、証拠なんてある訳がないと頭の中で打ち消した。出鱈目を言って動揺させる気だろう。
「ああ、このビデオテープにばっちり映ってる」
 と言ってVHSのビデオテープを取り出して、デッキに入れた。外では車のクラクションの音がした。
「嘘よ!」
 思わず彼女は叫んだ。そして、その直後しまったと後悔した。
「嘘?」
 にやりと彼は笑った。
「何が嘘なのかね?」
 彼女は内心焦りながらも取り繕った。
「い、いや、それはですね、横領してないのに横領のシーンが映るはずないじゃないですか」
「なら、回しても好いんだね?」
 にやりと再び笑いを浮かべた。広田にはそれが悪魔のような笑いに見えた。
「え、ええ。どうぞ」
 動揺を隠し切れず、彼女の声は震える。本当に横領現場が映っているのだろうかと彼女は気が気じゃなかった。
「殺す?いや、何もそこまで…」
 彼女は独白する。幸い、と言って好いのか、渡辺はビデオを再生しようとリモコンの操作に気を取られている。しかし電池の具合が悪いのか、中々再生されない。
「あれ?おかしいな」
 渡辺はしきりに首を傾げている。この偶発的な出来事により、彼女は幸運を感じた、
「今しかない、何を戸惑っている」
 心の悪魔は彼女に囁いた。そして、彼女は悪魔の誘いに乗った。魔法瓶を手に取ると背後から忍び寄った。
「ん?」
 渡辺は振り返ろうとしたが、振り返る前にもう既に魔法瓶は振り下ろされていた。まるで無声映画のように床に倒れた。そして我を失った広田は何度も頭を殴りつけたのだった。彼の頭から血が流れ出るのを見て、広田は後悔した。しかしもう今更、後には引けないのだ。時計を見る。開店前の七時にはまだ間がある。
「だけど・・・」
 広田は死体をうんざりした目付きで眺めた。どう処理しようか、という問題が頭をよぎった。死体を隠し通す事は不可能だ。そして・・・
「この血を消す事も出来ない」
 と畳に染み込んだ血痕にうんざりしながら言った。そうだ、殺人の隠蔽が不可能なら自分に確固たるアリバイを持たせれば好いではないか。
 彼女はすぐさま業務用の冷凍庫に死体を引きずって放りこんだ。古典的な手だが、とっさに思いついたアイディアにしては上出来だったと言えよう。魔法瓶は粗大ゴミ置き場に捨てれば好いだろう。そう言った事を考えて冷凍庫や「管理人室」のドアノブについた指紋を全て拭取ったのだった。
「そうだ。ビデオテープは?」
 殺人の隠蔽に気を取られ、すっかりビデオテープの存在を忘れていた。彼女は横領の現場が映っているテープを探すために、慎重にドアノブを捻った。血がべっとりとついた畳から反射的に目を反らす。暗くて捜しづらいと感じた彼女は、電気のスイッチを押そうとする。しかし、ハンカチ越しでは押しづらい。忌々しげに舌打して、彼女は素手で電気を点ける。
「あった!」
 意外と早く見つけた事に喜びを感じた。彼女はほっと安堵の溜息を吐く。
「これで一安心」
 ビデオテープを手に入れたした広田は、これをどうしようかと考えた。これも魔法瓶と一緒に捨ててしてしまおう、と考えた。
「でも誰かに内容を見られたら・・・?」
 という不安が一瞬、頭をかすめたがかぶりを振って否定した。
「捨てられているテープなんて誰も見ないわよね」
 と自嘲気味に笑った。あと十分で店が開く。そうすれば、他のバイトも来る。深呼吸を一つした。
「今日の五時まで・・・今日の五時までに何としてでも冷凍庫には触らせない」
 震える声でそう、広田雅美は呟いた。

FILE2.不思議な客

 朝日が差込み、バイトが店へやってきた。
「おはようございます」
 元気好く篠崎が広田に挨拶した。広田は電気で撃たれたようにびくっと身体を震わせたが、彼は何も知らないから不安になる事はない、と自分に言い聞かせた。
「肉の準備やっちゃいますね、カレーは早いうちに仕込んだ方が美味しくなるんですよ」
 昨日の料理番組でそんな事を言っていた、と広田は思い出した。待てよ、肉は冷凍庫だ。今開けられたら店長の死体が出てきてしまう。広田雅美は慌てて、
「ちょっと待った!」
 大声で叫んだ。
「何ですか?」
 篠崎はそんな大声で言わなくとも解ります、と言いたそうな表情で広田に冷たい視線を送った。
