狂気の絵

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 どこかに逃げなければ!あのゴッホと言う男は完全に狂っている。今日、剃刀で僕に切り付けてきた。かと思えば懺悔と言ってその剃刀で自分の耳を切ったのだ。もうこれ以上、あの狂人と一緒には暮らせない。(ポール・ゴーギャンの手記)

 今日、橋を歩いていたら、またあの声が聞こえた。それは次第に大きくなり、聞き取れるまでになった。「死んでしまえ」「死んでしまえ」そう聞こえる。私は思わず、耳を塞いだ。しかし、声は消えなかった・・・。(エドワルド・ムンクの手記)

1.2000年代

 僕は一人旅で道に迷ってしまい、うっかり薄暗い裏路地に入り込んでしまった。両端に居酒屋が建ち並び、ビール瓶やらチューハイの缶などが転がっている。ただでさえ暗い路地なのにもう既に五時を回り薄暗くなっていた。おまけに空は一面鉛色で今にも雨が降り出しそうである。どこか出口はないかと辺りを見回すと生ゴミをカラスがあさっている姿が目に留まった。
「誰かに道を尋ねなきゃ」
 そう呟いたが、人通りはない。どうしたものかとしばらく歩いていると、一軒の古ぼけた家が見えた。木の洋風建築の洒落た家・・・だったのだろうが、今はツタが壁中に這い、草も伸び放題という何とも幽霊屋敷を思わせる家だった。
「やった、あそこで道を訊けるぞ!」
 僕はそう叫ぶと駆け寄った。近くで改めて見てみると、ますます不気味な家だった。本当に人が住んでるのかな?僕は一瞬そう思ったが、プロパンガスが置いてあるところを見るとそうなんだろう。
「あのぉ、すみません!」
 家の前で叫ぶが、留守なのか反応はない。どこか別の場所で訊くこうか。そう思って辺りを見回したが周りの店は皆、閉まっている。
 途方に暮れていると、ぽつりと鼻の頭に水滴が落ちた。とうとう降ってきやがった、と心の中で毒づく。
「本降りになる前に何とかしなくちゃ」
 何とかすると言ってもどうやってするんだ?としばらく考えていると、家の中に入ると言う考えが頭をよぎった。もしかしたら鍵が開いてるかもしれない。僕はそっとノブに手を掛けた。
「すみません」
 鍵は掛かっていなかった。中に入ると油絵具の臭いがぷんと漂ってくる。
「画材屋かな・・・?」
 棚に並んだ絵筆やらパレットを見回して呟く。壁には一点の絵が掛けられていて、僕はその妖しさに魅せられた。それは火事を描いた絵で、燃え上がる炎は今にも轟々という音が聞こえそうだ。
「こんな赤は今まで見たことない」
 僕は色彩、特に炎に使われている赤の悪魔的な魅力に惹かれていった。どのくらい眺めていただろうか、突然、
「その絵は売り物じゃないんですよ」
 と皺枯れた声がした。僕がはっと後ろを振り向くと、萎びたリンゴのような皺くちゃの顔付きと鋭い鉤鼻の老婆が立っていた。グリム童話によく出てくるようなフードをかぶっていて、表情はよく解らないが、八十歳はとうに越している。
「でも見事じゃろう?」
 その老婆は僕に、と言うよりはその絵に向かって話しているようだった。
「はい、特にこの赤が・・・、どうやったら出せるんですか?」
 道を尋ねにきたことなんて忘れて僕は言った。老婆はニヤリと笑い、
「知りたいか?ちと長い話になるが」
 そう言うと僕の返事も聞かないで、喋り始めた。
 雨はいよいよ本降りになって、遠くで雷まで轟いている・・・。

