さつまいものミステリ
- 冬の祈り(じゃすう)
- 薩摩のお触れ(有沢翔治)
冬の祈り(じゃすう)
スノードロップを見かけると、きまって脳裏に浮かんでくる光景があった。
それは、確か、私が小学生の頃。
――可愛らしい顔をした少女と一緒だった。その少女とふたりで、ろくに舗装もされていない田舎道を抜け、まるで秘密基地のような、スノードロップの咲く一角に辿り着く。
ひっそりと、人目を忍ぶようにして咲く花は、可憐でもあり、ほんの少し誇らしげでもあった。
「ねえ、知っている? スノードロップの花言葉」
少女が聞いた。屈託のない笑顔をしている。これは、私にとって大切な思い出のはずだった。今の私があるのも、彼女のおかげだと言って良いだろう。
「わからないな」
花言葉……。教わったようにも思うし、教わらなかったようにも思う。いずれにせよ、この私の泡い少女時代は、遥か彼方の記憶である。
あの少女の名前は今も思い出せない。
アルバムなどを広げてみても、その少女の面影を残す姿は、どこにも見当たらなかった。
一体、どこで知り合ったのだろう……。
私の記憶の中の彼女は、常にスノードロップと共にある。今も私は、その花が咲く一角に行くことがある。だが今、そこに彼女の姿はない。
彼女は唐突に、私の前から消えてしまったのだ。
「鈴木さん、7時 KT6.3に下降、P67、BP174/88 異常なし。戸川さん、7時 KT8.8に上昇、P97、BP169/92 頭部クーリング続行、柴田ドクターに連絡。指示により三点クーリングと解熱のため……」
夜勤明けだった看護職員の、朝の申し送りの声が、私の思考を現実に戻した。
窓の外、ほんの少ししかない狭い中庭に、たった一輪だけ咲いたスノードロップ。今までは全く気付かなかったほど、目立たない存在。それを見て私は、あの頃のことを思い出していたようだった。
申し送りが終わると、私は業務にとりかかった。有償とはいえボランティアなので、始めてから約三年経ったとはいえ、いまだにヘルパーのさらに助手のような仕事しかない。
この仕事は高校1年の時から続けているので、もう慣れっこだ。
「早川さん、眠そうね」
この職場で、よく私の面倒を見てくれる看護職員の市川さんが、ふたつの血圧計を抱えながら声をかけてきた。私よりもずっと小柄なので、血圧計のマンシェットが腕からこぼれそうである。
「え……そうですか?」
「さっきの申し送りのとき。ボーッとしてたじゃない。いつもならしゃきっとしているのに」
意外と見られているものである。私は苦笑して「すみません」と謝った。
「柴田ドクターに見つかってたら、注意されたかもよ」市川さんは少し笑いながら言った。「外を見てたみたいだけど、何かあった?」
「いえ、別に」
主任の柴田ドクターは、この病棟の責任者であるが、彼は今日は朝から診察室に引きこもって何か忙しそうに取り組んでいる。かなり優秀なドクターらしいのだが、普段はぼーっとしている(ようにしか見えない)、よくわからない医師というイメージだ。
「あ、そういえば早川さん。最近、御神楽さんとご連絡は?」
「いいえ、最近はほとんど……」
御神楽とは、以前にこの病院に骨折で入院していた患者の名前である。下の名前は翠――ミドリといった。高校に通ってはいないはずだが頭が良すぎるくらいに切れており、私と同い年で性格はほとんど正反対だったが、なぜか気も合った。
二年前、この地区の周辺で起きていた『新生切り裂きジャック事件』を解決したのも、実は彼女の力によるものである。
しかし最近は私も、大学受験とこの仕事などに忙しく、半年以上も彼女とは連絡すら取っていない。
それでも私が二年生の頃までは何度か一緒に遊びに行ったりもした。彼女は絵を描くのが好きらしく、よく公園で風景画を描いた。その間私は、本を読んだり、ミドリの絵を覗き込んだり、無駄話を振って
みたりと、少なくとも退屈はしていなかった。
だが、おそらくミドリも気を遣ってのことだろう。私が三年生になると、向こうからの連絡はほとんどなくなった。
私も、それに合わせて、というわけでもないが、どちらからともなく距離をおいていった。そんな感じだった。
「そうなんだ」市川さんは小さく頷くと、今度は別の話題を振ってきた。「受験……もう終わったんでしょ?」
私が通っているのは、比較的進学校として一般では通っている高校である。その中でも私の成績は並。それなりの大学へ進学するには、それでもギリギリのラインだった。厳しい父は大抵私の成績を見ると、はっきり口には出さずとも、難しい顔をしたものだ。このボランティアの仕事を、せめて受験期間中は休んだらどうだ……と、顔に書いてあった。
だが私はやめなかった。これは自分の意志で決めたことであり、入学した時から、いや、それよりも以前から、ずっと決めていたことだった。
「第一志望のG大の結果は……まだですけど。第二志望のR大は何とか」
私は地元私立大のG大へ進学し、社会福祉学を履修したいと思ってはいた。
残念ながら私の自己採点では、G大には受かりそうもない。だが、R大でもそれなりの勉強ができる環境にあるだろう。そちらを蹴って浪人する、という程でもない。
だから、ほとんど私の中では、R大に行くということで決定しているようなものだった。
実家は地方なので、もちろん通うとしたら一人暮らしになるだろう。父親は心配しているが、母親はそれほどでもなく、私が浪人になる可能性がなくなった事を単純に喜んでいた。
「じゃ……もうすぐいなくなっちゃうのよね」
市川さんは残念そうに首を傾げた。私よりずっと年上のはずだが、小柄なこともあって、そういう仕草がかわいらしく思った。
「もう2月ですから……そうですね。先週の休みの時に、一応マンションの下見はしてきたんです」
「そうかあ。私も大学のときは一人暮らししていたけど、一人だと結構だらけちゃうから。気をつけてね」
東京で一人暮らし、ということは、不便な面もたくさんあるという。そんな中での心がまえというものを、彼女はいちいち説明してくれた。
マンションは2階以上の所に住むべきだとか、あまりにも学校や駅に近すぎるところは借りるなとか、ベッドは買わないかパイプにしろとか、ご飯を炊いて余ったら冷凍しろとか、どんなに信用していても男は決して入れるなとか、色々と。
「ありがとうございます」
私が素直に礼を言うと、市川さんは笑った。
「そんな、マジメに受け取らなくても。まあ、参考までに、ってことでね」
彼女はまた忙しそうに、検温セット一式を抱えて、ナースステーションの方に行ってしまった。
夜になって実家に戻ると、母が私を呼び止めた。