「い、いや・・・、そのう」
 好い言い訳が思い浮かばず、戸惑った。
「死体が入ってるとか?」
 道化けて篠崎は言ったが、冗談には受け止められず広田は冷や汗をかいた。何せ本当に死体が入っているのだから。
「い、いえ。冷凍庫故障中で今朝から開かないの」
 視線を彼から反らし、広田は言った。
「ふーん・・・、どれどれ」
 冷凍庫を開けようとする篠崎を見て、広田は焦った。彼を何とかして、冷凍庫から離れさせなければならない。
「し、篠崎君」
 広田は叫ぼうとしたが、
「あ、本当だ」
 と言う呟きが聞こえて、彼女でも訳が解らなかった。彼女にとって幸運だったのは、冷凍庫のドアが死体によって引っかかっていた事だった。
「な、何だか知らないけどラッキーだったわ」
 彼女はそう心の中で呟くと、故障中と紙に書いて冷凍庫に貼りつけた。
「そう言えば、店長の姿が見当たりませんけど、どうかしたんですか?」
 広田はまたぎくりとした。
「わ、渡辺さん、風邪みたいよ」
 それは篠崎に言い聞かせると言うより自分に言い聞かせるようだった。
「ふーん・・・」
 納得したように言ったが、ドアが開いて客が入ってきたので会話を止めた。入ってきたのは、いかにも着慣れないという風にスーツを着た若い男だった。背が高く、痩せぎす、シャープな顔つきで理知的な眼鏡を掛けている。就職活動をしている大学生かしら、と広田は思った。まだ十代後半から二十代前半で髪はしばらく散髪には言っていないと見て取れるほど、伸びていた。まるで鳥の巣を頭に乗せているように見える。その脇に置いてあるメニュを眺めると、パタンと閉じた。
「さてと」
 男は呟くと、ポケットから文庫本を取り出して熱心に読み始めた。よほど気に入っている本らしい。表紙はボロボロで印刷が薄くなりかけていたが、それでも「シャーロック・ホームズの帰還」と言う文字は何とか見て取れる。広田は客の注文を取りにテーブルへと向かった。
「ご注文はお決まりですか?」
 営業スマイルを口許に貼り付けて広田は言った。自分の行った殺人が露見するのではなかろうか、と緊張しているにも関わらず客の前では愛想を振舞わなければならない。辛い仕事だと彼女は思った。
 男は本に熱中していて広田に気付かない。広田は声を張上げて繰り返した。男は初めて気付いたらしく驚いた表情をした。そして明瞭で朗らかな声で
「コーヒーとカツサンド下さい」
「あの、申し訳ございません。お客様、カツサンドの方はご用意できません」
「用意できない?」
 訝しげにV字の眉を潜めた。
「はい、冷凍庫が故障中でして」
 広田は大変申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「そうなのか・・・」
 誰に訊く訳でもなく呟くように言った。そしてしばし考えこみ、エッグサンドをオーダーした。
「エッグサンドとコーヒーですね?少々お待ち下さい」
 広田は紙に男の注文を書きつけると、そそくさと厨房へ姿を消したのだった。

FILE3.処分

 新来の客に広田は不気味さを感じた。一心不乱に、そして貪るように本を読んでいる姿は何かの霊に憑かれたようだった。また、この様子だと何時間でも居座りそうな様子だったので殺人が発覚しないかどうか気が気でない彼女にとって長居の客は不安の種だったのだ。
「ねえ、あのお客さん不気味じゃない?」
 広田は篠崎に耳打ちした。彼はあっけらかんとして、
「そうですか?俺には別に・・・」
 殺人の事で頭が疲れているのかな、と彼女は自嘲的に一人笑った。早く魔法瓶とビデオテープを捨てたかった、しかし休憩時間は二時からで後六時間もある。
「そうだ、ゴミ捨てに行ってくる」
 と言って捨ててこれば好いではないか。この理由なら今すぐにでも捨てられる。幸いにもゴミ捨場ははこの店の裏だ。
「篠崎君、私ゴミ捨ててくるわ。この魔法瓶古くなったから捨ててって渡辺さんから頼まれてて」
「俺が捨ててきますよ」
「い、いや。好いわ」
 篠崎に勘付かれたら・・・広田はそう思うと、殺人に関する事は皆、自分でやろうと決心した。男が不気味だと言ってので、篠崎は逃げたなと思った。