2.1940年代

 私、大家鶴は家でとれた野菜を麻袋に詰め、一軒の古ぼけた長屋の前に立っていた。もう木は黒く変色し、今にも崩れそうである。ここには画家を目指し東京に出てきた弟、長居筆太郎が住んでいるのだ。
 筆太郎の部屋を見つけると、扉を押した。薄暗い三畳の部屋の真ん中に画板が立てられ、パレット片手にせっせと筆を動かしている。床には二銭、五銭が散らばっているだけで何もなかった。
「まったく・・・灯りぐらい点けなさいよ」
 そう呟きながら、裸電球の紐を引く。筆太郎はここでようやく私に気付いたらしい。青白く、やつれた顔を私に向けた。
「あぁ、姉さんか」
 と言ってまた筆を動かし始めた。どんな絵を書いてるのかしら、と私は思い、私はひょいと覗き込む。紅色の空の下に東京の町並みが描かれていて、実に落ち着いかせてくれる絵だった。
 本当に何もない部屋、と半ば呆れて部屋をぐるりと見回す。布団すらないことに気付き、
「あんた、布団敷かないで寝てるの?」
「うん」
 当たり前のように答える。
「身体、壊すわよ。ただでさえ体が弱いのに」
「あぁ、ありがとう」
 と言ったが、絵を描くのに夢中なのか上の空だった。しばらく熱心に色を塗っているのを見ていたが、うーんと頭を抱えたのを見て、
「どうしたの?」
「この赤がどうしても出せないんだ!」
 と言いながら、乱暴に筆を地面に叩き付けた。私は落ちた筆を拾いながら、
「ちょっと、筆折れるわよ!」
 どこが違うんだろう、一緒じゃないか。嗜めながらもそう思ったが、彼の様子を見るとやはり違うのだろう。筆太郎は相変わらず頭を抱えて、うんうん唸っている。見かねて、
「ねえ、半時間ばかり外へ出ない?もう、夕暮れだからあんたの描いてる夕陽を見たら考えがまとまるかもしれないし」
 と言ったが、力なく笑い、
「あの夕陽は本当に違ってた・・・。真っ赤だったんだよ」
 どの夕陽でも一緒だろうと思って苦笑したが、言わなかった。自分がこうと言い出したら聞かない性格である。
「夕陽ってよく見ると、日によって色が違うんだよ。僕は秋の夕日が一番好きなんだけどね」
 そう言うものなのだろうか、私は首を傾げる。
「あぁ、そうそう。お父さんから伝言」
 と私が言うと、筆太郎は聞き飽きたと言いたそうに、
「どうせ早く帰ってこい、だろ?」
「ええ」
 予想はしていたが、露骨に嫌な顔をされると戸惑ってしまう。
「僕は一生、あの家へ戻る気はないね」
「でも後継ぎなんだし」
「それなら鉄次郎に継いでもらえばいいだろう!?あいつの方が健康なんだしさ」
「でも・・・」
 お父さんの気持ちや家のことも考えて、と言いかけて私はその言葉を飲み込んだ。いくら注意してももう無駄だ。
「解った。お父さんにそう伝えとく。野菜、ここに置いとくね」
 そう言って長屋を後にし、薄暗い道を歩いて汽車の乗り場に向かった。

「失礼します」
 緊張しながら父、秀一郎の部屋に入った。書院造の八畳間には掛軸や赤い壷が置かれていて、その真ん中の高級感漂う机に向かっている。
 父はひょいと四角張った顔を上げた。濃い眉毛や真一文字に結ばれた口許には意志の強さが感じられる。
「とうとう脱退したか・・・。やっぱり支那事変が原因か・・・」
 とラジオから流れる国営放送に熱心に耳を傾けていた。日本が満州事変を起こし、国際連盟からの脱退を余儀なくされたのがその年であった。
「どうだった?」
「戻るつもりはないと言っていました」
 父は首をうなだれて、
「そう、か」
「鉄次郎を後継ぎにしたらどうだ、とも」
「いや、それはいかん!あんなバカ息子に継がせたら・・・」
 そして吐き捨てるように、
「毎日、昼間から酒を飲みおって・・・」
「家で絵を描かせたらどうでしょうか?」
「冗談じゃない、そんなことしてみろ!気違いがいると後ろ指を指されるわ!」
 父は画家を始めとする芸術家は変人や狂人が多いと言う偏見を持っている。私はそんなことないんじゃないか、と思うのだが。
「ではどうするんですの?」
「うーん」
「鉄次郎もダメ、筆太郎もダメ、かと言って女の私が継いだらそれこそ・・・」
「解っておる!」
 父の剣幕に黙った。女の私がでしゃばりすぎたかな・・・と反省する。
「解った。お前の言う通り、ここで書かせよう」
 その時父の悪魔のような笑みを今でも鮮明に覚えている。