「いづみちゃん。あなたにお手紙きてるわよ」
娘に対して甘い母は、いまだに私を『ちゃん』付けで呼ぶ。何度もやめて欲しいと言っているのだが、昔からそうだったので、今さら直せなくなってしまっているようだ。
「手紙? 誰から」
「あの、誰っていったっけ? ……ほら、この変な苗字の。これ、あの車椅子の子よね?」
ミドリだ。
すっかり連絡を取っていなかった彼女から、手紙が届いた。私は何となく嬉しくなって、急いで母からその手紙を受け取り、部屋に入ってそれを開いた。
『僕は、東京に引っ越すことになりました』
文面にはまず、そう書いてあった。何でも、引き取り手である彼女の叔父が、仕事の関係で東京に出なければならなくなったからだそうだ。それで、もうこれからは、いままで以上に会えなくなるのではないか、だから引っ越し前に一度と、大意はそういうことだった。
私は苦笑した。
気を遣ってのことと思うが、ミドリは私が第一志望のG大に受かるものだと思っているらしい。こればっかりは、いくら洞察力の鋭い彼女でも、当てが外れたと言わざるを得ない。
R大へ進学することになるだろうから、私だって東京に引っ越す。
さっそく彼女に、そう返事を書くことにした。
合格発表の日も過ぎ、それからさらに数日後、久しぶりに会ったミドリは家の玄関で、相変らず長い髪をツインテールに結わえ、人を食ったような笑みを浮かべていた。
「やあ、こんにちは」
それが久しぶりに会った彼女の第一声だった。
「変わっていないな」私も、彼女が乗る車椅子の傍に寄って言った。「いや、髪だけは変わったか。少し伸びた」
「願掛けだからね」ミドリは自分のツインテールをすくい上げるようにして持つと、目を細めた。「きっと、この長いやつのいちばん先のほうにある髪の毛は、あの頃の僕がどんな人間だったか、知っているはずなんだ」
彼女は12歳の頃に事故にあって、それ以前の記憶と片足、そして両親を失ったらしい。
ミドリは、記憶を取り戻すための間、髪は切らないと誓っているのだ。心因性の健忘であるらしいことを薄々彼女は気付いている。だからそれは、記憶を封印してしまった自分に対する挑戦なのかもしれない。
彼女がいつでも、何かに挑みかかるような雰囲気を持っているのは、きっとそれが理由なのだろう。
「絡まったりしないか?」
「たまには。でも最近ではめったにないよ」
「車椅子の扱いも、多少は慣れたようだな」
「まあね。ずっと付き合っていれば、このくらいすぐに覚えるさ」
そう言って少年のように笑った。
「ああ、ミドリ。私も結局、東京に引っ越すことになった」
「おや、ということは……」
「R大だ。渋谷から西に20分の距離。一人暮らしだ」
「……近所だね」
「腐れ縁……というのだろうな」
二人は同時に吹きだした。
「なんか懐かしいね。……さあ、こんな所で立ち話もあれだし、ちょっと外にでも行こうよ。ほら、いつも行っていたあの公園」
「まだ、風景画は描き足りないとか?」
「いや。もうほとんど描いてしまった。でも、あそこくらいしか行く所がないよ。この身体じゃね」
ミドリは笑いながら、質素なデザインのロングスカートで隠された自分の左足を軽く叩く。その下には、彼女の肉体は存在しない。変わりに義足があるだけだ。
「ちょっとした画材だけは、いつでも持ち歩いているようだな」
車椅子の後方にあるポケット、そこに詰め込まれているものを見やって、私は言った。
「僕が使用するのは、色鉛筆だけだからね。たいして荷物にもならないさ」
公園についてから、私たちは、これまで会わなかった期間を埋めるように、ずいぶん長い時間を話していた。
「この前発表された柴田先生の論文は読んだよ」
「何? そんなものを読んでいたのか」
しかし、ミドリならばありえる。
「うん。叔父さんに頼んで、機関誌みたいなものを持ってきてもらった」
「つくづく謎な人だな、ミドリの叔父さん」
「うん、僕にも良くわからないよ」
「それで、どうだったんだ? 論文は」
「…………」
ミドリは急に真顔になって腕を組んだ。
「……どうした?」
「いや……あれは、すごかった……。正直、圧倒された。あれはしばらく、話題になるだろうね」
私はその論文を読んではいないのだが、まだ成人していないとはいえ知識量が半端ではなく、洞察力も鋭いミドリがここまでの反応を示すということが、私にとっては新鮮だった。
「柴田先生か……。そう言えば、あの誰っていったかな? 今は病院にいない、変な名前の」
「中(あたる)先生?」
「そうだ。あの中先生ですら尊敬していたっていう話だったから、やっぱり、凄いのだろうな」
「ふふっ。いづみさんらしい考え方だね」
クスリと笑って、ミドリは頷いた。
「どういう意味だ?」
「いやいや、別に〜」
そんなやり取りの後で、やがてミドリは喋ることに疲労を感じてきたらしい。彼女は普段からあまり喋る機会もなく鍛えられていないのだから、それも仕方がないだろう。
お互い喉が渇いたので、私は近くの自動販売機でお茶を二本購入し、一本をミドリに手渡した。
「ありがとう」
ミドリはやがて、車椅子のポケットから画材を取り出した。
「ほとんど描いてしまったのではなかったか?」
「でも、この冬の景色は、それほど描いていなかったな、と思ってさ」
「なるほど」
ミドリが取り出した過去の作品群には、色々あったが、ひときわ目をひいた作品があった。画用紙いっぱいに描かれた、さつまいも。
「な、何だこれは? 他のやつは、みんな風景画とか可愛らしい植物なのに。これだけ、どうして?」
「はははっ。それはね、叔父さんの親戚の、さらにその知り合いの刑事さんがね、ある事件に関わった時に、気になって持ってきたものなんだって。なぜか今は、叔父さんが所有している」
「意味がよくわからない」
「それを描いた頃の僕は、叔父さんがどういう人なのか知りたくて知りたくてしょうがなくてね。せめてその物証から、何か推理できないかと思って」
冗談を言っているのか、本気なのか、笑いながらミドリは言った。
「で、結局?」
「ダメでした。なんか叔父さんも、探られるの嫌みたいだから、僕もそれ以上は。勘ぐられるのも嫌だしね。いったんは白旗をあげておくよ」
しばらくミドリの作品を眺める。私と会わないでいた間にも、作品は増えていったようで、私の見たことのない作品がほとんどだった。
――――!?
ふと、めくる手が止まった。
「ちょっといいかミドリ。この、風景画の場所……」
「えっ?」
そこに描かれていたのは、あの、スノードロップの。
これは、あの少女の思い出と、切っても切り離せない場所――。
どうして?