「じゃあね、お客様の事宜しくね」
 そう言うと広田は出ていったのだった。ここが山場だ、と広田は思った。もし底に血の付着した魔法瓶を捨てられる所を見られたら…。魔法瓶についている指紋は全て拭き取ったので、もし魔法瓶が発見されても広田が何の証拠にもならなかった。
 誰にも見られていないか、と不安に思いながら周りを見渡した。犬に咆えられたため、電気で撃たれたように身体を震わせる。いつもなら、五月蝿いとしか思わないのだが、この日ばかりは人を呼ばないかと気を揉んだのだった。ゴミ捨場に向かう途中は幸い、誰にも会わなかったのだが上手くやり通せる程、神様はお人好しではない。魔法瓶を捨てようとしたその時、
「あら、広田さん」
 いつもの話好きの主婦が声を掛けた。慌てて魔法瓶を後ろに隠す。
「今日もボルトン行くからね」
「は、はあ」
 来ないで、と切実に思った。さり気なく魔法瓶を捨てるか、それとも主婦の話が終わるまで付き合うか。広田は前者を選んだ。いつまでも後ろに手を回している訳にはいかない。ゆっくりと膝を曲げる。魔法瓶は何か堅いものの上に乗ったので安心して手を離した。
 とにかく広田はこの場から一刻も早く逃げ出したかった。
「粗大ゴミってまだ使えるものが沢山捨ててあるのよねえ、もったいなくて」
 と言いながら広田の横を通り、まるで骨董品を見る鑑定士のように粗大ゴミの品定めを始めた。
「このテレビの上の魔法瓶なんかまだ使えるじゃない」
 主婦は広田が今捨てたばかりの魔法瓶を手にして言った。広田は引き攣った笑いを浮かべ、
「あ、あんまりゴミとか触らない方が好いですよ」
「それもそうね」
 主婦は諦めたらしく、魔法瓶から手を引いた。ほっと一安心して、
「じゃ、じゃあ私これからバイトなんで」
 広田は主婦にぺこりと頭を下げて、逃げるように喫茶ボルトンへ戻ったのだった。

FILE4.少女と探偵

 広田が喫茶ボルトンに戻ると、あの男性客の他に四、五人のサラリーマンが入っていた。皆、スーツを着慣れているらしく、むず痒そうに動いたりはしない。しかし、本を熱心に読んでいる男性は普段、スーツを着なれていないらしく、しきりにもぞもぞと尻の辺りを動かしている。
「さてと」
 男は呟くと、文庫本をパタンと閉じた。そして携帯電話で時刻を確認する。八時少し前。鞄の中からレポートのようにホッチキスで止めた紙の束を取り出した。そして、胸ポケットに刺さっているボールペンを取り出した。卒業論文の誤字等をチェックしているのかしら、と広田は思った。しかし彼は大学生でもなければ、もちろん今チェックしているのは卒論でもなかった。彼が目を通しているのは企画書であり、これから依頼のあった会社に交渉しに行くのである。
 従って、この喫茶店には別に評判がいいとか言う理由ではなく、偶然立ち寄っただけなのだ。彼は辺りを意外そうに見回すと、
「混んできたな」
 と鬱陶しそうに呟いた。しかし、それも朝食時なので仕方がないと彼は思った。
「考える事は皆一緒か」
 彼は苦笑しながら呟いた。広田は一刻も早く彼に立ち去って欲しかったが、不自然に追い返すと殺人が露見してしまわないかと不安に思ったので苦笑しながら見守るしかなかった。
「あの人、七時からずっといますよ」
 篠崎は男を迷惑そうに一瞥して言った。よほど貧乏な学生なのだろう。よく観察すると、男のスーツは少し汚い感じを受ける。これでは就職試験に落ちると篠崎は考えた。広田が言ったように不気味な印象を受けた。
「そうね・・・」
 広田は上の空で相槌を打った。殺人が発覚しないか、それが広田の頭を支配していたので男性の事などどうでも好かった。
「まあ、他にも数席空きがありますけどね」
 篠崎は空テーブルに一瞥を走らせた。全て満席になったら真先に彼に出て行ってもらおうと篠崎は考えたのだった。自動ドアが開き、客が入ってくる。まだ中学生・・・いや高校生くらいの少女と主婦である。親子だろうか、篠崎は思った。「天空の城ラピュタ」のシータをショート・ヘアにした、と言うのが篠崎の第一印象だ。Gパンを履き、黒いトレーナーを着ている。
 男はその少女を見つけると本当に意外そうに立ち上がった。そしてよろよろと近付くと、
