翡翠の希望

(原作:夏羽  小説:有沢翔治)

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登場人物

  シモーネ・姫……中国系イタリア人。探偵
  マーラ・ライモンディ……シモーネの雇い主


  シルヴァーノ・アルギリーチェ……富豪
  ジュリアナ・アルギリーチェ……その娘
  エウジェニオ・ダ・リリー……スーパーの経営者。マフィアのボス

  サム・ガードナー……「アースレイジ」のボス
  クリストファー・オサリバン……上の実行部長。化学博士。
  フリーダ医師……オサリバンの手下


  ルドヴィーコ……囚人
  ベッポ……連絡係の看守


  ベルチーノ……警部
  モリサキ・アサキ……医師
  ジュゼッペ・ヴァレンティアーノ……バーのマスター
  アレ……怪物

序 章   劫

 かつてある王が崑崙(こんろん)を訪れていた。一族は彼の血を受け継いだ。その王国が滅んだ時、一族のわずかな生き残りは西岳山奥へ移り住んだ。そして小さな村となり、外との交流を絶った。
 それから数千年が経った。
 ときは八十年代、この村に一人の男が生まれた。村の外に興味を示し、世界中をくまなく歩き回った。村人からは変人扱いされた。
 ある日、ふと望郷の念に駆られ、帰省を決意した。
 村の者はどうしているのだろうか。厳しい父親、優しい母親、愛する妻、村の悪ガキ……。懐かしい人々を思い描きながら、帰路を急いだ。
 実に二年ぶりの故郷である。
 だが、彼を迎え入れる人はなかった。村へ踏み込み彼が目にしたのは、壊れた家々と倒れる人々。血、血、血。
 手足はもげ、顔は潰れ、もはや人の形を保ってはいない。
 そんなばかな、と男は思った。
 村人はみんな強靭であった。鳥より高く飛び、魚より深く潜り、獣より早く走る。
 二千数百年前、王の血を受け継いだはずである。村の伝承によれば、丸腰でも、現代兵器には簡単に負けない。
 だからこそか、「アレ」を招いたのは。
 そう、村の中心に「アレ」がいた。「アレ」に立ち向かって、勝てるはずがない。
 憤りを感じる前に男は逃げた。片手と引き換えに赤子を連れ出した。村のたったひとりの生き残りである。


 彼は逃げ切った。次に警察に保護を求めるようかと迷ったが首を振った。「アレ」は人の手でなんとかできるものではない。
 まだ傷が生々しく残っていたが、彼はすぐに赤子を連れて海外へ飛び立った。一年前、かつてローマ帝国の中心だった都市で、男はある奇妙な出会いがあった。
 その人がまだいれば、その人の助力があれば、復讐も……
 わずかに希望を抱いていたが、飛行機が下りてすぐに絶望に変わった。
 近くに、「アレ」がいる。
 国を越えて追ってきたのか、そもそも距離が関係ないのか。
 男は走った。この異郷の地で。
 逃げる、逃げる、逃げる、どこまでも。が、振りきれない。
 助けを求めたかったが、その人との連絡はまだ取れていない。否、その時間すらなかった。
 赤子は近くの教会に預けた。神父は怪訝な顔で彼を見ていたが、快く受け取った。
 名前を尋ねられたが、神父は中国語が解らないらしい。仕方なく服に姓を書いた。
 男は死を覚悟した。が、迫ってくる死神の気配に、男は逆に少し安心した。殺気が赤子に向いていない。
 そう、彼は赤子を抱いていなかったのだ。
「さよなら、せめてお前が……」
 男はそう呟くと人生の終わりを、迎えた。

第一章  探偵

「え?」
 我が耳を疑う。
 彼女からの宣告は、一切の慈悲はない。
「ごめん、わたしたち、もう別れよう……」
「そんな……俺、何か悪いことでも?」
「ごめん、あなたがいい人なのは解る。でも、わたし、もう耐えられない……ごめん!」
「待て、行くな!」

 わたしはそこで目が覚めた。
 周りを見回すと、いつものベッドの上である。どうやら悪夢にうなされていたらしい。
「夢……」
 忘れもしない、三年前のあの日。
 十六歳のわたしに初めて恋人ができたのである。初めてのデート。
 遊園地、オシャレなカフェ、ラブロマンスの映画……。何の変哲もないデートを思い描いていた。
 しかし、である。次の日に振られたのだ。
「……シャワーでも浴びるか」
 嫌な思い出は汗と一緒に洗い流そう、と浴室のドアを開けた。ほのかにシャンプーの匂いが漂ってくる。
 わたしはシモーネ・姫。教会で育った。神父によると、服にこの変な漢字が書いてあったらしい。多分わたしを捨てた両親が書いたものだろう。ありがた迷惑だ。
 シャワールームから出ると、思わず鏡を見る。
 水も滴る美人の姿に釘付けになった。いや、文字通り髪から水が滴っているだけなのだが。
 端正な顔立ち、ふくよかな胸、身体は程よく締まっているが、硬い印象はまるでない。まるで女性である。股間を隠したら本当に女しか見えないだろう。
 もちろんわたしが望んだわけではなかった。これは生まれつきの病気、らしい。れっきとした白人の男として生まれたかったのだが。
 それにしてもなぜ、今頃あんな夢を見たんだろう。目をそらせようとしたが、否が応でも身体について考えてしまう。
 彼女最後なんて言った? 「私より胸が大きい彼氏が嫌」、だっけ?
「チクショウ、この胸のどこが、どこが……」
 しかしその呟きとは裏腹に美女の裸を目にしたら、嫌でもムラムラしてしまう。ふう、とわたしは溜息をついた。
「何してるの?」
「うわっ!」
 突然後ろから声を掛けられて、わたしは思わず情けない声をあげる。
「もう、脅かすなよ」
 振り帰ると、見慣れた女性が立っていた。
 彼女も真裸に近い。恋人かと疑われるだろうが、そうではない。このライモンディ探偵事務所のオーナー、マーラ・ライモンディ。わたしの雇い主だ。
 なぜ裸なんだろう。わたしは出会ってから自問自答したが、結論は一つ。彼女が変人だからだろう。
 普段の言動がまともな分、変態ではないはずだ。しかしそれが、不釣合いを醸していた。早い話が余計に変人に思えるのである。
 わたしが服を着ている間、彼女は目を逸らそうともしない。しかしそれにもとっくに慣れてしまった。
「はぁ」
 わたしは溜息をつくと、大胸筋サポーターを見る。ブラジャーにしか見えないではないか。彼女が選んでくれたものだから文句は言えないけど。
 その一方でジャケットは気に入っていた。格好はいいし、何より漢字が気に入っている。翻訳サイトで調べたところ、「男」という意味らしい。
 わたしがそのジャケットに手を伸ばしていると、マーラは言った。
「脅かすつもりはなかったの。ぼーっと突っ立っていたあなたが悪いんでしょう」
「そ、そうか?」
「そうよ。で? 今日はどちらへ?」
「……あ!」
 時計を見て叫び声を上げる。もうこんな時間だったのか。
「ヴェネト総合芸術大学に行ってくる!」
 わたしは急いでジャケットを羽織ると、小物をまとめて外へ飛び出したのだった。
 まったく、依頼があればバイトなんかすることないんだけど。せめて噂に名高い親父さんの半分、いや三割でいいから稼いで欲しい……。


 街を歩くと、石造りの建物や古い教会が並んでいる。運河が街を流れていて、船が停まっていた。街並みは中世の面影を残していたが、車が走っていて違和感ばかりではなく滑稽さすら窺える。
「へい、姉ちゃん。ちょっと暇?」
 イタリアの男は「女性」に気安く話しかけてくる。そんな彼らにうんざりしながらもこう言っているのだった。
「わたし、男ですけど」
 それでも信じないバカにはわたしの一物を握らせてやる。決まって、掌を返したように悪態をつきながら去っていくのである。始めこそむかっ腹が立って仕方がなかったが、今となっては諦めている。
 いつものように難なく男を追い払うと、わたしは歩を速めた。そしてとりとめのないことを考えて、気を紛らわせる。
 マーラはどうして事務所を開き続けているんだろう? どうせ父親の事務所を継ごう、というまっとうな理由じゃないんだろうけど。
 今度訊いてみようかな? いや、ダメだ。考えを変えられて事務所を売られでもしたら、翌日から雨露がしのげなくなる……。
 マーラの考えにはついていけない。そもそも芸大のモデルも個女の「いっそ見せてしまえば?」っていう冗談から始めたんだし。
 もっともわたしと契約する大学も凄いが。……一応、男性モデルとして。普段から武術で鍛えてる成果かもしれない。そんなことを考えていると大学の門が見えてきた。
 演習室には学生が集まっている。講師はわたしに目を向けると、授業を始めた。紙を鉛筆が撫でる音が演習室に響き渡った。
 ただポーズを取っているだけで、金になるのだからこれほど楽な仕事はない。それに学位こそ得られないものの、タダでプロの講義が聞けるのだ。隣では漢文の講義らしく、ドイツ訛りの中国語が時折聞こえてきた。
「輪郭が取れたら影をつけていくんだ。大雑把な明るさや暗さに気をつけ、全体を見るようにしていく」
 事務所に帰ったらわたしも練習しよう。ここで仕事をするようになってから、絵に興味を持ち始めたのである。もちろん本業にできるかどうかは解らないが。
 集中して聞いていると、あっという間に休憩時間になる。手持ち無沙汰になり、ポケベルを取り出した。見るとマーラからメッセージが入っている。「できればすぐに帰ってきてくれ」とのこと。
 どういうことだろう? 電話を借りて事情を聞こうか。いや、マーラは変人だけど、いくらなんでも仕事中にこんなメッセージは送ってこない。
 わたしは迷っていると、講師から声をかけてきた。
「どうした?」
「いや、実は……」
 そう言うと、わたしは経緯を話す。すると講師は笑って答えた。
「もう帰りなさい」
「え? いいんですか?」
 確かに嬉しいんだけど……。わたしは少し複雑な思いで聞き返すと、講師は黙って頷いた。わたしは礼を言うと、廊下に飛び出したのだった。
 幸運にも大学の前にタクシーが留まっていた。ビルの工事をしているせいなのか、最近タクシーは通らない。これでバスを待たなくてもよくなった。
「タク……」
 そう呼び止めようとすると、突然人が脇道から出てきてぶつかる。一瞬、柔らかな感触を感じた。
 武術で鍛えた反射神経と平衡感覚で踏みとどまる。それは相手の女性も同じらしく、驚いた。
 その黒髪と黄色い肌。特徴がよく解る。
「……中国人 (チネーゼ)?」
 子供の頃とは違って、ここ数年でアジア人は珍しくなくなった。レストランや理髪店を開いて、イタリア社会に溶け込みつつある。一部の人は相変わらず国粋主義を叫んでいるものの、アジア人の数が増えてきた。だから簡単に追い出すわけにはいかなくなったのである。妙な気分。
 そもそも「イタリア人」も単一民族ではないのだ。わたしみたいな中国系イタリア人もいる。だからと言って中国人から中国語で話しかけられると困る。わたしは聞きとれないのだ。
 だがその一方で懐かしさもあった。響きも遠い昔、聞いたような気がする。しかし彼らが話す言葉とは違っていた。中には似たような音もあるが……。
 いや、それよりもこの女性だ。わたしと同い年か、それとも少し上くらいである。楊貴妃にも引けをとらない絶世の美女。わたしの他にこんな美人に会うとは思わなかった。マーラも美人だが、彼女と比べ物にはならない。
 そして不思議な雰囲気がある。
「ホホ、中国武術修行中の日本人(シノワーズ)だよ」
 その台詞には閉口した。イタリア人には中国人か日本人かの違いが解らないが、黄色人種のわたしには解るのだ。
「カンフーを修行中のニンジャか」
「……んー、まあそうね。それよそれ、うん、違いない。スプリンター先生はわたしの師匠だ、うん」
 なんかからかってないか?
「いや兄ちゃん(ブラザー)こそ、イタリア語が上手いね、何年目?」
「生まれてからずっとここだ」
「へぇー、道理で」
 彼女は興味深そうに少し目を細める。
 話し込んでいる間に、タクシーは遠くへ走っていた。わたしは我に返り、手を振ってタクシーを呼び止める。
 今日は朝から何かがおかしい。
 わたしがタクシーを追おうと走り出した。その時、タクシーの上に工事の鉄骨が落ちてきたのである。こんな事故なんて滅多にない。
 ぽかんと口を開けるばかりで、声すら出なかった。目を逸らしたい。恐らくドライバーは……、想像すると……
「むう……これは酷い。この車はもう直らないな」
 そのニンジャの女性(多分違う)は傍に悠然と歩いてきて、そう淡々と述べている。正直その神経がよく解らない。
 わたしは苛つきを募らせて言った。
「いや、ドライバーが先だろ?」
「そうね、普通ならそっちを早めに助け出せないと」
「え?」
 彼女の指さした先をよく見ると、さらに信じがたいことが起きていたのである。
 不幸中の幸い……いや奇跡と呼ぼうか、その鉄骨はちょうどL字型をしていた。運転席には当たっていない。
 これはもしかしたら……。わたしはタクシーの傍に駆け寄った。タクシーは跡形もなく潰れている。
 運転手は車体に挟まれていた。しかし、気絶こそしているものの息はしっかりとしている。
「……よし」
 わたしは二次被害が起きないように気を付けてドアを開けた。それと同時に、彼女は運転手を引き出す。
「お見事お見事」
「……そっちこそ」
 いい連携だった。しかし、助かるかどうかはまだ解らない。
「大丈夫よ」
「解るのか?」
「一応医者だから」
 ……ニンジャではなかったのか?
「出血なし、骨折なし、内臓も無事。軽い脳震盪ね、三十分くらいで目覚めるはず」
「本当か?」
 もし本当ならこの人はかなりの強運だ。少し分けてほしい。
 しかし、ニンジャ……自称医者の女性はわたしを興味深そうに見ている。
「兄ちゃんは力持ちだけでなく、要領もいいね、何かやってた?」
「これでも格闘家だ」
「ほほ……これはこれは」
 それを聞いて彼女の目が輝いた。色んな目で見られてきたが、こういうのは初めてだ。
 でもこんなに綺麗な女性に褒められて、満更でもない。
「あ、兄ちゃん携帯持ってる?」
「持ってない」
 携帯電話。最近、急に広がったと内心で苦笑した。ポケベルがあればいいんじゃないか。もちろん場合によっては携帯電話も使い道あるんだろうけど。
 わたしの答えを聞いて、モリサキは軽く頷いただけだった。
「そうか。わたしはアサキ・モリサキ、兄ちゃんは?」
「シモーネ、シモーネ・姫」
「男装が趣味の女の子が、わたしの弟子にいるんだ。兄ちゃんにもそんな趣味があるのかと思ったんだけど、むしろ知り合いと似てる……」
 半ば呟くようにモリサキは言った。
 何の話だろう? とわたしが訝っていると、彼女はわたしの心中を察したらしい。
「いやこっちの話。この人はわたしが病院へ運ぶわ。兄ちゃんは別の用事があるんじゃない?」
「……あ」
 時間を忘れて話し込んでしまった。単に綺麗さだけではなく、人を引き込む魅力を強く持っている。
 今思い起こしてみると、彼女は最初からわたしを「ブラザー」と呼んでいた気がした。


 わたしは事務所のドアを勢いよく開けると、部屋に飛び込んだ。見るとマーラの表情には嬉しさと失望が入り混じっている。
 来客用のコートが着ているが、その下はいつもの通り裸だろう。露出が好きな彼女だが、初めての相手には服を着るそうである。彼女だって何か思いがあって裸でいるんだろう、とわたしは信じたい。
 そんな思いで見ながら、わたしは言った。
「何があったんだ?」
「仕事よ」
「……マジかよ」
 この前の依頼はいつだっけ。わざわざライモンディ探偵事務所を選ぶとは、よほど好事家らしい。
「何考え込んでるの?」
「あ、いや、客なんて珍しいな、と」
 わたしが慌てて手を振ると、マーラは自信たっぷりに笑った。
「そうよ、何か大きいな事件の匂いがするわ、今まで仕事パッとしなかったけど……きっと何かの伏線に違いない!」
 その自信はどこからくるんだろうか? わたしは溜息をつきながら、とりあえず事務所のボイスレコーダーを再生させた。安物で音質が悪かったが、聞き取るのには困らない。
 シルヴァーノ・アルギリーチェと名乗った後でこう切り出した。
「娘を、ジュリアナを探している。わたしの一番下の娘で、今年で十六歳だ」
 マーラの話では、初老の男で実業者のような風貌をしていたそうである。彼の後ろには屈強な男たちが数人控えていたらしい。
「かわいい子ね……娘? 孫じゃなくて?」
 マーラはいきなり失礼なことを言い出したのである。シルヴァーノも呆気にとられたようで、しばらく間があった。
「え? いや、娘だ」
「解った、で?」
「彼女は一周間前の通学中、忽然と姿を消した。わたしに何も告げずに、だ。家出するような子じゃない」
「駆け落ちの線は?」
「彼女の男関係は知ってるが、親しい男性はいなかったはず」
「じゃ誘拐の線は? 身代金の要求はあったの?」
「それがまったく……」
「警察には?」
「言ったよ。手がかりが少なくて何も言えないそうだ」
 忌々しそうにシルヴァーノは吐き捨てた。
「解ったわ、調べてみる」
「おお、引き受けてくれるのか!」
「大船に乗ったつもりで」
 大船と言ってもタイタニックじゃなきゃいいんだけどな、とわたしは内心で苦笑する。
「ありがたい! ライモンディ探偵事務所の評判は聞いている。必要なものは何でも用意する。必ず犯人を捕まってくれ! あ、連絡ならこの番号でいい!」
 鉛筆で何やら書く音が聞こえてきた。
 録音だけ聞いても、依頼主の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。おそらくマーラに一筋の光を見出したのだろう。道理で彼女は得意げに笑っているわけだ。
 稀にこの評判は過去の栄光だと知らず、依頼主がくるのだ。その後の展開は言わずもがな、であるが。
「それで、聞き込みお願いできる?」
「まあ行ってくるけど」
 しばらく他の仕事が休業になる。今回も無駄足になるだろうけど、彼女へささやかな恩返しができれば幸いである。
 本当に微力だが。


 午後一時、裏路地のある小さいパーを訪れた。営業前で店内は人がいない。奥には扉があり、私室になっている。
 もっともこのバーはあくまで表の顔である。その実態はこの町の裏情報の大半を握っている情報屋。警察やマフィアにも顔が利くという噂である。マーラの父親もよくここで情報を強いれていたらしい。
 わたしを見ると強面のマスター、ジュゼッペ・ヴァレンティアーノが言った。
「ここ最近若い女性が相次いで行方不明になってるけど、何か知ってるかい?」
「うん? うーん、そうかな」
 そう曖昧に返してしまった。ジュゼッペが悪気なく笑う。
「おいおい、しっかりしろよ探偵さん、事件の匂いだぞ?」
「……探偵じゃない、ただのアシスタントだ」
「で? 今日は何の用だ? 飲むなら夜に出直してこい」
「知ってるくせに、ここに用があるのはこれだろ?」
 とりあえず適当に座って、袋から写真を取り出した。
「ほう……人探しか」
 ジュゼッペは目を少し細めた。
 そこそこの付き合いから、この表情はよく知ってる。これは「何か持っている」目だ。
「少し離れた街の外、パラディーゾ遊園地は覚えてるか?」
「懐かしいな。今は不良のたまり場って聞いたけど」
 話を合わせたが、わたしはさして特別な思い出がある場所でもない。
 十一年前、大作冒険映画シリーズが流行っていた。パラディーゾはそのテーマパークとして作られたのだ。聞いた話では、スポンサーたちもその映画のファンらしい。
「何が悪かったのかねぇ」
 わたしが呟くと、ジュゼッペは言った。
「全て悪かったのさ。そもそも開園当初から原作の映画は下火になってたしな。それに当時の技術では映画の場面を演出するには無理があった。盛り返しなんか当然できるはずないだろ」
「確かに。でも経営者が変わったら映画から離れようとしてたじゃないか。あれは賢明と思うんだけど」
 わたしが言うと、ジュゼッペは頷いた。
「不祥事が明るみに出なきゃな……。親会社も不況の波に飲み込まれ倒産しちまっただろ? 改修しててしばらく閉園してたけど、それが永久に閉園となったってわけさ。その後は知ってるよな?」
 わたしは頷いた。跡地は国が買ったが、都心部から離れてすぎている。あの日から放置された。残されたの思い出とからくりの山だけ。
「でも俺は楽しめてたんだけどな。安い入園料だけで遊び放題だったし」
 私は溜息をついていると、ジュゼッペは身を乗り出した。そして写真を取り出して言う。
「話はここからだ。最近なぜかこの写真みたいな年頃の女の子(ラガッツァ)が出入りしている姿をよく見かけるんだ、それもたくさん」
「どういうことだ?」
「詳しくは知らない。女の子たち(ラガッツェ)の中にあんたみたいなアジア系もいる、あれは明らかに異常だった。これ以上は近づきたくない」
「……こちらの尋ね人がその中にいなくでも、何か関係している線が強い、か……」
「行くのか?」
「仕事だからな。じゃ支払いはいつもの方法で」
「いや、行くのなら清算してからにして欲しいんだが」
「え?」
「この前の情報料、未払いだ」
「……そうだっけ?」
 言ってみれば、半年前から訪れていない。あれ以来ずっと事務所の依頼がなかったのだ。
「思い出したか」
「ごめん、今回の件と一緒に支払うかどうか、マーラに相談するから! それじゃ!」
「お、おい! 待て! 話がまだ!……やれやれ、帰ってこれないのが心配なんだがな……」


 事務所に戻ってマーラに伝えると、彼女はしたり顔で頷く。
「なるほど、話は解ったわ、要するに、犯人はイタズラ目的で女の子を誘拐してるのね」
「そうかな……そんな単純じゃない気がする」
「何? 怖気ついたの?」
「そうじゃないけど」
 腕っ節だけなら自信がある、どんな凶悪犯でも怖くない。むしろそれだけやりやすい。しかしジュゼッペの含みのある言葉を思い出すと、何か釈然としない気持ちが残る。
 わたしはゆっくりと首を振ると言った。
「まあ、相手は変質者として、どう捕まえる?」
「囮捜査しかないんじゃない?」
「……言うと思った」
「じゃ他に何かいい考えは?」
「……いや」
 わたしも他のアイデアが浮かばない。やっぱり探偵には向いていないのかも。ありきたりの推理に、ありきたりな発想しかできないし。
 でもマーラはいつも突飛で的外れな推理ばかりするよりはマシ……いや五十歩百歩かもしれない。
「じゃ、暗くなったら行ってきて」
「え? 俺が囮になるの?」
「当然よ、そのルックスを生かすの。男でしょ」
 なんか矛盾していると思ったが、確かに行ってみなければ何も解らない。そんなことを考えていると、マーラはポケットからペンダントを取り出した。
「これは……?」
「このペンダントなんだけど依頼主から娘さんへ渡してくれってさ」


 夜の遊園地は不気味である。しかも廃墟の遊園地に灯りが点いているのだ。その一方で巨大な観覧車には光がなかった。月に照らされ、大きな影を落としている。まさに世紀末に相応しい光景だ。
 門の両脇では屈強な男が二人、見張っている。
 驚いた。不良のたまり場になったと聞いたけど、統制が取れているではないか。
 物陰に身を隠し、しばらく様子を見た。二人とも似たような恰好をしている。モヒカン刈りの頭で、長いコートを羽織っている。少なくともマフィアならこんな酔狂な恰好はしない。外見から年齢は解りにくいが、二十後半から三十前半あたりだろう。鍛えぬいた大胸筋が羨ましい。
 時折二人は話しているが、遠くからではよく聞こえない。かといって近づこうにも、雑談の間中、二人は周りに目を光らせているのである。
 午前三時を過ぎていた。痺れを切らして、わたしは物陰からそっと出る。
 見張りはわたしに気づいた。驚きながらも、その目はすぐに別のものになった。わたしを視姦でもしているような目線だった。正直いたたまれない。欲情を隠すが、二人にはその気配がないのである。
「おい、ここは部外者立ち入り禁止だ。新入りなら今日の合言葉を言え」
 男はすっかり取り仕切っているような口振りである。「今日の合言葉」なんて知るはずもない。ジュゼッペが知ってたなら、わたしに売っていただろう。
 せっかく接触したのだ。このまま帰るのはもったいない。
「合言葉は知りません、部外者です」
「何しにきた?」
「妹を探しています。ここで見かけたっていう噂を聞いていますから」
「ふーん……」
 わたしは既に拳を作っていた。力づくでも聞き出すつもりである。
 だが、彼らはわたしをジロジロ見ながら、意外な言葉を口にした。
「まあいいか、中に入ったら変な騒ぎ起こすなよ」
「え?」
「どうした?」
「いえ、あっさり通してもらいますね」
「おう、本来なら条件として一発やらせてもらいたいところだが、怒られるからな」
「少し触るだけなら問題ないが、生殺しはこっちが嫌だからな」
 男たちは下卑た笑いを浮かべている。
「……は、はあ……」
「どうした? いけないのか?」
 男が言うと、もう一人の男は言った。
「それとも俺たちとやりたいのか?」
「も、もう行きます!」
「チッ、つまらない」
 要するにボスを恐れているらしい。俄然、興味が湧いてきた。ここには何かがあるのだ。会うのが楽しみだ。