「親父が?」
 嬉しくて始発の汽車に乗ったと言うのに、東京に着いた頃にはもう日はどっぷり暮れかかっていた。田舎とは違う、東京のモダンな町並みには目もくれず、私は筆太郎の長屋へ一直線に走った。
「そう、そう」
 肩で息をしながら言うと筆太郎はキャンバスに目をやったまま、
「ふん、親父のことだ。どうせ悪巧みがあるに決まっている」
「そんな・・・、こと・・・、ないわ」
 呼吸を整えながら言うと、筆太郎は不機嫌そうに、
「なんでそんな事が言える?あいつは僕が絵描きになりたいって言った時に包丁で腕を切りつけたんだぞ」
「ええ、覚えてるわ」
「姉さんは僕を殺す気か?」
「そんな事ないわ」
「親父は芸術家に対して大変な偏見を持ってるんだよ!皆、ゴッホやムンクのようなやつらだとばかり思ってるんだろうよ」
 せっかく父を説き伏せたのに・・・。気違いがいると後ろ指を指されるわ!と言う父の言葉を思い出しながら、確かに偏見を持ってるのかもしれないな、と心の中で呟いた。
「とにかく僕は帰らないね!」
「そんなことしたら跡継ぎが・・・」
「何度も言わせないでくれ!鉄次郎に継がせろよ!」
「継げないのよ!」
「何で!?」
「それは…」
 私は一瞬、躊躇った。彼の名誉のために、アルコールなしでは生きていけないことを告げていなかったのだ。しかし彼の名誉より家を優先しなきゃいけない。
「酒浸りなのよ!毎日」
 彼は絵筆を動かすのを一瞬、止めた。しかし、
「ふん!姉さんのどうせ咄嗟の嘘だろうよ」
「そんな事ないわ」
「どうして言える?」
「もしあなたを帰らせようとして吐いた嘘なら肺結核に掛かって危篤だ、とかもっとうまい嘘を吐くわ」
 かなり動揺しているみたいだ。後もう一押しである。
「ねぇ、家に帰って後を継いでよ」
「いやだね」
「もう好き勝手にしたら!?」
 頭に血が上ぼり、そう叫ぶと夜行の汽車に飛び乗った。