「もしかして・・・萌ちゃん?」
 萌と呼ばれたその少女は一瞬、誰か解らない様子で戸惑っていた。しかし、思い出したらしい。
「その声は・・・ジージョ!?」
 少女はさも嬉しそうに叫んだ。「旅の終わりは巡り会い」と言うが本当にその通りである。
「うん」  と元気好くうなづいた。そして、久々の再開に胸が高鳴った二人は反射的に抱き合った。
「本当に・・・夢じゃないんだね」
 少女がまだ信じられない、と言った様子で呟く。
「うん」
 有沢は囁くように言う。しかし我に返った二人は、磁石のようにさっと離れた。顔は茹蛸のように真赤である。有沢は俯いて、時折少女の方を一瞥したが目線が合うとすぐに、恥ずかしそうに視線を反らしてしまう。しばしの沈黙の後、呼吸を整えて有沢は、
「も、もう大丈夫なの?」
 取り繕うように有沢は腰を掛けながら訊いた。心臓がまだバクバク言っている。彼女は抱き合ったせいなのかまだ頬が赤い。
「う、うん」
 と少女は上機嫌に言った。しかし顔は朱色に染まっている。緊張しているせいか、はたまた先程片想いである有沢に抱き付いてしまったせいなのか、口調はどもりがちだ。
「心配掛けちゃったわね」
 少女の母親がすまなそうに言った。
「いえいえ、誰だってあんな事があれば精神不安定になりますって」
「そう言えば、翔ちゃん今何やってるの?」
 娘に思い出させないように気を遣って、さっと話題転換を図る。
「僕ですか?」
 急に話題を振られた有沢はV字の眉を意外そうに吊り上げた。
「僕は今、ホームページクリエーターの小さな・・・本当に小さな会社をやってます」
 有沢は自慢話にならないように「小さな」と言う単語を強調した。
「凄いじゃない」
 主婦は声を張上げて、周りを見渡すと皆の視線が自分に集まっているのに気付いた。彼女は慌てて声のトーンを落とした。
「凄いじゃない」
 有沢は照れ笑いを浮かべた。
「いやあ、でも月に五万ほど親から仕送してもらってます」
「そう言えば小父さんと小母さんは?」
 高いソプラノで浅香萌は訊いた。
「今、ロサンゼルスにいるよ」
 コーヒーを一口飲んで、言った。篠崎が三人で話している所へ、
「ご注文、お決まりですか?」
 と注文を取りにくる。少女は不満そうにバイトを見つめたが、やがて視線をメニュに落とした。そして一通りオーダーをするとまた、話を始めたのだった。

FILE5.発覚

 明るい日差しの中、有沢と浅香母娘は窓際の席に座り、談笑している。広田は忌々しげに彼らを見て、小さく舌打した。殺人を犯した彼女にしてみれば、一人の客に一時間も居座られて欲しくなかったのだ。
「ところで、まだ事件に関わってるの?」
 身を乗り出して興味深げに浅香萌が訊いた。その言葉が聞こえた広田はぎくりとした。事件解決をしている?もしかして警察の人間だろうか。そう考えると顔は蒼褪め、足ががくがく震えてくる。例の若者は明るくよく通る声で、
「ああ、この間は富川ホテルの事件を解決したよ」
 悲しい気持ちで有沢は言ったが、萌に自分が悲しいという事を悟られないように努めた。富川ホテルの一件は、数週間前の出来事だった。彼にしてみれば、友人が殺され、しかも犯人が友人だった事を自分自身の手によって証明したという、嫌な記憶だった。
「あの事件で僕は警察に知合いが出来たよ」
 気持ちを抑えるためにコーヒーを飲んだ。広田はこの男は何者だろうと考えた。私立探偵か何かだろうか?しかし、その推理小説ではないんだから、と考えを一蹴した。馬鹿馬鹿しい。
「あんまり刑事さん困らせちゃダメだよ」
 笑いながら少女は言った。有沢は軽く受け流すように片手を振った。
「ところでどんな事件だったの?」
 好奇心に満ちた目で浅香は訊いた。有沢が口を開こうとした時、再びドアが開いた。客かと思って、萌は音のする方を振り向いた。しかし客ではなく、制服警官だった。まだ歳は二十前半だという事から考えると巡査と考えるのが自然だろう。
「何かあったのかな?」
 心配そうに浅香萌は言った。
「さあ?」
 と有沢はエッグサンドをかじると、しばらく噛んでから、
「でも唯事じゃなさそうだよ」