 中に入ったらメリーゴーランドを目印にしよう。そう決めていたが、今や鉄骨の枠組みが残っているだけである。おまけに子供時代、友達と待ち合わせに使った大時計は姿を消している。
 遊具はまるで骸骨のようになってしまっていた。わたしは「迷子」になってしまったのである。
 それにしても、とわたしは辺りを見回して訝った。さっきの見張りのような服装の男も見かけたが、彼らはわたしを見ようとしない。わたしを避けている印象すら受ける。まだ拳を食らっていないのに。外の二人との違いは何だろうか。
 かれこれ一時間くらい歩き回っているが、何の手がかりも見つからかった。少し休憩がしたい。
 ふと見ると、潰れた喫茶店が見えた。まるでグリム童話から抜け出したような佇まいである。紅茶やケーキはさすがに出ないだろうが、椅子ぐらいはあるだろう。
 ドアを押すとギーと軋んだ音がした。中は蛍光灯が灯っていて、少し眩しい。
 中に入ると可憐な少女がお茶飲みながら、絵本を読んでいた。絵になる光景である。彼女はわたしの気配に気が付いて、目を上げた。
 この子、どこかで見たような……。あ、そうか。彼女はわたしが探している子、ジュリアナだった。
 さっきまでの苦労は何だったんだろう? こんなところにいたなんて。
「えっと……」
 彼女はわたしを見ながら、困ったように一礼する。実に優雅な物腰である。写真よりも可愛い。
 わたしは近づくと、手を差し伸べた。机の隅にはノートが置いてあり、「友達」「愛」などという字が書かれている。
「わたしは、君を助けにきた」
 怪訝そうに私を見つめる。
「君の父さんに頼まれて来た」
 それを聞いた途端に、ジュリアナの表情が強張った。段々と目は敵意に満ちていく。
 何かやらかしたか? 不安になりながらも、彼女の叫び声に思わず耳をふさいだ。が、小鳥の声などという可愛らしいものではない。音波兵器である。喫茶店の壁が揺れている。
 恐る恐る辺りを見回すと、ドアが吹き飛んでいた。
 異変に気づき、男たちが駆けつける。十人、いや二十人くらいか? ジュリアがわたしを指差すと、男たちはすぐに頷いた。やはりこうなるのか。まあ構わないけど。
 わたしが拳を繰り出すと男たちはバタバタとその場に倒れ込んだ。
 もっと骨があると思っていたら、子供と大して変わらない。その隆々とした筋肉は見かけ倒しか?
「くそ、アネゴたちいないせいであのパワーが出ない……」
「でめぇ……ベッドの上だったらすぐにでも喘ぎ声を出させてやる……」
 意味の解らない捨て台詞を吐いて逃げ出した。全滅させるのに一分も掛かっていないんだけど、それでも男だろうか?
「……何なんだよ本当……」
 後はジュリアナを連れ出すだけである。しかし彼女は青ざめた顔のまま、わたしが手を伸ばしても拒んでいる。誘拐でもしてるみたい。
「あの……だからわたしは君を救いにきたんだよ。きみの父親の依頼でね」
 なおも彼女の表情は凍りついている。
「ほら、君の父親からペンダントを預かってきたんだ。解るだろ」
 笑んではいるが、内心では痺れを切らしていた。まったく、何とか言えよ、と胸の内で毒づいていると、今度は女たちが入ってきた。
 先ほど遠く何度も見かけていた。しかし間近で見るとやはりみんな似たような恰好である。中世の魔女が着ていそうな真黒い服。それでいてフリルのついた可愛らしいスカートをはいている。
 可愛い顔だったが、服装が年齢に釣り合っていない。年齢と言ってもわたしと同じくらいだが。
 そして何より不釣り合いなのは、みんな片手に持っているものである。斧だ。それも戦斧だ。木こりが使うような代物ではない。その恰好で斧? 何の冗談だ?
「お、おい、そんなもの振り回すとケガするぞ?」
 これは本気の忠告だ。せめてナイフにして欲しい。
「うるさい死ね!」
 解った。まず斧を奪って話し合いに持ち込んで……。
 しかしその判断が裏目が出た。一人がわたしに向かって中段蹴りを繰り出す。
 ……片手に斧を持ったままで。
「トマホークキック! 死ね!」
 はやい! 鋭い! 重い! まるで列車に轢かれたような痛みである。
 余りの出来事に受け身が取れず喫茶店の外まで大きく跳んだ。
 間髪入れず別の女が脇腹へ蹴ってくる。
「喰らえ。トマホークキック!」
 恐ろしいのは、二発目受けてから、ようやく一発目の痛みが効いてきた。ボディーブローのように。
 女たち次々と蹴ってくる。タイミングは実に絶妙だ。
 男たちが見かけ倒しなのに、彼女たちは一流の格闘家にも引けをとらない。
「トマホークキック!」
「トマホークキック! トマホークキック!」
「トマホークキック! トマホークキック! トマホークキック!」
「こいつ、倒れろ! 倒れろ! トマホークキック!」
 バカの一つ覚えのように中段蹴りしか繰り出してこない。これしか知らないのではないか。せっかくの戦斧も役に立っていない。
「トマホーク……ぎゃぁ!」
 わたしが脚払いを掛けると、間抜けな悲鳴を上げて転んだ。次々とドミノでも倒しているかのようだ。
 が、問題はむしろここからだった。立ち上がってくる。また転倒させる。五回くらい繰り返して解ったが、足払いでは彼女たちの戦意を奪えないようだ。
 そして倒れている最中でも必ずわたしの行く手を阻んでくる。まるで何か守っているように。彼女たちは明らかに信念を持っているのである。そもそもなぜ彼女たちはわたしと戦っているんだ?
 いまさら話し合いを呼びかけても無理だろう。なら根比べか? わたしの体力が先に尽きそうだが。
 彼女たちを倒すのは簡単だ。たとえば関節を狙ったり、あるいは脚を踏みつぶせばいい。でも女相手にそこまでやるのも気が引ける……これだから女と戦えたくない!
 いや、待てよ、そもそも彼女たち本当に女なのか? あの蹴りといい、胸もわたしより薄いし、実は女装しているのかもしれない。
 それを確かめる手立ては確かにある。同じ男相手でこれをやるのは卑怯だが、確かに男なら戦意は喪失するに違いない。
 トマホークキックを繰り出そうとする瞬間を狙って叫んだ。
「いい加減にしろ! 秘孔・会陰穴!」
 わたしはそう叫ぶと股間を蹴りあげる。
 案の定悲鳴を上げたが、男の悲鳴ではなかった。一瞬、触っただけだったが、一物がないことは一目瞭然だった。
 つまり彼女たちは間違いなく女だが、わたしはそんなに力はこめてない。わたしも男だから、股間を蹴られた痛みはよく解るのだ。しかし女なら、別にそんなに痛くないはずである。
 ひとりは悶絶しているが、他の女たちの目が明らかに変わった。憎悪で塗りたくった表情でわたしを睨みつける。生まれて初めて恐怖を感じた。
 ……殺される! 力なんて関係ない。そう感じてわたしはほうほうの体で逃げ出したた。戦いを放棄したのは生まれて初めてである。しかも女相手に。
 女は怖い。もう二度女とは戦わない、絶対にだ。


「それで逃げ帰って来たの?」
「……はい」
 マーラの表情はやはり解らないが、一応責めているつもりらしい。
「あれだけわたしと殴り合ったのに何を躊躇ってたの?」
「あれはプロレスの練習だろ」
「練習でも互いを壊すつもりで殴ったはずよ」
「そう……だけど。これは違う」
「それに火炎蹴りも使えたはずでしょう」
「あれは素人相手には使いたくない」
「まあいいか」
 しばらく睨んでいたが、マーラはあっさり引いた。
「え、いいの?」
「聞く話よれば、その子って結局は家出でしょう?」
「え? そうなのか?」
「簡単な推理よ、きっと父親と何かあったんだと思う。まあその年頃なんだし無理もないか」
 そんな単純じゃない気もするが……わたしもどういうことなのか解らない。
「で? どうする? もう一度行ってくるか?」
「いや、その子の居場所は解ったんだし、あとは依頼人に知らせて、父娘で話し合わせるわ」
「……なんかそれって、ちょっと無責任じゃない?」
「家庭の問題は探偵の仕事ではないから、それとも行きたい?」
「……それは勘弁だけど」
「そういうこと」
 釈然としなかったが、確かに二度と行きたくはない。その一方であの父娘はうまく話し合えるだろうか、とも心配だった。
「はいはい、ぼやかないの」
 マーラから封筒を渡される。中を透かしてみると紙幣が入っていた。
「これ、情報屋に?」
「半分はあなたの給料よ、お疲れ様」
「そんな、気を遣わなくてもいいのに」
「いいから、はやく行ってこい」
「あ、ちょ、ちょっと押すな」


 さっきの顔は照れていたのだろうか、と考えながらわたしは事務所を後にした。
 屋台の前で足を止める。間違いない。あのニンジャ女性、モリサキだ。彼女が抱えている袋からはフランスパンが見えている。
 声をかけるべきか。彼女はわたしを覚えているだろうか、と迷っていると彼女もわたしを気づき、こちらに寄ってくる。
「おや?」
「イタリアといえばソバかピザーだけど、パンもなかなかだね、なあ、兄ちゃん」
 ソバではなくスパゲッティだろう。内心でそう苦笑したが胸の内にとどめておいた。
「……あ、ああ、主食だからな」
「ホホ、うれしいね、こちらのこと覚えてくれたんだ」
「いや、こちらこそ」
 あの事故も衝撃的だったが、彼女と一度でも出会ったらしばらく忘れないだろう。
「そういえば兄ちゃん新聞は読んだ? ほれ、鉄筋に潰された自動車の事故」
「あ、うん」
「運がよかったとは思わない?」
 あとで新聞を読んだのだが、あの運転手は掠り傷すら負っていないのだ。
「そうだな。あれほどの運なら、彼はおそらく自動車絡みで死なない」
「いや、あの運転手じゃないんだ。運がよかったのは兄ちゃんだよ」
 モリサキの顔からはいつの間にか笑みが消えていた。
「え?」
「あの車に乗ってたら、どうなってた?」
 どうなるって……鉄筋が落ちて、そうなると……
「……あ」
 直撃を避けられたのはあくまで運転席である、わたしがもしそのタクシーに乗っていたら……。あの質量と加速度……格闘家といえど生身の人間だ。即死だっただろう。
 そうならなかったのは、モリサキとぶつかって、タクシーを乗り逃したから。
「……命の恩人?」
「ホホ、礼ならいい、たまたまだ。……いや、力になりたいけどね、そっちの専門家ではないから、ごめんね」
「えっと……はい?」
 相変わらず不思議な人だ。
「兄ちゃん、自覚ないの?」
「自覚?……何が? 何の話?」
「そうか……いけないな、それ、どうしようかな……」
 彼女は何やら考え込んでいる。これは邪魔しちゃいけないのか?
「兄ちゃん、この後、暇?」
 モリサキに別れを告けるべきかと迷っているところへ、いきなり深刻そうに迫ってきた。デートの誘い、という顔ではない。
「あ、ごめん、これからちょっと用事があって……」
「そう……まあそうだよね……」
 彼女は残念そうな、いや、悲しみすら感じられる顔をしている。
「あ、でももう少し後なら空いてるよ、その……」
「いや、それではダメなんだ。やれやれ、流れというのはそういうものか……兄ちゃん……お大事に」
 それだけ告げて、彼女は去っていた。解らない。どういうことだろうか?
 やはりわたしは探偵に向いていないらしい。

第二章  正義

 バーのカウンターには「ご意見箱」が置いてある。わたしは中に入ると、まず封筒に投げ入れた。封筒は少し薄くなっている。いつもこのようにわたしは情報料を支払っているのだ。
 夜九時のパーには数人の客しかいない。相変わらず物寂しい雰囲気だった。ここにいるのは大半が酒目当ではない。
 久しぶりで見知らぬ顔が大勢だったが、大半は闇ブローカーだろう。他に同業者も何人かいるはずだ。
「早いな、もう行ってきたのか」
「何? 解るのか?」
「君は考えてると、すぐ顔に出るからな」
 彼は得意げな顔でグラスを持ってくる。両脇には二人の男が座っていた。
 二人とも見かけない顔である。片方は背の低い中年男性で脂ぎった顔をしている。片方は眼鏡を掛けた細身の若い優男だった。
「何か飲むか?」
「うん……ミルク」
「酒はだめか?」
「明日は力仕事があるから……」
「そうか」
 会話はそこで終わった。あとはミルクを飲んで帰るだけ、のはずだった。
「シモーネ・姫だな」
 隣の中年男性がわたしに囁きかけてきたのである。
「うん? 何か用か?」
 わたしは静かに拳を握り締めた。
 探偵のバイトは恨みを買う。店内では争いは厳禁なのが、そんなこと気にしていたら、わたしが先に殺されてしまうだろう。 二人とも決して強そうには見えないが、油断はできない。
 中年男性がわたしから目を逸らさずに内ポケットをまさぐっている。拳銃でもぶっ放すつもりか?
 いや、このご時世は簡単に撃てない。名刺だろうか、とわたしは考え直して、もう少し男の出方を窺うことにした。
 意外にも、中年男性は警察手帳を取り出した。
「ベルチーノ警部だ。君を売春の呼び込み並びに警官への暴行容疑で逮捕する、一緒に来て貰おう」
 ここはたまに警察もくる。それ自体は珍しくはないが、後半が問題だ。
「……よく解りませんね」
 思わずわたしは吐き捨ててしまった。まずい。その警察手帳は本物だ。もちろん身に覚えのない罪である。
「話は署で聞く。大人しくしてれば手錠はかけないさ。妙な気を起こすなよ」
 どうする? 身元が割れている以上、いくら逃げても無駄だ。ジュゼッペに視線で助け舟を求めたものの、顎でしゃくられる。「行ってみたら?」という意味だろう。使えない男である。
 結局、公権力に従ったのだった。


 道中、いろいろ考えたが、警察を使ってまでわたしに報復する相手はやはり思い付かない。
 ベルチーノ警部はわたしにピザを渡して「まあ気楽にしな」と言った。しかしすぐに呼び出され、ドアの外でずっと誰かと口論していた。そういえば、一緒にいたあの優男も見かけない。
 そこから三十分。いい加減に眠くなってきた。
「お待たせした」
「ん?」
 取調室に入ってきた男はベルチーノ警部でも、一緒にいた若い優男でもない。そもそもそのオールバックのスーツ姿、明らかに刑事ではなかった。むしろ実業家のような空気をまとっている。
 彼は、尊大な笑顔で手を差し出した。
「初めまして、エウジェニオ・ダ・リリーだ」
 この名前はヴェネト中にとどろいている。彼はスーパーマーケット、「3S」を経営しているのだ。そのシェアは七割以上で国内最大手。だが顔を見るのは初めてだった。
 鮮やかなブロンドの髪を見ると、イタリア人とは思えない。初対面で失礼だとは解っていたが、つい聞いてしまった。
「お前……イタリア人……?」
 幸い、エウジェニオも気にしていないらしい。朗らかに笑った。
「母の実家はイギリスだよ。そういう君こそどうなるんだ、シモーネくん?」
 その答えにわたしは唸ってしまう。普段は余り自覚はしていないが、わたしも「外国人」である。
「わたしは君をよく知っている。君はどうだ? 自己紹介は必要かな?」
 自信満々な態度がいけ好かない。ここで「知らない」と答えたらさぞかし面白いのだが。代わりにわたしは皮肉に笑って言った。
「マフィアと繋がっていたなんて」
 この手口は間違いない。イギリス人とのハーフなのにファミリーがよく受け入れてくれた、と興味を覚える。それも高い地位ともなればなおさらだ。
「おいおい、人聞きが悪い。俺たちは真っ当な商売をしているんだ。そんな時代遅れの暴力団と一緒にしないでもらおうか」
「……確かに。警察を動かせたら、どんな権力も怖いものなしだからな」
「そう睨むな、ちょっと強引な手を使ったのは謝るよ。でも急いでるし、演出でもあるんだ。許してくれ」
「話が見えないが……」
「まあまあ。このピザでも食えよ。このピザに免じて、な?」
 調子の良さが癇に障り、わたしは拳を固めたが、空腹に負けた。殴りつけるのはピザを食べてからでも遅くはない。
「……美味い」
 ピザなんて普段は食べないが、どうだろう。三種類のチーズが見事なハーモニーを醸し、トマトソースはその青臭さが取れている。
「美味いだろ?」
 エウジェニオはわたしの顔を覗きこんで言った。
「美味い。これはどの店で売ってるだ?」
「手作りだ」
「お前が! なぜ作った!」
「趣味だ」
「いい趣味だな!」
 いけない、ピザを食べただけなのに、エウジェニオがいい人だと思えてきてしまった。
 わたしも男だ。些細なことで拗ねるつもりはない。気持ちを切り替えようとしていると、ノックの音がした。
「入れ」
 エウジェニオが言うとベルチーノ警部が入ってきた。後ろに立っているマーラの顔を見て安心する。よかった!……服を着てる。
 わたしは頬杖をついて言った。
「いいだろう。話を聞こう。聞くだけな」
「ありがとう」
 エウジェニオが言うと、マーラはわたしの隣に座る。
「役者がそろったな。君たちは『アースレイジ』っていう団体を知ってるか?」
「人並み程度にな。イギリスの環境保護団体だろ? 大地の怒りっていう意味の。でもその実態は……」
 わたしがそう言うとマーラが後を引き継いだ。
「ええ、デモ進行や宣伝なんて可愛いもんじゃないわ。立派なエコテロリストよ。放火、爆破、脅迫、誘拐、なんでもする。『全ての技術と文明を捨て、原始生活に戻るべきだ』っていうスローガンのもとね。その割に爆弾を使うなんて矛盾してるけど」
 そう言うとマーラは肩を竦める。エウジェニオは笑って頷いた。
「よく知ってるじゃないか、怖いやつらだよ。最初は金を積んだが、テロリストどもは金に興味がない。それどころか金をその場で燃やしてしまってな。狂信的(クレイジー)な連中だ」
「で? 動向を探りに行かせるつもり? そう簡単(イージー)じゃないと思うけど」
 わたしはマーラの横顔を見る。この依頼を受けていいんだろうか? マーラは心配そうな表情を浮かべているが、情報を少しでも手に入れようとしているらしい。
「詳しく話を聞かせて」
 そう聞くと、エウジェニオは頷いた。
「サム・ガードナーという男がアースレイジを仕切っているんだが、この間、ヤツが捕まった。今はこのヴェネトに収監されている」
 そう言うと、エウジェニオは一枚の写真を取り出した。穏やかそうな好青年だった。人は見かけによらない。
「大手柄じゃないか、たまには庶民の役に立つってことか?」
 皮肉たっぷりにそう言ってやったが、エウジェニオは顔色一つ変えない。かなりの鉄面皮である。
「なに、降りかかる火の粉は払おうとしただけさ。だが恐ろしいことが解った」
「というと?」
「サムと実行部長、クリストファー・オサリバンの通信の傍受に成功した」
 エウジェニオはまた一枚の写真を取り出し、机の上に並べた。今度は神経質そうな男で、眼鏡を掛けている。
「名前からしてアイルランド人か?」
「ご名答。クリストファーはドイツのロッターバウム大学で生物学の博士号を取得。その後、製薬会社で細菌を使った薬の開発をしている。まぁ平たく言えば毒をもって毒を制す、というやつだな」
「なるほど、で、彼がどう関わっているわけ?」
 マーラが聞くと、エウジェニオは答えた。
「通信によると、アースレイジは近々大規模なテロを計画しているらしい」
「おいおい、それは……結構おおごとじゃないか? アースレイジがテロを起こせば死傷者数は三桁、被害総額は九桁を下らない」
 そう言うと、わたしは身を乗り出す。
「でもヤツらのボスが捕まったんだろ? マフィアならいくらでも手段あるんじゃないのか?」
「いや、それが……ああいうのは、もう何かが違う。俺たちじゃ彼を押さえつけられない。すまない、うまく言えないが、警察でも無理だろう」
 何か思い出したらしい。エウジェニオの顔が、初めて曇る。
「でもこのまま手をこまねくつもりじゃないんでしょう?」
 マーラが聞くと、エウジェニオも頷いた
「もちろん違う、そのためにシモーネを探したのだ」
「俺にどうしろと言うんだ?」
「実を言うと……私たちはサムの私物から、君のような男のポルノを大量に見つけたのだ。つまり彼は君のような男が好きということだろ」
「俺のような人間?……あ」
「そう睨むな、わたしは差別主義者じゃない、まあ、その、トランスとかシーメールも個人の自由だ」
「トランスじゃない!」
 わたしが殺意を込めて睨みつけると、エウジェニオは慌てて手で押しとどめた。
「解った解った、悪かった」
「……まったく……つまりサムに色仕掛けで情報を探れと?」
「そう。察し早い。彼と接近して、爆弾なのか、自動車をぶつける気なのか、毒ガスをばらまく気なのか、どこで何をする気なのか? など聞き出してほしい」
「経歴からして細菌テロじゃないの?」
 マーラは欠伸交じりに言ったが、エウジェニオは首を振った。
「オサリバンの関わった事件を調べたんだが、何とも言えなくてな。マスタードガスをばらまいたこともあったし、爆破テロもあった。もちろん細菌テロも」
「手がかりとなりそうなものは?」
 マーラが身を乗り出して尋ねる。
「何もない。強いて言うならオサリバンへの手紙くらいだな。だけど他愛のない話だ」
「その手紙は?」
 マーラが尋ねると、わたしも頷いた。エウジェニオは戸惑いながら、手紙を彼女に渡す。マーラは一読すると、わたしにも見せた。
 手紙にはパウル・クレーの絵を見た感想が綴られていた。あと他に美術館近くのレストランでマルガリータピザを昼食に食べた云々。
 手紙をエウジェニオに返すと、彼は身を乗り出した。
「な? 他愛もない話だろ?」
「でも何の意味もない手紙を送ると思えないんだけど、どう思ってるんだ?」
 わたしが苦笑すると、エウジェニオも頷く。
「同感だな。テロの直前に美術談義をするとは思えない。何らかの暗号と見て間違いないだろう。俺たちも手紙を色々調べてみたんだが、ごく普通の紙だった。透かしてみても、炙ってみても、水の中に浸してみても何もでなかった」
 苦虫を噛み潰したような顔でエウジェニオが言うと、マーラは笑った。
「まるで007ね。封筒はどうなの?」
 マーラが言うと、エウジェニオは封筒を彼女に渡した。マーラは封筒を透かしてみた。エウジェニオはそれを見て笑ったが、自虐的だった。
「俺たちも試してみたさ」
「ふうん……」
 マーラはそう言うと、わたしに封筒を手渡した。消印の隣には二十五ペンス切手が一枚、その下に五ペンス切手が貼られている。なぜ三十ペンス切手を最初から貼らなかったんだろう。持ち合わせてなかったのかもしれない、と考えながらわたしは確かめた。
「市販の封筒だよな? どこの文房具店にも置いてありそうな」
 エウジェニオは頷いた。
「ああ、そうなんだ。だから購入者からは洗い出せない」
 彼は溜息をつくと、わたしの顔を見た。
「頼まれてくれるね?」
「断る!」
「なに! 見損なったぞ! 君にはこの町を愛する正義の心はないのか?」
 大袈裟に両手を広げる。まさかマフィアの口から正義なんて単語を聞くなんて思いもよらなかった。
「……どこから突っ込めばいいのか。とりあえず色仕掛けは無理だ」
「なぜだ! こんなに綺麗なのに!」
「だってそんな経験もないし。そもそも俺は男だ、男相手には無理だろ。他に探せば?」
「ただのトランスでは無理だ、腕立つ人間ではないと」
「それでも色仕掛けはできない! 男だから、気色悪いだろ!」
「あ……なるほど。君は変なもの想像しているな?」
「何、違うのか?」
「その心配は及ばない、君のままでいい。彼のコレクションを見ると、むしろその方が好みらしいのだ」
「……もう殺せよそんなやつ」
「それに報酬も用意するぞ」
 その言葉にわたしは思わず身を乗り出した。
「報酬?」
 仕事なら報酬を受け取るのは当たり前である。しかしこれは余りにハードルが高い。
「君がバイトをしている美術大学の入学推薦状だ!」
「なん……だと……!」
「ここを見ろ。わたしと市長の名前が書いてあるだろ? 今回の事件が解決したら特別に推薦してやる。成功すればの話だがな」
「なぜそれを……!」
 わたしが叫ぶと、エウジェニオは笑った。
「何か知りたければ金を払いばいいだけ。君もそうしてきたんだろ?」
 わたしは呻いた。ジュゼッペ、わたしを売ったのか! 友人と思ってたのに!
「もちろん学費も生活費も我々が面倒見るぞ。どうだ、これで君は断れるかな?」
「くそ!」
 そうわたし叫んで続けた。
「やってやるよ。やればいいんだろ!」
「チェックメイト」
 エウジェニオがニヤリと不敵な笑みを浮かべている。わたしは……敗北を認めた。
 マーラの溜息が聞こえたが、罪悪感が読み取れる。恐らくわたしが大学に行きたいと知っていながら、こんな形でしか叶えられないと悔やんでいるんだろう。わたしはマーラに笑いかけたが、弱々しいものとなってしまう。
 エウジェニオは立ち上がると、忙しなく取調室を歩き回っている。
「建前上、懲役は十五日。その間に彼と接触して、何とか情報を聞き出せ。接触する機会は作るが、大半の連中には事情を伏せてある。くれぐれも無茶はするなよ」
「はいはい」
 わたしは半ば自棄を起こして言った。エウジェニオは咳払いを一つした。
「あとみんな、噂好きでな」
 そして言いにくそうに彼は続けた。
「君が売春絡みで捕まったって知れ渡ってるんだ。だからゲイの受刑者からセクハラを受ける、かもしれない。その辺はうまく立ち回ってくれ」
「……別の罪にはできなかったのか?」
「これも彼の好みに合わせたのだ……」
 それを聞いて、わたしは顔を歪める。彼は構わず、写真を取り出して続けた。
「それから何か解ったらこいつに報せてくれ。看守のベッポだ。。私たちと通じている」
 泣きそうな顔をしているのに放っておくなんて。エウジェニオは心が歪んでるんじゃないか、と独りごちたのだった。


 とはいえ、刑務所暮らしも悪くはない。何せ三度の飯が黙っていれば出てくるのだから。おまけに房の壁には小さなキリストの絵が描けられていて癒してくれた。その柔和な顔は罪を犯していなくとも懺悔(ざんげ)をしたくなる。
 刑務所内は図書館、娯楽室、劇場、病院などもあり、まるで小さな街である。とは言えここはホテルではない。もちろん欠点だってある。雑居房は四方を四メートルの壁で囲われ、おまけにそこで四人が暮らすのだ。ただでさえ狭いのに、ベッドで余計に狭く感じる。
「さてと」
 そう呟いて、わたしはサムに目を向けた。取り調べで疲れているらしく、写真よりも蒼白に見えた。
 エウジェニオの取り計らいで、彼と相部屋になっているんだろう。そう思うと胸くそが悪かったが、そこまではまだ我慢できた。
「ねえ、あなた」
 囚人の一人が妙に艶っぽい声を出して、わたしの肩を馴れ馴れしく叩いてくるのである。ペンダントを首からぶら下げている。どこかで見たようなデザインだったが、ペンダントなんてどれも似ているのかもしれない。
「名前、なんていうの? わたし、ルドヴィーコっていうの。ルイージって読んで」
 バカでなくても解る。こいつは本物のゲイである。
「ジョルジョ……レオーニ」
 わたしは咄嗟に偽名を使った。怪訝そうにルドヴィーコはわたしを眺めていた。
 肌の色からして、生粋のイタリア人の名前は不自然だったか。カトーなら日本人ともイタリア人とも受け取れたのに。それにしてもどうして男と気が付いたのだろう? いや、考えてみれば当たり前か。だってここは男性用の房なんだから。
 それにしても最初から男性として扱われると、以前にも増して複雑な気持ちが拭い切れない。
 ルドヴィーコは疑り深そうな目で見て、呟く。
「ジョルジョね……」
 次にサムを見た。
「そちらのお兄さんは?」
「サム・ガードナーだ」
 サムはわざと英語で言う。彼は顔をしかめたが、大げさに溜息をついた。
「イタリア語が解らないのね? 可哀想に。わたしが教えてあげなきゃね。色々と」
 ルドヴィーコはそう言って、腕にサムに手を回した。まるで蛇のように絡みついていたが、何も言わず彼は振りほどく。
 わたしが助けようかと拳を握った。恩を売って情報を聞き出そうとしたわけじゃない。ただ人が嫌がってるのに、続けるルドヴィーコに憤りを覚えただけである。
 しかしサムはベッドへ歩いていった。わたしにチラと目を向けると、顔を赤らめてうつむく。ルドヴィーコは口惜しそうにサムを見た。
 程なくして点呼のベルが刑務所に鳴り響いたのである。
 廊下では散々だった。他の囚人は、わたしと挨拶する度に胸や尻を触ってくるのである。
「お前、シリコンでも入れてるのか?」
 ある囚人にそう聞かれたときには癇に障った。しかし必死に気持ちを押し殺して首を振ると、彼は物珍しそうにわたしを見てきたのだ。そして瞬く間に品のない笑いに変わっていった。
「へぇ、触らせてくれよ」
「あ、ちょっと……」
 わたしが答えるよりも早く胸を撫で始める。何よ、コイツ! 頭に血が上った。思わず手を引っ掴んで捻り上げようとしたが、エウジェニオの言葉を思い出して踏みとどまる。
「やめてくださいよ」
 わたしは弱々しく笑ったが、やめるはずもない。ますます興奮して、胸の谷間に手を入れた。わたしは彼の手を引き剥してやんわりと言う。
「やめてくださいって言ってるでしょう?」
 そして、相手の手首を軽く捻った。満面の笑みで。たちまち彼は悲鳴を上げて、這うように逃げ出す。周りの囚人たちは呆気にとられてわたしを見ていた。
 ただサムの目だけは違っていたのだった。