「どうしてミドリが、ここを知っている?」
「えっ!?」
ミドリは再び、不思議そうな声をあげた。彼女の瞳には珍しく、かすかな動揺の色が宿っていた。
「ここに……、行ったことがあるのか?」
私は、半ば詰め寄るような格好でミドリに言った。ミドリは、ゆるく頷いた。
「……一回、だけ……」
ミドリから出てきた言葉は、それだった。
「この前叔父さんのドライブについていってね。その途中で、ここを通りかかった。僕は、どうしてか、この風景に懐かしさを覚えたんだ。とても、懐かしかった……」
ミドリは苦しそうに言った。
――記憶の中の少女の名前は、知らない。ただ、彼女は当時では不治の病とされていた、ある心臓の病気にかかっていた。そしてある日、唐突に姿を見せなくなった。
「手術するの?」
「うん。でもとても低い確率なんだって」
「そ、それじゃあ……」
「いいの。どうせ手術しなかったらしなかったで、結局それが元で死ぬわけだし、賭けたほうが賢いもの」
「だ、大丈夫なの?」
「お医者さんと、あたしの、『生き抜く力』次第、よ。……なんてね、あははっ」
「…………」
「成功したら……祝ってよね」
「うん」
「この花に誓って?」
「うん……」
「失敗したら、私のことは忘れてちょうだい」
「えっ……? どうして」
「嫌なの。人の記憶の中でだけ、ひっそりと生きていくのなんて」
「でもそれは……」
「ねぇ、知っている? スノードロップの花言葉」
ミドリにそのことを伝えると、彼女は眉をひそめた。
「……違う。それは僕じゃないよ」彼女は私の心を見透かしたかのように、そう言った。「僕には、心臓の手術痕なんて、ないから」
「じゃあ……じゃあ一体、ミドリが懐かしさを覚えたって、この風景画は何なんだ?」
あの場所は、そう簡単に見つけられるような所にはない。そこにミドリ達が行けたということが何を示しているのか、私には分からなかった。
「もしかしたら……、僕も行ったことがあるのかもしれない」彼女は難しい顔をして言った。「とにかく、僕にはわからない。でも、これだけは言えるよ。君がその人の名前を思い出せないのは、その人がもうこの世にいない、ということを知っているからだ」
「…………」
知っていた。手術が成功したら、「祝ってよね」と言った彼女。だが、その日を最後に、私は彼女と会わなくなった。
それはつまり……成功しなかったと、そういうことだったのだろう。
まだ幼かった私は、成長するにつれ、おそらく死んでいったであろう彼女の名を、忘れてしまった。まるで、風化していったみたいに。
だが……これだけは言える。
彼女の存在があったからこそ、私は人の命が身近に感じられる場所で働こうと思ったし、そういった人々の心を受け止めたいと思った。
「もし……僕もそこに行ったことがあるのなら……その少女にも会っていたのかも知れないね?」ミドリはもとの元気な表情に戻ると、そう言った。「でもきっと彼女は、その手術が成功しようと、失敗しようと、自分のことを覚えていてもらいたかったはずだよ」
「え……?」
「スノードロップの花言葉は、『希望』というのさ」
――その花に誓うということは、決してあきらめない、という彼女の意思表示だったのだ、と。
ボランティアの仕事も最終日が過ぎ、送別会まで開かれてしまった。
あまり話さなかった柴田先生にも「これまで、どうもありがとう」という言葉を頂いた。市川ナースや、他の職員の方々からも、色々と感謝の言葉を述べられて、私も少し名残惜しかった。
引っ越しの前日、私は久々に『そこ』へと出向いた。
まだ、季節的に間に合うだろうか。
スノードロップは咲いているのだろうか。
ただ一人で、ろくに舗装もされていない田舎道を抜け、まるで秘密基地のような、その一角に辿り着く。
希望か。
ミドリは言った。
冬に咲くこの花は、きびしい寒さを耐えて春を待っている。だから希望という花言葉なのだと。
だとしたらあの少女にとって、春というのは、どれだけ待ち焦がれたものだったのだろうか。
恐ろしい病の呪縛から解き放たれたのは、死をもってしてか、それとも……。
ひょっとしたら、今も戦っているのかもしれない。春を待ちながら……。
――もう彼女は死んでしまったものだと思っていた自分が愚かしく思えてきて、私は自嘲気味に笑った。
そんなことは、何も決まっていない。
未定だ。
だから私は、今ここで改めて、彼女の『生き抜く力』を信じよう、そう思った。
おわり。
薩摩のお触れ(有沢翔治)
「甘藷を藩外に持ち出したものは極刑に処す」(薩摩藩のお触れ)
壱
「徳川様ももう駄目かのう」
と農民たちが噂話をしている畦道を男が通っている。この下見吉十郎という男は刀を下げ、まげは結っているものの、着物や袴はとても侍とは思えない。
「もう駄目・・・か。そうかもしれぬな」
目に絶望の色を滲ませながら溜息を吐いた。日本は未曾有の飢饉に瀕していて、下見はその打開策を探るために各地を点々と旅しているのであった。
拙者がこの飢えから民を救ってみせる!始めはそう意気込んでいた。しかしどこの国でも餓死者が路傍に横たわっている。やはりどうしようもないのでは、とそんな様子を見ていると、思えてしまう。
いやいや、これではいけぬ。拙者が今こうして生きておられるのも、祖国の民が汗を流して田畑を耕してくれてたからに他ならぬではないか。そう自分を奮い立たせていると、あることに気付く。
「そういえば薩摩に入って倒れておる者が少ない気がするが・・・」
土のせいだろうか・・・。真っ先にそう疑い、畑の土を掬う。
「なんだ?これは。こんな土で畑が作れるのか?」
そう呟き、思わず顔をしかめる。さらさらとした、まるで海の砂のような土だったのである。土のせいではないとすると・・・、他は何が原因なのだろう?
もしかすると天候か?そういえば豊後の関所を越えた辺りから汗が出るが・・・。下見は空を見上げ、そう考えるがすぐにかぶりを振った。
辺りを見回しても、ここでも稲穂の付きは悪い。従って天候のせいではないのである。
「薩摩藩は琉球と取引をしていると聞く。もしかしたら、藩は百姓に富を・・・」
余りの馬鹿馬鹿しさに言い掛けて、止めた。藩の富を民に配るくらいなら、自分たちで使ってしまうに違いない!