 と目に興奮を漂わせて言った。窓の外に目をやると、二、三の巡査と見られる男がこの近隣の家を訪ね回っている。
「ここの店員ですか?」
 広田は震えてうなづく。
「実はですね、下から血のついた魔法瓶が発見されましてお心当たりはないかと思って伺っているんですが」  正にそれは広田が先程捨てた魔法瓶だった。広田は震える声で
「し、知りません」
 篠崎は広田に先程魔法瓶を捨てたのに、と思って
「あれ?さっき魔法瓶捨てませんでしたっけ?何でも店長に言われたとかで」
 広田は心底、同僚を恨んだが、言ってしまったことは仕方がない。思い出したように、
「そうそう。私、魔法瓶を店長に言われて捨てました。あれは確か・・・」
 本当の時間を言うべきか、それとも嘘を言うべきか迷った。巡査は無線で、魔法瓶を捨てた人が見つかった事を告げた。無線から了解、という短い返事が返ってくる。巡査は失礼、と言って話に戻った。
「確か七時半かそんな物だったんじゃないでしょうか?」
 またもや、篠崎は広田の言って欲しくない事を答えた。
「ほう、で、今店長さんはどこに?」
「風邪で寝ているそうですよ」
 と篠崎は管理人室を指差した。広田が神に祈ったが、その願いは叶わなかった。巡査は差された部屋に近付くと、ノックを二回した。無論応答なしである。
「ね、寝入っているんじゃないですか?」
 広田は捜索を止めて欲しいという願いを込めてその一言を発した。
「開けても宜しいですか?」
 広田が止めた方が好いと言う前に、篠崎は
「ええ、構いませんよ」
 ドアノブを回した。ガチャ、と音を立て開く。電気は広田がビデオを探した時に消さなかったため点けっぱなしになっていた。しかし布団もなければ、もちろん店長の姿も見えない。
「あれ?寝てないじゃないですか」
 じろり、と鷹のような目で巡査は篠崎を睨んだ。
「そ、そんな馬鹿な・・・だって僕は広田さんに聞いて・・・」
 狼狽しきって、答えた。そして確認するように広田に視線を送った。広田は自分を守るために、
「い、言ったかしら?覚えてないわ」
 と声を震わせた。その言葉を発した途端、広田は瞬時にして篠崎に罪の着せられ役(ルビ:スケープ・ゴート)にしようと考えた。それにはまず、死体を発見させる事が一番だ。ちょうどあの時冷凍庫に触ったから、指紋もべったりと付いているはずだ。
「い、言ったじゃないですか!思い出して下さいよ」
 広田は狼狽し、必死に訴える篠崎の言葉を無視して巡査に、
「あっ、お巡りさん。ちょっと頼み事聞いてくれますか」
 と声を掛ける。篠崎は困り果てたが、広田はかなり動揺していたようなので思い出せないだけかもしれないと思った。
「広田さんが思い出してくれるまで待つしかなさそうだな」
 弱々しくそう呟いた。広田に呼びかけられた巡査は、快活そうに
「はい、何でしょう」
「冷凍庫が開かなくて朝から困ってるんです。何かが引っかかってるみたいで」
 事件に関する事だと思った巡査は心の中で、何だそんな事かと思った。彼は面倒に思って心の中で舌打したが、これも市民サーヴィスの一環だと考え直して、
「解りました、その冷凍庫はどこですか?」
 広田は冷凍庫を指差した。心の中では何でこんな事を、と思いながらも巡査は冷凍庫に手を掛けた。そして、力の限りに引っ張るとガラガラというローラーの音とともに冷凍庫は開いた。そして、広田は待ってましたと言わんばかりにすかさず悲鳴を上げる。
 客は一斉に何があったのか、と厨房を見つめた。巡査が覗きこむと渡辺の死体がコチコチに固まって、入っていたのだった。広田は心の中でほくそ笑むとともに、これからいかにして篠崎に罪を擦り付けるかを考えていた。
 巡査が来た事や、先程の悲鳴を聞いて事件があったと思わない人間などいるだろうか?店内の客たちは優雅な朝食どころではなくなくなり、騒然となった。
「何かあったのか?」
「警察がうろうろしているって事は殺人があったんじゃないの?」
 窓際の女性が先程の訊き込みの様子と、警察が動き出したと言う事は殺人だろうという独断を元に言った。その女性客の言葉で騒がしかった店内が一瞬、水を打ったように静まり返った、客達は殺人があったという事実が信じられないようだ。そして先程とは比べられない程、騒がしくなった。