「なあ、話があるんだが」
 昼食が終わると、図書室から出てきたサムはわたしに声を掛ける。小踊り出したいような気持ちになったが、気のない素振りをしなければいけない。
「何?」
 わたしの向かいに座ると、一冊の本を差し出した。
「ラッチェル……カルソン?」
「レイチェル・カーソンっ読むんだ。『サイレント・スプリング』って知らない? イタリアではどう訳されてるのか分からないけど、有名な本だよ」
 無教養さをさらけ出してしまった。サイレント・スプリング? 分からないが、恐らくバネの話なんだろう。尋ねると恥の上塗りになりそうだったので、その本にならって沈黙を貫くことにしよう。わたしは無言で首を振った。
 どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえてくる。サムは笑ったが、すぐに真面目な顔つきに戻った。
「この本にはね、農薬の危険性が書いてあるんだ」
「へぇ……」
 わたしは何の気なしに聞いている風を装った。もちろん内心では洗脳されてたまるか、と身構えて。
 たとえ今、サムが芸大の推薦状を目の前でちらつかせたとしても、そんな紙切れ一枚ごときで釣られるわたしではない。ましてやピザがどんなに美味かろうが、そんなので、わたしの心は安くないのだ。そう自らを納得させながら、サムに言った。
「でもそれで人が病気になっても自業自得、じゃないのか? 農薬を使った人間が悪いんだろ。因果応報ってやつ。天に向かって唾を吐くのと同じ。そうだろ?」
 思わず多弁になってしまう。どう出るかだろうかと冷や冷やしながらサムを見た。サムは極めて落ち着き払っている。
「そうだね。でも小鳥たちはどうなる? 農薬で死んだ小鳥たちは? 聖書には神が自然を作ったって書いてあるけど、自然そのものが神なのかもしれない。だとしたら神を冒涜してる。神が作った美と調和を破壊してるんだから、これこそテロ活動だよ」
 話が難しくなってよく解らないが、それでもエコテロリズムを行なっていい理由にだけはならない。そんなことを考えながら、耳を傾ける。何か聞き出せたらいいんだけど。
「『社会契約論』がフランス革命のきっかけとなったんだけど、それって誰が書いたか知ってるよね?」
 いくらバカなわたしでもそれくらいの知識はある。自信満々に答えた。
「ルターでしょ」
 サムは初めポカンと口を開けていたが、段々と憐れむような目付きに変わっていく。あれ? 何か間違ってたか? サムは溜息をついて言った。
「ルソー、ジャン=ジャック・ルソー」
「そう、その人。今のは……その、そう! 言い間違っただけ」
 実を言うと学生時代、わたしはある勉強法を試していたのだ。その名も睡眠学習。ただしこれはテスト前夜の睡眠時間がなくなり、その代わりにテスト時間中は睡眠を取ってしまう、という欠点があるが。
「そのルソーなんだけどね、自然へ帰れとも言ってるんだよ。技術(アート)や学問は人間を堕落させる、ともね。つまり近代社会は技術とか文明を捨てた上で、民主主義を貫くってのがルソーの考えだったんじゃないかな?」
 何だか眠くなってきた。
 つまりサムはルソーにかぶれて、エコテロリズムをしてるんだろうか? そんなに自然が好きなら山奥で暮らしてりゃいいんだ。そして生まれたままの姿で街中を歩き回って逮捕されりゃいい!
 それに芸術(アート)は人を堕落させない。三色のみ、いや線がただ引かれているだけなのに、人間はアーティストの意図を考えてしまう。
 わたしは心の中で毒づいたが、残念でもあった。アースレイジへ勧誘されたら尻尾を掴めたかもしれないのだ。
 いや、勧誘の手口が解っただけでも少し進展があったとも言えるかもしれない。人間がいかに罪深いかを説く一方、自説を裏打ちするために本を引用する。しかもその作者はすでに死んでいて、本人からの反論も一切ないのである。新興宗教がよく使う手の一つだろう。
 そんなことを考えていくうちに、ある疑問が頭をもたげた。
「……それにしてもどうしてわたしに?」
 サムは顔を赤らめて、どもり始める。そして消え入りそうな声で呟いた。
「どうしてだろうね」
 彼はそう言うと遠くを眺めた。どことなく昔を懐かしむような目である。わたしも釣られてその先を見ると、ルドヴィーコの姿が見えた。
 彼はわたしたちの席へとつかつかと歩いてくる。そして憤怒の表情で言った。
「今朝はよくもわたしの愛を拒んだわね。そんなに自然が大好きなら土に帰らせてあげる」
 その言葉を皮切りに、他の囚人も次々に立ち上がった。ベッポを目で探したがいない。クソ! 肝心なときに! わたしも立ち上がって身構える。
 しかしサムは冷静に言った。
「殴れよ。でも揉め事を起こすとまずいんじゃないのか?」
「どういう意味!?」
 ルドヴィーコはいきり立っている。
「刑務官に見つかったら刑期が伸びるぞ」
 サムに言われ、囚人たちは我に返った。そして気まずそうに拳を見ると、一人、また一人と腰を下ろし始める。ルドヴィーコはちっと舌打ちした。
「覚えてな!」
 彼はそう捨て台詞を吐いて立ち去ったが、痛くも痒くもない。弱い犬ほどよく吠えるのだ。


 何をするつもりなんだろう? 午後の間、ルドヴィーコをときどき盗み見ていたが、動きはなかった。拍子抜けしていると、サムがずぶ濡れになりながら通っていく。
 サムの服のポケットから手紙が見えていた。封筒は九月十八日の消印が押され、二十五ペンスの切手が貼られている。
 最初から余り近づきすぎると不自然なので、段々と親しくなろうと思っていた矢先だった。わたしは驚いてサムに駆け寄ったが、彼は首を振るばかりで何も言わない。詰め寄ると哀しそうに首を振って、こう呟いた。
「ごめん……。でも君には迷惑を掛けたくないんだ」
 そう言うと彼はそっと辺りを見回した。わたしも見ると、囚人たちがサムへ嘲笑を向けている。池に突き落とされたんだろうか?
 サムは腕をかばっている。気になって見ると、半袖のわずかな隙間からは青痣が顔を覗かせていた。殴られたんだろう。しかも見えにくい二の腕を狙ったのだ。
 わたしは憤りを感じてルドヴィーコに詰め寄ろうとしたが、サムは腕を掴んだ。
「彼が僕を殴ったっていう証拠がない」
「そんなこと言っても……」
「それに僕はイギリス人だ。イタリア人じゃない」
 そんなの関係ないと言おうとしたが、わたしは言いよどむ。黄色人種として差別されてきたのである。
「君も苦労してきたんだね。僕と同じ」
 わたしの不器用な笑みを見て、サムは言う。わたしは溜息をついて呟いた。
「そう、ね」
 わたしはそう言うと、サムの顔を見て優しく言う。。
「でもそんな濡れネズミのような格好じゃ風邪を引いちまう。熱いシャワーでも浴びて身体を温めようぜ」
「あ、でも……」
「いいからいいから」
 そう言ってサムの肩を叩くと、彼の熱い体温が伝わってきた。涙ぐんでいる。
「う、うん……」
 サムは戸惑いながらも頷くと、ゆっくりと共同浴室へと歩き始めた。脱衣所のドアを開けると、囚人がわたしの胸や尻を眺めてくる。
「それ本物なのか?」
 わたしが無視していると、彼は身体をペタペタと触ってきた。黙ってりゃ頭に乗り上がって! 股間を蹴り上げたくなったが、必死で堪えた。
 その代わりに手首を掴むと、力を込める。もちろん痣が付かない程度に。囚人は悲鳴を上げると、わたしへ懇願した。
「悪かった。やめてくれ」
 わたしが手を緩めると、脇目もふらずに浴室へと姿を消す。まったく手間を掛けさせやがって! わたしが独りごちて、ふとサムの身体に目を向ける。
 背中全体に火傷の痕があったのだ。しかも水ぶくれなんて可愛いものではない。一瞬、ルドヴィーコたちの仕業かと思ったが、もうすっかり癒えている。それに刑務所の中では精々、煙草の火を押し当てたり、ライターの火を近づけたりする程度だろう。こんな大きな火傷の傷はできない。
 わたしが呆然と立ち尽くしていると、サムは笑った。
「これ? 昔、家が火事になってね」
「逃げ遅れたのね」
 わたしが言うと、サムは首を振る。
「いや、一度は逃げ出したんだ。でも犬がまだ中にいてね。彼を助けようとして中に飛び込んだんだ」
 わたしが何も言えずにいると、サムは早く中に入ろうと促した。わたしは黙ってそれに従った。どうやって聞き出そうか考えながら。
 浴室の外では図書館司書がベッポに何事か訴えている。どうやらガイドブックのページが切り取られていたらしい。鬱陶しそうにベッポは司書をなだめていた。


 共同浴室に入ると、わたしたちは並んでシャワーを浴びた。囚人たちはわたしの身体を相変わらず見てきたが、わたしが睨むと気まずそうに立ち去ってしまう。
 この噂が広まってルドヴィーコのイジメもやんでくれるといいんだけど。わたしは溜息をつくとサムに聞いた。彼は髪を洗っている。
「なぁ、さっきどうしてあんな話を俺に?」
 サムは手を止めると、わたしを見た。
「何のこと? 犬を助けようと火の中に飛び込んだ話?」
 わたしは少し躊躇った。その話も興味がないといえばウソになる。しかしわたしは首を横に振った。
「人間は自然の生活に戻るべきだって話。その……今……」
 アースレイジっていう環境保護団体が過激な主張をしてるそうじゃない? そう言いかけてハタと止まる。下手なことを言うとかえって警戒されかねない。
「今?」
「……過激な人たちがいるだろ?」
 しまった。アースレイジを名指ししているようなものではないか。目を別のところに向けなければ。わたしは慌てて取り繕った。
「海賊旗を掲げて捕鯨船に体当りしてる団体、とか」
「アースレイジも過激?」
 それを聞いて、わたしは動揺した。目的がサムに知られたら、水の泡になってしまう。内心を押し隠しながら答えた。
「例えば、……ね。あくまでも一般論を言ったつもりなんだけど」
 先走ってしまった、と慌てて取り繕う。
 気がつくとわたしたちの間に、沈黙が流れていた。その間、シャワーの音が続いていたが、やがてサムの溜息が聞こえてくる。
「僕はアースレイジの代表なんだ」
「え?」
 もちろん知っていた。知っていたが、わたしに言うなんてどういう風の吹き回しだろうか。耳を疑ったが、信念を恥じていない証拠なんだろう。
「アースレイジはそんなに危険じゃない。ただ一部のマスコミが騒ぎ立ててるだけさ。地球を守るために何ができるだろうかを問う至って健全な環境保全団体だよ」
 どうやらわたしを勧誘しているらしい。わたしの目的に薄々感づいていて、わたしを丸め込もうとしているのかもしれない。
 話に乗りたくはないが、他に情報を聞き出す手段が思い浮かばなかった。ひそかに溜息をつくと、わたしは興味をそそられた振りをする。
「そうなんだ。知らなかった」
 サムは身を乗り出すと言った。すっかり有頂天になっている。
「だろう? 近々、抗議行動をしようと思ってるんだ」
「塀の中で?」
 わたしが思わず吹き出すと、サムは笑った。
「まさか。他のメンバーが取り仕切るのさ」
「へぇ、まぁそりゃそうだ。まさか俺の近所でやるんじゃないよな?」
 そう言うと、わたしはサムの手を握った。ポッと顔を赤らめる。男のわたしに手を握られて、顔を赤らめるなんて! もちろん聞き出そうとして男の手を握るわたしもわたしなのだが。
 見ると、サムはすっかり舞い上がっている。
「クローチェ聖堂さ。フィレンツェの」


 雑居房に戻る途中で、ベッポに駆け寄った。サムはまだ浴室にいるはずである。彼がくる前に報せなければならない。
 ベッポは何も言わずに聞いていたが、やがて眉を潜めて聞き返した。
「それは確かか?」
「ええ、間違いありません。もちろん本人がそう言ってるだけかもしれませんが」
 わたしは肩を竦めた。ふうむ、とベッポは顎を撫でている。何か変なこと言ったか? やがて首を振って、言った。
「ありがとう。引き続き捜査を頼む」
 と言われてもどう聞き出せばいいの? まぁ、それを考えるのが仕事なんだろうけどさ。わたしは立ち去るベッポを見ながら、途方に暮れていた。
 クローチェ聖堂で何を起こすんだろう? サムに問いただしても正直に教えくれるとは思えないし、どうしよう? そういえば生物学に明るい人がいるって言ってたっけ。細菌でもばらまくつもりか? しかしただでさえ、曰くつきの場所で頭痛や眩暈などで知られている。あんなところで細菌や毒ガスをまいても面白おかしく騒がれるのが関の山だろう。メディチ家の呪いの真偽はともかくも。
 そんなことくらい、気付きそうなものだけど。
「もしかして捜査を撹乱しようとしてるのか?」
 そうわたしは呟いた。ベッポを呼び寄せるべきだろうか? いや、と首を振った。そんなことくらい、エウジェニオは考えているはずである。わたしは黙ってサムから聞き出したことを伝えればいい。そんなことを考えていると、哀しくなってきた。わたしはふと目を上げる。
 ラウンジが見え、わたしは物憂げに腰を下ろした。ガラス戸から太陽が弱り切ったように照っている。
 荒々しい足音が聞こえて、ちらりと目を向けた。ルドヴィーコが新聞を片手に入ってくると、椅子にふんぞり返っている。新聞を広げると、彼は毒づき始める。
「ふん、今年のイタリアグランプリ(Italian Grand Prix)は相変わらずつまらないわね。天下のフェラーリじゃなかったの?」
 どうやらF1の結果が気に食わないらしい。
 わたしの席からは、ちょうど科学・教育関係の記事が見えている。セント・マルガリータ病院で開発している新薬が、犬での治験段階に入ったらしい。開発責任者のインタビュー記事がカラー刷りで華々しく載っていた。


「あら、兄ちゃん、どうしたの? こんなところで」
 後ろで聞き覚えのある声がした。わたしが振り向くと、目を疑った。ベッポが案内しているのは、なんとモリサキだったのである。
 まるで見えない糸でつながっているかのような錯覚に陥った。
「モリ……サキ……さん? どうしてここに!?」
 もしかして彼女も? いや、でもここは男性用の監獄じゃなかったっけ。
 二人はわたしに近づくと、モリサキは言う。
「『犯罪と精神医学』っていうテーマで講演会があってね。それを聞きにきてたの。でもトイレに立って戻ろうとしたら迷子になっちゃって。看守さんに道を聞いてたの。兄ちゃんは?」
 案内していたベッポは意外そうに眉を上げた。
「何だ。兄弟か」
「いや、違います。恐らく同じアジア人の同胞(ブラザー)ってくらいの気持ちで言ってるんですよ」
 ベッポは肩を竦めただけで黙ってしまう。
「俺はテロの……」
 わたしが話そうとするのをベッポが慌てて遮った。
「こ、こいつは売春の売り込みで逮捕されたんです。しかもこいつ自身も売春をしてましてね。売春そのものについてはイタリア刑法の裁くところじゃないんですが」
 ニヤニヤと笑ってベッポは言う。クソッ。根も葉もないこと言うんじゃない! わたしはベッポを睨みつけたが、素知らぬ顔で口笛を吹いていた。
 モリサキは頷いている。
「そうだったの……。仕方ないよね。そういう年頃だから」
「違うんだってば! これには深いわけが」
「うん、解ってるわ」
 モリサキの台詞を聞いて、わたしは明るくなった。
「そう、なのか?」
 彼女は大きく頷くと、言った。
「うん、兄ちゃんは絵描きでしょ。芸術家はエネルギーの塊じゃない? 例えばクリムトなんかは十五人の女の子と同棲してたしね」
 三人で話をしていると、サムが通りかかった。彼が会釈をすると、ポケットから何かひらひらと落ちる。しかしサムは一向に気づかないようである。
 モリサキはサムに声を掛けようとしたが、ベッポに手で止められる。大事な手がかりかもしれない。
 サムが行ってしまうと、ベッポはすかさず拾った。わたしも覗き込むと、聖堂が映っている。わたしたちは頷き合った。ベッポが唸るように言う。
「クローチェ聖堂、だな」
 それと一緒に新聞の切り抜きが落ちている。わたしが拾って記事を読むと、イタリアグランプリの記事らしい。「1999 Italian Grand」という大見出しとともに、F1レーサーの名前が載っていた。彼もルドヴィーコと同じくレースに興味があったのだろうか。でもサムの性格を考えると……。
 セント・マルガリータ病院の記事が透けて見えていた。ぼんやりと記事を見ながら考えを巡らせていると、ベッポの声が聞こえてくる。
「ささ、早く行きましょう。モリサキ先生」
 どうやらわたしが口を滑らせてしまわないかと冷や冷やしているようだ。確かにテロの話が広まり、憶測が飛び交うと余計な混乱を招きかねない。恐らく彼は集団ヒステリーを恐れてるんだろう。
「そうね……。でもせっかく知り合いに会えたんだし、もう一つだけ」
「しかし……」
 ベッポはわたしたちを引き離す口実を考えているらしい。そんな彼に構わず、モリサキはわたしへ向き直った。
「塞翁が馬よ。此何遽不爲福乎ってね」
「何だそれ」
 しかし懐かしい響きもある。記憶をまさぐっていると、モリサキの溜息が聞こえた。
「やれやれ、中国の寓話なんだけど、知らないのも無理ない、か」
 そう言うと、彼女は身を乗り出して語り始めた。
「昔、中国に塞翁っていう男の人がいたんだけど、ある日馬が逃げ出したのね。村人がみんな可哀想に思っているんだけど、彼はちっとも悲しんでない。村人の一人がその理由を尋ねると、『もしかしたら幸福の前触れかもしれない』っていうのさ。これが『此何遽不爲福乎』。現に馬は数日後、毛並みのいい馬をいっぱい連れてきたしね。で、塞翁の息子が落馬してケガをするんだけど、結果として兵役を免れたって話」
「随分とポジティブだな」
 そう苦笑しながらも、わたしは神父の言葉を思い出していた。神はいつもこの世を再善の状態に保っている、と。そんなことあるか。
そうだとしたら、なんでこの世に苦しみがある? かつてそう神父に突っかかったこともあった。すると神父はこの世の善を浮き立たせようと、神は少しの悪を混ぜたのだ、と笑顔で言ったのである。
 それを聞いて、わたしは反発していたものの、今は解るような気がした。辛い思い出も今となってはいい思い出なのである。むしろあの辛さがなかったら、つまらない人間になっていたかもしれない。そんな思い出に浸りながらモリサキの話を聞いていた。
「つまり、不幸の中にも幸運があり、幸運の中にも不幸があり……、という意味なんだけどね」
 モリサキはニッと笑ってこう続けた。
「裏を見てるか表を見てるかの違い、じゃない? だから、兄ちゃん。元気出しなって。疲れてたんだよ、きっと」
 わたしはぎこちない笑みを浮かべた。
「ああ、ありがとう」
 解らないのも無理もない。何せエコテロリストを捜査しているとは知るよしもないのだ。
「何か隠してない?」
「……別に」
 そうわたしは言うと、ベッポに一瞥を投げた。彼はわたしを睨みつける。ちっと舌打ちすると、モリサキに向き直った。
「ごめん。今は言えない」
「そう、か。まぁいいか。その新聞記事と関係あるんだろうけど。セント・マルガリータ病院の動物実験でしょ?」
「え? ああ、〈裏〉にはそう書いてあるな」
 モリサキは呆れ顔で言った。
「何言ってるの? それが〈表〉でしょ? だってその記事、途中で切れてるじゃない」
 よく見ると、「1999 Italian Grand Prix」ではなく「1999 Italian Grand」となっている。単語の切れ目で解りにくいが。
「あ、本当だ……」
「初歩的なことだよ、シモーネ君」
 それを聞いた途端、わたしは閃いて思わず立ち上がる。そして気が付くと、ベッポにこう叫んでいた。
「セント・マルガリータ病院だ! テロの標的は!」
「ど、どういうことだ?」
 ベッポも呆気にとられている。
「クローチェ聖堂はフェイクだったんです。考えてもみて下さい。あんな曰くつきのところでテロをしてもゴシップ誌で笑いものになるだけですよ」
「た、確かに……。でも手口が解らないと……」
 むう、とわたしは唸ってしまった。さすがのモリサキもきょとんとしてわたしを眺めている
「わけが解らないけど……、要するにテロを未然に防ぐためにわざと捕まってるの?」
 わたしは大きく頷くと、身を乗り出した。
「そうなんだ」
「で、病院で計画しているかもしれない、と」
 モリサキは鹿爪らしい顔をしている。
「動物実験の中止か、それとも怨恨かにもよるけど……動物実験を中止させる目的なら」
 彼女はそう言うと息を大きく息を吸ってこう言ったのだった。
「細菌テロかもしれない」


 病院で細菌テロを行なう! 突飛な推理にわたしとベッポは顔を見合わせた。マーラよりも突飛だったが、モリサキの推理を聞いてみることにした。
 だが彼女も少なからず興奮しているようである。
「毒ガスの可能性はまず消されるわね。どうしてか解る?」
「動物にも被害が出てしまうからか! とすると爆発物の類か車を突っ込ませるか……」
「ええ、確かに被害は出るでしょうね。でも……、一九八○年に起きたボローニャの爆破テロをどのくらい覚えてる?」
「えっと……。その頃はまだ産まれてない。もちろん神父から話くらいは聞かされてたけども」
 モリサキはベッポに目を向けた。
「看守さんは?」
「もちろん記憶にはあるさ。あれは衝撃的だったからな。でもそういうこともあったなぁ、というくらいだな。今は」
 モリサキは満足そうに頷いた。
「そうでしょう? だからこそ、遺族の会を作ったんだと思う」
「風化させないように病院で細菌テロを起こすつもりとでも?」
 ベッポは勢い込んで尋ねて吐き捨てる。
「狂ってる」
 しかしモリサキは首を振って答える。
「逆だと思う。どんな事件でも風化はするの。でも病院で細菌テロが起これば名声に傷がつく。経営者はどうなる?」
「危機管理の甘さを問われ、退陣……」
 わたしが答えると、モリサキは頷いてさらに聞いた。
「動物実験は?」
「中止を余儀なくされる……」
 呻くようにわたしは言う。恐らく細菌テロだとしたら動物には感染せず、人に感染するウイルスを使うはずである。わたしには新型インフルエンザしか思い浮かばない。何のウイルスを使うか彼女には見当がついてるんだろうか。
「そしてこの計画はもう一つメリットが」
「何だ?」
 わたしが聞くと、モリサキは答えた。
「兄ちゃん、確実に病院を急襲できるの。だって病院で細菌テロなんて誰も信じないでしょ? 今みたいに。病院の中は不意を突かれてパニックになるでしょうね」
 モリサキにテロのことを話すべきかどうか、わたしがベッポに目で指示を仰いだ。彼は頷くとモリサキに近づいて、咳払いをする。そして彼は慇懃に言った。
「ご高説、大変興味深く拝聴いたしました。あとは私どもで捜査を続けますので、あなたの知恵をお借りするには及びません」
 ベッポの顔が冷たい鉄の壁に見えた。
 彼女を不愉快な気分にさせてしまったのではないか。不安が頭をよぎって、モリサキを見た。しかし気にしていないらしく、彼女は笑む。
「兄ちゃん、またね」
 モリサキはベッポに向き直った。
「……看守さん、ごめんなさい。長話に付き合わせてしまって」
 彼女はそう言って、踵を返した。二組の足音が廊下にこだましている。