しかし、そうだとすると一体なぜ、この国だけ飢えた民が少ないのだろう?これさえ解れば我が藩・・・いや、他の藩の民も救えるかもしれないというのに。
「おい!お前」
という声がして、下見は考えるのを止めて、振り向く。するとそこには、赤銅色に日焼けした男が下見を睨んでいた。この男は十兵衛といって、この話に深く関わってくることとなる。
「俺の畑で何をしてるんだ」
下見は謝ろうと立ち上がる。しかし帯刀とまげを見て、十兵衛が震えあがってしまった。見るからに虚栄と解る震えた声で、
「お、お、俺は侍なんて怖くねぇぞ」
下見は十兵衛をジッと見据えていた。
「な、何だよ!」
と叫んで、地面に胡坐を掻くと、
「切り捨てるんなら、早く切り捨てろよ」
それをしばらく見ていて、下見は豪快に笑った。そして頭を下げ、
「いや、おぬしを斬ろうとは思わぬ。それより拙者の方こそおぬしの畑に上がり込んでしまって申し訳ない」
「お、俺の方こそお侍様とはつゆ知らず、ご無礼お許し下さい・・・でも聞き慣れねぇ言葉だ。ここの土地の者じゃねぇな」
しかし野良犬のような警戒心は変わらない。実を言うと十兵衛の子供は、侍の刀に泥を掛けてしまい、切り捨てられてしまったのである。それ以来、侍をうわべでは愛想よく接しているが、心の底では憎むようになった。当時は武士に無礼を働いたら、その場で切り捨ててもよいという決まりがあったのである。
敵でないことが解れば、相手迎え入れてくれるに違いない。そんな事情があるとはつゆとも知らない下見はそう考え、
「うむ、いかにも。拙者は下見吉十郎と申す者で、堺から参った」
堺・・・堺ってどこだ?十兵衛はきょとんとした顔をしているのを下見は見て、話を変える。
「ところでここ、薩摩の国では飢え死にしてる者が少ないように思える。どうしてか、教えてくれぬか」
「少ないんで?ここでもたくさん人が食うものなくて死んでますぜ」
「それは重々承知しておる」
この男に他の藩と比べろ、と言うのは無理かもしれぬ。そう考え直すと微笑んで、
「しかしこの藩はずっと少ないように思えてならぬのだ」
「さぁ・・・、俺に訊かれても・・・」
侍なんかに教えてやるもんか。十兵衛が考える振りをしていると、隣にいた百姓が口を挟む。
「あるとしたら甘藷(かんしょ)くらいだよな・・・。俺たちは食いもんなくなったら、それ食うから」
「甘藷?なんだ、それは」
「これでさ」
やにわにその百姓は畑に屈み込む。そのさまを期待を持って下見は眺めていた。これで民を救うことができる。
彼が差し出したのは、紫色をした細長いものでゴツゴツとした形をしている。下見が恐る恐る手に触れて見ると、意外にも硬かった。そう、現在では薩摩芋として知られている食べ物である。
「これはどんなに悪い土地でも育つんで」
「おお、これを拙者に分けて頂けぬか」
「何する気で?」
十兵衛が尋ねると下見は声を弾ませ、
「うむ、これを我が藩に持ち帰り・・・」
「滅相もない!」
彼の言葉を遮り、十兵衛はそう叫んだ。
「甘藷を持ち出した奴は打ち首になるんでさ」
「おまえさん、いつまでもむくれてないで」
十兵衛の家は蜘蛛がそこここに巣を張り巡らせている。障子は破れ、お世辞でも奇麗とは言えないが下見は素朴な空気を醸すこの家が気に入った。
彼の女房、お角(かく)も肥っていて、このあばら屋と同様に器量はよくない。しかし、久々の客人とあって盛大な、とは言えないまでも手料理を奮ってくれた。彼女は話し好きな性格と見えて、下見に堺の街をあれこれ質問した。
「へぇ、そんなに船が・・・」
などとその度に驚いた。囲炉裏を囲んで堺の話やここに来た経緯、途中見て来たことを子細に伝えるうちに、雨音が聞こえてきた。
「お侍さん、よかったねぇ。ちょうど、うちがこの人を呼ぶ途中で」
欠けた茶碗で粟を食べながら言った。
十兵衛とともにいるところをお角が見つけ、宿無しだと解ると、泊まらないかと言われたのである。下見ももう陽も落ちてきているし、お角の誘いをありがたく受け入れることにした。
「ちっともよかない」
と不機嫌な顔付きで十兵衛は言い、
「大体、お前は世話を焼きすぎるんだ」
「あら、困った人を助けないと罰が当たるってお坊さんも言ってるじゃない」
「ふん、あれが坊主なものか」
と不快そうに鼻を鳴らした。
「酒は飲むは肉は食うは、おまけに高いお足払わさせられるわ。生臭坊主だよ」
「すみませんねぇ、うちの人は侍が嫌いで」
「いやいや、侍はどうやら嫌われる職業らしい。その点では非人より下でござるな。彼らはちゃんと仕事をしてるが拙者らはただ威張り散らしているだけ」
と言って自嘲気味に哄笑するが、お角は複雑な笑みを浮かべた。確かに面白かったのだが、笑っていいものかどうか迷ったからである。すると、十兵衛が、
「ふん、その通りだぜ」
「ちょっとお前さん」
とお角は十兵衛を諌める。下見はしばらく笑いながらそれを見ていたが、急に居住まいを正した。それを見た二人が驚いて、
「ど、どうしたんで」
「お角殿、頼みを聞いて頂けぬか」
急に言われたお角は呆気に取られてただうなづくばかり。
うまく行ったとそのさまを見て、下見は思った。相手の意表を突く行動で話を願いを聞いてもらいやすくできると考えたのだ。下見は声を潜めて、早口で、
「甘藷を藩外に持ち出す手伝いをしてもらえないだろうか」
「なんだって!?」
とお角は叫ぶ。
「そんな恐ろしいことできやしないよ」
「俺も嫌だぜ」
同意を求めるように、お角に目配せをされて十兵衛もうなずく。
「そんなことがお上に知れたら打ち首、獄門だ」
「おぬしらの行いが日本を救うやもしれぬのだ」
「どういうことで?」
今まで敵対心をあらわにしていた十兵衛も下見を一瞥する。
「日本は今、未曾有の飢饉に瀕している。そこで、甘藷をあちこちに広めたいのだ」
「そりゃまたなんで」
と十兵衛が尋ねるとお角が答える。
「馬鹿だね、おまえさん。甘藷が各地に植えられれば飢饉の時に食べるものに困らねぇじゃないか。そういう了見だろ、お侍さん」
「うむ、で協力してくれぬか」
「手伝いたいんだけどねぇ、見つかったら・・・」
と芳しくない反応に、下見は土下座をする決めた。
「この通りにござる」
「ちょ、ちょっと止めてくれよ、お侍さん」
とお角が慌てて言う。
「手伝ってもいいからさ、顔を上げてくれよ」
この侍は今までの奴とは何か違う、と十兵衛は心の中で呟いた。
弐