 蝉がうるさいほど鳴いていて、空は雲一つない快晴である。鬱陶しい梅雨が明けて、いよいよ夏真っ盛りを匂わせている。畑は一面、さわやかな緑色の絨毯のようになって、収穫を待っていた。
 しかしそんな景色とは裏腹に、私の心はささくれ立っていた。もうどうにでもなればいいわ!自棄になって心の中で叫ぶと、柄杓で水をぶちまけるようにして撒く。すると突然、
「冷たい!」
「あ、ごめんなさい」
 誰かに水を掛けてしまったらしく、私は急いで頭を下げる。何で私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの!私は一段とむしゃくしゃした。鉄次郎じゃないけどお酒の一杯ぐらい飲みたい気分だ。
 しかしそれもその男の顔を見たとき、薄らいでいった。
「筆太郎!」
 驚いたことになんと筆太郎だったのだ。手にはスーツケースを抱えていて、長旅のせいか顔色はいつにも増して青白い。彼は弱々しく、
「ただいま・・・」
 と言うと、ふらふらと土間に入っていった。まるで行き倒れたように倒れている彼を見つけ、
「おや!?筆太郎じゃねえか」
 東北訛りで母が叫ぶと次々と家族や近所の百姓が出てきた。昭和天皇がお越しになったとしてもこんな騒動にはならなかっただろう。
「何?筆太郎が帰ってきたのか?」
「本当だ・・・」
「でも倒れてるぞ」
「まさか死んだんじゃ・・・」
「バカ!秀一郎の旦那の前で滅多なこと言うもんじゃねぇ!」
 口々と噂する中、私と母は手際よく筆太郎を六乗間の座敷に運んだ。北側に面しているため、常に薄暗く、陰湿な雰囲気を漂わせていた。何か幽霊でも出そうで、私や母は好き好んでこの場所には入らない。しかし今日は特別だ。
 外の騒ぎが一段落すると家族は筆太郎を囲うように座り、口々に、
「筆太郎、よく帰ってきたねぇ」
「よく帰ってきてくれた」
「兄貴、お帰り」
 などと言った。母は袂で涙を拭っているし、柄にもなく父は優しい笑みを浮かべている。鉄次郎はほっとした笑みを浮かべている。彼のポケットにウィスキーの小瓶を見つけ、筆太郎は、
「なぁ、鉄次郎」
「何だ?」
「酒浸りなんだってな」
 すると鉄次郎は恥ずかしそうに笑い、
「あぁ、兄貴が行ってから俺が後を継がなきゃという思いに苛まれてたんだ」
 酒の酔いも手伝っていたのだろう、素面(と言ってもここ最近は彼が素面なのを見ていないのだが)の鉄次郎では言いそうもないことをポロリと漏らす。それを聞いた筆太郎は、
「そうだったのか、すまない」
 そう言って、居住まいを正すと、父の方に向き直った。
「お父さん、絵のことだけど・・・」
 何も今、そんなこと言わなくてもいいんじゃないのか?今、そのことを言ったら和やかに進んでいたのが殺伐とした空気になってしまう。場合によってはまた包丁で彼に切りかかるかもしれない。私は慌てて、
「そ、そのことは明日ゆっくりと・・・ね?」
 しかし意外にも父はあっさり了承してくれたのだ。その時の父の表情は仏頂面だったが、心の中では嬉しかったに違いないと今でも確信している。

3.2000年代

「いい話じゃないですか。アットホームな感じで。心が和みますよ」
 僕は老婆の話を聞きながら、何度となく頷く。雨は次第に強くなり、容赦なく小さな店のガラス窓に吹きつけていた。彼女は窓の外を見つめながら、
「ここまでは、な」
「え?」
 意味深長に言う老婆を前に僕は思わず呟く。
「あれは九月の半ばじゃった・・・」
「九月の半ばに・・・何かあったんですか?」
「知りたいか?」
「はい、是非」
「建築屋が来たんじゃよ」
 建築屋だって?そんな事件ありきたりじゃないか。
「建築屋・・・ですか」
「そうじゃ、今風に言えばリフォームってとこかの」
 老婆は建築屋の意味が解らないと勘違いしたらしく、言い直す。
「い、いや、建築屋は解りますよ。いくらなんでも。僕が聞きたいのはどうして建築屋なんかでその絵描き・・・鉄太郎さんでしたっけ?・・・彼の人生を変えるきっかけなったかですよ」
「筆太郎じゃ」
「あぁ、そうでしたね。すみません。それでどうして建築屋が・・・」
「それはこういう事なんじゃよ・・・」