 モリサキが行ってしまうとルドヴィーコに目を向けた。彼は相変わらず新聞に目を這わせている。さっき彼が囚人にサムを襲わせたとすれば、刑務所ではかなりの「顔」である。情報が集まってくるはず。それを利用しない手はない。
 わたしは彼の隣に座ると、彼は少し驚いた顔になった。新聞に熱中している振りをしているが、内心では動揺しているんだろう。しきりにわたしを見ていた。しかし彼から話しかける勇気はないらしい。
 低い声でわたしは言った。
「ねぇ」
「な、何よ」
「同室になった……ガードナーだけど」
 サムなんだけど、と言いそうになってわたしは慌てて言い直した。今日初めて彼を知ったように立ち振る舞った方が、根掘り葉掘り聞かれなくて済む。
「何?」
「彼のポケットからこの写真が落ちたんだ」
 わたしはそう言って写真を見せる。
「ここ……クローチェ聖堂よね?」
「そう、何か知らないか? 例えば……思い出深い場所とか。何でもいいんだ」
「知らないわよ」
 そう疎ましそうにルドヴィーコは言った。そして探るような目でわたしを見て続ける。
「何でサムのことをそんなに嗅ぎ回ってるの? さてはもしかして……」
 わたしはギクリとした。サムがアースレイジの幹部だと知っていれば、なぜわたしが彼に近づいているのか、察しがついてしまう。
 ところがルドヴィーコは顔をわたしに近づけてこんなことを言ってきたのである。
「あんた、サムに惚れてるのね?」
 わたしは口をあんぐり開けたまま、ルドヴィーコの顔をまじまじと見つめた。彼はわたしにウィンクをするとしきりに頷いている。
「うんうん、解る解る。どことなく影があって知的な顔立ち、それでいて大組織のボスのような威厳……。そしてとてつもなく危険な香り」
 ルドヴィーコはうっとりとして言った。そして突然立ち上がると、わたしにこう告げる。
「あんたのために一肌脱ぐわ。恋のキューピッドになってあげる」
「は、はぁ」
「ただし条件があるの」
 ルドヴィーコは、ゆっくりとわたしの頬を撫でながら言った。かつてこれほどまでに鳥肌が立った経験はない。
「は、はい、なんでしょうか」
「あなた、看守と仲がいいでしょう? どういう仲なのかは詮索しないけど、あの看守に頼んでわたしの刑期を短くしてもらえないかしら」
 これが目的らしい。しかもベッポとわたしは愛人だと思われているようである。ベッポの趣味までは解らないが、わたしはホモではない!
「でも……」
「あら、いいじゃない?」
 どう言おうか迷っていると、段々とルドヴィーコの手は下に降りてくる。今までのように強引に振りほどいたら彼の協力は得られないだろう。
 かと言ってこのままだと……と思っただけで、ゾッとした。彼は色仕掛けのつもりなんだろうが、脅迫以外の何物でもない! 
 わたしは叫んだ。
「た、頼んでみる」
 ルドヴィーコは親しそうに肩を叩いて言った。
「わたし強盗でブタ箱に放り込まれたんだけどさ、恋愛って犯罪と似てると思わない?」
「は、はぁ……」
「最初の計画さえ上手く立てれば、後は上手くいく。現場の地図、見取り図、どうやって逃げるのか……。逆にいい加減な計画だと上手く行かない。いい?」
 そう言うと、ルドヴィーコは手を握ってわたしに迫ってきた。
「大胆さと、ハプニングをも利用してやるという気構えさえあれば大丈夫。このペンダントだって最初は警察に押収されたんだけど、頭を使って取り戻したのよ」
 ルドヴィーコの恋愛講義を聞いているうちに、気になる点が出てくる。そうだ、わたしがテロを計画するんだとしたら、あんな写真一枚じゃ計画は立てられない。
 かと言ってカモフラージュにしても、サムならもっと上手くだますだろう。もしかして、わたしが探偵として刑務所に入るなんて、最初サムは予想していなかったのではないか。
 クローチェ聖堂はベネツィアで有名な観光地の一つである。そういえば図書館のページが切り取られてたんだっけか……。
「もしかして」
 そう呟くと、わたしはベッポを捕まえた。ルドヴィーコは期待の眼差しでわたしを見ている。
「ちょっといいですか? 図書館で本のページが切り取られたってさっき聞こえたんですけど、本当ですか」
 ベッポは戸惑った表情で頷いた。ルドヴィーコは憮然として腕を組んでいる。
「それってベネツィアのガイドブックか何かじゃありませんか? とにかくクローチェ聖堂の写真が載ってる本」
「そうだ。でも……それがどうかしたのか?」
 ベッポは訝しげな顔で聞く。それを聞いてわたしは思わず叫んだ。
「サムの仕業だったんですよ! このクローチェ聖堂でテロを起こす。そう俺たちに思わるために写真が必要だったんです」
「ということは?」
 ベッポが恐る恐る聞き返すと、わたしは頷く。
「つまりセント・マルガリータ病院がテロの標的……」
 ベッポは顎を撫でて唸った。手紙にあったマルガリータピザとは病院名を示しているんだろう。そしてパウル・クレーはBという文字(レター)を線画に織り込んで絵を書いていた。
 このBはABC兵器のB、つまり細菌兵器(バイオジカル・ウェポン)だろう。つまり方法も場所もあの手紙(レター)の中に織り込まれていたのである。今や三流ミステリでもこんな暗号はお目にかかれないだろう。
「でも動機は? やはり動物実験の中止か? でもそんなことをしている病院なんて山ほどあるだろ。よりにもよってどうしてセント・マルガリータ病院なんだ?」
「恐らく犬、だと思います」
「ああ、そうだよ」
 後ろでサムの声がした。わたしたちが振り向くと彼の目には悲哀の色が滲んでいる。
 サムは笑ってわたしに言った。
「子供時代には犬しか友だちがいなくてね。でも彼らはある日、奇病になって死んでいった。解るかい? 黙って指を咥えて見てる僕の気持ちが……。原因は工場廃水だった。笑っちまうぐらい陳腐だろう?」
 そう言うとサムはしばらく自虐的に笑っていたが、嗚咽混じりになっていった。わたしは優しい声で言う。
「環境問題は確かに深刻だし、何より辛い思いをしてきたのは解る」
 わたしは怒りを押し殺して続けた。
「だけど、それはテロではなく法で裁かれなくちゃいけないんだ。法がなけりゃまっとうな方法で変えるべきだろ!? テロなんて間違ってる! あんた自身が犯罪者になっちまったら誰も聞く耳持たないんじゃないのか?」
 最後は我慢できなくなって殴りかかった。しかしその前にサムがバタンと倒れ込んで、わたしは思わずよろける。
 ベッポは青い顔をして、わたしを取り押さえた。
「おい、殴るのはまずい。いくらなんでもやりすぎだ」
「ち、違う! サムが先に倒れたんだ」
「え?」
 ベッポは呟くと、サムに駆け寄る。明らかにぐったりしていた。
「ひどい熱だぞ。医者を呼べ! 今日、勉強会があっただろ! 誰かまだ残ってないのか」
 そうか、なぜもっと早く気が付かなかったんだろう。青白い顔、潤んだ目……、体調不良を疑うべきだった。
 わたしは恐る恐る尋ねる。
「まさか……細菌を作ってる時に感染したのか?」
 それを聞いて、ルドヴィーコがヒステリックに喚いた。
「ねぇ、さっきから細菌とかテロとかって何なの? こいつ、一体何!?」
「何でもないよ、ルイージ。熱で変な妄想をしてるのさ。俺たちはそれに付き合ってるだけ」
 わたしは努めて穏やかに言ったが、ルドヴィーコは信じてないらしい。怯えた眼差しでサムを見つめている。
 サムが言った。
「さぁね。僕が知ってても、それを教えると思うかい?」
「どの道、テロの失敗は火を見るより明らかじゃないのか? あんたの身体を精密検査すれば病原体の正体が解るんだ」
「どうしてそれが今回のテロで使われるって言い切れる? もしかしたら違う病原体をばらまくかもしれないし、単なる風邪かもしれない」
「単なる風邪だったらどうして刑務官に黙ってたんだ? 気丈に振る舞ってた理由はただ一つ。今回のテロで使われる細菌だからだろ?」
 それを聞いて、サムは譫言で呟いた。
「残念だよ、シモーネ。君とはいい友達でいたかった。こんな関係じゃなくてね」


 一九九九年九月二十五日、わたしはセント・マルガリータ病院の前にいた。もちろん具合が悪かったのではない。テロを抑えようと獅子奮迅、立ち向かおうとしたのである。
 子供の頃、近所の悪ガキたち三人とこの病院へ一回忍び込んだことがある。霊安室の死体が動き出し、廊下をさまよっていた……。そんなありがちな怪談の真偽を確かめようとしたのだ。
 思い出に浸りながら病棟を見上げる。白いベルトをたすき掛けにした国家治安警察隊(カラビニエリ)が目を光らせ、物々しい空気を醸している。
 病院の隣にはビルがあったが、そこには特殊介入部隊(G・I・S)もいるのだろう。射るような殺気が漂っていた。
「やはり俺の出る幕はない、か」
 自嘲的に呟くと、病院を立ち去ろうとした。それにしてもあんないい加減な推理でよく警察が動いてくれたものだ。
 サムが持っていた手紙の封筒には、二十五ペンスの切手が貼ってあった。最上段に貼られた切手の額面。これを実行する日と決めていたんだろう。
 なぜ最初から三十ペンス切手を貼らなかったのか。それが腑に落ちなかったが、これは三十日という意味になってしまうのだ。むろん根拠に乏しく、憶測の域を出なかった。
 しかし黙っておいて、テロが起きたとしたら一生わたしは後悔するだろう。やっぱり話してよかった、あとは警察隊に任せよう。一人微笑みながら中庭を歩いていると、誰か肩がぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
 見上げると神経質そうな男だった。間違いない。クリストファー・オサリバンである。下見なのか? それともテロを起こすつもりなのか?
「何か(ホワット)?」
 ひどいアイルランド訛りの英語(アイリッシュ・イングリッシュ)だったが、わたしは何とか聞き取れた。アイリッシュは犬だけで充分だ。まぁサムの忠犬みたいなものだろうが。
別に(ナッシング)
 わたしも辿々しい英語で答えると、そそくさと立ち去ろうとする。その途端、もうもうと煙が立ち込めたかと思うと、警報装置が鳴った。
「火事だ!」
 患者が病院から走って出てくる。警察隊は険しい顔で何事か囁き合い始めた。頷き合うと一人が慎重に中に入って行った。
 オサリバンの姿はもうそこにはない。虫の知らせ、というわけでもないが、わたしは最悪の事態を考えて裏口に回る。幸運にも鍵は開いていた。
 そこは倉庫搬入口で、カートが並んでいる。薬品の刺激臭や消毒用アルコールの臭いが混じった臭いは、化学テロでも起こされたようである。
 わたしはハンカチで口を抑えながら、薄暗い倉庫を進んでいく。
細菌兵器と言い、バイオハザードみたいだ。扉を開けたら犬が窓を破って……出てこなかった。
 その代わりに煙が倉庫の中に入ってきて目に染みる。うっすらと待合室が見えているが、患者たちはパニックになっていた。逃げまどう足音や、激しい咳なども聞こえている。
「もしかして爆発テロか!?」
「やだ、死にたくない!」
 清掃員たちが叫ぶと、警官隊が彼をなだめた。
「落ち着いて。今、原因を調査中です」
 しかし混乱はまるで炎のように燃え広がり、ヒステリーは患者たちへ感染(パンデミック)していく。インフルエンザが大流行(パンデミック)していくかのように。
 倉庫に身を潜めていたが、この混乱に乗じて、わたしは滑り込むように待合室へ入る。誰かに何か聞かれたら、道に迷ったと答えればいいか。もしくは妹を探している、と。
 恐らく犯人はオサリバン一人ではないだろう。医師や看護師の中にもアースレイジの一味がいるかもしれない。その上、テロリストの数までは解らないのだ。
「くそ! 早まったか」
 わたしは苛立っていると、忙しそうな足音が聞こえた。そして目の前を白い布が舞う。こんな最中である。医者も急いでるんだろうと、わたしは何気なく振り向いた。
「え?」
 わたしは思わず呟く。わたしの目は、オサリバンが階段を駆け上がっていく姿を捉えていた。
 警官隊を呼ぼうか、とも考えて辺りを素早く見回したが、彼らは患者たちのパニックを収めている。やっと警官隊の一人に話しかけたものの、あしらわれてしまった。
「今忙しい」
 そして彼は吐き捨てたのである。
「見りゃ解るだろ」
 もう一刻の猶予もない。わたしは舌打ちすると、中二階を睨みつける。そして拳を固めて階段を駆け上がったのである。クリストファー・オサリバンを追って……。


 どこまで行く気なんだ! わたしは全速力でオサリバンを追いかけた。さっきの火災騒ぎでエレベーターは使えない。
 オサリバンが階上までたどり着いた。手下たちが彼を守るかのように、取り囲む。そして次から次へと瓶、ハサミなどをわたしへ投げつけてきた。その隙に別の手下が机や椅子を運んできて、バリケードを築き始めている。
 彼らの目は血走っており、私は底知れない恐怖を感じた。怯んでいるとハサミが頬をかすめそうになる。危ない! わたしはすんでのところで手で振り払った。
 よく考えてみたら今のハサミは毒くらい塗られていてもおかしくはない。そう思うと、わたしは薄ら寒くなってきた。瓶だって硫酸が入っていてもおかしくはないのだ……。
 わたしは背筋が凍りつく思いで、階上へと向かった。信者が不気味に笑ったかと思うと、机を突き落としたのである。当然、崖の上を転がり落ちる岩のように、階段を机は転がり落ちた。
 しかし一瞬早くわたしは跳んで、信者の攻撃を避ける。後ろで大きな音がしたが、振り向いてる暇はない。
 信者たちの横腹にキックを繰り出した。あっという間に伸びてしまう。もうハサミを持っていようが、ナイフを持っていようが木偶の坊に変わりはない。
「手間かけさせやがって」
 わたしはそう吐き捨てて、オサリバンの手下を一瞥した。そして次の階へと急いだのである。
 中二階にまで上がりきらずに、物陰に身を潜めた。すでに机が積まれていて、わたしの行く手を阻んでいる。五人の手下が瓶を投げ付けようと構えていた。
 さっきわたしが下で格闘してる間に、オサリバンは上へ向かったんだろう。そして彼が上に行くと、手下たちはバリケードを築き始めたに違いない。
 神経質そうな足音が上の階から伝わってくる。わたしは思わず吐き捨てた。
「クソ野郎!」
 どうしたらいいんだ、と考えあぐねていた。風を切る音が上から聞こえてきた。仰ぐと遥か上の階には手下がナイフを落としきたのである。
 さすがに青くなった。素早く後ろに飛ぶと、わたしが目の前でナイフが刺さる。柄が左右に揺れているのだった。
 わたしはそのナイフを抜くと壁に向かって投げつける。オサリバンの手下が気を取られていていて、そこに集中攻撃を浴びせかけている。その隙に、手摺りを手を突いて伝った。そしてバリケードの真横から彼らに飛び蹴りを食らわせた。
 信者の一人が呻いて倒れ込む。他の信者が椅子をその場にあった椅子を掴んで襲い掛かってきた。わたしは屈み込むと、素早く足を払った。椅子が音を立てて転がる。
 もう一人の信者が後ろからナイフを振りかざした。咄嗟に椅子を盾にすると、鋭い金属音が鳴る。わたしは椅子を押し戻すと、その信者は無様な悲鳴を上げて倒れる。
「女のくせに強いぞ!」
「逃げろ」
 残った信者たちは口々にそう言うと、ほうほうの体で走っていった。階上からも足音が聞こえてくる。
 わたしは階段を再び駆け上がった。階段にはバリケードが築かれていたが誰もいない。どうやら階上の信者たちも逃走したらしい。 ナイフやハサミが床に放り出されていて、蛍光灯の光で燦めいている。わたしはポケットに押し込むと、屋上に向かった。


 もしかしたら罠かもしれない、とわたしは慎重に進んだ。物陰に潜んでいるかもしれないのである。
 辺りを素早く見回しながら歩いたものの、すぐに上へ辿り着いた。狭い階段の向こうに、白く簡素な扉が見える。あれが屋上階へ続いているんだろう。
 拍子抜けしながらもわたしは階段を登ろうとした。
「ん?」
 おかしい。わたしは見回すと、五人の信者たちがじりじりと近寄ってくる姿が見えた。しかも彼らの手にはハサミが握られている。
 わたしが後ろに退くと、扉の開く音がした。素早く振り向くと、後ろからも信者たちが。
「挟み撃ちかよ……」
 わたしは高く跳ぶと、階下の信者へ飛び蹴りを放った。そして一人の信者を倒すと、他の信者は怯む。その隙を突いて、裏拳をその信者の顔面に食らわせた。二人の信者たちが上下から襲い掛かってくる。わたしが手摺りにまたがって滑り降りると、襲おうとしたその勢いで互いにぶつかった。残りの信者に足払いを食らわせると、階上の信者は蒼い顔をしてざわつき始める。
 信者たちは一斉にナイフを投げつけた。わたしは踏み込んで大きく跳ぶと、ナイフは足許をかすめる。
 彼らの前に着地してポケットからナイフを取り出した。そして一人の喉許へと突きつける。
「さぁ、通すんだ!」
 他の四人は怯えた顔でわたしを見ている。
「少しでも怪しい素振りを見せたら……解るよな?」
「わ、解った」
 そう言うと、信者の一人がドアを開けた。オサリバンが静かに笑みをたたえて立っている。白衣が、風で舞っていた。


 大型病院の屋上階はヘリポートがあった。純白のシーツが物干竿に架かっていて、風に揺れている。まるで白い波のようだった。
 わたしは人質を連れて前に進み出る。よく見ると、オサリバンはゴム手袋をつけていて、手には小さいビニール袋が握られていた。
「せ、先生……」
 信者が喉から絞り出すように言うと、わたしはナイフを少し動かした。ヒッと怯えた声を出し、ナイフが陽の光に反射した。
「今すぐその袋を捨てなさい」
 わたしはそう言うと、さらに続けた。
「こいつを殺されたくなければね」
 オサリバンは肩を竦める。
「やれやれ、東洋の諺を思い出したよ」
 オサリバンは悠長に言った。会話を楽しんでいるかのようにも思え、わたしは痺れを切らした。
「何!?」
「毒をもって毒を制す、と言うそうじゃないか。まさに罪をもって罪を制す、ってわけか」
「御託はいいから離すのか離さねぇのか! さっさと決めやがれ!」
 オサリバンの唇がゆっくりと動いた。わたしたちはその動きを見つめる。彼はこう言ったのだった。
「断る」
 それを聞いて信者は思わず叫ぶ。
「せ、先生!」
 オサリバンは鼻で笑って言った。
「どうせお前はそいつを殺せまい。どうせ捨て駒さ」
 確かに殺す気はなかった。オサリバンが細菌の入った袋を手放したら、解放するつもりだったのである。
 オサリバンは憐れむように溜息をついてこう言う。
「どうして人間は同じ考えを持ってるって思うのかねぇ。その考えさえ捨てればもう少し合理的に動けるのに」
 確かに狂っているが、その中にも少しの真実が含まれているようにわたしには感じられた。
「爆発騒ぎを仕組んだのもお前だな」
 オサリバンは無邪気に笑って続ける。まるでパズルが解けて喜んでいる子供のようだ。
「ああ、まず警官隊がエレベーターを使えないように爆発騒ぎを起こした。誤報を流させ、パニックにさせた。爆発テロだといえばパニックになって、警官たちはその収拾に時間を割かれるからな。おまけに白衣を着た男がいても医者だと思われるというわけだ」
 オサリバンはさらに続けた。
「俺がサムに共感してアースレイジに入った。そう考えてるんだろう?」
「……違うのか?」
「俺の好きなことを好きなだけ研究させてくれるからさ。薬の研究はスポンサーの意向があって叶わない」
「狂ってる」
「狂ってる? それは社会にこそ当てはまるんじゃないのか? 知識はそこにあるだけなのに、どうして役立てなければいけない? 細菌の研究はほとんど戦争中に行なわれたものばかりだ」
 わたしは聞いているうちに怒りが込み上げてきた。今すぐにでも殴りかかりたいが、ビニール袋を見て踏みとどまった。あれがばら撒かれれば……。クソッ、なんとか奪う手立てはないのか!
 そうだ、あれを使えば……。私はそう思うや否や、人質に取っていた信者を突き飛ばした。そして高く跳ぶと、オサリバンに目掛けて蹴りを放ったのである。
 オサリバンは笑って言った。
「血迷ったか、この細菌が宙に舞うぞ」
 わたしはニヤリと笑うと、足に精神を集中させた。たちまち足が光り始める。やがて火が出て、ビニール袋が燃え上がった。これで中の細菌も死ぬだろう。
「な、なに?」
 オサリバン含め、その場にいた信者たちは立ち尽くしていた。まるで魔法でも目の当たりにしたかのような顔をしている。
 しばらくして隣のビルで光を感じた。そしてその途端、ドサリと呻き声が聞こえ、崩れ落ちる音がする。わたしが慌てて目を向けると、オサリバンが足から血を流している。特殊介入部隊が撃ったに違いなかった。
 それを合図としていたんだろう。慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、屋上の扉が開いた。防毒マスクを付けた警察隊が入ってきて、オサリバンを取り囲む。
「俺の出る幕はなさそうだ」
 わたしは呟くと、静かに階段に向かったのだった。

第三章  奪還

 窓からは陽の光が差し込んでいる。
 わたしはトーストを片手に新聞を読んでいた。どうやらオサリバンは逮捕され、現在取り調べを受けているらしい。
 わたしは新聞をぞんざいに畳むと、欠伸をした。相変わらず事務所は開店休業である。気だるげな溜息が出てしまう。大きく伸びをすると、欠伸混じりにこう呟いた
「暇だからイラストでも描く、か」
 わたしはバッグをまさぐっていると、チャイムが鳴った。どうせ何かの勧誘だろう。アースレイジの一件のように厄介事に巻き込まれたらたまったもんじゃない! 居留守を使ってやろう。
 チャイムの音を聞き流しながら、イラストを書き始めたが一向に止まる気配はない。わたしは根負けして、椅子から立ち上がった。そして事務所のドアを開けると、見事な銀髪で、風格と気品を兼ね備えた男が立っている。
「こんにちは」
 この声、どこかで聞いたような……と記憶をたどると、すぐに思い出した。
「お待たせして申し訳ありません。シルヴァーノさんですね?」
「そうだが」
 そう言うと彼は事務所を見回している。そして疑り深い目つきでこう続けた。
「忙しかったかな?」
 慇懃な口振りだったが、その奥底には横柄さが見え隠れしている。
わたしは慌てて言った。
「い、いえ。ちょうど他の案件の調査報告書を書いていたところだったんです。……それで今日は何のご用件でしょうか? 娘さんの一件でご不明な点でもありましたか?」
 わたしは顔に笑顔を貼り付ける。シルヴァーノは首を振って答えた。
「また別の話だ」
 そう言うと、シルヴァーノはペンダントを取り出した。そして机の上に置く。
「このペンダントは二つで一組なのだ。そして一つをそして強盗に取られてしまった。君たちに取り返してほしい」
「言い値で買い戻されては?」
 わたしが言うと、シルヴァーノは溜息をついた。
「金を積んでも全く応じようとはしないのだ。どうやらヤツには戦利品として収集しているらしい」
「一つ不躾な質問よろしいでしょうか」
「何だね?」
 シルヴァーノの目がぎょろりと動く。わたしは唾を飲んだが、質問を言い掛けて後には引けない。
「どうして同じものをお作りにならないのでしょう?」
 一瞬、シルヴァーノは腰を浮かせた。しかし、わたしに掴みかかってもすぐに負けると悟ったらしい。
 腰を落ち着けて言った。
「こう見えて私はセンチメンタルな性格でね。……つまり、妻の形見なのだ。一つは妻に、一つは私に作った。だが、……妻に贈ったペンダントが強盗に奪われてしまった」
「なるほど、事情は解りました。強盗犯の名前は聞いていますか?」
 シルヴァーノはしばらく虚空を眺めていた。
「ルドルフ、いや、ルトラール……、これも違うな。あぁ、ルドヴィーコ、確かルドヴィーコだった」
 ルドヴィーコがわたしにペンダントを見せてくれていた。奇妙な偶然に戸惑いながらも、わたしは答える。
「お話は解りました。しかし、私の一存で今すぐには返答できかねます。所長に確認にした後、改めて返答させていただく形になりますがよろしいでしょうか?」
 シルヴァーノは焦れたような顔をしていたが、やがて手を振った。
「ああ、それで構わない」
 そう言うと、彼は立ち上がった。わたしは笑顔で手を差し伸べたが、彼は握手もせずに踵を返す。


 シルヴァーノとマーラはほぼ入れ替わりで入ってきた。マーラは階下で会ったらしく、今度は何の依頼かと尋ねる。わたしはシルヴァーノから受けた話を繰り返した。
「ふーん。今度も簡単そうね」
「ああ、そうだな……」
 そう言ってわたしは続けて聞き返した。
「って今度も?」
「あら、だって娘さんはすぐに見つかったじゃない?」
「それはそうだけど……」
 あのトマホークキックの痛みが生々しく蘇る。思わず胃の腑をさすった。まぁ今回はルドヴィーコにペンダントを譲ってもらうだけである。そんなに厄介事に巻き込まれずにすむと信じたいが……。
 わたしは胸騒ぎを感じながらもマーラを見た。彼女は顔は綻ばせて言った。
「いずれにせよ、美味しい仕事には間違いなさそうね。早速引き受けましょ」
 マーラはそう言うが早いか、シルヴァーノの名刺を引っ張り出す。そして鉛筆とメモ用紙を取ると、電話を掛けた。
「もしもし、ライモンディ探偵事務所のマーラです。シルヴァーノさんはお見えでしょうか……。はい、シモーネから話は聞きました。お引き受けしたいと思います。……何せもと凶悪犯と交渉するわけですから、多く見積もり(クォーテーション)を出させて頂きます」
 どうせ先代の見積もり書を引っぱってくる(クォーテーション)だけだろう。わたしは電話を聞いていて呆れた。
 しばらくマーラはシルヴァーノと詳細を詰めていたが、話がまとまったらしい。受話器を静かに置くと、わたしに言った。
「思い切りふっかけたけど言い値で引き受けてくれたわ」
 それを聞いて、わたしは苦笑しながら言った。
「よかったな」
 そうは言ったものの、わたしの胸のうちには疑念が沸き起こった。いくら思い出のペンダントと言っても、思い切り高い値でも構わない、という点が引っかかった。
 ただの気のせいだとよいのだが……、わたしは小躍りするマーラを一瞥したが、首を振った。水を差すようで気が引ける。
 陽が、翳ってきた。
 マーラが受話器を置くと、わたしへ聞いた。
「それで彼とはうまく接触できそう?」
 わたしは頷くと鉛筆を取る。そしてクルクルと回しながら言った。
「あぁ、刑務所に行けば面会させてくれる。そこで交渉するつもりだ」
「OK。簡単ね。早く行きましょ」
 ふと足許を見ると、万年筆が落ちている。恐らくシルヴァーノが落としたんだろう。電話を掛けようかと迷ったが、支払いの時に渡せばいい。摘み上げると、机の引き出しを開けた。そしてペンケースにしまう。アルミのペンケースは物憂く鈍い光を放っていた。
「何やってるの?」
 マーラに急かされ、わたしは階段を駆け降りる。そしてマーラのフォルクスワーゲンに乗り込んだ。晩秋のヴェネトは肌寒かったものの、最高のドライブ日和である。
 マーラがカーラジオを点けると、サッカー中継が流れてきた。


 ヴェネト刑務所のゲートを通ろうとすると、看守が身分証(アイデンティフィケーション・カード)を見せるようにと促した。わたしの身分証を見ると、退屈そうに用件を尋ねる。わたしはプラスチックよりも軽い存在(アイデンティティ)になってしまったようだ、と思いながらわたしは答えた。
「昔の知人に会いに」
 看守の目は値踏みでもするように変わる。わたしは肩を竦めると続けた。
「なに、ちょっとした用事を頼まれたのさ」
「誰に」
「とあるお金持ちに」
 曲がりなりにも探偵としての、いや男としての矜恃がある。依頼人の名前は口が裂けても言えない。空気が張り詰めたが、マーラが口を差し挟む。
「この人の身分はわたしが保証するわ。だから美女二人組を通してくれる? お願い」
 美女だって? 冗談じゃない! それを聞いてわたしは思わずマーラを睨みつけた。
 彼女は潤んだ目で看守を見つめている。看守は大げさに溜息をついてゲートを開けた。しかし、内心では満更でもないんだろう。バックミラー越しに彼の顔を見ると、鼻の下が伸びていた。まったくマーラの演技力は大したものである。
 マーラは荒っぽく車を停めると、ヴェネト刑務所を仰いだ。古城の面影を今も残している。今まで中から見ていたが、外から改めて眺めると違った顔だ。
 わたしの胸に懐かしさと酸っぱさが同時に込み上げてくる。
「さぁ行きましょう」
 マーラに促され、わたしは我に返った。そしてしっかり頷くと、刑務所の建物へ歩き始める。草むらから、黒猫がわたしたちの顔を窺っていたが、やがて素早く横切った。
 風が咆哮を挙げながら、木立ちの間を吹き抜けている。刑務所の扉は軋んだ音とともにわたしたちを迎えた。わたしたちの足音が刑務所の廊下にこだましている。
 透明な遮蔽板越しのルドヴィーコはやつれて見えた。彼のペンダントは蛍光灯に照らされて、美しく輝いている。
 ベッポが傍らに立っていた。わたしは彼にも会釈をすると、ベッポは硬い顔で頷く。わたしはルドヴィーコに向き直ると、言った。
「久しぶりだな」
「ええ。何の用?」
「お前が盗ったペンダントあっただろ? あれを買いたい」
 ベッポはちらりとわたしの顔を見る。怪しい取り引きではないかと疑っているんだろう。
「いくらで?」
 ルドヴィーコが尋ねると、マーラが無表情で三本の指を見せて答えた。
「これでどう?」
「三千リラ?」
 ルドヴィーコは生唾を飲むと身を乗り出す。しかしマーラは淡々と言い放った。
「三千万リラよ」
 それを聞いて、ルドヴィーコは一瞬驚いた顔になった。しかし低く口笛を吹くと、彼はもとの顔に戻る。
「前科者はなかなか職がなくて、困ってるのよね」
 そしてルドヴィーコは大袈裟に背伸びをすると、ニヤニヤして続ける。
「当面の生活費が欲しいわ。いいわよねぇ。娑婆の空気が吸える人って」
「……四千万リラでどうだ?」
 わたしはルドヴィーコの鉄面皮に辟易しながら言った。しかし五本の指をわたしたちに無言で突きつけた。五千万リラ! わたしは思わず叫び声を上げそうになる。払えるのか? そんな大金。
 しかしこういう場合、少しでも気弱な態度を見せると図に乗る。わたしはルドヴィーコに心中を悟られないように気を付けながら、マーラの横顔を盗み見た。
 彼女は毅然して答えたのだった。
「ええ、五千万リラで結構よ」