それから七日経った。三日ばかり前に雨は止んだが、ぬかるんでいるから危ない、とお角たちに引き止められたのだ。結局、この日まで薩摩に居座ることになってしまった。
大八車を引いて、下見が山道をしばらく歩くと白塗りの簡素な建物が見えてきた。大八車の上には木の箱が七つ乗っている。昨日、十兵衛たちと必死で練り上げた作戦を実行する時が来たのである。
「いよいよでござるな」
と下見は呟いた。これが失敗すれば自身はおろか、十兵衛やお角の命すら危ういものとなってしまう。何としてでも成功させなければならない。
そんなことを考えながら歩を進めると、柵などといった遠くからでは気付かない部分まで見えてくる。やがて六尺棒をもった仁王のようにいかつい門番に、
「おい、そこの旅の者!」
と呼び止められ、大八車を止めた。痩せてはいるが、眼光は刀のように鋭く、睨まれるだけで自白してしまいそうな男、岡田伊右衛門が座っている。
民を救うために頑張らねば。その閻魔のような姿を見て、下見は自信がなくなってきたが、そう自分を奮い立たせる。
「拙者にございますか?」
「おぬしの他に誰がおる」
いささか高圧的に岡田が言う。下見は、
「そうでございますね」
「その箱の中身は何だ。申せ」
「食べられる野草にございます。どこもそうでしょうが飢饉でございます。それ故、食べられる野草を捜し求め、堺から薩摩へやって参りました」
と言っている間に二人の役人が箱の中身を改める。下見の言う通り、出てきたのは野草だった。岡田は本当に食えるのか、と言いたそうな目で箱を見やる。
「なぜ堺から参ったのだ。野草集めなら堺でもこと足りるだろうに」
「甘藷なるものを探していたのでございます」
それを聞き、彼はさっと顔色を変えた。持ち出そうとしているのでは、と感じたのである。
「あれは藩外不出のはず。この者の着物を改めよ」
「何をなさるんですか」
「問答無用!」
下見の必死の抗議も虚しく、次々と着物が取られていく。門番は着物の裏を返してみたり、振ってみたりする。しかし甘藷は出てこなくて、砂や土だけが雪のように落ちてきた。
「甘藷の持ち出しは堅く禁じてるのを知らぬのか」
「はぁ、存じております」
ますますいきり立つ岡田に下見は、笑って言う。それを見て、頬を紅潮させて怒鳴った。
「知っておって、持ち出そうとしたと申すのか?」
「いや、そうじゃございません。甘藷の持ち出しは諦めたのにございます」
ふんどし一枚にされた下見は怒る様子も見せず、着物を着る。
「ほらこの通り、甘藷などはござらぬでしょう」
「う、うむ・・・」
訝しげに見つめる岡田を涼しい顔で受け流し、にっこりと微笑むと、
「拙者の疑いも晴れたことですし、もう越えてもいいでしょうか?」
「あぁ、行け」
追い払うように岡田は下見の通行を許可する。それを見て門番が彼に、耳打ちする。
「いいんですか?通してしまって」
「仕方ないだろう。盗んだ、という証がないんだから」
「そうですけど・・・、何か怪しいですぜ」
「それは拙者も一緒だ。しかし・・・」
下見は岡田と門番に割って入るようにして尋ねる。
「どうかなさったんでございますか?」
「何でもない。早く行け」
「はっ、かたじけないことで。お役人様も暑い中、お勤めご苦労様にございます」
そう言うと下見は慇懃にお辞儀をして去って行った。甘藷を持ち出せた喜びに心踊らせながら・・・。
四
「大変だ!」
奉行所の玉砂利を慌ただしく鳴らし、紺色の着物を着た同心が奉行にひざまずく。この同心、名は矢七と言ってひょろ長く、いつも酒ばかり呷っているので鼻の頭が赤い。その音を聞きつけ、書き物をしていた藤見金四郎が顔を覗かせた。彼はがっちりとした体格をしていて、天の岩戸でも開けられそうだ。
「何だ?騒がしいな」
「大変なんで、藤見様」
「そう大変、大変とばかり申していては解らんだろう」
金四郎は苛々して、文机をコツコツと叩いた。学のない矢七の喋り口は、百姓のそれと似ている。
「辻斬りか?付け火か?」
「いえ、そんな物騒な話じゃないんですがね」
「なら何があったのか。申してみよ」
「はぁ、甘藷が藩外に持ち出されたんでさ」
金四郎は予想していたかのようにうなずく。
「うむむ・・・、それは仕方ないかもしれぬ。各地で米が不足しとるからな。できれば儂とて甘藷を各藩に配りたい」
「でしたら黙認したらいかがでしょう?」
「ならぬ!」
と金四郎は立ち上がって、拳を振りかざした。
「決まりは決まりじゃ。どんな道理の通らぬ決まりでも守らなければならぬ」
「落ち着いて下され」
と矢七に諌められ、金四郎は我に返る。やはり齢には勝てないのか息が少し上がっていた。
「う、うむ。しかし・・・どんなさまで盗まれたのじゃ?関もあるだろう?」
「それが奇妙なんで」
「どう奇妙なのじゃ?」
「はい、関で調べても甘藷が見つからなかったんで」
天狗か何か得体の知れないものの仕業であるかのように、矢七はゾッと身震いする。武士たるもの妖怪を信ずべきものでない、と思っている金四郎は平然とうなづき、
「それでどうしたのじゃ?」
「盗んだ証がありませんでしたから、そのまま関を通したんで」
「そうか、証がないなら仕方ない」
怒鳴られると覚悟していた矢七は縮みこまったが、それに対する金四郎の返事は意外と淡白なものだった。矢七は少し肩透かしを食らったような気になり、へぇ、と呟く。
「それで関を通った怪しい者はいなかったのじゃな?」
「いえ、それが下見吉十郎と名乗る武士が七つの箱を車に乗せて通ったそうです」
「箱の中は全て改めたのか」
「はい、全て雑草だったんで」
「着ていたものは」
「無論改めました」
「しかし出てこなかった、と申すのじゃな」
「はい、さようで」
金四郎はふむ、と呟いて一思案する。下見という男の身辺からは甘藷は出てこなかった。だとすると百姓の勘違いかもしれない、と金四郎は思って、
「その百姓は甘藷が盗まれたときのことをどう申しておるのだ」
「はっ、朝起きたら掘り返されてたそうにございます」
「どうしてそれが甘藷だと?他の作物かもしれんだろう。例えば・・・大根とか」
「いえ、土の中には千切れた甘藷が残ってるそうにございます」
少なくとも百姓ではないな、と考えた。百姓が下手人なら途中で千切れたりしないはずである。そんなことを思いながら、
「そうか、して誰の畑だ?」
「十兵衛という男で」