「殺人のあった喫茶店なんかにいてられるか!」
 と叫ぶ男性。
「ねぇ、事情聴取とかされるの?」
「待ってくれ、私は九時から商談があるんだ!間に合わなくなる!」  「事情聴取」と言う言葉に触発されてか、頭を抱える恰幅の好いサラリーマン…。しかし有沢は落ち着き払っていた。そして不敵な笑みを浮かべ、
「何か事件があったな」
 と呟いた。その笑みには事件の真相をあばいてみせるという意志がみなぎっていた。浅香萌は嬉しそうに無言でその姿を眺めていた。そして時計をふと見上げると八時半を示していた。

FILE9.魔法瓶の事

 喚きながら篠崎が逞しい巡査に両腕を抑えられ連行されていく。篠崎は暴れたが、運動選手のような警官の腕力に敵う訳もなく、呆気なくパトカーに押し込まれたのである。広田は篠崎が連行される様を
「上手くいった」
 と心の中でほくそ笑みながら見つめていた。有沢は再びゆっくりと厨房に近付いた。浅香萌も気付かれないように抜き足、差し足、忍び足で尾行する。彼女の母親はふと顔を上げたが、仮にも二十歳である有沢がいるのなら、と思い、また女性週刊誌に目を落とした。さ程、浅香たちの席は厨房から離れておらず、すぐに着いた。
「あっ、そうそう。広田さん」
 まだ何かあるのか、と恨めしそうに質問者、有沢翔治を見据えた。
「お疲れの所、大変申し訳ありませんが」
 有沢は微笑を浮かべ言った。
「色々お話を伺いたいので、住所教えて下さいますか?」
 篠崎が逮捕されて、一安心した広田はからかうように、
「あら、探偵さん。ナンパですか?」
 探偵は微笑は崩さなかったが、真面目な顔つきで
「そんなんじゃ、ありません」
「何なら電話番号もお教えしますけど?」
 からかうような広田を余所に、有沢はぴしゃりと
「いりません」
 広田は差し出された紙とボールペンを使い、さらさらと住所を書き付けた。有沢は礼を言うと、くたびれたスーツのポケットに押し込んだ。
「時に目呉警視」
 有沢はゆうに百キロを越えると言う大男に向直り、言った。大男は不機嫌そうに、事件が解決したのにまだ何か用かと言いたそうな面持ちで、
「何かね?」
「凶器の件についてどうお考えですか?」
 探るような目付きで彼は有沢を見つめ、嘲笑するように、
「凶器?」
「ええ、魔法瓶です。篠崎の証言じゃ、広田さんが捨てたそうじゃありませんか?広田さんも認めてますし」
 そうですよね、と確認するように有沢は広田を一瞥した。広田はどう言おうか考えたが、やがて上手な言い訳が思い浮かんだ。
「ええ、そうなんです。前にもお話したように私は渡辺の命令…と言うか頼みで魔法瓶を捨てに行ったのです」
「しかし、それだとおかしな事になります」
 鋭く有沢は斬り込むように言った。
「渡辺さんがいつ死んだか、と言う事ですね」
 思案深げに目呉は言う。西口警部も解っていたらしくうなづいた。
「どう言う事ですかな?まさか死者が喋ったとでも?」
 西口は厳しく質問した。広田はその口調と横領を問い詰める渡辺の口調を重ね合わせた。
「それはこう言う事ですよ」
 にやりと笑って、広田は説明する。
「朝、店に着くと魔法瓶の上に置手紙がしてあったんです」
「その置手紙は今お持ちですか?」
 有沢は素早く訊いた。
「いえ。持ってません。捨ててしまいました」
「それで魔法瓶を捨てた、と」
 目呉はうなづいた。
「しかし、どうしてそれが渡辺さんのだと?」
「彼は時々、私たちが帰った後・・・夜九時ごろですが・・・、私たちに必要があれば用事を置手紙で残すんです。例えばバンドエイドを切らしたから買ってきてくれだの」
「するといつものそれだと思ったわけですな」
 目呉は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、有沢を見つめた。有沢は無表情で突っ立っていた。
「はい」
 広田は我ながら完璧な嘘だと思って、祝杯を上げたくなった。
「しかし、目呉警視。なぜ誰の指紋も検出されなかったのでしょうか?」
 有沢はにやりと笑い反論した。目呉はしばらく考えていたが、
「君も執拗いね」