 マーラが財布から小切手を取り出すと、金額を書き付けた。そしてそれを遮蔽板の隙間から手渡す。ルドヴィーコは機嫌が口笛を吹くと、満面の笑みで小切手を丁寧に畳んだ。
「お、おい。勝手にそんな取り引き……」
 ベッポが慌てて口を挟むと、わたしは言う。
「仕事で……」
 しかしマーラはわたしの台詞を遮った。冷たい声である。
「いいでしょ。何をいくらで買っても」
「別に構わんさ。犯罪がらみのものじゃないんならね」
「疑うんならあなたが調べてちょうだい。確かに盗品だけど、ペンダントそのものに違法性はないわよ」
 マーラが強気に言うと、ベッポはニヤリと笑った。
「もし違法性があったら?」
 そう聞かれると、マーラは肩を竦める。
「その時は仕方ないわ。この取り引きは中止」
 彼女はそう言うと、ルドヴィーコを見て続けた。
「ルドヴィーコさんもそれでいいわよね」
 彼は急に呼ばれて驚いたらしく、ブルッと身を震わせた。古くなるとエンジンが掛かりにくくなるのは、車も人も同じらしい。
「え、ええ。もちろん」
「それじゃ」
 ベッポが言うと、ルドヴィーコはペンダントを外した。そしてベッポに渡すと、透かして見たり中を開いたりする。
 マーラはその様子を見ていて、爪でこつこつと机を叩きながら言った。催促しているようにも苛立っているようにも見える。
「私たちの目の前で」
 何もそこまで疑わなくとも……。内心ではマーラに少し反感を抱いたが、余計なことは言わない方がいいだろう。
 ベッポは溜息をつくと、わたしたちの前へ進み出て、マーラに中身を見せる。わたしも思わず中を覗き込んだ。
 翡翠が嵌めこまれていて、その周りには文字のようなものが刻まれていた。神秘的で、威厳のある文字である。しかしわたしはどこかで見たような気がしてならない。
 遠い記憶の水底をまさぐっていたが、マーラの声で我に返った。
「もういいでしょう」
「う、うむ……」
 ベッポは考え込むように唸って、ルドヴィーコに返す。
「じゃあ、取引成立ね」
 ルドヴィーコは遮蔽板の隙間からマーラにペンダントを手渡したのだった。


 わたしたちはフォルクスワーゲンに乗り込むと、マーラはアクセルペダルを勢いよく踏み込んだ。相変わらず慎重な運転だ。
 カーラジオからは陽気なジャズが流れている。それに耳を傾けながらわたしは尋ねた。
「いいのかよ」
「何が?」
「五千万リラだぞ。払えるのか?」
 するとマーラはけろりとして返す。
「払うのはライモンディ探偵事務所じゃないんだし、いいんじゃない? お金は金持ちからたっぷり取ればいいのよ」
「でも今の口座にはそんなに残高ないだろ。下手すりゃ詐害行為で……」。
「ナーバスになりすぎよ。ルドヴィーコが小切手を銀行に持ち込むまでに五千万リラを用意すればいいだけじゃない」
「あ、そうか。あいつが銀行に持ち込むより早く、シルヴァーノに金を振り込ませればいいのか!」
「そういうこと。しかも手数料込みでね」
 マーラはイタズラっぽく笑うと、公衆電話の前で車を停める。
「というわけで、シルヴァーノに電話してくるからペンダント見張ってて」
「OK」
 わたしは半ば呆れながら、ペンダントを一瞥した。そして鎖をつまみ上げると、目の前で揺らして呟いた。
「こんなペンダントに何の価値があるのかねぇ。俺だったら払わないけどな」
 それを聞いて、マーラはクスッと笑った。
「思い出の値段は青天井じゃない? それに五千万リラで買う人がいるから五千万リラで売れる。ただそれだけなんだし」
 そう言うと車のドアを開けて、公衆電話に向かったのだった。
 手を頭の上で組みつつマーラの帰りを待っていると、警官らしき姿が角から見える。彼はこのフォルクスワーゲンまで走ってくると、窓を叩いた。
 訝りながらも窓を開けると、彼は言った。
「盗品のペンダントが出回っているという情報を得て捜査しています。心当たりはありませんか?」
「そんなもん知らんな」
 わたしは言ったが、彼はペンダントに目を落とした。相手はしつこく食い下がって尋ねる。
「そのペンダントを見せてくれますかね?」
「関係ないね」
「そんなことは我々が判断する」
 彼は強引に窓から手を入れて、ペンダントを引ったくろうとした。
「何をするんだ!」
 こいつ、警官じゃない! 慌てて偽警官の手を押さえつけて、叫んだ。しかし偽警官はペンダントを離そうとはしない。わたしは彼の手首を捻って、引き剥がそうとした。しかし彼は呻き声を上げただけである。
「何だと?」
 わたしは思わず呟いた。偽警官は強引にペンダントを引っ張ると、鎖が切れて偽警官は尻餅を付く。わたしは素早く車のドアを開けると偽警官に飛びかかった。そして襟首を掴んで強く揺さぶる。
「離せ!」
 わたしはそう叫ぶと、ヘッドバッドを食らわした。案の定、偽警官はすっかり伸びてしまう。まったく手間を掛けさせやがって。ペンダントがアスファルトに遠くに転がり、ペンダントを拾おうとする。
 背後でジリ、とアスファルトを踏み締める音が聞こえた。殺気を感じる。
「誰だ!」
 振り向きざまに肘鉄を食らわそうとした。しかし手を伸ばしていて動きが遅れてしまう。風を切る音が聞こえた。
 無表情でブラックジャックを持った男が見えたかと思うと、頭に鈍い痛みが走る。そしてそのまま目の前が真っ暗になったのである。


 まだ意識が朦朧としていたが、瞼を開ける。殴られた後、裸にされて手錠を掛けられてしまったらしい。わたしは肩を竦めてこう呟いたのだった。やれやれ。
 ……ハードボイルド小説の主人公ならそう呟くんだろう。しかし、わたしは思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てた。
「扉はどこなんだよ! クソッタレ」
 わたしはそう呟くと辺りを見回した。混乱する頭を必死で鎮めながら。
 広い部屋には絨毯が敷かれていた。雑然としていて、戸棚にはビーカーが並べられている。
 隅にはノートパソコンが置かれ、豪華なソファーが置かれている。院長の私室らしい。わたしは心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような不安に襲われる。
「クソッ! 外れろ」
 わたしは小声で悪態をつきながら必死で藻掻いた。しかし、手品師でもないわたしに、そんな芸当ができるはずもない。
 やがて二組の足音が近づいてきた。ボソボソという話し声が聞こえ、聞き耳を立てる。女が一人と男が一人、会話の内容までは聞き取れない。
 扉を開ける音が、後ろで聞こえた。二人の気配を感じ、まだ気絶している振りをした。しかし薄目は開けておこう。
 冷たい空気と舐めるような視線。この二つがわたしに襲い掛かってきて、わたしは身を硬くする。敵が一人なら蹴りで太刀打ちできたかもしれない。わたしは歯がゆくなった。
 男は明らかに動揺を押し隠しながら言った。
「フリーダ先生、どうします? もうバラさねぇと警察が来ちまう」
「何よ、ジョルジョ。そんなに心配しなくとも。善良なる市民にヤク中が襲い掛かってきた、という筋書きにすればいいじゃない。それにモルヒネを打ったのよ。死なない程度にね。保護する口実が作れるでしょう?」
「でもそう簡単に行きますかね?」
 ジョルジョの口振りには、なおも不安が残っているようである。フリーダ医師は薄い笑いを浮かべていて答える。女特有の残忍さが込められていた。
「後でモルヒネの血中濃度を計ればいいわよ。それをもとにカルテを書けば大丈夫。何なら本当のヤク中にするって手もあるんだから」
 そしてフリーダ医師は立ち上がって続けた。淡々と罵っている。
「ところでペンダントの文字はまだ解らないの? この無能。ゴリラよりも頭が悪いわね。獄中のオサリバンに顔向けできないでしょ」
 オサリバン? こいつらアースレイジの残党か! 驚きの余り、わたしは思わず身体が動きそうになった。しかし必死で堪える。
「中国人の知り合いに見せたんですが、テンショは読めないと言うんです」
 それを聞いて、フリーダ医師の声が曇る。
「テンショ? 何よそれ?」
「古代中国の文字です。読めるのは一部の研究者くらいだと……」
「じゃあ、こいつも読めないっていうの?」
 フリーダ医師はそう言うとわたしの横腹を蹴った。呻き声を必死で堪える。
「せっかくさらってきたのに水の泡でしょ?」
「で、でもまだこいつがテンショを読めない、と決まったわけじゃあ」
 しかし憐憫よりも保身から言ったんだろう。それを聞いて、フリーダ医師は不快そうに鼻で笑った。
「読めるわけないでしょ」
 そしてわたしを粘っこい目で見ながらこう言った。
「これを始末しておいて。どうせフランケンシュタインが作った怪物の生まれ変わりなんだから」
 そしてわたしの顔に唾を吐きかけると、荒々しくドアを閉めて出て行った。その時、何かが落ちて、蛍光灯に反射した。
 男はフリーダ医師が出て行くと、壁を思い切り蹴っ飛ばす。
「クソ野郎! ヤブ医者め」
 三文芝居を演じているだけで、アースレイジの人間関係が掴めたのだ。腐った唾はおひねり代わりに受け取っておこう。
 ジョルジョはしばらく眺めていたが、やがてわたしの身体に手を伸ばした。しかしわたしの股間が目に入ったらしく、素早く手を下ろす。敵意、軽蔑、そして落胆。彼の目からはそんな気持ちがありありと窺えた。
 やがて嘔吐物を見るような目に変わり、わたしから目を背ける。それでも彼の横顔は欲情して見えた。
「ビッチが!」
 ジョルジョは短く言葉を吐き捨て、扉に向かった。しかし気持ちの緩みが一瞬の隙を生むのである。今だ! わたしは首をバネにして跳ね起きた。絨毯が音を消してくれて、男は気付かない。
 起き上がる瞬間、彼がわたしの脛でも蹴っていたら……。そんな想像が頭をよぎって、背筋が寒くなる。わたしは首を振って、追い払うと忍び足で男に近付いた。
 わたしは首を狙って蹴ろうとする。しかし彼は裏拳を振り向きざまに繰り出してきた。わたしは後ろに飛び退いて、それを避ける。
「クソッタレ!」
 ジョルジョは叫ぶとわたしに飛びかかってきた。容易くわたしは身を翻した。ジョルジョは勢い余ってよろける。
 わたしは虚を突いて、彼の脇腹へ蹴りを入れた。ぐう、と呻いて、身体を折る。
「くたばれ!」
 そうわたしは叫ぶとそのまま脳天に踵落としを食らわせようとした。手が縛られていると、いつも通りにはいかない。足技も腕でバランスを取っているのだ。
 わたしの踵は男の耳をかすめて、空を切った。大きな隙ができる。しまった!
「くたばるのはお前だ」
 ジョルジョはそう叫んで、わたしの股間を蹴り上げた。痛みに一瞬息が止まり、内股になる。その姿が女に見えたらしい。獣のような叫び声を挙げながら突進してきたのである。
 ジョルジョはわたしを押し倒すと、覆いかぶさる。そしてギラついた目をしながら胸を触わり始めた。心なしか獣の臭いが漂ってくる。しばらく痛みの余り何もできなかったが、それも薄らいできた。相手の股間を思い切り蹴り上げる。
 ジョルジョは短く悲鳴を挙げると、飛び上がった。
「鍵を外せ!」
 わたしは叫んだ。男は股間を抑えてながら肩を震わせている。苦痛と屈辱が交互に噴き出しているんだろう。もう一押しだ、とわたしは続けた。
「早くしろ! また蹴られてぇのか!」
「お、俺は持ってねぇんだ」
 ジョルジョは涙目になりながら訴える。
「じゃあ誰が持ってるんだ?」
 わたしは睨み付けるとジョルジョは答える。
「フリーダの野郎だ」
「あの医者か?」
「そ、そうだ」
 どうしようか。ここで彼を逃がせば間違いなく仲間を呼ぶに違いない。しかしジョルジョは本当に持っていないんだろう。
 よく考えてみれば、こんな安っぽい男に人質の鍵を預けるわけはない。何とかならねぇのか! そう思って辺りを見回すと、ドアの近くにヘアピンが落ちている。さっきフリーダ医師が落としていったんだろう。
 待てよ、ヘアピンを使って手錠を外せないか? わたしはジョルジョを睨み付けながら、ゆっくりとヘアピンに近付いた。もう一度股間を蹴り上げようかと思ったが、さすがに憐れに思えてくる。
 ヘアピンを手探りでつまみ上げると、手錠の鍵穴を探し始めた。クソッ、上手くいかねぇな……。試行錯誤していると、ヘアピンを絨毯の上に落としてしまった。
 さすがに血の気が失せる。頭の中が真っ白になりながらも、絨毯に手を這わせた。どこだ、どこだ、どこに行った。ヘアピン! ようやく硬いものを探り当て、安堵する。
 そしてジョルジョにも目を配りながら、ヘアピンでようやく鍵穴を探り当てた。突っ込んで慎重に回すと、カチャリと音がしてようやく片一方が外れる。
 あとはこっちのものだ! わたしは解放感に包まれつつ、右手も外した。外れた手錠を見ているうちに、絨毯に思い切り叩きつけたくなったのだった。
 裸のまま廊下に出るわけにはいかない。わたしは何か着るものはないか。わたしはジョルジョを見ると、ヒッと小さな叫び声を挙げて後ろに退いた。彼は何やら口の中でブツブツ言っているが、聞きとれない。
 わたしはジョルジョの頭を殴りつけると、素晴らしい音を立てて気絶してしまった。きっと何も入っていないんだろう、と考えながら服を脱がせる。財布もついでに失敬するとしよう。
 胸元が大きく開いてしまい、気に食わなかった。しかし贅沢は言っていられない。わたしは廊下を開けると、ひとまず裏口から逃げ出した。
 近くで犬が呻くように鳴いていた。


「お客さん、この辺りで下ろせばいいですか?」
 うたた寝をしていたようである。タクシーの運転手に声を掛けられた。窓の外を見ると懐かしい風景が飛び込んできて、わたしは涙が出そうになる。
「あ、もう少し進んでください」
 わたしはそう言ってライモンディ探偵事務所の前に付けさせる。運転手に礼を言い、無造作に札束を取り出した。釣りは面倒だと言うと、ほくほく顔に変わる。
 車を降りると、身体を引きずるようにして階段を登った。あともう少し……。帰ったら横になりたい!
 しかしそのささやかな願いすら叶わないようである。事務所のドアを開けて、わたしは思わず声を挙げた。
「どうしたんだ。一体!」
 ひきだしは全て開けられ、中の物は床に散らばっている。わたしは身を構えた。まだ泥棒が中にいるかもしれない。
 マーラが一瞬気がかりになったが、彼女はプロレスラーなのだ。もし襲い掛かっていれば返り討ちにあっているに違いない。そんなことを考えていると、マーラの部屋のドアが開いた。
「お帰り」
 彼女は眉根を潜めて言った。わたしが失態を演じたのを咎めているようにも、空き巣に怒りを感じているようにも、シルヴァーノへの対応を考えているようにも見えた。
「す、すまん。ペンダントを盗られちまった」
「……まぁいいわ」
 マーラは溜息を大きくつくと、続けた。
「それよりも少なくとも二つのグループがあのペンダントを狙ってる」
「どうしてそんなことが?」
「あなたを路上で襲って奪うつもりなら、空き巣の真似事をしてペンダントを探す必要はないわよね? 逆に空き巣の真似事をするつもりなら、別にあなたを襲わなくてもいい」
「なるほど……って、どうして空き巣の真似事だと?」
 マーラは答える代わりに、銀行の預金通帳をオーバーコートのポケットから取り出す。通帳は盗られてないのか。
 わたしの心中を悟ったのか、マーラは頷いた。
「そう、現金も無事。だから少なくとも物盗りじゃない」
「なるほど……敵はアースレイジともう一人いるわけか……」
 わたしは半ば呟いて言うと、マーラは身を乗り出した。
「アースレイジ? もう壊滅させたんじゃないの? だってサム・ガードナーもクリス・オサリバンも今は塀の中でしょ?」
「残党がまだいるらしいんだ」
 わたしはそう言うと、これまでの経緯を簡単に話す。マーラは時折相槌を打ちながら聞いていた。わたしが話し終えると、彼女は頭を掻きながら尋ねる。
「ねぇ、身元につながることは言ってなかった?」
「名前はフリーダ。職業は医師。それからジョルジョっていう男がいる。……あ、そう言えば」
 わたしが言うと、マーラは尋ねる。
「何?」
「そのジョルジョってヤツの財布を持ってるんだった。もしかしたら身分証明書が入ってるかも……」
 祈るような気持ちでジョルジョの財布を取り出した。しかし身分証明書や名刺の類は一切入っていない。「ジョルジョ」はありふれた名前だ。名前だけでは本人に辿り着けはしないだろう。そう思うともどかしい気持ちと一緒に、不思議さ、そして言い知れない不気味さが込み上げてきた。
「後でジュゼッペに聞いてみるかな」
 不安さを紛らわせようと、わたしは声に出して呟いた。迷宮の中を彷徨っているような気がしてならない。実際、都市は迷宮にも似ている。
 マーラはしばらく不思議そうにわたしの顔を見ている。わたしは急に恥ずかしくなり咳払いをしたが、マーラはそれに構わず続けた。
「……ということはペンダントに何か秘密があって、みんなが狙ってるのね」
 そう言うと、彼女は冗談めかして言った。
「ねぇ、シモーネ。あなた中国人でしょ? テンショって読めないの?」
 わたしは一瞬「中国人」と言われて不快になった。監禁された時の言葉を思い出したのだ。
「イタリア人がみんな古代ラテン語を読めるわけじゃないだろ? それと同じだと思うが」
 わたしが溜息をついてそう言うと、やり場のない怒りもゆっくりと吐き出される。
「それもそうね」
 マーラはそう言ったが、頭の中では他所事を考えているようだった。今晩は何を食べるかでも考えているんだろう。わたしは苦笑すると黙々と散らかった部屋を片付け始める。
 そして片付けに一旦切りを付けると、バーへと向かったのだった。今回の依頼人は金をたっぷり持っているのだ。調査費用としていくらでも上乗せできる。そう考えると暗い気持ちが少しだけ晴れた。


 裏路地についた時、陽は傾き始めていた。月がいつもより赤い。月でもギャング同士の抗争が起きているんだろうか、と考えながらバーの扉を開けた。鈴が鳴って、ジュゼッペが片手を上げる。
「よう」
 カウンター席に腰を下ろしてカルーアミルクを頼んだ。マスターが微笑を浮かべる。あんな甘いカクテルなんてよく飲めるな、とでも言いたいんだろう。ビールのようにほろ苦い世の中なのだ。カクテルくらいは甘いものが飲みたい。
 カルーアミルクが出されると、開口一番に切り出した。
「フリーダという医師を探している。名前か姓かは解らないが、冷蔵庫(フリッジ)みたいに冷たい(クール)女だよ。おまけに冷静(クール)で頭もいい」
 それを聞いてジュゼッペの顔が曇る。そしてやや間があって、静かに首を振った。
「……いや、知らないな」
「それじゃあ、ジョルジョという男は?」
「姓は何と言うんだ? まさかジョルジョ・デ・キリコと言うんじゃあるまい」
 そう言うと、ジュゼッペは壁の絵に目を向けた。どこかで見たような、それでいてまだ見てないような不思議な絵が飾られている。
 下にはM・ヴァレンティアーノと署名されていた
「マスター、絵がお好きなんですね。少し意外だな」
「それは妻が描いたんだ。一度は復活したんだが」
 彼はそう言うと、首を振って続けた。
「……いや、すまない。それでジョルジョという男を探してるんだったね。何か他に手掛かりはないのか?」
「手掛かりと言われても、身分証はなくてね。だから困ってるんじゃないか」
 わたしは頬杖をつきながら絵をぼんやりと眺める。身体こそしっかりと描かれているが、どれも顔は判然としない。恐らくわざと不安を掻き立てているのだろう。
「そうだ!」
 わたしは閃いて、ハンドバッグへ手を突っ込むと、乱暴にカウンターの上に出す。ジュゼッペが苦笑を漏らしていたが、やがてキッチンの奥へと姿を消した。
「これだろう?」
 ジュゼッペの声で目を上げると、メモ用紙と鉛筆が置かれている。……本当はスケッチブック、そして違う硬さの鉛筆が何本か欲しかった。しかしこの際だ。贅沢は言っていられない。
「ありがとう」
 そう笑んでジュゼッペの手から筆記用具を受け取る。わたしはフリーダとジョルジョの似顔絵を描き始めた。
 わたしが描いてジュゼッペに手渡したが、彼は黙って首を振る。わたしはカルーアミルクのグラスを見つめると、溜息をついた。
「やっぱり人生そんなに甘くはないってこと、か」


 戻って、事務所のドア越しにマーラの声が聞こえてくる。来客中か、とノックしたものの返事がない。
「入るぞ」
 わたしはそう言うと、そっとドアを開ける。マーラは電話帳を捲りながら、電話を掛けていた。……床にゴロンと寝そべりながら。
「わたし、ライモンディ探偵事務所のマーラと申します。……医療過誤問題についての調査をしておりまして、そちらにフリーダ医師はご在籍ではないでしょうか。……はあ……そうですか。ありがとうございます。失礼します」
 マーラは受話器を置くと、わたしに目を向ける。
「お帰り、何か解った?」
 わたしは大仰に肩を竦めて、溜息をついた。
「そう、こっちも手がかりなし」
 マーラはそう言うと、電話帳を睨んだ。どうやらヴェネト市内の病院に電話を掛け、虱潰しにフリーダという医師を探しているらしい。開業医まで含めると相当な数に上るだろう。細かい字を見続けて目が疲れたようである。
 帰る時、タクシーがどんな道を通ったか注意をもっと払っていれば……。わたしは申し訳なくなったが、悔やんでいても始まらない。
 何かできることはないだろうか。そう思って辺りを見回していると、目頭を揉みながら、マーラは言った。
「あなたも手伝って」
 わたしは電話帳を引き寄せようとすると、マーラに手をピシャリと叩かれた。
「電話帳は一冊しかないのよ。それに二人で同じ作業をしてどうするの?」
「あぁ、そうか。じゃ、俺は何すれば?」
 そう聞くと、マーラはメモを渡す。ロッターバウム大学の電話番号が書かれている。
「ロッターバウム大学? どこかで聞いたような」
「オサリバンの出身校よ」
「あぁそうか。でもどうして?」
「一つあなたに確認しておきたいんだけど、フリーダには変な訛りがあった?」
「いや、なかった」
 マーラの質問に、わたしは少しムッとした。もしそんな特徴があればとっくに言っている。マーラは満足したように頷いた。
「もう一つ確認させて。オサリバンって呼び捨てにしたのは確か? 先生(ドットーレ)も何も付けてなかった?」
 マーラに聞かれて、わたしは戸惑いながらも頷いた。
「あ、ああ。……でもどうして?」
「今は説明してる時間がない。早くペンダントを取り戻しましょう」
 確かに五千万リラなんてすぐに用意できない。ペンダントと引き換えなのだ。わたしは肩を竦めると、もう一つの電話に手を伸ばす。
 コール音が鳴っていたが、ほどなくして若い女の事務員の声がした。
「はい、ロッターバウム大学です。どのようなご用件でしょうか」
「あ、同窓生……の友人ですが、卒業生を探しています」
「失礼ですが、お名前は?」
 事務員の声が急に硬くなった。ダイレクトメールなどの業者には同窓生の住所は高く売れるのである。
「シモーネ……シモーネ・姫。綴りはSimone Ki」
「シニョール・姫。しばらくお待ちいただけますか?」
 保留ボタンが押され、「エリーゼのために」が流れてくる。ほどなくして事務員の声がした。
「お待たせしました。何という卒業生でしょうか?」
「医学部のフリーダです」
「何という姓でしょうか?」
「ええと……、すみません。思い出せません」
 電話越しにパソコンのキーボードを叩く音が聞こえてくる。
「医学部でフリーダという名前がつく卒業生は、……フリーダ・エーコ、フリーダ・ジョローニ、それからジュゼッペ・ヴァレンティアーノ……じゃなくてその下……フリーダ・ヴィクトリーノ」
 わたしはメモを取ると、礼を述べて電話を切った。一歩前進したように思ったが、そもそもこの中にわたしをさらった犯人がいるかどうかすら解らない。
 わたしは溜息をつくと、空を仰いだ。白い雲が流れている。あの雲は掴めるんだろうか。
 マーラの区切りがつくと、わたしは尋ねた。
「どうする? 今からドイツに行くか?」
 マーラは首を振った。
「片道六時間くらい掛かっちゃうでしょ。それに行っても資料を見せてくれるとは限らないし」
「じゃあ、どうするんだよ」
「本当はシモーネがどういう道を通ったのか覚えてたら一番いいんだけどね」
 しかし、マーラの口調には責めている様子はない。それがより一層、わたしを苦しめた。
「あ、そうだ。俺が覚えていなくても、タクシーの運転手が覚えてるかもしれない。実は釣りを断ったんだ。東洋風で、ライモンディ探偵事務所前に停めて、釣りを断った女性客、と言えば絞り込めるだろ」
 わたしはそう言うが早いか、受話器を取り上げた。そしてタクシー会社に連絡しようとする。それを見て、マーラは言った。
「ちょっと待って、シモーネ。私が掛けるわ」
 わたしは黙って受話器をマーラに渡す。程なくして担当者が電話に出たようで、彼女は切り出した。
「あ、ライモンディ探偵事務所のマーラ・ライモンディと申します。少しお尋ねしたいのですが……、たったある客を乗せた運転手を探しております……はい、たった今です。そうですね……十分くらい前でしょうか。……はい、はい、ありがとうございます」
 少し間があったが、傍から聞いている限りでは好感触である。わたしは安心して、マーラの電話を聞いていた。
「中国人女性で、少し大きめの服を着ていて、釣りは受け取らなかったそうです。……ある盗難事件を追っていまして、その参考人なんです。はい……はい。タルタネッソ通りコルペ広場7/2ですね」
 マーラはわたしに目配せをする。わたしは頷くと、メモを取った。彼女それを確かめると質問を続ける。
「もう一つお聞きしてもいいですか? その近くに医療施設はありますか? ……そうですか、ありがとうございます」
 マーラは受話器を置くと、わたしに向かって微笑んだ。
「運転手があなたを覚えていたみたい。まずはそこに行ってみましょ」
 マーラはそう言いながら、ベレッタをガンケースから取り出した。そしてフォルクスワーゲンの鍵を引っ掴むと、ドアを勢いよく開けた。
 わたしは部屋に戻ると、ベレッタを手に取った。飛び道具は格闘家の矜恃に反するが仕方がない。ホルスターにしまうと急いでマーラの後を追った。
 疲れなんて一気に吹き飛んでしまっていた。興奮は麻薬である。あらゆるものが吹き飛び、しかも興奮抜きで生きてはいけない。
 遠くで消防車のサイレンが聞こえてきた。