十兵衛か、と彼の子供が斬られたときのことを思い起こす。あれは誠に痛々しい出来事だった。もし拙者がそばにいたら、止めることができたやもしれぬ・・・。そう心の中で述懐しながら、独りうなずいた。
「ふむ、報せたのもその男か?」
「いえ、隣に住む与作で」
「それが誠ならなぜ、十兵衛は気付かなかったのだ?その辺のことを何か申しておるか」
「はっ、何でも客人をもてなしていたそうなんでさ」
百姓に客などあるのか。そう金四郎は訝りながら、その名を尋ねる。
「下見吉十郎で」
「下見とな!?」
と叫んだ。
「関を通った怪しい男ではないか」
「さようでさ。しかし、当の下見は岡田様に甘藷を分けてもらうのは諦めた、と申して
おられるんで」
ふむ、と呟く。もしそうだとすれば十兵衛の畑から甘藷を盗んだのは、空腹に耐えかねた乞食か、近所の子供の悪戯だと言うことになる。甘藷は生では食えないので乞食ではない。もし彼らが盗むなら、大根や人参など生で食べられる野菜にするはずだ。
そうすると子供の仕業か、と思うが金四郎はすぐさまそれを否定した。陽の高いうちだと与作や十兵衛が見張っていて、盗む機会などはない。また陽が落ちた後、子供がうろつけば、どんな大人でも帰れと言うはずである。
「こいつはどうも怪しい」
と呟いた。例えば下見という不審な男が盗まれた百姓の家に泊まっていた。しかも盗まれる直前に、である。しかし下見からは甘藷が出てこない。
「盗まれた甘藷はどのくらいのものなのか解るか」
「縦二寸、横三寸ばかりでさ」
一寸が三センチであるから、これはかなり小さな芋であることが解る。
「すると種芋か」
「はっ、なんでも植えたばかりの種芋だそうで」
また一つの疑問が出てきた。なぜ種芋を盗んだのか。食用であれば育ったものを盗むはずである。これは明らかに藩外に甘藷を持ち出すつもりで行ったものである。
それに、と金四郎は心の中で呟いた。なぜ下手人はそこに種芋が植わっているということを知っていたのだ?十兵衛の仕業か、とも考えるが彼がそんなことをしても何の利益にもならない。捕まるという危険性や作物の損害を考えると下手人を助けることなどあり得ぬのである。
「下見と十兵衛がつるんで・・・」
と呟くが、侍を毛嫌いしている十兵衛が下見に協力するだろうか。いや、十兵衛ではなく、妻のお角かもしれない。あれは慈悲深い女だから、下見が飢饉のありさまを話すと、協力してやるだろう。そう考えるが、すぐさま否定した。
損得で言えばやはり損失の方が大きい。それに下見からは種芋など見つからなかったではないか。
青空を仰ぎ見て、金四郎はこう呟いた。
「これは厄介な一件になりそうだな・・・」
伍
「この度は罪人を取り逃がし、誠に申し訳ございませぬ」
門番に後を頼んで六畳間に金四郎を通した。文机と書棚しか置いていない簡素な部屋はことのほか広く見える。まだ卯月、つまり四月らしく随分と暖かかった。
「いや、構わぬ。それに下見がまだ甘藷を持ち出したとは限らぬではないか」
「しかしあの時、かなり怪しかったのでございまするぞ」
悔しさの余り顔をクチャクチャにして言う岡田に対し、金四郎は苛々して、
「構わぬと言っておるじゃろう」
と言って、微笑すると、
「それに今更あれこれなやんでも仕方あるまい」
「そ、それはそうにございますが・・・」
「それはそうとおぬしに訊きたいことがあってな」
いよいよ咎めを受ける時が来たか、と岡田は身を堅くする。その様子を見て、金四郎は笑って、
「何、大したことではない。下見のさまを子細に教えて欲しいのじゃ」
「はぁ・・・、しかし遣いの者が参りましたでしょう」
「いや、おぬしの口から聞きたいのじゃ。ことのあらまししか掴めんのでな」
「どのようなことをお訊きになりたいのでございましょう。拙者に何なりと」
「箱を持っておったそうじゃな」
「確かに」
「その大きさは解るか?」
「はっ、・・・そうですな、大きさは一尺あるかないかでございました。上はなく升ののようになっておりました」
一尺とは三十センチである。野草を入れるためには大きすぎるのではないか、と金四郎は思った。
「ふむ・・・、幾日か前に車を引いていた者は通らなかったのじゃな?」
「はっ、見ておりませぬ」
「他の関へ遣いをやって・・・・」
そう呟くのを聞いて、岡田は、
「それには及びませぬ。それは拙者がやっておきました」
行動が機敏じゃと感心しながら、逸る気持ちを抑えて、
「して、いかがであったのじゃ?見つかったのか?」
「箱を持った侍は通ってないそうにございまする。その時の遣いの者を呼び寄せましょうか」
「いや、別に構わぬ。おぬしらも責務で忙しいのであろう?」
と言いながら、頭の片隅では妙だ、と訝る。だとすると箱や車を薩摩で調達したことになる。誰から買ったのであろうか。城下町の商人(あきんど)から買ったとすると、そこから足がつく。そうだとすると、誰かから譲り受けたのだろう。
いや、と首を振る。下見には車や箱を快く提供してくれる親戚など薩摩にいるだろうか。十兵衛の顔を思い浮かべるが、数夜宿を共にしただけでそんなに親しくなるとは考えにくい。ましてやあの侍嫌いが、侍と親しくするなんて陽が西から昇ってもありえない。
そうすると、商人を当たればよいか、と金四郎は考える。しかし、そんなことをして何になるのだ?問題はいかにして箱を手に入れたかではなく、どこに甘藷を隠したかにあるのだ・・・などと考えていると、藤見様と呼ばれて我に返る。
「どうなさったのでございます?」
「む?いや、考えごとをしておったのじゃ」
「この件についてにございまするか?」
「無論。・・・そちはこの一件についての無駄だと解っておっても手掛かりを調べる価値はあると思うか」
「そうですな・・・、どうして手に入れた事柄が無駄だと解りましょう?一見無駄に思える事柄でも後々役に立つことも多々ございます。我々は今、雲を掴むようでござてまする故、少しでもこの一件と関わり合うことは質した方がいいかと」
それを聞いて、金市郎は大きくうなずいた。そして満足そうに笑みを浮かべると、
「人相書きを描いてくれぬか」
と申し付けた。
六
お上にばれたら打ち首だ、と十兵衛は木屑が散乱しているあばら屋の中で震えていた。鋸、鉋など知人から借りた大工道具も置いてある。十兵衛の様子を見ていたお角は、手を腰に当てて、
「お前さんも肝が小さいねぇ、男のクセに」
と豪快に笑う。
「下見様なら上手くやってくれるさ」
「そりゃ、俺も奴のことを信じてない訳じゃない。でも・・・」
「でも侍は信用できねぇってか」