4.1940年代

 稲もたわわに実り、まるで黄金を敷き詰めたような景色がどこの畑でも見られるようになった。夏の暑さも和らぎ少しは過ごしやすい。私がいつものように庭へ水を撒いていると、筆太郎が、
「稲を描きたいからちょっと出かけてくる。夕方には戻ってくるよ」
 と私に断って絵の具やらパレットやらを抱えて駆け出していった。私は彼の気持ちがよく解った。私だって絵や文芸の才能があったらこの実りの秋を描きたいと思う。
「どんな絵を描くのか楽しみだわ」
 私はうきうきしながら彼の絵を想像してみた。田園風景に真昼の光を浴びた金色の稲、鮮やかな緑色の畦道・・・。あれこれ思いを巡らせ、うっとりとしている所へふと近所の噂話が聞こえてくる。
「なぁなぁ、筆太郎さん、絵ばっかり描いててええんじゃろか?」
「そうさなぁ、俺も悪いが心配になってきた・・・」
「秀一郎さんは了承してるみたいじゃし・・・」
「もしかしたら秀一郎さんの代で終わりかもしれんのぉ」
「ひゃあ、そうじゃとしたら俺らどうしたらええんじゃ」
「俺に訊かんどいてくれ」
 私はこの会話を聞いて腹が立ったが、反論するのは大人げないので止めておいた。それによく考えれば彼らの話ももっともなのだ。確かに絵の才能はあっても、人をまとめる才能はない。
 あの日と同じように水を荒っぽく撒いた。突然、
「冷たい!」
 と言う男の声がしたのでしまった、と思い、
「ご、ごめんなさい」
「いやいや、ところで大家さんのお宅は・・・?」
「ここですけど・・・」
 戸惑いながら答えた。鋸をぶらさげているところからすると建築屋だろう。しかし増改築するという話は聞いたことがない。もしかしたら筆太郎のアトリエでも建ててやるのだろうか。
「何の用でしょう?」
「はぁ、秀一郎様から・・・」
 と言っているところへ本人が扉から出てくる。
「鶴、どうかしたのか?」
「あ、お父様、この方たちが・・・」
 彼らを見るな否や、愛想笑いを浮かべ、
「あぁ、ようこそおいでくださいました。さぁ、中へ」
 と家の中に案内した。父と肥った男と痩せた男の二人組みの男が家の中に消えると私も見付からないように後をつける。何が始まるんだろう、と思いながら見つめた。
「この部屋ですか?」
 筆太郎の部屋の前で男が言うと、父は頷いた。逆行になって表情は見づらかったが、薄い笑みを浮かべているように見えた。
 父が深々とお辞儀をして、書斎に消えると男はまず、ふすまを取り外す。人の部屋を勝手に改造するなんてただごとじゃない、と私は胸騒ぎを覚えた。
 ふすまを取り外したら、痩せた男が何事か指示する。なんて言ってるんだろう。肥った男が土間に向かって駆けてくるのを見て、私は慌てて水を撒いている振りをした。その男とぶつかりそうになって、
「あ、ごめんなさい」
「いえいえ、こちらこそ」
 肥った男は愛想笑いを浮かべて、言った。
「あの・・・何を・・・」
 造ってるんですか、と言い終わる前に痩せた男の声が響き渡った。
「おい、何やってるんだ?早くしろ!」
「あいよ!」
 と答えて、私に囁くように、
「ごめんね、急いでるんだ」
 と言って、走り抜けて行った。何を造ってるんだろう、と私の不安はますます募っていった。
 しばらくして角材を両手いっぱいに抱えて戻ってくるのを見て、私はまた土間から様子を窺うことにした。
 遅れたことを詫びているのだろう、肥った男はぺこぺこ頭を下げている。不機嫌そうだが痩せた男は許してやる素振りを見せ、角材を指差した。肥った男は頷くと、角材を立て始める。
 みるみるうちに建てられていく姿を見ているうちに、私は顔から血の気が引いていった。
「こ、これは・・・座敷牢!?」
 何回も目を擦ったが、何回見ても座敷牢である。まさかこれは夢じゃないだろうか?そうだ、きっと夢に決まっている。私は頬をつねった。
「痛い!」
 私は思わず叫ぶ。これはどういうことなのか?
「まさか、筆太郎を座敷牢に閉じ込める気じゃ・・・」
 そう言うと私は倒れこんでしまった。