「僕は純粋に疑問を挙げているだけです。もしも理論的に考え、辻褄が合わない点があれば、その考えはどこかで間違っている事になります」
 広田はむっとした様子で、
「探偵さん、では私が犯人だと思っていらっしゃるんですか?」 「率直に言って、僕はそうだと確信しております。あらゆる可能性を考えて、完全にありえない物を除いていけばそれがどんなに信じ難い事でも、真実である・・・これが僕の考えです」
 広田は状況証拠ではないかと反論した。
「いや、ですから物証も用意していますよ」
 愛想の好い微笑を浮かべて有沢が言った。物証なんてあるのだろうか?この探偵の虚栄心ではなかろうか。
「物証、物証と言っておきながら、君は何も言っていないじゃないか」
 痺れを切らして、目呉警視が噛付いた。有沢は肩を竦めた。
「ほぼ完璧なんですが、ちょいと確認しておきたい事がありまして・・・」
 目呉は憮然として、早く確かめるよう言った。
「では、冷凍庫を開けた巡査を呼んで下さい」
 目呉警視は通り掛かった巡査を捕まえ、何事か囁いた。たちまち彼は敬礼をして、小走りに走っていった。数秒して別の巡査が駆けつける。
「何でしょうか、警視殿」
 はきはきとした口調で、巡査は言った。
「君かね、冷凍庫を開けたって言うのは」
 警視が尋ねると
「はっ、そうであります」
「訊きたい事があるそうだ」
 有沢を見据える。
「まあ、楽にして下さい」
 彼は今までの警視への態度を考え、苦笑して言った。
「あなたが冷凍庫を開けるのと広田さんが叫ぶのとどちらが先だったか覚えてます?」
「有沢、そりゃあ、もちろん冷凍庫を開ける方が先だろう」
 西口は意見を述べた。有沢は黙って唇に指を当て、静かにするよう求めた。
「好く思い出して下さい」
 有沢の記憶が確かなら、彼女は冷凍庫が開けられる前に悲鳴を上げたはずである。巡査は目を閉じ、思い出そうとした。
「彼女が悲鳴を上げる方が先でした」
 目呉は頭に雷が落ちるような衝撃を受け、叫んだ。冷静を保っていた警視が急に大声を上げたのだから、木下も西口も驚いて顔を見合わせる。
「それは確かかね?」
「はい、間違いありません。警視」
 その後、警視は自分が大声を上げてしまった事を恥ずかしく思い、ぎこちなく空咳をした。
「お聞きの通りです、警視」
「つまり、彼女は冷凍庫の中に死体が入っていた事を知ってた。そう言う事になりますよね」
 広田の唇が何事か言いたそうにわなわなと震えた。
「お、お巡りさんの、お巡りさんの記憶違いかもしれません」
 彼女はやっとの事でそう言ったが、木下巡査に、
「申し訳ありませんが、それはないと思います」
 とぴしゃりと言われた。
「どうして?」
 気分を落ち着けるために深呼吸を一つしたが、心臓はバクバク言っている。口調も自然と激しいものとなる。
「死体を見ない内にあなたが悲鳴を上げた事を自分も妙だと思ったからであります」
 警視はなぜそれを早く言わなかったのかと尋ねた。
「自分一人の私見で捜査を混乱させてはならないと思ったからであります」
 木下は多少抵抗を感じながらも、理由を述べた。
「まあまあ」
 有沢は宥めるように目呉の方を向いて言った。
「事件は解決したから好いじゃないですか。この巡査を責めるのは可哀想ですよ」  目呉は不機嫌そうに、今回は偶然だと言った。
「今回は君が偶然、殺人現場に居合せたから解決できたようなものですよ」
 確かに、有沢は思った。今回の事件はもしも、警視の立場だったら解決は難しかっただろう。
「でも・・・私の気持ちも解ってくださいますよね」
 哀願するように言った。目呉は同情する振りをして、解ります、と言おうとした。しかしその前に有沢はぴしゃりと、
「いや、解りませんね」
 人を殺したという怒りで顔を赤らめたが、滅多に感情を表に表さない性格のために誰もその勘定を読み取る事は出来なかった。
「動機は何なんです?」
 警視は尋ねた。観念して広田は全てを暴露した。レジからお金を毎月盗んでいた事、そしてそれを咎めた渡辺を魔法瓶で殺害してしまった事。
「自業自得ですね」
 有沢は冷淡に言い放った。その口調から感情がこもってないように受け取れるが、彼の心の中には怒りがこもっていた。彼女は顔に興奮の色をさっと浮かべた。