 カーラジオからはプロレス中継が流れている。マーラが贔屓にしているプロレスラーは負け越しているようだった。
 わたしはフォルクスワーゲンの助手席で地図を開いていた。ヴェネトのハザードマップである。これなら診療所を含め、医療機関は全て網羅している。目的地近くに目ぼしい病院はないだろうか、と目を皿のようにして地図を眺めていたのだが……。
 やがて、わたしは顔を上げて運転中のマーラに声を掛ける。
「なぁ、タルタネッソ通りには病院なんかないんだが」
 ところがマーラは平然と頷いた。
「えぇ、タクシーの運転手もそう言ってたわ」
「なんだ。知ってたのか」
 わたしは少し憮然として言う。せっかく役に立てると思ってたのに!
「まぁ、医者の個人宅かもしれないし」
「個人宅、ねぇ」
 あの薬品を目の当たりにすると、個人宅とは思えない。行ってみないと何とも言えない、か。わたしは内心でそう呟くと、頬杖をついて窓の外を眺めた。
 石造りの建物が前から後ろへ流れている。赤茶けていて、それが運河や空のコバルトブルーとよく映えていた。そんな中を消防車の赤色灯が幻想的に照らし出している。
「もうそろそろ教えてくれないか?」
 わたしが窓の外に目を向けたまま尋ねると、マーラは聞き返した。見ると、彼女はぽかんとした顔をしている。
「何を?」
「何でオサリバンとフリーダが同じ大学出身だって解ったのかってこと」
 わたしが身を乗り出して言うと、マーラは子供っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、あれ? すごく単純(リアリー・シンプル)よ……」
 ロクでもない(アリー・アップル)推理じゃなきゃいいんだけど。わたしは内心でそう呟いて、彼女の説明を待った。ところがラジオ番組が六時のニュースに変わると、マーラは突然カーラジオの音量を上げたのだ。
「おいおい、どうした?」
 わたしが聞くと、マーラは唇に指を当てる。そして彼女は鋭く言った。硬い表情に変わっている。
「ラジオ聴いて」
 わたしは肩を竦めると、マーラに従う。静まり返った車内に、男性ニュースキャスターの声が聞こえてきた。淡々とした声である。
「つい先ほどヴェネト刑務所で発生した火災は燃え広がり、ルドヴィーコ・ルイーニ受刑者が死亡……」
 ラジオの向こうからサイレンの音や野次馬のざわめきなどが聞こえてくる。どうやら現場からの生中継らしい。
 わたしはニュースを聞いて、顔をマーラと見合わせたのだった。
「ヴェネト刑務所って言ったら……」
「えぇ、私たちが彼と取引した場所よ」
「口封じの放火か?」
 わたしは動揺を押し隠しつつ、マーラに尋ねた。彼女は思案深げに答える。
「まだ解らない。けど……」
「けど?」
「例のペンダントが絡んでる。これだけは間違いなさそうね」
「あぁ、ヴェネト刑務所に行ってみるか?」
 わたしは尋ねると、マーラは首を振った。
「いえ、こんな騒ぎだと行っても門前払いを食らうに決まってるわ。それよりも早くペンダントを回収しましょ」
 マーラはそう言うと、アクセルを強く踏み込んだ。闘志がみなぎっている。わたしは短く笑うと、こう言ったのだった。
「OK!」


 タルタネッソ通りに着いた頃には、日がどっぷり暮れかかっていた。道は広場から放射状に伸び、白亜の建物が黄金色に照らされている。
 マーラは車を路上に停めて、私たちは車から降りた。他にもたくさんの車が並んでいる。街路樹の葉が夜風でざわめいていた。その音に混じり、どこかで犬の鳴き声が聞こえてきた。どことなく痛々しく、また物哀しい。
 わたしは思わず立ち止まると、目をつぶった。マーラの怪訝そうな声が聞こえてくる。
「どうしたの? 聞き込みするわよ」
「待ってくれ。この犬の鳴き声……どこかで聞いたような……」
「教会じゃなくて?」
 わたしは首を振った。
「違うな。つい最近……」
 しばらく沈黙が流れた。その間にも絶えず犬の鳴き声は続いている。わたしはそれを繰り返し聞いているうちに、段々と記憶が輪郭を帯びてきた。
 数秒もしないうちに完全に蘇って、気が付くとわたしは叫んでいた。。
「あぁ、思い出した! 俺を閉じ込めていたところだ」
 わたしは興奮して続ける
「しかも、ジョルジョってやつはヤケに獣臭かったし……犬を飼っているんだ!」
 マーラは慎重に口を挟む。
「ちょっと待って、あなたはモルヒネを打たれたんじゃないの?」
「あぁ……、普通の家ならモルヒネなんか置いてない。ということはやっぱり病院か……。でも普通は病院に犬なんかいない……よな?」
 マーラはわたしの言葉を無視して、地図をポケットから取り出した。何の変哲もない地図である。
 それをしばらく見て、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱり……。あるじゃないの。そう言うところが」
「え? ハザードマップにも載ってないんだぜ」
 何を言ってるんだ? わたしは呆れて言ったが、マーラは澄まし顔こう答える。
「当たり前よ、だって動物病院だもん」
 彼女が指し示した先を見るとこう書かれていた。「ヴィクトリーノ動物病院」と。
 マーラは地図上の道を指でなぞりながら場所を確かめている。しかし、わたしは腕組みをして、ささやかな反駁を試みた。
「で、でも運転手も『医療機関はない』って言ってたんじゃないのかよ」
 要するに人間としてのプライドが傷付けられたような気がしたのだ。動物病院に監禁されてたなんて認めたくない!
 わたしの顔を見て、マーラは呆れているようだった。何をそんなにムキになっているんだ、と言いたいのだろうか? やがて彼女は溜息をついてこう言ったのだった。
「そうねぇ、タクシーの運転手はただ単にないと思い込んでただけ、じゃないかしら」
 マーラはわたしに微笑みかける。そして前に向き直ると、早足で歩き始めた。彼女はわたしを慰めようと微笑を浮かべたのだ。
 少なくともわたしはそう信じている。


 もとより犬の鳴き声が聞こえるほどの距離だったのだ。ほどなくして「ヴィクトリーノ動物病院」の看板は見えてくる。そこは小さい動物病院だった。ともすれば見落としてしまうだろう。
 マーラは玄関に駆け寄って、チャイムに手を掛けた。わたしはカメラの位置を確かめると、インターホンに映らないように後ずさる。
 「準備はいい?」とマーラは目でわたしに問いかけていた。わたしは頷いたが、手がじっとりと汗ばんでくる。緊張の瞬間。しかし後には引き返せない!
 マーラが唾を飲み込むと、チャイムを押した。インターホン越しに男の声がする。
「誰だ?」
 間違いない。ジョルジョの声である。マーラは色っぽい声で言った。
「ちょっと質問があるんだけどいいかしら。ドア開けてくれる?」
「何だ?」
 ぶっきらぼうを装っていたが、鼻の下が伸びていると声を聞いただけで解る。まったく、こいつの脳みそは下半身に付いているのだろうか。
 わたしが苦笑すると、秘密めかしてマーラは答えた。
「ちょっと……ここでは言えないの。中に入れてくれる?」
「仕方がない。開けてやるよ」
 それを聞くと、マーラは笑って言う。
「よかった」
 それから数秒も経たないうちにドアが開くと、マーラは内ポケットから写真を取り出す。拳銃を見せつけるように少し大きくコートを広げて。
「このペンダントを探してるんだけど……知らない?」
 そう言うと、マーラはジョルジョへ詰め寄った。有無を言わせない口振りである。彼はドアを閉めようとしたが、素早くマーラは足をドアの隙間に突っ込むと、睨み付けてこう続けた。
「知ってるわよね?」
 ジョルジョは口をモゴモゴ動かしていたが、やがて口を開いた。顔が引き攣っている。
「お、俺は何も知らねぇんだ。ただフリーダの野郎が……」
「フリーダ? あの女医か?」
 わたしが思わず身を乗り出して尋ねると、ジョルジョはおののいて一歩退いた。顔が青ざめている。
 次の瞬間、乾いた音が聞こえたかと思うと、彼は頭から血を流していた。医院の廊下には、拳銃を片手にフリーダが立っている。平然と、まるで害虫駆除でも終えたかのようだ。
 フリーダ医師は悠々と歩いてきて、ドアのチェーンを外す。そして冷徹な微笑を貼り付けながら言った。
「さぁ、中に入って。話があるんでしょ?」
 わたしはマーラに目配せをして、どうするかを聞いた。血も涙もない女だ。柄にもなく恐怖が沸き起こり、中に入っていいか躊躇っていたのである。
 フリーダ医師は煙草に火を点けると、わたしへ聞こえるように言った。
「どうするの? そこのヒトモドキ・シモーナちゃん(シニョリーナ)。いるんでしょう?」
 それを聞いて、わたしは頭に血が上らずにはいられなかった。ドアを乱暴に開けると、医院に飛び込んだ。そしてフリーダに殴りかかろうとしたが、フリーダ医師は一瞬早く銃口を突きつける。三八口径のルガーだった。
 わたしはきっと彼女を睨んだが、フリーダ医師はのんびりと言った。おかしそうに笑っている。
「あら、そんな怖い目をしてると怖くて引き金引いちゃうかもよ?」
 そしてマーラに目を向けると、続けた。
「そこの探偵さんもいい?」
 マーラは無表情で頷く。そしてベレッタを取り出すと、フリーダ医師に向けて構えた。彼女は少し眉を動かして言う。
「あら、これがどうなってもいいの?」
 マーラは涼しい顔で頷いた。
「ええ、いいわ」
 わたしはその言葉を聞いて、ぎょっとした。演技なのだろうが、とてもそうは見えなかったのである。わたしなんか本当に撃たれればいい、と思っているのだろうか。
 しかしマーラの銃口は一直線にフリーダ医師の頭を狙っていた。わたしが殺されれば、マーラは撃つつもりなのだ。面倒事になると織り込み済みで。
 マーラがわたしにしきりに目で合図を送っている。襲い掛かれ、という指示だろう。しかしこの状況でどうやって? しかしお互いに余り目配せを続けていてはフリーダ医師に勘付かれかねない。わたしは目をつむった。
「お祈り? 懺悔でもするの? こんな中途半端な身体でごめんなさいって」
 そしてフリーダ医師は高らかに笑った。しかしその哄笑はどことなくヒステリックである。
「いや……」
 わたしはそう呟くと、フリーダ医師の手首を掴んだ。揉み合いになり、フリーダは引き金に手を掛ける。それを見て、わたしが急いで足払いを掛けると、弾は大きく逸れた。
 わたしは手首を捻ると重たい音とともに、拳銃はいとも簡単に落ちる。わたしはそれを足で思い切り蹴飛ばすと、明後日の方向に行ってしまった。
「懺悔はてめえでしやがれ」
 まさかわたしが反撃してくるとは夢にも思わなかったらしい。フリーダ医師はわたしを人質に取り、始末しようと考えていたんだろう。しかし机上の空論のみで立てた筋書きほど脆いものはない。
 拳銃を失ったフリーダ医師なんて、それこそただの小娘(シニョリーナ)と同じである。わたしは馬乗りになり、ベレッタを彼女の口に突っ込んだ。
 フリーダ医師はわたしを睨み付ける。それを見て、「あら、そんな怖い目をしてると怖くて引き金引いちゃうかもよ?」などと口真似をしたくなったが、余りに大人げない。
 次々と屈辱や暴言を思い出した。それだけで今すぐぶっ放したい衝動に駆られたが、こんな女を殺しても何の得にもならない。
 わたしは怒りを押し殺しながら、静かにこう言った。
「ペンダントを返せ」


 ところが、フリーダ医師は涼しい顔でこう言った。
「あら、ペンダントって何のこと?」
 わたしは本気で拳銃をぶっ放したくなった。だが彼女を殺してしまったらペンダントのありかは永遠に闇の中である。
 フリーダ医師に同情する気持ちはさらさらないが、ペンダントを見つけないと報酬を受け取れない。それどころかわたしたちは五千万リラ以上の負債を抱えてしまうのである。
「こいつ、すっとぼけるつもりか!」
「すっとぼけるも何も」
 フリーダ医師は眉一つ動かさず、淡々と続けた。
「知らないものは知らないんだから仕方ないでしょ」
「そこのジョルジョってやつも言ってたじゃねぇか」
 それを聞いてフリーダ医師はカラカラと笑う。そして死体に目を向けて言った。
「あら、死人にでも聞くつもり? 霊媒師でも呼んで」
「このアマ!」
 わたしは歯がゆさに思わず叫ぶと天井へ向けて撃つ。
「ぶっ殺すぞ」
「あんたこそ薬を打たれて幻聴でも聞こえたんじゃないの?」
 それを聞いて、マーラはすかさず口を挟んだ。
「じゃあ、シモーネに薬を売ったことは認めるのね?」
 フリーダ医師はしばらく考えていたが、頷く。
「……ええ、認めるわ」
「シモーネの監禁も?」
「ええ、でもそれが何だって言うの?」
 それを聞いて、マーラは満足そうに笑った。そしてベレッタを下ろしてわたしにこう言ったのである。
「OK。もういい。シモーネ、引き上げるわよ。あとは警察に任せましょ」
 そして彼女は玄関へと向かう。わたしはそれを聞いて、狼狽せずにはいられない。そんなわたしの心を察してか、マーラはテープレコーダーを取り出して再生する。さっきまでの会話が録音されていた。
「これを聞かせれば、警察だって動くだろうし。ペンダントがここにあれば警察も証拠品として押収するわ」
 フリーダは一瞬顔を曇らせたが、またもとの表情に戻る。わたしは
「何を言ってるんだ? マーラ。あともう一押しで……」
「ここにあるって確かな証拠がない以上、時間のムダでしょ」
「で、でも俺は確かに……」
 それを聞いてフリーダ医師は笑った。
「なかなか賢いじゃない? このアメーバ・ヒトモドキとは違って」
 それを聞いて、わたしは殴りつけたくなった。しかしこんなやつを殴ったら手が汚れてしまう。わたしは舌打ちをして立ち上がった。
 それにマーラはライモンディ探偵事務所の所長なのだ。従うのが筋だろう。わたしは振り向きざまにフリーダに吐き捨てた。
「覚えてろよ」
 フリーダ医師は笑ってこう言った。
「ねぇ、弱い犬ほどよく吠えるって(イディオム)知ってる?」
 わたしはベレッタの引き金を引いた。もちろん、彼女の頭を外して。こんな気違い(イディオット)を相手にしていたら、わたしまで気が変になってしまう。
 わたしは唾を吐き捨てて、出て行った。フォルクスワーゲンに向かおうとしたが、マーラに呼び止められる。
「何帰ろうとしてるの? これからが勝負よ」
「だって、警察に任せるんじゃないのかよ」
 わたしが聞き返すと、マーラは謎めいた微笑を浮かべた。そして朗々と哲学書の一文でも読み上げるように言う。
「怪物と戦うときは魅入られないように気を付けなければならない。わたしたちが怪物を見ている間、またその怪物もわたしたちを睨んでいるのだから」
。わたしが戸惑っていると、真剣な顔つきに戻った。
「彼女が口を割る気がないんなら、教えてもらいましょ」
「でもどうやって……」
「しっ」
 マーラは短くそう言うと、ドアに耳を当てる。わたしもならうと、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。やがて足音が止まると、ガサゴソという物音がする。
 それらが全て止むと、マーラは扉を蹴破った。わたしは腰を落とし、素早くベレッタを構える。中ではフリーダ医師がペンダントを手にしていたのである。
 マーラは銃口を彼女に向けた。不敵な笑みすら浮かべている。フリーダ医師はルガーを取り出して、銃口をわたしたちへと向けた。彼女はさっきまで余裕綽々の態度だったが、今は違う。
「さぁ、そのペンダントを返しなさい。もちろんルガーは床に置いて。いいわね」
 マーラが言うと、フリーダ医師はペンダントを投げた。ペンダントを拾おうとするかと思いきや、マーラは彼女に飛びかかったのである。
 完全に虚を突かれて、フリーダ医師は呻き声を上げた。マーラは拳銃をフリーダ医師からもぎ取ると、虚空に向かって一発発射した。あとは虚しい弾倉の回転音。そして手際よく銃を解体した。
「これで全部ね」
 マーラは取り押さえながら笑む。どことなく安心しているようにも見えた。そしてわたしを見ると言う。
「何か縛るもの! 早く!」
 わたしはロープを探しに部屋を飛び出したのだった。
 複雑な気持ちで診療所の待合室をわたしはさまよう。蛍光灯のスイッチを手探りで点けた。飼い主のいない動物たちの鳴き声が響き渡っている。
 わたしはその寂しそうな声を聞きながら考えた。一発しか入っていなかった。つまりフリーダ医師は自殺するつもりだったのだ。狂っているんなら、そのまま自殺させておけばよかったのに。
 自殺したら醜い地獄の木に変わり地獄の怪鳥についばまれるらしい。あんな腐った性根の女をつついても大丈夫なんだろうか。怪鳥に同情してしまう。
「なんでマーラは助けたんだろう?」
 わたしは気が付くと、ロープを探さずに服を探し始めていた。せっかくマーラからもらった服である。見つけなければ悪いではないか。
 辺りを見回しながら進んで行くと、曲がり角から布の切れ端が顔を覗かせていた。駆け寄ると、わたしの服が無造作に捨てられている。かなり汚れてこそいるものの、幸いにも傷は付いていない。わたしは胸をなで下ろすと、丁寧に畳んで抱える。
 服を見ているうちに、マーラの顔が浮かんできた。今も彼女は待ち続けているんだろうか? 案外マーラのことだ。どこからともなく手品師のようにロープを出して縛っているかもしれない。
 いや、と彼女の鬼気迫る表情をわたしは思い出した。そして、首を振って呟く。
「あいつの自殺を防ぎたいんだろう」
 それにこれは業務命令なのだ。わたしの怒りなど関係あるはずがない。早くロープを見つけなければ。いや、ロープじゃなくてもいい。何か縛るもの……。目を這わせたが、なかなか見つからない。
「そうだ。これを使えば」
 わたしは服を持って引き返したのだった。


 フリーダ医師はわたしの服で縛られている。彼女をフォルクスワーゲンの後部座席に押し込むと、わたしも隣に乗り込んだ。妙な真似をさせないようにというマーラの指示である。
 そうは言われたものの……。
「妙な真似、ねぇ」
 わたしは呟くと、横目でフリーダ医師を見た。まるで電池の切れたロボットみたいに、虚空を見つめている。
 マーラも運転席に乗り込むと、ペンダントをグローブボックスに入れた。愛車を発進させると、カーラジオを点けた。彼女の好きなレスラーが勝ったと報じている。
 この一報を聞いて、マーラは上機嫌に口笛を吹いていた。
「やっぱり不屈のドイツ魂がよかったのかしらね?」
 彼女が一旦プロレスの話を始めると止まらない。わたしは慌てて言った。
「そんなことより、どうしてフリーダがペンダントを取りに戻るって解ったんだ?」
「ペンダントがここにあれば警察も証拠品として押収するって言ったでしょう?」
「あ、警察に押収される前に隠し場所を変えようとしてたってわけか」
 わたしが言うと、マーラは頷く。そしてバックミラー越しにフリーダ医師を見て言った。
「こんな古典的(クラシカル)な手に気付かないなんて……」
 それを聞いて、フリーダ医師はシニカルな笑いを浮かべる。わたしは欠伸をすると言った。
「よほど崖っぷち(クリフ)に立ってたんだな」
 そしてフリーダ医師を一瞥して続ける。カーラジオの番組は時報とともにニュースに変わり、第一報としてルドヴィーコの私物があさられていたと報じた。
 それを聞きながら、わたしは尋ねる。
「それはそうと、どうしてこいつを助けたりしたんだ? 罪を償いそうにないし」
 反省の色は全く見られないし、そしてこれからも反省はしないだろう。
 マーラはわたしの問いかけに対し、少し考えていたが口を開いた。口許からは含み笑いが漏れている。
「あなたが怪物にならないようにするため、かしらね」
「は? 何だよ、それ」
 わたしは思わず聞き返した。しかしマーラは首を振るばかりである。程なくしてライモンディ探偵事務所の看板が見えてきた。
 マーラは荒っぽい運転でガレージに愛車を止めると、降り立った。
「降りろよ」
 わたしがそう言ってもフリーダ医師は首を振るばかりである。なかなか降りようとはしない。
 まるで幼児返りでもしているかのようである。わたしは無理やり車から引きずり下ろすと、階段を見上げる。いつも容易く登れる階段が、今日は雲の上にあった。わたしは溜息をつくと階段に足を掛けて、後ろを振り向く。
「さぁ、上るんだ」
 わたしはフリーダ医師に強く言うと、彼女はしばらくわたしを眺めていた。目は生気がなく、思わずぎょっとする。
「な、なんだよ。早く上れよ」
 わたしが再び言うと、彼女は階段を登り始めた。それを見てマーラも後に続いたのである。


 わたしはライモンディ探偵事務所の中へ入ると、マーラに声を掛けた。マーラは作りおきのコーヒーをカップに注いでいる。
「どうする?」
 マーラはフリーダ医師に目を向けると、口を付けた。そして彼女は言った。
「その辺に座らせといて」
「おいおい、早く警察に連れてこうぜ」
 わたしはそう言ったがマーラは涼しい顔をしている。
「その必要はないわ」
「どうして」
 わたしが苛立ちを覚えて尋ねると、マーラは答えた。
「だってさっきベルチーノを呼んだもの。あなたがロープを探している間にね」
 そう言うと、マーラはポケットから携帯電話を取り出した。おそらくフリーダ医師のポケットからこっそり抜き取ったんだろう。
 現にフリーダ医師は一瞬それを見上げたが、すぐにまた虚空に目を向ける。
「警察に押収される前にアドレス帳だけ見ておきましょ」
 マーラはそう言うと、携帯電話と格闘し始めた。かれこれ十何分も死闘を繰り広げていたが、ようやく目的地に辿り着いたらしい。マーラはペン立てから鉛筆を取ると、携帯電話を片手に写し始めた。
 はやく写さないとベルチーノ警部がきてしまうのではないか。わたしが気を揉んでいると、案の定、青い光が近付いてくる。
 光がライモンディ探偵事務所向かいの道路で止まった。かすかな物音が聞こえていたが、二組の足音が外から響いてくる。やがてノックが聞こえ、マーラが答える。
「どうぞ!」
 扉が開くと、ベルチーノ警部が入ってきた。フリーダ医師をちらっと見ると、嬉しそうな満面の笑顔で言う。今にも揉み手をしてしまいそうな顔つきである。
「久しぶりですね」
 彼はそう言うと、わたしたちに握手を求めて手を差し出した。わたしは彼の握手に応えたが、マーラは硬い表情で無視した。
 ベルチーノ警部は所在なさそうに手を下ろす。そしてフリーダ医師に目を向けると、彼はマーラへ言った。気まずい空気、いや緊迫した空気が漂っている。
「この女を連れていけばいいんです?」
「ああ、俺を監禁した張本人だ。今は抜け殻みたいだけどな」
 わたしはそう頷いたが、マーラは腕時計を忙しそうに見ていた。まだ他に誰かくるんだろうか? もうそろそろね、などと呟いている。
 わたしは何となく手持ち無沙汰になり、コーヒーメイカーに手を伸ばした。すっかり冷めていて、おまけに香りも飛んでしまっている 。
 カップにコーヒーを注いでいると、外からブレーキの音が聞こえてきた。思わず外を見ると、高級リムジンが見えた。シルヴァーノと強面の男がドアを開けて出てくる。
 やがてしっかりとした足音が聞こえてきた。そしてシルヴァーノはノックもしないでドアを開けると、驚いたように辺りを見回して尋ねた。
「なんだ? ペンダントが手に入ったと聞いたんだが」
 そうシルヴァーノに言われ、マーラはペンダントを高く掲げた。まるで供物かのように。濁っていたフリーダ医師の瞳がかすかに輝きを取り戻した。
 シルヴァーノは財布から小切手帳を取り出して、身を乗り出した。
「おお、ありがたい。いくらだ」
「お渡しする前にシルヴァーノさんにお聞きしたいのですが」
「何だね」
 しかし質問よりペンダントにすっかり気を取られているようである。
「このペンダントは本当に奥様の形見でしょうか?」
 シルヴァーノは一瞬うろたえたが、頷いた。そしてソファに腰掛けると、ふんぞり返る。煙草を加えると、強面の男がライターで火を点ける。
「ああ、そうだ」
「私にはそう思えないのですが」
 そう言うと、マーラはフリーダ医師に一瞥を投げてさらに続けた。
「そこのフリーダという医師はアースレイジの一味です。そして彼女もペンダントを狙って、シモーネを襲いました」
 同意を求めるように、マーラはわたしを見る。わたしは頷いて言った。
「ええ、そうです。おまけに中国の古代文字が、とも言っていました」
「き、きっと何かの間違いだろう。何せアースレイジなんて気違いの集まりだからな」
 シルヴァーノは狼狽えているが、決め手は確かにわたしの証言だけである。マーラが難癖をつけて、ペンダントを返さないとも受け取られかねない。
 わたしは悔しさで一杯になったが、マーラは言った。
「ルドヴィーコが死んだことはご存知ですね?」
 それを聞いて、シルヴァーノが笑う。
「ああ、ニュースで聞いたよ。まさか私が彼を殺したとでも?」
「いえ、あれは事故でしょう。ですが、彼の私物を何者かがあさった形跡があったそうです。そうですね? ベルチーノ警部?」
 ベルチーノ警部は戸惑いながらも頷いた。
「あぁ、確かにそうだ」
「ここからは私の推測ですが、エウジェニオが部下にあさらせたのではないかと思っています。彼はベッポという看守とも通じています。ベッポならルドヴィーコの荷物をあさることはわけないでしょう」
 わたしは思わず口を挟む。
「ちょっと待てよ、看守ならもっと上手くやれるんじゃないのか? それこそ身体検査を装って……」
 マーラは頷いた。
「確かに。でもそれはベッポが彼を快く思っている場合よ。ねぇ、ベルチーノ警部? あなたでしょう? ルドヴィーコがこのペンダントを盗んだってエウジェニオに教えたのは」
 ベルチーノ警部はかすかに頷いただけだった。
「つまりベルチーノ警部はペンダントを盗った犯人を教えた。そしてベッポはルドヴィーコの荷物をあさった、ということでいいですか?」
「ベッポの一件は知らん。だが確かにエウジェニオから電話があった」
 ベルチーノ警部は苦々しそうに吐き捨てた。マーラはにっこりと頷いて続けた。
「でもここで一つハプニングが起きてしまった」
「ハプニング?」
 わたしが聞き返すと、マーラは頷いた。
「えぇ、恐らくあなたとルドヴィーコの取引に立ち会ったのもエウジェニオの指示よ。ペンダントの動きを知らせるためにね。でもあの日、ヴェネト監獄はそれどころではなかった」
「火事か!」
 わたしが叫ぶと、マーラは頷いた。
「そうよ。あの日、ベッポはエウジェニオに報告したくてもできなかったんじゃないかしら。彼は交渉が決裂して、何者かに持ち去られたことにしようとした」
「何のために」
 わたしが聞くと、マーラは答えた。
「恐らくだけど、ベッポは彼の度重なる命令を腹に据えかねていたんじゃないかしら。窃盗事件として扱われれば、ベッポではなくベルチーノ警部に要求が行く、と考えてね」
 それを聞いて、ベルチーノ警部は目を剥いた。
「何てこった!」
「そしてもう一人、ペンダントの動きを探ろうとしていた。それは……」
 マーラはそう言うと、おもむろに机の引き出しを開けた。そしてペンケースからペンを取り出すと、シルヴァーノへと放る。
「そのペン、あなたのですよね。とぼけたってムダですよ。指紋を取れば解るんですから」
 シルヴァーノが頷くと、マーラはにっこりと笑って言った。
「いくらペンダントの行方が気になるからって盗聴はいけませんよ」
 わたしはあんぐりと口を開けた。まさか盗聴されていたなんて! それに気付かなかったなんて! わたしは呻いた。やっぱり探偵には向いていないらしい。
 マーラはわたしに一瞥を投げたが、向き直って続けた。
「実は空き巣に入られたんです。何も盗られたものはありませんでした。ということは犯人は何かを探して入ったことになります。しかし見つからなかった。もっと言えば……」
 マーラはコーヒーを飲むと、さらに続けた。
「犯人は探し物がここにある、と思い込んでいたのです。そしてそれは何か。このペンダントでしょう」
「なるほど、でもあの時点でペンダントはアースレイジに取られていたぞ」
「だから言ったでしょう? 思い込んでいたって。もっと言えば、情報が古かったの。あなたが万年筆を拾うまで、どんな会話をしてた?」
「えっと、確か簡単に取り戻せる……、そうかシルヴァーノはその時の事情しか知らなかったんだ!」
 わたしが言うと、マーラは頷いた。
「そうよ」
「でも、どうして?」
「それはあなたのペンケースがアルミだったからよ。シモーネ、盗聴器の原理は言えるわよね?」
 教師に指された生徒のような気分である。しかも今日は他人の目がある。曲がりなりにも探偵社で働いているのだ。間違えるわけにはいかない。
「ええと、盗聴器からの電波を受信機が捉えてるんだよな?」
「そう、ラジオと同じ仕組みね。簡単だったかしら。でもここからが本題。アルミは電波を通さない? 通す?」
 クソッ! こんなことなら高校時代に物理をもっと勉強しておけばよかった。電気はアルミを通すけど、電波はどうなんだろう? 仕方がない。ここはヤマカンで答えるとしよう。
「……通す?」
「正解」
 わたしは答えに迷うと、いつも(ライト)を選んでいた。なんとなく正解(ライト)であるかのような気がしたのだ。カンで選ぶ権利(ライト)くらいあってもいいじゃないか。
 そして、何かを書く(ライト)と正解になる。それが及第点を得る一筋の(ライト)だったのである。
 そんな学生時代の思い出に浸りつつ、わたしは安堵の息をついた。
「アルミのペンケースに入れられて、盗聴器は電波を遮られたってことか! そしてこれはシルヴァーノのペンである。だから……」
 言いようのない達成感がある。マーラは笑って遮った。
「そうよ」
「なぁもう一ついいか? どうしてフリーダとオサリバンが同じ大学だって解ったんだ?」
 わたしが尋ねると、マーラは笑った。
「いい? イタリア人の医師とアイルランド人の生物学者が同じテロ組織にいるのよ」
「でもフリーダが高校時代に彼女がアースレイジの講演会を聞きに行ったかもしれない。表向きは環境保護団体だからな。あるいは偶然かもしれない」
「仮にそうだとしたら先生、せめて『さん(シニョーレ)』くらいつけるんじゃない?」
「確かに……」
「それよりも問題はこのペンダント」
 彼女はペンダントへと目を落とし丹念に調べていたが、やがて机に置いた。そして辺りをぐるりと見回す。好奇心あふれる猫のような目で言った。
「さぁこのペンダントには一体、どんな秘密が隠されてるのかしら。まさか中国の武人たちが秦の始皇帝に献上した、なんて言うんじゃないでしょうね」
 それを聞いてフリーダ医師はたった一言、こう呟いたのだった。
「カルバ……」
 人の名前……例えばカルバーノなどと言おうとしたが、最後まで聞き取れなかったのだろうか。あるいは何かの外国語かもしれない
 しかしシルヴァーノはその意味を知っているようだった。立ち上がると、フリーダ医師に駆け寄った。そして彼女の肩を揺すると何度も問い質したのである。フリーダは壊れた人形のようにただただ揺すられているばかりだった。
 見るに見かねてベルチーノ警部が止めに入る。シルヴァーノは舌打ちをして引き下がった。
 そしてペンダントを掴もうとすると、マーラは素早くペンダントを脇に退ける。そしてシルヴァーノの手首を掴むと、ベルチーノに言った。
「見たでしょ? 窃盗未遂の現行犯で逮捕してくれる?」
「何を言うんだ!」
 シルヴァーノは叫んで、さらに言った。
「これは俺のものだったんだ」
 マーラは微笑みかけて、彼へ慇懃に答える。
「まだ小切手を受け取っていません。従って取引はまだ成立していないと考えられます」
 そう言うと、わたしにペンダントを投げた。預かれ、という意味なんだろう。わたしが頷くと、彼女はさらにシルヴァーノへ続けた。
「そしてこのペンダントについてお客様が虚偽の事実をおっしゃっていた以上、弊社としましてはお渡しいたしかねます」
 マーラは彼の手首に思い切り力を入れたらしい。シルヴァーノは呻き声を上げた。彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「何かご質問でも?」
「わ、解った。話す!」
 マーラは力を緩めると、シルヴァーノは安堵の息をついた。そして彼は呻くように続けた。
「実は私もよく解らないのだ。ただ何かすごい力を秘めたもの、それがカルバというもの、古代中国と関係していることしか」
 そんなことはもう知っている! わたしはシルヴァーノへ思わず掴みかかろうとしたが、マーラに睨まれて踏み留まる。
 彼女はシルヴァーノに向き直ると、続けた。
「なるほど」
「これが全部だ。さぁペンダントを返してくれ」
 シルヴァーノはそう懇願したが、マーラは頑として譲らない。
「お断りします。これは犯罪の証拠品です」
 それを聞いて、ベルチーノ警部が口を差し挟んだ。
「では私が……」
 マーラはきっぱりと遮った。
「あなたはエウジェニオとつながっています。彼もこのペンダントを狙っている以上は果たして科学捜査班(ポリツィア・シンティーティカ)に送られるのか疑問ですね」
「では誰が預かるというのかね?」
 シルヴァーノが尋ねると、マーラはこう答えたのだった。
「ライモンディ探偵事務所が責任を持ってお預かりします」