 気がつくと部屋にいた。ここはどこだろう?ラジオやちゃぶ台が見え、もんぺ姿の母親が現れる。どうやらここは居間のようだ。私はどうしたのだろう?確か、座敷牢が造られていくのを見て・・・、座敷牢!?
 私はがばと飛び起きる。その振動で頭が痛い。
「お母さん、筆太郎は?」
 ドキッとした顔つきになり、動揺している。
「鶴・・・。知っちゃったのね」
「いや!筆太郎を出して!お願い」
 母も辛いのは解っていたが、涙ながらに訴えた。母は首を縦には振らず、
「死んだと思うのよ・・・」
「そんな!嫌!」
「あの子は死んだの・・・そう・・・あの子は死んだ・・・」

 翌朝、重い頭を抱えるようにして居間に行った。途中、ガラス戸に映った私の顔は腫れぼったかった。昨日夜通し泣いたのだから無理もない。ピカピカに磨かれ、光る廊下を見ても、ラジオ放送も聴いても、畑一面に広がる稲穂を窓から眺めても・・・とにかく何をしても面白くない。
 それでも筆太郎がやってきておはよう、と言ってくれる気がした。
「おはよう、姉さん」
 ・・・座敷牢の中からではなく。
「あ、あぁ、おはよう」
「ちゃんと挨拶してくれるの姉さんだけだよ。他の皆は僕がいないみたいに振舞ってる」
「朝ごはんは?」
「あぁ、それは母さんがちゃんと分けてくれてる」
 と言って茶碗を指差す。
「それなら母さんが挨拶してくれてるんじゃないの?」
 筆太郎は首を横に振った。
「ダメなんだよ。親父に見付かるといけないから、夜中の二時くらいにおにぎりを置いていくんだ」
「その時間は寝てるってわけね・・・」
「そう」
「でも手紙は?」
「書いてる時間なんてないし、見付かったら命にかかわるよ」
 確かに、と私は苦笑する。彼が画家になりたいと言っただけで包丁を振り回すのだ。密かに手紙を書いていると知ったら猟銃が火を吹くかもしれない。
「でも母さんが画用紙も絵の具も鉛筆も買ってきてくれるから」
「どうやるの?」
 見付かりはしないだろうか、と私は冷や汗を書いた。
「大丈夫さ」
 そう言うと紙を四つに畳んで茶碗で覆った。
「流石に親父も飯は黙認しているみたいだしね」
「なるほど」
「鶴!おい、鶴!」
 父が厳しく私を呼んだのを聞き、まずいと思った。もし筆太郎と話していると知ったら何をされるか解ったもんじゃない。
 じゃ、また。私は目でそう言うと、
「またこいよ」
 と囁いた。私は頷くと父の書斎に向かって駆け出した。

「いいか、あいつは死んだんだ。今お前が見てるのは幻覚なんだ、いいな?」
 筆太郎と会うな、と部屋に入るなり脅すように言った。
「でも・・・」
 と言おうとしたが私は気迫に押され頷くしかなかったが、何とか父に見付からず彼に会えないかと考えを巡らせていた。私が立ち上がろうとすると、震えながらこう低く呟くのが聞こえた。
「あいつがいたら我が家は終わってしまう。あいつは魔物なんだ・・・」

「どうしたの?ご飯かなり残ってるじゃない」
 私は筆太郎がおにぎりを半分ほど残しているのを見付けて、言った。部屋の中には絵の具、パレットなどが乱雑に散らばっていて、隅にはキャンバスが立てかけてあった。
「うん・・・食欲なくてさ」
 風邪かしら、と私はこのごろめっきり寒くなってきたのを思い出し、心の中で呟く。
「まぁ、風邪だろうね」
「多分ね」
「お母さんに風邪薬買ってきてもらえば?」
「無茶言うなよ」
「そう?」
「うん」
 そう言うと声を潜めて、
「あの手紙を出すのにも命がけなんだ」
「それもそうね」
「自力で直すしかないよ」
「暖かくね」
「それができれば苦労しないよ」
 そう言うと部屋の中をぐるりと見渡す。毛布などは一切なく、しかも真夏の服装だ。これなら体調を壊さない方がどうかしている。
「まぁ、とにかくご飯だけは食べておきなさいよ。栄養つけないと治る風邪も治らないからね」
「うん・・・」
 翌朝もまた、半分くらい残しているのを見かけた。