「あなたに何が解るって言うんですか?」
 そして広田は有沢の肩に掴みかかった。彼は汚らわしいものを振り払うように、広田の腕を振り解いた。落ち着いた調子で、
「解りませんね。解りたくもありません」
 警官が再び掴みかかろうとした広田を有沢から引き離した。そして警視はそのまま署まで連行するよう命じた。広田は有沢を口汚く罵ったが、彼はそれを無視した。浅香萌が興奮して踊り出た。
「凄いじゃない!流石」
 有沢は意外な新来者に驚いたような顔をしたが、教訓的に、
「君は見ているだけで、観察はしていないんだよ」
 と言った。そして西口警部の方を向き、
「西口警部、一つ頼みたい事があるんですが」
 広田に対して悪態を吐いていた西口は彼に呼ばれふと顔を上げた。
「僕に管理人室を見せてくれますか?」
「そりゃ、構わんが。一体何が出てくると言うんだ?」
「いや。今度の事件を小説にしたいんで、殺人のあった部屋の様子を見たいだけですけどね」
 警部は苦笑したが、二回も連続で事件を解決されては否とは言えないだろう。管理人室の鍵を渡した。管理人室に入る。畳には血痕が飛び散っている。浅香萌はまだ心の傷が癒えないらしい、有沢の腕にしっかりとしがみついている。
「おかしいな・・・」
 床に飛び散った血痕を見て、有沢は呟いた。
「本当。血が途切れてるね」
 有沢は西口に下のゴミ置場を調べるよう頼んだ。
「血痕の付いたビデオテープが見つかるはずです」
 西口は立ち上がると、戸口まで歩いていった。そして巡査の一人に
「おい、至急ゴミ置場を調べろ。ビデオテープが出てくるはずだ」
 巡査は急いで同僚をかき集め下のゴミ置場を調べた。幸い、まだゴミ収拾業者の車は来ていないらしく、粗大ゴミはまだあった。
「ありました。警部」
 VHSのビデオテープを片手に走り込んできた。警部はご苦労、とだけ言った。
「ありがとうございます、では失礼します」
 敬礼をして、巡査は立ち去った。浅香は今ので将来、警官にだけはなるまいと思った。探した労い(ルビ:ねぎらい)の言葉がご苦労、だけなんて。
「さあ、広田さんが渡辺さんの命を奪ってまで隠そうとしたビデオテープです、何が映っているんでしょうかね」
「恐らく横領の現場だろうな」
 西口は神妙な顔をして、言った。
「まあ、そんな所でしょうね」
 有沢はビデオをセットしながら、言った。ウィーンと言う機械音とともにビデオテープが吸いこまれていく。
「な、何だ。これは」
 警部が唖然とするのも無理のない話だった。何せ映し出された映像・・・。それは、
「『ドラえもん、のび太のパラレル西遊記』!?」
 浅香萌も驚愕の声を上げる。有沢は早送りしてみるが、やはり二頭身の猫型ロボットの姿しか映し出されていない。西口は慌てて巡査を呼び出す。
「おい、これがあったのか?」
「は、はい。これしかありませんでした」
 冷静に有沢はビデオを取り出し血痕が付着しているのを確認。そしてしばらく考えていたが、やがて哄笑した。
「いやはや。渡辺さんも洒落がお好きなようで」
「どう言う事だ?」
 むっとして警部が訊いた。証拠のビデオが「ドラえもん」だったら話にならない。
「つまりですね、広田さんが言った横領の証拠のビデオテープは真赤な嘘なのです。彼女にカマをかけるために吐いた嘘でしょうね」
「まさに“犯罪には向かない女”だな」  西口は笑いながら言った。
「ああ、こんなに笑ったのは久しぶりだ」
 有沢はひいひい言いながら呟く。
「どうです?この証拠品警察に保管しますか?好い記念品になると思いますよ」
 警部は不機嫌そうに
「いらん」
 と言った。
「じゃあ、どうなさるんですか?」
 有沢はからかうように訊いた。
「俺がもらう」
「まさか、見るんじゃ・・・」
「違う、違う」
 西口は必死になって否定する。
「俺のガキが六歳なんでな。ちょうど好いだろう」
「証拠品を横領する気ですか?」
 警部は苦笑して、これのどこが証拠品かと訊いた。三人の笑い声が部屋中にこだました。
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