 一夜が明けたが、興奮はまだ冷め切っていない。わたしは欠伸をしながら、マーラに挨拶をした。彼女はコーヒーを飲む手を休めて、わたしへ言った。
「おはよう。それでペンダントはしまってくれた?」
「ああ、頑丈な金庫に入れたよ。極東からミサイルが飛んできても大丈夫だ」
 マーラの苦笑を尻目に、わたしは冷蔵庫を開ける。チーズタルトが入っていた。マーラに食べてもいいか聞こうと振り返ったが、電話を掛けている。
 まぁ、食べてもいいだろう、とわたしはケーキを取り出しと、机の上に置いた。コーヒーをマグカップに注ぐと、わたしはフォークを入れてケーキを口へと運ぶ。チーズケーキのほのかな酸味、とろけるような滑らかさが口いっぱいに広がった。
 マーラが電話を終えて、わたしを見るとあっと叫び声を上げた。そしてがっくりと肩を落として呟いたのだった。
「私のケーキ……」
「え? あぁ。ごめん」
「まぁいいわ。また買えばいいんだし……」
 しかしその声は言葉とは裏腹に落胆ぶりが窺える。わたしはしばらく手許を見詰めていたが、申し訳なさで矢も盾もたまらず飛び出した。
 歩道の真ん中でわたしは頭を掻いた。
「とは言ったものの、どこで売ってるんだろうな」
 幸いにも事件は今抱えていない。適当に行けばなんとかなるだろう。わたしがそう考えていると、後ろから声がした。
「あら、兄ちゃん。どうしたの?」
 振り返るとモリサキが意外そうな顔をして立っている。
「あぁ、うん。ちょっとな」
「ふうん」
 モリサキは興味なさそうに呟いた。彼女なら深く詮索しないで答えてくれるかもしれない。
「なぁ、モリサキ。ケーキ屋ってこの辺りにあるか?」
「偶然ね。美味しいケーキ屋があるの。私もそこに行こうと思ってたところ。よかったら一緒に行きましょ」
 わたしが頷くと、モリサキは嬉しそうに微笑んだ。そして二人並んで歩道を歩き始める。
「そうだ。モリサキ。聞きたいことがあるんだけどいいか?」
「何?」
「怪物って何だ?」
「怪物?」
 彼女の目に動揺の色が見えたが、気のせいだろうか?
「あぁ、うちの所長が言ってたんだ。確か……怪物と戦うときは魅入られないように気を付けなければならない。わたしたちが怪物を見ている間、またその怪物もわたしたちを睨んでいるのだから、というような文句だったと思う」
 そう言うと、わたしはフリーダ医師との一件を話した。すると彼女は安心したように息をつくと、唐突にこんなことを聞いてきたのである。
「ねぇ、〈良いこと〉と〈悪いこと〉の違いって何だと思う?」
「そ、そりゃ法に従うことが〈良いこと〉なんじゃないのか?」
「そうね、普通はそう。でもこう考えたことはある? どうして人を殺しちゃいけないのかって」
「え?」
 わたしは思いもよらない問いかけにたじろいだ。モリサキはそれを見て笑みを浮かべる。
「安心して。私だって殺人はいけないことだってくらい解ってる。どうしてか論理的(ロゴス)に言える?」
「……家族が悲しむから?」
「でも家族がいなかったら? あるいはみんなから嫌われてる人だったら? あなたの理屈だと殺していいことになるけど、どう?」
 わたしは言葉に詰まった。自信を持って答えられなかったのである。フリーダ医師の一件がある前なら自信を持って否定できたかもしれないが。
 モリサキはわたしの顔を見て笑っていたが、やがて真剣な目付きになった。
「つまり、人を殺しちゃいけないのは、殺人は悪だって思っている人が多数だからじゃないかしら?」
「そんなこと……」
 ない、と言おうとしたが、果たしてそうなんだろうか。モリサキはわたしに構わず続けた。
「例えばアースレイジだって、彼らは環境保護が〈善〉だと信じているわけでしょ? それが今の世の中と反するだけで」
「どうなんだろうな……」
 フリーダ医師とジョルジョの関係を見ていたらそうも言いがたいが、わたしは答えた。
「少なくともトップの連中はそう思ってるみたいだけど」
 それを聞いてモリサキは満足そうに笑む。
「つまり〈善〉と対立するのは〈別の善〉ということにならない? かつてソ連とアメリカが対立してたように、異なった考えを〈悪〉、〈気違い〉……、そういう言葉で正当化しようとしてるの」
 お前はどっちの味方なんだ? わたしは皮肉交じりに問おうとしたが、はたと止まる。モリサキはこの考えそのものを問い直そうしようとしているのだろう。ふと遠くを見ると、ビルが解体作業をしていた。
 それでもわたしは言いくるめられたような気がする。もし本当にモリサキの言う通りなら、社会なんて成り立たない。あるいはものすごく脆い社会になってしまう。
 おまけに「人を殺してはいけない」という教えがキリスト教にはあるが、仏教にもあるそうだ。また「汝の父母を敬え」という教えもキリスト教の他にも、儒教にもあるらしい。これこそ普遍的な道徳がわたしたちの遺伝子に組み込まれている証拠ではないか。少なくともわたしはそう信じたかった。
 そんな思いからわたしは、仏頂面で話を切り上げる。
「で? 結局、怪物って何だよ」
「そうねぇ。悪と戦ってるつもりなのに、いつの間にか自分も悪になってしまうこと、かしらね」
「何だよ、それ」
 わたしが皮肉っぽく尋ねると、モリサキは答えた。ケーキ屋の看板が見えてくる。
「例えばフリーダって人を殺してたらどうなってた?」
「そりゃまぁ殺人罪になってただろうな」
「それって兄ちゃんの心情はともかく、ジョルジョって人を銃殺したフリーダ医師と同じ罪だよね? ものすごいざっくり言うとこんな感じかな」
 モリサキは少し間を置いて、肩を回した。説明に疲れたんだろうか、普段から肩が凝っているんだろうか。
 やがて鼻先に指を突きつけて彼女は続けた。車のクラクションが遠くから聞こえてくる。
「つまり怪物になりそうだったんだよ。兄ちゃんは。……あ、着いたよ」
 そう言うと、モリサキはケーキ屋のドアを開けた。いらっしゃいませ、という店員の挨拶とともに甘い香りが漂ってくる。
 洒落たケーキ屋の空気が今までの会話にそぐわない気がして、少しおかしかった。モリサキはわたしを不思議そうに見ていたが、やがて陳列棚へと歩き出したのだった。

終 章  秘密

 ケーキを買ってライモンディ探偵事務所へ戻ると、マーラは鹿爪らしい顔で机のメモを睨んでいる。
 わたしが声を掛けようとすると、彼女は電話に手を伸ばした。わたしは軽く手を上げるだけに留める。マーラも唇だけで「おかえり」と言うと、電話に戻った。わたしは買い物袋を机に置くと、電話が終わるのを待った。しばらく働き詰めだったんだ。この辺りでゆっくりしたい。
「こんにちは、ライモンディ探偵事務所のマーラ・ライモンディと申します。ロッターバウム大学ですか?」
 ペンダントの一件をフリーダ医師から追おうとしているらしい。常套手段だと思いながら電話を聞いていた。ところがマーラはこんなことを言ったのである。
「……いえ、フリーダ・ヴィクトリーノ医師の件とはまた違います。……クリストファー・オサリバン博士の件でもありません。今回お伺いしたのはジュゼッペ・ヴァレンティアーノさんの件なんですが」
 わたしは耳を疑った。バーのマスターがフリーダと同窓だって? そう言えば、フリーダ医師を調べていたとき……。「フリーダ・ジョローニ、それからジュゼッペ・ヴァレンティアーノ……その下……フリーダ・ヴィクトリーノ」と確かに読み上げていたではないか。クソッ、フリーダ医師に気を取られていて、聞き逃していた。
「医学部には三年間在籍。その後、中退。……どちらの大学へ行ったか資料は残っていますか?」
 そう言うと、マーラは紙と鉛筆を取った。
「ヴェネト総合芸術大学ですね?」
 わたしは思わず叫び声を上げそうになってマーラを見た。電話口では平静を装っていたものの、驚いているのは顔を見れば明らかである。
「ありがとうございます。それでは失礼します」
 そう言うと、マーラ電話を切った。そして立ち上がってコートを引っ掴む。わたしに目を向けると、言った
「行くわよ!」
 言われなくても解る。ヴェネト総合芸術大学に行って、ジュゼッペ・ヴァレンティアーノについて聞くんだろう。
 そうだ、ついでに入学手続きもすませておこう。そんなことを頭の片隅で思いながら、わたしは階段を降りた。
 フォルクスワーゲンに乗り込むと、マーラはハンドルを握りながら言った。
「昨日フリーダの携帯電話を調べてたら、ジュゼッペの名前が登録されてたの」
「え? それってジュゼッペとアースレイジがつながってたってことか?」
 わたしが聞くと、マーラは首を振った。木々がざわめいている。
「まだ解らない。それで彼は最初、イタリア大学で中国文学を専攻、卒論テーマは『魯迅における共産主義』。その後、輸出(エクスポート)業者に就職」
「そこまでは普通の生き様(エクジスタンス)だな」
 私が言うと、マーラも頷いた。
「ええ、ところが三十で会社を辞めるの。そして、ロッターバウム大学に留学。三十を機に一念発起したとも考えられるんだけどね」
「そうだな……、それにしてもどうして医学部なんだろ?」
「まだ解らないけど、人の命を救いたいって言ってたらしいわ」
「へぇ……」
 わたしはにわかには信じられなかった。あのジュゼッペがねぇ……。
「でもその後、三年で中退。その後、ヴェネト総合芸術大学大学院で中国文学の博士号を取得」
「ちょっと待て。医学部の学費って高いんだろ? 汗水垂らして稼いだ割にはあっさりと辞めたんだな。まだ社会に出てない学生なら解るんだけど、いい大人がそんなに簡単に辞めるか?」
 わたしは苦笑すると、マーラも頷いた。
「えぇ、他にやりたいことが見つかったらしいんだけど。少なくとも退学理由にはそう書いてある」
「他に、ねぇ……」
 ヴェネト総合芸術大学で何をしたかったって言うんだろう? データが揃わないうちから結論を下すのは危険すぎる。わたしはそれで何度も痛い目に遭ってきたのだ。
 もっとよく解ってから焦らずに考ればいい。わたしは心の中でそう呟くと、推薦状に目を落とした。
 大学の守衛詰所が見えてくる。守衛は退屈そうな顔をしていたが、わたしを見つけるとのんびりと手を上げる。そして冷やかすように言った。
「モデルさん、今日は美女とドライブかい?」
 わたしは笑って首を振った。そして横目でマーラを見ると、言う。
「いや、これはうちのボスなんだ」
 それを聞いて、守衛が身を乗り出した。目には好奇心が宿っている。
「それじゃ何かい? 何か事件でも?」
「まぁそんなところだな」
 わたしはそう言うと、守衛は親しげに肩を叩いた。
「へぇ、まぁ頑張りな」
「ありがとう」
 わたしが雑談を終えると、マーラはフォルクスワーゲンを発進させ、駐車場に停める。目の前には白いキャンパスがそびえていた。
 わたしが大学の自動ドアをくぐると、開けたスペースに陽の光が差し込んでいる。そこには学生たちや教授陣の作った絵画、彫刻などが並べられていた。
 わたしが階段を登ると、学生たちが洒落た丸テーブルを囲んで雑談をしている。わたしは右に折れて事務室に向かった。
 事務室の扉を開けると、女事務員が会釈する。マーラがカウンターに行って挨拶を交わした。
「こんにちは」
「こんにちは、今日はどのようなご用件ですか?」
 マーラはわたしをちらりと見ると、続けた。
「ライモンディ探偵事務所の者ですが、ジュゼッペ・ヴァレンティアーノ文学博士について調べています。彼の指導教官はどなたですか?」
 わたしの素性をここでは知られている。隠し立てしなくてもいい。マーラはそう思ったんだろう。
 事務員は少し待つように言って奥のデスクに行った。
 そしてパソコンのキーボードを叩いていたが、机の引き出しから分厚い資料を取り出す。確認するように冊子を繰っていたが、やがて一冊を抜き出すと、わたしたちへ歩いてくる。
「お待たせしました。ヴァレンティアーノ博士の在籍記録です」
 事務員はそう言うと、リストを指さした。博士論文のテーマは「中国古代文字の研究──篆書を中心に」である。指導教官はカール・フリードリヒ。専門は漢詩制作となっていた。
「カール教授にお会いできますか?」
 マーラはそう言うと、事務員は電話を掛ける。内線を掛けているんだろう。
 しばらくして、事務員はマーラに言った。
「申し訳ございません。教授は席を外しているみたいです」
「そうですか」
 マーラはそう言うと、事務室を後にする。わたしは事務書類を押し付けるように渡すと、マーラを追いかけた。
 彼女はエレベーターの前で学内のマップを眺めている。わたしはマーラに駆け寄ると声を掛けた。
「で? どうするんだよ?」
 わたしが聞くと、マーラは平然と答える。
「決まってるでしょ? 張り込むのよ?」
「は? 本気か? 出てきてるかも解らないのに」
「事務員は内線を掛けてたわ。いる可能性が高いんじゃない?」
 そうとは限らないんじゃないか。わたしは胸の内で苦笑したが、マーラはエレベーターのドアが開くと早々に乗り込んでしまう。ためらっているわたしを見て、マーラは言った。
「どうしたの? 乗らないの?」
 わたしは溜息をつくとエレベーターに乗り込む。中は思いのほか狭い。
 エレベーターの甲高いベルが鳴り、扉が開いた。目の前には講演会のポスターなどが貼られている。
 わたしたちはエレベーターを降りると、案内図の前に立った。さながら巣箱のように研究室が並んでいる。
「カール教授の部屋は……6Eね」
 マーラはそう呟くと、その研究室に向かった。リノリウムの廊下には蛍光灯が映っている。
 研究室のドアには6Eと大きく書かれていて、小窓があった。マーラはそこから中の様子を窺う。
 それを見て、わたしはマーラの裾を引っ張った。
「おい、まずいって」
 しかし足音が廊下に響き渡ると、マーラは何くわぬ顔で前を向いた。やがて赤い髭を生やした白人の男性が廊下の向こうから姿を見せた。難しそうな本を大量に抱えている。
 わたしに見覚えがあるらしく、怪訝そうな顔付きではない。マーラは会釈をすると、手を差し出し、握手を求めた。
「カール教授ですね」
 白人は頷くと握手に応じる。そして聞いた。
「私がカールですが、何か用ですか?」
 彼はドイツ語訛りのイタリア語で言った。そして、扉を開けながら、カールは続ける。
「さあ、中にどうぞ」
 研究室の真ん中には椅子と机が置いてある。椅子に腰掛けると、改めて本棚を見回した。英語の本もあるが、ほとんどが中国語の本である。
「君は確かモデルの……」
 カールにそう言われ、わたしは頷いた。マーラが横から素早く口を挟む。
「実は捜査(ディテクティブ)が本業なんです」
 その言い方だと誤解を招きかねない。探偵(プライベート・アイ)まず(プライマリ)言わないか。そう提案(オルタナティブ)してるのだが、一向に受け入れられそうにない。
 カールは意外そうに目を細めると、笑った。
「それで何か?」
「ジュゼッペ・ヴァレンティアーノ博士の指導教官でしたね」
 マーラが切り出すと、カールは天井を睨んで思い出しているかのように繰り返し呟いた。
「ジュゼッペ、ジュゼッペ……」
 わたしが言った。
「博士論文のテーマは篆書だったと」
「ああ、あの学生か」
 マーラは身を乗り出して尋ねた
「どんな学生だったんですか?」
 頭を掻きながら、カールは力なく笑う。
「そう言われてもね……何年も前ですから」
「ペンダントについて言ってませんでしたか?」
「あぁ言ってた気がする」
 わたしとマーラは顔を見合わせる。もしかしたら何か重要な手掛かりが得られるかもしれない! マーラはペンダントの写真を取り出す。
「このペンダントではありませんでしたか?」
 カールは写真を受け取ると、しばらく眺めていた。しかしやがて首を振ると、マーラに返した。
「いや、知らんな……」
 マーラは落胆する素振りも見せていない。そうですかと言って写真をもう一枚取り出した。文字のみを拡大して撮ったものである。
「ところでこの文字ですが、お読みになれますか?」
 カールは写真を受け取ると、写真に目を落とした。そして顔を上げるとマーラに言う。
「文字そのものは専門外なんで、ごくごく一般的な知識しか持ちあわせていません」
 わたしはがっくりと肩を落としたが、マーラは尋ねる。
「では先生は篆書は全く読めないんですね」
 カールは誇りを傷付けられたように顔をしかめて、首を振る。そして立ち上がると本棚から分厚い本を取り出して、机に置いた。
「いや、一応は読めますよ」
 そう言いながらカールがページを開くと、わたしとマーラは食い入るように覗き込む。訳の分からない字が並んでいるが、不思議と懐かしさを覚えた。その下にイタリア語で脚注が付けられていて、わたしは少し安心した。
 カールはペンダントの写真と、本を見比べながら呟くように言った。
「これは道教(タオリズム)のようだな」
毛沢東主義(ハオリズム)がどうかしました?」
 わたしが聞き返すと、カールは笑った。
「道教です。老子、荘子が有名ですが、他にも列子がいます。道教は魂の安らぎを説いているんです」
「魂の安らぎ、ねぇ」
 わたしは戸惑いがちに頷くとカールは笑った。
「どちらかと言えばインド哲学に似てますね。例えばこの文字ですが」
 カールはそう言うと、写真を指さした。
「却、と読んでインド哲学にも出てきます。私はインド哲学が専門でありませんので詳しくは解りません。が、確かサンスクリットでは……カルパ……だったかな」
 それを聞いて、わたしとマーラほ顔を見合わせる。間違いない。フリーダ医師があの時、口走っていた言葉である。マーラはカールに詰め寄った。
「それで、全て解読するのにどのくらい時間がかかります?」
 それを聞いて、カールは言った。
「まだ解りません。解読でき次第、連絡します」
「解りました」
 マーラは言うと、ノートを破ってライモンディ探偵事務所の番号を書いた。彼女は手渡すと、言った。
「何かありましたら、こちらにご連絡下さい」
 そう言うと、マーラは立ち上がった。いつになく真剣な顔で言う。
「行きましょう」
 とても質問できそうな雰囲気じゃない。わたしは黙ってマーラに従ったのだった。


 フォルクスワーゲンに乗り込んで、しばらくわたしは窓の外を眺めていた。郊外を走っているようである。街並みは長閑な田園風景に変わっていく。やがて大きな観覧車が見えてきた。
 わたしは驚いて尋ねる。
「ここって……」
「パラディーゾ遊園地よ」
 マーラはそれだけ言って、フォルクスワーゲンを空き地に停めた。「え? なんだってこんなところに」
「少し確かめたいの。ジュリアナちゃんがいた喫茶店跡地まで案内してくれる?」
 わたしは当惑しつつも頷いた。そしてマーラと一緒に抜け殻の遊園地を歩く。幸いにも見張りの男やあの女たちはいない。
「ここだ」
 そう言うと、喫茶店の跡地に入った。わたしは椅子に腰を下ろすと尋ねる。
「何だよ、確かめたいことって」
 しかし、マーラはそれには答えずに床を調べていた。やがて、一枚の紙切れを摘み上げる。
 それを見るな否や、彼女は血相を変えた。
「私たちはとんでもない思い違いをしてたのかも!」
「そうよ」
 後ろで女の声がした。わたしたちが振り向くと、フリルをはためかせて例の少女が立っている。
「あなたたちはわたしたちがジュリアナちゃんを誘拐したんだと思ってたよんでしょう? だけど、実は保護してたの」
「保護だって? 誰の手から?」
「シルヴァーノ・アルギリーチェの手からよ」
 彼女はおぞましそうに吐き捨てる。わたしはそれを聞いて驚いた。
「父親の手からどうして?」
「これよ」
 マーラは紙片を取り出すとわたしに見せた。漢字だろうか。幾何学的な文字が書かれていた。「友」という形である。
「これは……」
 わたしが尋ねると、マーラは頷いた。
「ジュリアナは漢字を知っていた、と思ったからよ」
 そして、マーラは少女に向き直ると続けて聞く。
「そうよね?」
「ええ」
 まさかこんな結果を招くとは思っていなかったんだろう。少女の唇は震えている。
 話の流れがまったく見えない。わたしが混乱して口を挟んだ。
「ジュリアナは確かに漢字を知ってたかもしれない。でもそれは彼女が篆書を読めたってことにはならないんじゃないのか?」
「ええ、そうね」
 マーラが頷くと、わたしは聞いた。
「だったらどうして?」
 マーラはそれに答えなかったが、代わりにわたしへ聞いた。
「ねぇ、私たちだってカタカナ、漢字、ハングルの区別がつかないでしょう?」
 マーラは一息ついで後を続けた。
「つまり、シルヴァーノは篆書と現代中国語の区別がつかなかった。だからジュリアナが篆書を読めると勘違いした。だからジュリアナに詰め寄った。あるいは……」
 わたしが言い淀んでいると、少女は言った
「父親の計画を知ったって言ってました。アースレイジをそそのかしてエウジェニオをこの街から追い出すんだって。そしてそのためにはペンダントの力がいるって」
 父親の名前を出すと、ジュリアナは怯えていた。シルヴァーノがペンダントを渡してくれと言ったのもそういう意味だったのか。
 少女はわたしの胸中を知るよしもない。淡々と続けた。
「私たちは二週間前に越してきたばかりなんですけど、お姉様と学校の席が隣になりました」
「お姉様っていうのはあなたたちのリーダーね」
 マーラが聞くと、少女は頷いた。
「そうです。ジュリアナちゃんも友だちがいないらしかったんです。それで、お姉様とはすぐに打ち解けまして、彼女に漢字を教えてたりしました……。彼女はエウジェニオの件をお姉様たちへ打ち明けました。だから匿ってたんです」
 それを聞いて、わたしの顔から血の気が引いていく。
「じゃ、じゃあ、まさか」
 そう言うと、マーラは後を引き継いだ。
「ええ、シルヴァーノがわたしたちに頼んだのも、ジュリアナちゃんに漢字を読ませるだった」
 顔を見合わせると、わたしたちはほぼ同時に叫んでいた。
「急ごう!」
 そして喫茶店を飛び出すと、フォルクスワーゲンに乗り込んだのだった。
 車の中で、わたしは窓ガラスを叩きながら叫んだ。
くそったれ(シット)!。とんだ迷探偵だったってわけか」
 マーラは運転をしながら言った。眉を潜めている
静かに(ビー・クワイエット)! 大人しく座っててちょうだい(シット・ダウン・プリーズ)
「じゃ、お望み通り動かないよ(フリーズ)
 こんなときに下手な洒落はやめて欲しい、と苛立ちながらわたしは続けた。
「で? シルヴァーノとジュゼッペはどういう関係なんだ? 今のところ何のつながりもないんじゃないのか?」
「接点ならあるじゃないの。ジュゼッペだってペンダントに目を付けてた。だから篆書の研究なんてしてたんじゃない」
「それだけだろ?」
「多分、ジュゼッペは漁夫の利を狙おうとしてたんじゃないかしら」
「漁夫の、利?」
 わたしがオウム返し聞くと、マーラは頷いた。
「ええ、つまりわざとパラディーゾ遊園地の情報を与え、シルヴァーノからペンダントを引き離そうとする。そして私たちに情報量として法外な金額をふっかけるつもりだったんじゃないかしら」
「そしてペンダントと引き換えに安くする、と持ちかける。俺たちはそんな価値なんか知らないから、価格交渉に応じるってわけか」
 なんてこった! まんまと踊らされていたのか。わたしは歯噛みをするとマーラは黙って頷く。車はいつしか住宅街の中にいた。