「どうしたの?全然食べてないじゃない」
 一週間ほど経ったある日、綺麗に残っているおにぎりを見て言った。
「ねぇ、そのおにぎり食べてみて」
「何をおかしなことを」
「いや、いいから」
 私は疑問を感じつつ、彼の気迫に押されながら一口、ちぎって食べた。流石に姉弟とは言え、私がかじったおにぎりを渡すのは気が引ける。
「よし、毒は入ってないな」
「私を実験台にしたわけ!?」
「いや、毒が入ってるような気がして・・・」
 私の怒りに気付いてか、言った。
「失礼ね!毒なんて入ってるわけないでしょ?」
「いや、だからそんな気がしただけ」
 それも解らないではなかった。実の父親に座敷牢に閉じ込められているのだ。人間不信にならない方が無理なんじゃないか、と私は考え直し、
「バカね、誰が裏切っても私は筆太郎を裏切らないわ」
 私の台詞も聞かず、彼はおにぎりを頬張った。
「ねえ、姉さん、こんなまずい飯食えない」
「は?何言ってるの?」
 ぴしゃり、と乾いた音がする。私は怒りを堪えきれずぶっていたのだ。筆太郎は赤くなった頬に手をさする。そしてこんなまずい飯を食えと言うのか、と言いたそうに私を睨み付け、
「姉さんは食べられる?」
「まだ言うの!?」
 私は手を高く振り上げ、もう一発引っ叩く準備をした。人が命がけで運んできてると言うのになんてものの言い草だ。しかし私は次に発せられた筆太郎の台詞に耳を疑った。
「だって・・・砂みたいにじゃりじゃりだよ」
 一瞬、時間が止まった。
「え・・・?」
 砂みたいにじゃりじゃりだって?そんなはずはない。だって私が食べたときは・・・
「ちょっと貸して!」
 私はおむすびをひったくると、頬張った。今度はちぎるなんて悠長なことはしていられない。ふっくらとした、正真正銘のおむすびだった。
「ちゃんとしたおむすびじゃない!」
 今度は彼が私の手からおむすびを奪って恐る恐る一口食べる。私は優しく微笑むと、
「ね?おむすびでしょ?」
「やっぱり・・・じゃりじゃりだよ。姉さん、味覚おかしくない?」
 そう言われてみると私も段々と自信がなくなってくる。筆太郎が幽閉されてからと言うもの、父に見付からないように神経をすり減らしながら励まし続けた。疲れが溜まると狂人になる、と言う話を聞いたことがある。
「これはちゃんとしたおむすびよ」
 私は微笑みながらそう言ったが、本当は自分自身にそう言い聞かせているような気がした。

 初雪の日、くそっ、くそっと言いながら畳を一生懸命叩いている筆太郎の姿が目に入った。どうしたんだろう?まるで蟻か何かを潰しているようだ。傍らには食べかけのおにぎりが置いてある。
「どうしたの?」
 私が声を掛けると、
「どうしたもこうしたもないよ、姉さん。僕のおにぎりに蟻が寄ってきてさ」
「蟻・・・?」
 私には見えない。
「うん、うじゃうじゃ」
 と言ってまた「蟻」を潰し始める。
 何を言ってるんだろう、と思っていると父が私を呼んだ。父に命じられた雪掻きの忙しさに「蟻」のことなど頭から離れてしまった・・・。