十兵衛の口真似をして、揶揄(から)かうように言う。それに十兵衛がサッと気色ばむのを見て、お角は優しく、
「そりゃおらだって打ち首は怖いさ。でもそれで人助けになるんならいいじゃないか・・・。お釈迦様だってきっと救ってくれるはずだよ」
「それはそうなんだが・・・やっぱり、奉行所の藤見金四郎様があちこち嗅ぎ回ってるのが・・・。隣の与作の家にも来た、とか言ってるし・・・」
お角はフンと鼻を鳴らして、
「藤見様がなんだい、奉行所がなんだい」
と語気を荒らげた。
「そんなに偉いのかねぇ、藤見金四郎ってのは。ただ奉行所に座ってるだけじゃないか。あんなの子供でもできるよ」
「誰が子供でもできるって」
と声が後ろからする。その声は妙に穏やかで、怒っていることは誰の目から見ても明らかだった。
「おや?お前さん聞こえなかったのかい?藤見様だよ、ふ、じ、み、さ、ま」
「お、おま、おま」
十兵衛は顔を真っ青にして声にならない声を上げる。
「どうしたんだい、お前さん。顔や耳だけじゃなくって頭まで悪くなっちまったのかい?」
「うし、うし、後ろ・・・」
お角が言われたままに後ろを振り向くとそこには藤見金四郎が鬼のような形相で立っていた・・・。
「も、申し訳ねぇ。藤見様」
土下座して謝る二人を見て、斬り捨てだけは免れたが、金四郎は仏頂面である。下見様とえらい違いだ、と十兵衛は思った。彼なら豪快に笑って許してくれるだろう。そう思うと下見の哄笑が耳元で聞こえてくるようだった。
「で、わざわざ出向いて俺らに訊きたいことって何でしょうか?」
「うむ、下見吉十郎を知ってるな」
「し、知らないよ。あんな野郎」
「嘘を申せ!」
目が泳いでいる十兵衛を見て、凄む。
「おぬしらの家に下見が泊まっていったのを知っておるのだぞ」
とうとう来たか、と十兵衛は頭の中が真っ白になり、顔から脂汗が滲む。どうした、と金四郎に尋ねられるが蛇に睨まれた蛙のように身体が動かない。うちの人はしょうもないわ、とその様子を隣で見ていたお角が心の中で呟き、
「確かに、下見様がうちの所に泊まってったのは間違いねぇ」
と冷ややかに言った。
「しかし下見様が何をなさったとおっしゃるんで?」
「甘藷を盗んだ疑いが持たれておるのじゃ」
「それなら下見様は関わり合いがねぇ」
「何故、そう言い切れるのじゃ」
と焦りから声も大きくなる。
「おぬしらの寝ている間にこっそり盗んだかもしれぬ」
しまった。金四郎は言い終えてそう思う。この推察には穴があるのだ。その穴とは・・・、
「下見様は甘藷をお持ちだったんで?」
とお角が言うような問題が出てくるのである。この金四郎とお角のやり取りを聞いていた十兵衛も勢い付いて、
「こ、こいつの言う通りで」
と野次を飛ばすように言った。
「で、第一、何で俺らが奴に食いもんを恵まなくちゃいけねぇんだ?」
「それは・・・、それは、恐らく各藩で飢饉だ。これさえあれば救うことができる。そう唆されたのであろう」
「ど、どこにそんな証があるんでぇ!」
威勢はいいが、明らか動揺していると解る。
「証を持ってきやがれ」
ふうむ、と唸る。確かに証を見せろと言われると返答に窮するが・・・。ここは別のことを訊くか、と考え直す。
「ところでおぬしの近くで車が盗まれたという話は聞かぬか」
「あぁ、下見様の車のことを調べてるんで?だったらうちらが貸しました」
十兵衛が慌ててお角を制止しようとするが、お角は任せて、と言うように目配せをする。
「それに箱のことですが、この人が作ったんで」
「な、なに」
と金四郎は思わず、お角の方に身を乗り出し、
「それは誠か」
「へぇ、困ってる人を見たら助けるのが筋、ってもんで。それに負い目もあったんでさ」
「負い目・・・とな」
「えぇ。下見様が甘藷を譲ってくれ、とおっしゃった時断ったんでさぁ」
「おぬしらは断ったのだな」
訝しげに見据える金四郎にお角は、
「へぇ、断りましたよ。下見様からは甘藷をお持ちだったんで?」
詰まるところ、そこに帰するのである。いくら甘藷が盗まれたとしても彼の身体からそれが出てこないと、何の意味もない。金四郎は、
「いや」
と首を振るしかなかったのである。彼はわざとらしく咳払いをすると、
「ところで何個、種芋が盗られたのじゃ?」
「七つでさ」
「種芋を見せたか」
お角は言うべきか、と迷った。ここで言えば下見が種芋が植わっていた場所を知っていたことになってしまい、彼が盗ったという答えに一歩近付くこととなる。しかし黙っていても隣の与作が見せた、と言うだろう。
できるだけ金四郎の信頼を得るべき、と判断してお角は、
「へぇ」
「見せたのだな?」
と興奮して、
「誠だな」
「へぇ、しかし見せたのはうちらじゃねぇ。隣の与作でさ」
ふむ、と金四郎はうなずくと、やにわに立ち上がった。そして礼も言わずに、肩で風を切って出ていったのである。
七
奉行所の奥座敷で金市郎はこの一件に関してあれこれ考えていた。八畳程であるが、文机と書棚、それに行灯など生活用具が置いてあるためか、関所の六畳間よりも狭く見える。
金氏郎の考えはお角が想像する以上に核心に迫りつつあった。まず車を与え、箱を作ってやったことから、かなりの間柄からだということが解る。それから、お角の言うことが正しいことが明らかとなった。矢七を遣わせ、与作に確認したのである。
それから、当然であるが商人で下見を見た者はいなかった。岡田に申し付けた人相書きで家臣たちに商人を一軒ずつ当たらせたのである。
「待てよ」
とポツリと言う。なぜ商人から箱を買わなかったのだろう?確かに十兵衛に作らせたほうが安上がりで済む。しかし出来上がるにはそれ相応の時間が掛かるし、素人が作ったものだから出来も当然よくないだろう。
買いたくても銭がなくて買えなかったのか、とも考えるが否定した。下見は下級と言っても武士であり、高々、七つの箱を買う銭など持ち合せていないはずがない。
と言うことは下見はなぜ十兵衛に箱を作らせたのだろうか。あるいは謝意を込め、自ら進んで作ったとしたらどうだろう?いや、お角が店で買った方が出来がいいから、と言うに違いない。
従って店では買えない箱となる。ではなぜだろうか。
「それに一尺という大きさも気になる」
と金四郎は呟いた。高々、食べられる野草を入れるのなら、その半分もあれば充分ではないか。なぜそんなに大きな箱がいったのだろうか。何らかの理由で、一尺の箱が入り用だったから十兵衛に作らせたのか?