 事務所に戻ると、マーラは電話に飛びついた。しかし、カールからの留守録はなく、彼女は憮然とした顔付きになる。
「先にバーへ行くか?」
 わたしは聞くと、マーラは首を振った。
「いえ、下手に刺激すると厄介だわ。ここは慎重に行きましょ」
「OK。で、どうするんだ?」
「そうねぇ……」
 マーラは考え込んでいたが、やがて謎めいた微笑を浮かべて続けた。
「ベルチーノ警部に連絡して。シルヴァーノの娘が虐待されているようだって言ってね」
 わたしは戸惑って尋ねる。
「で、でもそんな不確かな情報で動かないだろ」
「あら、動くわよ」
 マーラは言うと、不敵に笑って続けた。
「ペンダントが原因だと言えばいいじゃない? そして漢字を知ってるようだと言えばね」
「で、でもそれじゃあ、シルヴァーノがエウジェニオにすげ変わっただけで……」
 マーラは首を振ると溜息をついた。そしてボソリと呟くと、言った。
「父親の期待に応えられないことほど辛いものはないわよ。どんな父親であろうとも、ね」
「でもそれじゃあ、引き離すのかよ」
 父親や母親のいない寂しさは、わたしが身をもって知っている。女の子には味わわせたくない! 立ち上がるとマーラを見下ろした。
 マーラは俯いて呟くように言った。
「仕方ないじゃない。だって最悪は虐待されてるかもしれないのよ」
「それは……」
 わたしは言い淀んだ。マーラも溜息をついて吐き捨てる。
「わたしだってこんなこと、本当はしたくない」
 もしかして一つの方向から見てなかったんじゃないか。彼女の顔を見ているうちに、段々とそんな思いが沸き起こってくる。そしてもし本当に虐待されてたとしたら一刻を争う。
 わたしは溜息をつくと、受話器を持ち上げた。そして警察に通報すると、ベルチーノ警部につなぐよう頼んだ。そしてシルヴァーノが娘を虐待しているかもしれない、と告げる。
 最初こそ無関心だった。しかし例のペンダントが絡んでいる、とも言い添えると、彼は声を潜めて尋ねる。
「それは本当か?」
「あ、ああ。少なくともシルヴァーノの娘がペンダントに絡んでるのは間違いない」
 わたしは少し胸が痛んだが、そう言った。ベルチーノ警部は押し黙っていたが、やがて言う。
「よし解った。調べてみよう」
「……ありがとう」
 わたしは電話機から目をそらした。もちろん、そんなことは彼は知るよしもない。ベルチーノ警部は上機嫌で言った。
「なに、善良な一市民からの通報には耳を傾ける。これが警察の基本だ」
 そう言うと、彼はすぐにでもシルヴァーノ邸を訪れる旨を告げて電話を切った。わたしは受話器を置くと、溜息をつく。
 マーラはわたしに一瞥を投げたが、何も言わなかった。沈黙がしばらく流れていたが、電話のベルがそれを破った。
 互いに受話器を取ろうとして、気まずい視線がマーラとぶつかる。
「俺が出るよ」
 わたしは言うと、受話器を取った。
「はい、ライモンディ探偵事務所ですが」
「解読できました! 完全ではありませんが、これ以上はわたしにも解りません」
 カールだった。興奮しきった声が電話を通してでも伝わってくる。
「そうですか、ありがとうございます。それで、内容は?」
「にわかには信じられないのですが、カルパ、つまり劫を避ける方法が書かれています」
「カルパ? さっき話していただいた道教の?」
 カールは頷いて言った。
「ええ、避けられない滅びです」
「避けられない、滅び……ですか」
 何だか急にオカルトめいてきた。わたしが苦笑しているとカールは笑って言った。
「そんなに難しい話ではありません。例えば美しい花もいつかは枯れるでしょう? クレオパトラがオクタウィアヌスを誘惑したときには、すでに色香は衰えていたように。そして隆盛を誇っていた古代エジプト王国もローマに滅ぼされ、そのローマも分裂し、やがてはオスマン軍に滅ぼされるように」
「なるほど」
 わたしは頷いたが、内心では焦れていた。
「例えば美しい花を液体窒素の中へ入れて無理やり凍らせれば、美しさは永遠に保たれます。しかし、ちょっと握っただけで壊れてしまう。このように人間が無理に却を押さえつけようとするとどこかでその歪みがきてしまうのです」
「要するに自然の摂理には逆らおうとすると、どこかでその反動がくる、ということですか」
「そうです」
 カールは頷くと、続けた。
「そしてこのペンダントにはその却に逆らう方法が書かれているのです」
 わたしは欠伸を噛み殺して聞いた。
「例えばどんなことが?」
「ここに書いてあるのは、死者蘇生、不老不死、それから権力掌握。具体的な手順については解りませんでしたが……、ただこう記されています。魔が現れるだろうと」
「魔?」
「ええ、例えば心の歪みや、人間の果てしない欲望、そう言ったものを指してるんでしょうけど」
 わたしはそれを聞いて安心した。死者蘇生、不老不死なんてカルト教団じゃないか、と思っていたのである。
「それでジュゼッペは解読にどのくらい成功していたんでしょうか?」
「何とも言えませんが」
 カールはしばらく間を置いて続けた。
「完全に解読していた可能性はあります」
「そうですか、ありがとうございます」
「こちらこそ、なかなか面白かったよ。どうもありがとう」
「いえいえ、それでは失礼します」
 わたしは受話器を置いた。マーラが目を輝かせてわたしに尋ねる。しかし内容を彼女に告げると、胡散臭そうな顔をして言った。
「死者蘇生に不老不死ね……」
「ああ、信じられるか?」
 わたしも肩を竦めて、マーラへ尋ねる。マーラは苦笑して答えた。
「信じられないけど、ペンダントをめぐって何件もの殺人が起きてるんだし……」
「どうする? ジュゼッペをつつくか?」
 わたしが尋ねるとマーラは頷いた。
「行きましょう。その前に確かめたいことがあるの」
「時間を決めて落ち合うか?」
 わたしが聞くと、マーラは首を振った。
「いえ、大丈夫。電話一本で済むから」
 そう言うと彼女は受話器を持ち上げる。
「そうか、ペンダントはどうする?」
「そうねぇ……」
 彼女は少し迷ったように言葉を切ったが、やがて力強く言った。
「持っていきましょ」
「OK」
 わたしはそう言うと、自室の扉を開けた。そして金庫を開けてペンダントを手に取る。その途端、裏の文字が気になり始めたのだっ もし本当に人智を超えた力が宿っているとしたら? そう思ったのかもしれない。もしそうだとしても、わたしは篆書なんて読めない。わたしには関係のないことだ、と自嘲的に笑うと、ポケットに入れようとする。
 だが何となく躊躇われてペンダントの裏をぼんやりと改めて眺めた。すると光りに包まれて、文字が浮かび上がってきた。何となく文字が解るような気がしたのである。それは段々と形を帯び、一言一句まで解るようになった。まるで母国語であるかのように。そしてどこかペンダントに母親の匂いを感じた。
 応接室からはマーラの声が聞こえてくる。
「……え、生死不明ですって? どういうことですか? ……はい、はい、できればぜひ、はい、……はい、はい。はい……そうですか。え? そんなことがあるんですか? そうですよね、でも日誌には残ってる、と。ありがとうございます……」
 マーラの声は段々と熱を帯びていく。そして電話を切ると、わたしの部屋を覗いた。
「何やってるの? 早く行くわよ」
 その声でわたしは我に返って、ペンダントを見る。光はもう消えていた。彼女に言おうか迷ったが、首を振った。信じてもらえそうにない。
「あ、ああ……今行くよ」
 わたしは立ち上がると、ペンダントをポケットに突っ込む。そして駆け出したのだった。


 バーはまだ開いていなかった。わたしとマーラがドアをそっと押すとトマトの香りが鼻を漂ってくる。ジュゼッペがカウンターの向こうで仕込みをしているのだ。
 ジュゼッペは手を休めず、わたしたちへ目を向ける。
「何か用か? そんなに怖い顔して」
 わたしは頷くと、ペンダントを掲げて言った。
「ああ、こいつについてちょっとな」
 ジュゼッペは驚いたように、ほう、と息をつく。そしてわたしたちの顔を交互に見て、言った。貪欲に獲物を狙うタカのような目をしている。
「どこでそれを?」
 マーラは微笑をして答えた。
「依頼人が持ってたの。あなたならこのペンダントについて何か知ってるんじゃないかと思ってね」
「知らんことはない。だがもう昔の話だ。それで妻を生き返らせようとした。ペンダントにまつわる話を聞いてね」
 マーラは尋ねた。
「じゃ、生き返らなかったのね」
 それを聞いて、ジュゼッペは弱々しく笑う。
「当たり前じゃないか」
「でもこのペンダントをめぐって、殺人が起きてるのよ」
「知らん」
 ジュゼッペは強く言うと吐き捨てるように続けた。
「どこかのバカが噂を信じてるんだろ」
「さっき、セント・マルガリータ病院に電話を掛けて聞いてみたわ」
 マーラがそう言うと、ジュゼッペの眉がピクリと動く。
「十五、六年前、セント・マルガリータ病院で起きた患者の失踪事件について調べています、と言ってね」
 十五、六年前って言ったら……。心の中で呟いていると、わたしはあることをふと思い出す。そして思わず声を挙げた。
「あの怪談か!」
「そう、シモーネの街にも流れてたみたいね」
 マーラは含み笑いをしてそう言った。
「あ、ああ……、でも今回の一件とどんなつながりが?」
「怪談を覚えてる?」
「霊安室の死体が動き出し、廊下をさまよっていた……」
 わたしが戸惑いながらも答えると、マーラは頷いた。
「ええ、もしあれが本当に蘇ったんだとしたら?」
「おいおい、何を言い出すんだ。そんなことあるわけないだろ」
 ジュゼッペは不快そうに肩を竦めると、さらに続けた。
「確かに私は死者蘇生を試みた。大学院時代にね。そしてその秘教を解くためにカール・フリードリヒ先生のもとで中国文字についての研究もした。だが、そんなことできるわけがない」
 それを聞いて、マーラは頷いた。
「ええ、にわかには信じらませんでした」
「だろ? バカバカしい」
 ジュゼッペは笑ったが目元は笑っていない。それを見て、マーラがボソリと呟いた。
「マリア・ヴァレンティアーノ」
 そしてマーラは顔を上げてジュゼッペに尋ねた。
「これ、奥様の名前ですね」
「そうだけど、いい加減にしてくれないか?」
 ジュゼッペは怒りを押し殺していたものの、しまいには声を荒らげて言う。
「死者蘇生だの何だのって……、戯言に付き合ってる暇はない! 病院の怪談なんて単なる都市伝説じゃないか!」
 しかしマーラは、たじろがずに言った。
「そうでしょうか。マリア・ヴァレンティアーノさんの行方を調べています。そう病院に電話をしたらこう言われたんですよ。……生死不明ってね」
「え?」
 わたしが思わず声を挙げて聞き返した。
「それってどういう……」
 確かに失踪したのなら生死不明でもおかしくはない。でも病院で生死不明って……。患者が脱走でもしたのだろうか? それだとしたら入院着姿なので、付近の住人から病院に連絡が行くはずだ。
 次々と色んな考えが頭の中を駆け巡っていく。マーラをちらっと見たが、彼女は肩を竦めた。そして首を振って言った。。
「私には解らないわ、でも……」
 彼女はそこで言葉を区切った。そしてジュゼッペ・ヴァレンティアーノの目を見ると、こう続ける。
「あなたの口からなら説明できますよね?」
「そ、それは……」
 ジュゼッペの目が泳いでいる。彼は目を逸らして言った。
「妻はあの日、いなくなったんだ!」
 それを聞いてマーラは首を振る。
「ちなみに死亡診断書は残っていました」
「なら死体を誰かが盗み出したんだろ。霊安室からね」
「それなら生死不明とは書かれません。死亡、と書かれるはずです。つまり死亡が確認された後……」
「まさか、そんなことが!」
 わたしはマーラを遮って叫んだ。
「ええ、霊安室から出てくる女性を、巡回中の看護師が見たそうよ」
 それを聞いて、ジュゼッペは吐き捨てた。
「見間違いだろ。そんなもん」
「ところがその看護師さんが真面目な性格で、ちゃんと報告してるの。当時の婦長も真面目な人で、一緒に確認したらしいわ。そしてその夜の出来事は日誌にも書かれてるそうよ」
 そしてジュゼッペの目を真っ直ぐ見ると、こう言ったのである。
「どうする? これでもまだ何かある?」
 一度は復活したんだが……。あの台詞は文字通り復活した、という意味だったのか。
 見ると、ジュゼッペはがっくりと項垂れている。
「ああ、そうだよ。妻を復活させたよ。もう知ってると思うが、医学部に入ってたんだ。社会人になってからね。その志望動機は……」
「奥さんの病気を治すためだった」
 マーラが言うと、ジュゼッペは頷いた。
「ああ、ところが医学部でフリーダとオサリバンから変な噂を耳にしてね。そのペンダントの噂さ。もちろん最初は俺も信じちゃいなかった。でも医者も見放すほどマリアの病状は悪化していたんだ。ある日、わたしが家に戻ったら……家に戻ったら……」
 ジュゼッペは俯いて、肩を震わせている。
「それで、どうなったんだ!?」
 わたしがジュゼッペに詰め寄ると、彼は震えながら呟いた。寂寥と後悔の念だけではなさそうである。
「そのペンダントは中国にあるって言うんで、夜も寝ないで地図と睨めっこさ」
「それでこれを手に入れたのか」
 わたしが聞くと、ジュゼッペは答えた。
「ああ、何年も掛けてね。そいつをようやく探し当てて、藁をもつかむ思いで呪文を唱えてみたら……。あいつが……現れた」
「あいつ?」
 わたしが戸惑いながらも尋ねると、ジュゼッペは忙しなく頷く。そして彼は早口にまくしたてた。
「この世の物とは思えない赤い目をした怪物だ。気でも違ったんじゃないか。最初はそう思ったさ。人のよさそうな爺さんが出てくるとばかり思ってたからな」
「それで?」
 わたしが後を促すと、ジュゼッペは答える。どことなく自嘲めいた響きが感じられた。
「俺はガタガタ怯えながら願いを言ったらヤツは黙って頷いた。そして日の沈む空へ飛んでったんだ。それが十数年前だよ」
 マーラは胡散臭さ半分、好奇心半分、と言った表情で聞いている。まるでお伽話でも聞く子供のような顔だ。やがて真剣な顔付きに変わって尋ねた。
「どうして今になってこのペンダントを手に入れようと思ったの?」
「それは……」
 ジュゼッペは奥の部屋に目を向けた。かすかではあるが、苦しそうな息遣いが聞こえてくる。肺に穴でも開いているのかと思うほどの声。
 ジュゼッペは唇をわななかせていたが、絞り出すように言った。
「妻の病気が再発したんだ……。死んだことになっているから医者には見せられない」
 カールは確かにこう言っていた。「人間が無理に却を押さえつけようとするとどこかでその歪みがきてしまう」と。ならばペンダントなんか使っても、いや、使ったら余計に苦しむだけじゃないのか?
 しかし面と向かってそんなこと言えるわけがない。わたしはジュゼッペの肩にそっと手を置くと、こう言った。
「奥さんは……きっとそうなる天命だったんだよ」


 ライモンディ探偵事務所に戻ると、わたしはコーヒーを淹れた。そして大きく伸びをして言う。辛気臭い雰囲気を振り払おうとわざと大きく。
「なんか、どっと疲れたな」
 マーラは笑って頷いたが、どことなく影が見えた。マーラもうん、と伸びをしている。
「ええ、そうね」
 そして道化て彼女は続けた。
「まぁ、でも私の予感は当たってたんじゃないかしら」
「予感?」
「あれ? 言わなかった? 大事件の幕開けの予感がするって」
 そう言われてみれば、ジュリアナを「救出」しに行くときに……わたしは思い出して肩を竦めた。
「でも、まさか死者蘇生術まで絡んでくるなんて思わなかったけど」
 わたしがそう言うと、マーラも笑う。
「まあね」
 しばらく話が途切れた。重たい沈黙が流れる。わたしは無理に取り繕っていたが、内心ではジュゼッペに同情していたのである。
 それに耐え切れなくなって、わたしはマーラに尋ねる。
「運命って一体何なんだろうな」
「そうねぇ……例えば物事って偶然のように見えて必然性があるじゃない? 少なくとも私はそう思ってるんだけどね」
「……どういうことだ?」
「全て神様が最善の方法を選んでるのよ。そう信じましょ」
 わたしは納得がいかなかったが、頷いた。意外と敬虔なクリスチャンなんだな。皮肉が口をついて出そうになったが、飲み込む。わたしは笑って言った。
「ああ、そうだな」
 互いにしばらくコーヒーを飲んでいると、マーラは思い出したように言う。
「あぁ、そうそう、カール博士へお礼はまだだったわよね?」
「そう言えばそうだな……でもまぁ、俺が大学へ行ったときにでも挨拶するよ。それでいいんじゃないか?」
 わたしが言うと、マーラは首を振った。
「だめ、こういうことはきっちりしないと」
「意外と義理堅いんだな」
 わたしは苦笑交じりに言った。変人の割に、とそっと心の中で付け加えて。
「そんなの常識よ、車で行くから支度して」
 マーラはそう言うと、机の上に目を向ける。そして彼女は鍵束を掴むと、立ち上がったのだった。


「まさか本当にそんな力があったとは……信じられない」
 カールは頬を紅潮させてペンダントを眺めていたが、やがて呟いた。マーラは頷いて言う。
「ええ、わたしもです。そもそも道教は不老不死の方法を説いているんですか?」
 それを聞いて、カールは首を振った。
「一応、抱朴子(ほうぼくし)などには不老不死の方法が載ってます。しかしあんなものは私に言わせれば後世の勝手な解釈にすぎません。もともと不老不死なのは神仙……ヨーロッパで言えば神のようなものですね……のみに限られてるんです。人は天命を甘んじて受け入れる、これが道教の根本的な哲学です」
「なるほど……」
 マーラは神妙な面持ちで頷いている。不老不死にでも興味があるんだろうか。カールは気まずそうに咳払いをすると、説明を続けた。
「しかし道教の秘術があるとしたら、人の手には負えないかもしれません。中途半端な知識で使うと、悲劇しかもたらしませんから」
「そうですね」
 彼女は笑って頷くと、さらに続けた。
「今回はご協力、ありがとうございました」
「いえいえ、こんなに興奮したのは久しぶりだでした。こちらこそ、ありがとう」
 マーラは立ち上がると、わたしの肩を叩く。
「さぁ行くわよ」
「そうだな」
 わたしはカールに向き直ると立ち上がった。
「またよろしくお願いします」
 カールも立ち上がって、硬い握手を交わす。そうなのだ、来月からはヴェネト総合芸術大学の学生になるのだ。口に出すと改めて実感する。
 そんな感慨と不安、そして期待を胸に研究室を後にした。「そう、か。ジュゼッペがそんなことをしてたのか」と哀しげに溜息をつく彼の姿は忘れられないだろう。そう考えながらわたしとマーラは廊下を並んで歩いていた。
 わたしは手持ち無沙汰で、ペンダントを空中に放り投げてはキャッチする。マーラはそれを見て、言った。
「一応、証拠品なんだからね」
「はいはい」
 そう言うとわたしは首からぶら下げたが、何となく恥ずかしい。ペンダントをポケットに押し込んだ。マーラは階段の前にくるとわたしに言った。
「わたしはここで帰るけど、あなたどうする?」
「……俺はちょっと学内を探検するよ」
「解った。またね」
 そして小気味いい足音を響かせて、駆け下りる。しかし中二階で振り返った。
「どうした?」
「くれぐれもペンダントをなくさないようにね」
「はいはい、解りましたよ」
 わたしが言うと、マーラは安心したような笑みを浮かべた。
「よろしくね」
 エレベーターの甲高い音がなって振り返る。モリサキだった。陽気な顔が今日は恨めしい。
「あら、兄ちゃんじゃないの」
「も、モリサキ、どうしてここに?」
 それを聞いて、モリサキは答えた。
「講師として招かれたの。精神医学と芸術の関係について講演してくれって。……兄ちゃんこそ暗い顔してどうしたの?」
 わたしは彼女から目をそらして言った。
「ああ、ちょっとな」
「ふうん」
 気のない返事であるが、今のわたしには心地いい。わたしたちは並んで階段を降りる。
「なあ、モリサキ?」
「ん?」
 わたしは今までの経緯を彼女へ簡単に話した。あの不思議な体験もモリサキなら信じてくれそうな気がしたのである。彼女ならどう答えてくれるだろうか?
 彼女はときおり要点を確かめながら相槌を打っていた。わたしが話を終えると、彼女は息をついて言う。
「人間は永遠に生きられないの。どんな術を使ってもね。でもだからこそ〈生〉をありのままに受け止め、色んなものを大切にできるんじゃない?」
「色んな……もの?」
 わたしが聞くと、モリサキは頷いた。
「時間とか、犬とか自然そのもの……他者(ロトル)とかね。だって愛情って一緒にいたいって願うことでしょ? お互い永遠に生きられたらそんなことは思わないんじゃないのかな? もっと身勝手に振る舞うんじゃない?」
「ああ、そうだな」
 それを聞いて、わたしは言う。不思議と心のモヤは晴れていた。モリサキは満足そうに笑んでいたが、やがて口を開く。
「ねぇ、兄ちゃん。もう一つだけいいかな?」
「ん?」
「兄ちゃんは中途半端だって悩み続けてきたんだよね?」
「ああ……、イタリア人で中国人なのはまだいいんだ。男でありながら女っていうのが納得いかない!」
 わたしは今までの辛苦を思い出して、吐き捨てた。
「そうねぇ、ものはいいようだと思うけど」
 そう言うとモリサキは謎めいた微笑を浮かべて、続ける。
「昔、ギリシャでは薬と毒は同じ言い方をしてたって知ってる?」
「はぁ?」
 からかってるのか。そう思ってわたしは拳を固める。それを見てモリサキは笑った。
「薬は生死の間を行き来できるの。ちょっと意味は違うけど東洋にも『薬も過ぎれば毒となる』っていう諺があるわよ。兄ちゃんだってこれと同じじゃない? イタリア語と漢文の二つとも読めるんでしょ?」
「あ、ああ……」
「つまり二つの文字を知ってる(ハブ・エクリチュールズ)ということになるでしょ?」
 イタリア語の中にフランス語、そして英語が混じっているが、一つの言語であるかのように聞こえる。おそらく偶然なんだろうが、わざと三つの言葉を織り交ぜているようにも感じた。
「あぁ」
「気持ちは男でも女の身体を持ってる。これも二つの性を持っていることになるよね?」
 モリサキは一息ついて、さらに続けた。
「男性でありながら、女性でもある。でもだからこそ男性でも女性でもない。今まで宙吊りにされてるような気持ちできたんだ、と思う」
「……そうだな」
 わたしは彼女に心を見透かされているような気分になった。モリサキはわたしに眼差しを向けて、こう言う。
「でも、森羅万象、あらゆるものがこの世に宙吊りになってるの。塞翁之馬を覚えてる?」
「何となくだけどな」
「あれは塞翁の運がよかったわけじゃないと私は思ってるの。ただそれだけならこんなにも長く語られることなんかなかったんじゃない? 語られる(パロール)からには真理()、といったら大げさだけど、普遍的な何かが描かれていると思うの」
「え?」
 わたしは聞き返すと、モリサキは頷いた。
「例えば息子が落馬してケガを負っているっていう宙吊りの不安をありのままに受け止める。そこに塞翁の心の強さがある、とわたしは思ってるんだけど」
「心の強さ、か」
 わたしは溜息をつくと、言った。そんなもの持てるかどうか不安になったのである。モリサキはそんなわたしを、ただ何も言わずに眺めていた。きっと大丈夫、などという安易な気休めよりかは遥かにありがたい。
 わたしはふと思い出したことがあった。
「そういえば、あの時何か言おうとしてただろ?」
 モリサキが顔を上げる。
「え?」
「自覚がどうたらって言ってたけど、何のことだ? 今ならたっぷり時間が取れるぞ。何なら大学のカフェテラスにでも行くか?」
 歩いているうちにわたしはカフェテラスへの道案内を見つけ、指を差した。この時間なら大して混んではいないはずである。
「そうだね……、そもそも言うべきなのか? いや、でも……」
 モリサキは考え込んでいたが、やがてこう口を開いた。
「長くなるから、詳しくはコーヒーでも飲みながら話すけど兄ちゃんは仙人の血を受け継いでるんじゃない? 私の勘違いかもしれないけど」
 からかっているんだろうか、とも思ったがそんな顔ではない。わたしは、カフェテラスのドアを開けると適当な席に腰を下ろした。モリサキもわたしの向かいに座る。そよ風が入ってきて、気持ちがいい。
「で? 俺が仙人の子孫だって?」
 わたしが聞くと、モリサキは頷いてこう続けたのだった。
「うん、崑崙っていう山奥にある王が来たんだけどね……」




改稿に当たって

 この小説は、「近過去ゲーム開発研究所」様の依頼をもとに執筆した同名の小説を一部改稿したものです。なお、改稿箇所は以下の三点に限られています。
 1.ゲーム添付版にはバスィ、タクスィなどの日本人には馴染みの薄い表記がなされています。それをバス、タクシーなどの表記に改めました。
 2.ゲーム添付版には呵々という笑いの擬音語が用いられています。これを全てホホに改めました。1.と同様の理由からです。
 3.PDFで配布するつもりでしたが、容量の関係からHTML5に変換しました。
 4.誤字、脱字などの修正
 お恥ずかしながら3箇所、誤字がありました。

 末筆ながら、「近過去ゲーム開発研究所」代表の夏羽様、そして列子、荘子などの資料を快く貸してくださったTOY BOXの影猫君に厚く御礼申し上げます。
 なお誤字脱字など一言一句に至るまで、小説における全責任は有沢翔治にあります。


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