 ある十二月の朝、私は雪掻きを終えて自室へ戻ろうと思い、座敷牢の前を通った。見ると、何やらぶつぶつ言いながらキャンバス上にはふっくらとした女性を描いている。絵を描いている途中ぶつぶつ言うのは筆太郎の癖なのでさして気にも留めなかった。
 おそらく想像で描いているのだろうが、それとは思えないほど写実的でまるで写真か何かを見ているようだ。
「写真があるのかな・・・?」
 と思って手元を覗き込んだが、そんなものは見えない。すごい、と思わず息を呑む。想像だけであんなにも写実的に描けるとは。
「モデルは誰なんだろう?」
 いくら天才的な画家でも頭の中にモデルがいなくては描けない。あんな写実的な絵ともなるとなおさらだろう。
「おはよう」
 私は声を掛ける。
「おう、姉さん、おはよう」
 と言って前を向き、
「あぁ、彼女が前言っていた姉ね」
 私は誰かいるのかと思って部屋の中を見渡す。・・・が相変わらず絵の具が乱雑に散らかっているだけで人は一切見えない。そもそもここは座敷牢で誰も入ってこれないはずだ。
 もし、私だけに見えなかったとしたら・・・、そんな思いが一瞬頭をかすめた。
「そんなことがあったら、お父様や鉄次郎が黙っていないわ」
 しかし、鉄次郎はまるで異邦人でも見るように私を一瞥して通り過ぎていく。筆太郎が話している(と思われる)女性の姿は見えない。
 ・・・と言うことは筆太郎だけに見えているのか。意を決して私は、
「ねぇ、そこに誰かいるの?」
 筆太郎はきょとんとした顔つきとなり、
「何言ってるんだ!しっかりしてくれ!盲(めくら)にでもなっちまったのか?」
「え?」
「ほら、そこにいるじゃないか!僕の指の先」
 しかし指差す先には黒ずんだ壁が広がっているだけだ。
「誰もいないけど・・・」
「ほら、いるじゃないか!」
「え?」
「ほら、喋ってるよ。『私が見えないの?』だって」
 聞こえなかった。
「どうやら見えてないようだよ・・・うん・・・大丈夫だよ、君はちゃんとそこにいるから・・・うん・・・今、君がいる証拠を作ってるからね・・・知りたい?・・・絵さ」
 誰もいない壁に向かってぶつぶつ喋っている。どうやら彼にだけ見えているようだ。私は戦慄を覚え、逃げるように自室に戻った。
 筆太郎はその様子を不思議そうに見つめていた。

5.2000年代

「それでどうなったんですか?」
 遠くで雷鳴が轟く中、僕は大家筆太郎の最期について尋ねた。老婆は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「知りたいか?」
「そりゃ、もちろん」
 老婆は例の火事の絵を見ながら悲しげに呟いた。
「死んだよ」
「やっぱり自殺・・・ですか?」
 僕はN市の駅ビルから鬱病の少女が投身自殺を図った事件を思い起こしながら言った。
「ある意味では、な」
「ある意味では?」
「自分の家に放火したんじゃよ」
「じゃあこの絵ってその時の・・・」
 老婆はにやりと笑って、からかうように、
「ああ、そうじゃ、勘が冴えてるのぉ」
 ここまでくれば解るだろう、と僕は苦笑した。
「でも勘がいくらいいあんたでも、この赤色の秘密は解らんじゃろう」
「赤色の、秘密?」
 僕は火事の絵をまた見ながら、言った。何度見ても悪魔的な魅惑を感じる赤だ。
「そうじゃ、この色はな」
 老婆が僕に顔を近付けて、
「大家筆太郎の血なんじゃよ」
「血?」
 僕がおうむ返しに尋ねると、老婆は声のトーンを落とし、
「そうじゃ、剃刀で自らの手首を切り、その血をキャンバスに塗りだくったんじゃよ。まるで気違いみたいに笑ってな」
 暗い店内に閃光が瞬いた・・・。
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