「いや」
と口に出して自らの考えを打ち消した。一尺などと言う大きさならば店で売っているだろう。
そこまで考えていると、聞き込みをしていた矢七が襖を開け、静かに入ってきた。それを見て、金四郎は、
「どうしたのじゃ」
「へぇ、商人を回ったところ面白いことが解ったんでさぁ」
「面白いこととな?」
金四郎は身を乗り出す。
「なんじゃな、それは」
「はぁ、佐倉屋に下見が来たそうで」
「佐倉屋、と申すとあの材木問屋であろう?何の不思議もないではないか」
「どうしてで?」
きょとんとしている矢七に、苛々して言う。この一件のカラクリが解らないので八ツ当たりしているのだ。
「自ら作る箱の木を買うのは当然じゃろう」
「はぁ」
これは、と思って持ってきた報せをこうも足蹴にされてしまっては憮然とせざるを得ない。それを察したのか、金四郎は穏やかに、
「まぁ、よい。そちの持ってきた報せも何かの役に立つかもしれぬ。申してみよ」
「へ、へぇ・・・。では」
矢七のそれは、十兵衛の家に泊まった翌日に、下見が買いにきたというものであった。下見は一尺四方の板材を四十二枚も買っていったそうである。店の主人は喋りに訛りがあったので印象に残った、ということだった。
「板の大きさはどんなものが置いてあったか、そちは覚えているか?」
「へぇ、これだけでさぁ。元々、家の雨漏りとかを食い止めるのに屋根に充てがうものなんで」
「その類のものはそれ一色(ひといろ)なのじゃな」
「へぇ、そうなんでさ」
ふむ、と呟く。しばらくして、金四郎の頭の中で電光が走った。
「なるほど!」
「どうしたんで?」
「解ったんじゃよ」
ご乱心遊ばれたか・・・。子供のようにはしゃぐ金四郎を矢七は同情のこもった目で見やる。そんな矢七の心配を余所に、弾んだ声で、
「下見が使うたカラクリがな」
幕間〜読者への挑戦状〜
金四郎が岡田を訪ねると、しばしお待ち下されと言われまた奥座敷に通された。門番によると廁所で用を足しているとのことだった。
そちはこれを裁くべきかと思うか、と問われた岡田を想像してみる。彼は少なからず驚きの眼差しで見るだろう。そう考えていると、
「待たせて申し訳ござらぬ」
と後ろから声がして、振り向くと岡田が立っていた。
「いや、拙者は只今参ったばかりなのじゃ」
「そうでござるか。して、何用に?」
沈黙の後、覚悟を決めたようにさっき考えていた問いをする。予想通りの反応であった。
「それがしは・・・それがしは裁くべきにと存じます」
「何故じゃ」
「悪法もまた法でございまする故」
「そう、か・・・」
と悲しげに呟くと、拳を固め、
「よし、覚悟は決まった」
「・・・ということは下見のカラクリを見破ったのにございますか?」
これで咎めを受けなくて済む、と思いホッと岡田は安堵の息を吐く。身の保身しか考えていない彼が金四郎の境地に達するのは千年生きても無理だろう。
「あぁ、何もかも儂の手中にあったのじゃ」
八
再び奉行所に戻ると、矢七がカラクリを教えてくれ、とせがんだ。鬱陶しそうにそれを払い除けると、
「意地悪しねぇで教えて下せぇ」
と食い下がった。こいつはカラクリを説明しないと黙らせることはできなさそうだな。ワーワーと耳元で騒ぐ矢七を見やり、解った解った、と言う。
「いいか?普通、升を作るには板が何枚いる?」
金四郎は矢七を見やる。矢七はきょとんとした表情で、
「五枚でさ」
「しかり。そして下見が持っていた箱も升だった、と岡田が言っておる」
「は、はぁ・・・」
「そこで、じゃ。升を七個作ろうとしたら板は何枚いるのじゃ?」
「・・・三十五枚で。あれ?下見が佐倉屋で買ったのと数が合いませんぜ」
「いい所を突いたな」
と金四郎はにやりとして、
「では六枚の板が使われていたとしたらどうじゃ?」
「・・・四十二枚で」
「そう、つまりあの箱には六枚の板が使われてたことになる」
「でもそうすると今度は岡田様の言い分と食い違いますぜ」
「食い違わないな、何故ならあの升にはきちんと六枚の板が使われていたのであるから」
「えっ、どういうことで?」
「つまり二重底であった、ということじゃ」
「あぁ・・・」
と矢七が納得したように顔を綻ばせる。
「一尺もあれば二寸くらい上がっておっても気が付かぬだろうしな」
「十兵衛をここへ連れてきましょうかい?」
「あぁ・・・、そうしてくれ」
金四郎は悲しげに呟いた。
十兵衛とお角、奉行所の玉砂利に敷かれた御座に正座していた。金四郎の、
「おぬしらは今回の一件についてどう見ている」
と言う問いに十兵衛は、
「へっ、反省も何もしてねぇや。俺たちゃむしろ人を救ったんだ。お角、そうだよな」
「へぇ、おらも悪いことはしてねぇと思う。そりゃお触れを破ったのは褒められたことじゃねぇけど」
この自分らの信念を貫いた二人に対して、金四郎は、
「お前たちの態度には深く感動した。死罪だけは避けよう。しかしお触れを破った罪
重い。よって流罪にする」
「ありがとうごぜぇます」
死罪になると思っていた二人は土下座をして、お礼を言った。これを見た金四郎は、
「実を申すとな、おぬしらを試していたんじゃよ」
「へぇ・・・」
と十兵衛かり間の抜けた声を出す。
「後悔していたら死罪、後悔していなかったら流罪という風にな」
「普通、逆じゃ・・・」
と矢七が耳打ちすると、微笑んで、
「いや、これでよいのじゃよ」
矢七は下見に見つからないように、鬱蒼とした茂みに身を寄せた。朝露で濡れている草が身体に触る不快感に耐えながら、ふと考える。
「藤見様はどうしてあんな変な命令を・・・」
捕まえるのは下見が百姓に種芋を渡し終ってからにするのじゃ。この言葉を頭の中で反芻してみるが、一向に金四郎の考えに至りそうにない。
藤見様には藤見様の考えがあるんだろう、と矢七はそれ以上考えるのを諦めた。
「馬鹿な頭で、藤見様に近付こうと思ったあっしが無理なんでさ」
自嘲して呟く。藤見様の言い付けに従うだけにしよう・・・、と思い直すと下見の声がして、全身を耳にする。
「どなたかおられぬか」
やがて、建て付けの悪い扉が開く音がした。かなりのあばら屋だな、とそれを聞いて考える。三十絡みの女の声がして、
「はい、お侍様が・・・何の御用でしょう」
相手が武士だと解ってか、声が震えている。御用にしてやりてぇのはこっちでぇ、と心の中で毒突いた。
「いや、そう堅くならなくてもよい。これを広めて欲しいのだ」
「は、はぁ・・・」
「これは・・・?」
「甘藷と言ってな、どんな悪い土でも育つ食べ物なのだ」
「は、はぁ・・・」
「どうだ、植えてくれるか」
「は、植えてみます・・・」
「そうか、植えてくれるか。かたじけない」
と言って食べ方や植え方などを子細に説明した。飛び出したい衝動を抑えながら、矢七は再び扉が閉まる音を待った。
下見は相変わらず甘藷の素晴らしさをとうとうと語っている。いつ終わるんだ、と思っていると、
「ありがとうございました」
とさっきとはうって変わって弾んだ声がする。いよいよだ・・・、と思って足音が近付くのを見計らって、
「下見吉十郎!」
と躍り出る。
「神妙にお縄に・・・」
下見が黙って両手を差し出すのを見て、面白くないと矢七は心の中で舌打ちした。彼にしてみたら格闘したのち、一つや二つ名誉の傷を負って帰らないと気が済まなかったのである。
「藤見殿、感謝致す」
下見がぽつりと呟くのを聞いて、矢七は、
「ん?何か言いましたかい?」
「いやいや、何でもないことでござるよ」
微笑んで空を仰ぎ見ると、雲一つない爽やかな空が広がっていた。
下見吉十郎は現在、流刑の地に芋地蔵として奉られている。
※この物語はフィクションです。下見吉十郎と十兵衛という二人の人物が、薩摩芋を持ち出して流罪になったのは事実ですが、それ以外の部分は全て作者の空想です。