面影

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「ごめんなさい」
 真面目そうな青年、小田裕一は会議室に日本人形のようにふっくらとした顔立ちの恋人、堀内容子に呼び出された。何だろう、と首を傾げながらきてみると突然そう言われたのだ。
 外は真っ暗で鏡のように小田のきょとんとした姿を映し出していた。
「え?何で謝るんだよ」
「私ね、他に好きな人ができたの」
「ちょっと待ってくれよ」
 と小田は引き攣った笑いを浮かべ、
「じゃあ、僕たちの関係は…?」
「言いにくいんだけど…別れて欲しいな」
「冗談じゃない」
 小田は首を振った。
「大体付き合おう、と言ったのは容子じゃないか」
「そのことは悪いと思ってるわ」
 容子も強く言って、
「でも仕方ないじゃない!」
「二股でも構わないから」
 と泣きすがる。
「頼むよ」
「二股って…それじゃ彼に失礼じゃない」
 と容子は叫んで、
「冗談じゃないわ」
「じゃあ、俺はどうなってもいいのか?」
「誰もそんなこと言ってないじゃない」
 と、容子は優しく言って、
「お互い若いんだし、ね?」
 これ以上言ってもムダだ。そう思って小田は呟いた。
「…解った。別れよう」
 小田が窓の外を見ると雨が振り出しているのが見えた。容子はヒールを響かせ、薄暗い廊下に消えていったのである。

「おい、顔が青いぞ。どうかしたのか?」
 翌日、オフィスで上司に声を掛けられ、
「いえ、何でもありません」
 そう答えると、容子をちらりと見る。彼女の鼻歌混じりにパソコンに向かっている。やがて若い男性が容子の側へやってきて、親しげに話し始めた。
「お昼、何食べる?」
「スパゲッティがいいな」
 などと話しているのを小田は盗み聞きして、溜息を吐いた。
「俺もお昼にしよう」
 と呟いて、小田は寒々とした廊下に出た。
 外はもっと寒く、小田はコートの襟を立てた。もしかしたらこんなに寒いのは乱立するオフィスのせいかもしれない。向かいの工事現場を見てそう思った。こんなに立てて何の意味があるんだろう?
 手をつないだ若い男女が小田の前を横切る。それを見て、小田は容子と重ね合わせていた。それを振り払うかのように強くかぶりを振る。
「どこで飯を食おう」
 と小田は呟く。できればカップルなんかいない店で食べたい。だが、そんな彼の思いとは裏腹に街はカップルで溢れかえっていたのだった。
 裏路地を見つけ、その光景を逃れるかのように入る。真昼だと言うのに暗く、じめじめとしていた。
「こんな場所があったんだ」
 と思わず呟いた。「そば屋」と今にも崩れ落ちそうな看板がある。まだやってるかな、と思い小田は木戸を開ける。
「いらっしゃい」
 陰気な店主の声が響いた。店内は昼時だというのに閑散としていて、店主すら赤鉛筆片手に競馬新聞を読んでいる。小さなTVには馬が映し出されていた。
 小田が適当に腰を下ろすと、店主は不機嫌そうに茶を運んできた。小田はぬるい茶を啜りながら、盛りソバを注文する。
 店主がソバをゆでている間、手持ちぶさただった小田は何気なく店内を見回した。
「容子…」
 棚に置いてある人形を見て、思わず呟いた。その人形はどこか容子の面影を残しているのである。そう思い始めると彼女に見えて仕方がない。
 しかし店主は間違いなく、小田を変な人と思うだろう。ここで逃したらもう二度と手に入らないのも事実だ。
「おじさん」
 と意を決して話しかける。店主は、
「何だ?」
「あの人形…」
「あぁ、あの人形か。娘が小さい頃遊んでた人形だよ」
「私に譲ってくれませんか?」
 店主は小田を疑り深そうな目でみる。
「何に使うんじゃ?」
「…いや、娘のクリスマスプレゼントに」
 かつての恋人に似てるから、と言ったら変態扱いされてしまうだろう。ただでさえ 陰惨な事件が相次いでいるのに!
 店主はしばらく考えていたが、
「あぁ、構わないよ」
 と言った。

 小田はアパートのドアを開いた。六畳間のアパートはきちんと整理されている。ステンレス製の本棚にはパソコン関係の本が並んでいた。
 逸る気持ちを抑えながら、バッグから人形を出す。まず机の引き出しにしまって、時折眺める。しかし寂しさを感じ、机の上に置いた。
「うーん、これだと仕事の邪魔になるなぁ」
 そう呟くと、本棚の上に移す。それを見て、満足そうに頷いた。容子が見ていてくれてるような気がして、仕事の励みになるのだった。

「おはよう」
 朝のオフィスで容子にぎこちなく挨拶をされた。彼女は俯いて、小田とは目を合わせたくないようだ。昨日のことを気にしてるんだろう。いい友達でいたいと思って、小田は笑顔で、
「おはよう」
「よかった」
 と容子も笑顔になる。
「え?何が?」
「だって昨日の小田君、顔が真っ青だったもん」
「あぁ、あれか。もう立ち直ったから心配ないよ」
 容子の顔が一瞬曇るのを見て、小田は慌てた。容子のことなんてどうでもいい、と思われたと感じたのだ。
「もちろん昨日はビールを飲みまくったけどね」
「大丈夫?」
 申し訳なさそうに言う容子に、小田は、
「いつものことさ」
 そのとき、昨日の男性が親しげに容子の肩を叩いて、
「おはよう!」
「あぁ、おはよう」
 と言ってデスクに腰を下ろす。
「今のが新しい彼氏?」
「うん…」
 恥ずかしそうに俯いて答える。小田は引き攣った笑いを浮かべ、
「よかったじゃないか、いい人そうで」
「うん、小田君も新しい人見つけてね」
「あ、ありがとう」
 と言うと始業のチャイムが鳴ったのだった。

 小田が疲れ果てた身体を引きずりながらアパートに戻ると人形が落ちているのが目に留まった。恐らく何かの拍子に落ちたんだろう。人形の埃を二回、手で払うと本棚に戻そうとした。
 しかしよく考えるとそこは安定せず、落ちて当たり前の場所なのだ。
「粘着テープで止めようかな」
 と呟いて腕時計を見る。今から買いに行くのも面倒だ、と八時を指しているのを見て思った。それに何だか可哀想な気もする。
 ふと机の上を見た。あそこなら安定して、落ちることはないだろう。それにいつでも容子といられるような気がする。
「まぁ、大丈夫だろう…」
 と呟いて、机の上に置いたのだった。

「おはよう、小田君」
 容子が声を掛ける。何となしにウキウキしているようだ。
「あぁ、おはよう」
「ねぇ、今日の忘年会くるでしょ?」
 目が輝いているのを見て、容子が見かけによらず酒豪だったことを思い出す。
「うーん、どうしようなぁ」
「何か用事でも入ってるの?例えばデートとか」
「まさか」
 と小田は笑って言う。しかしあの人形とデートしている自分を小田は想像していた。これじゃ変態だ!と妄想を振り払う。人形に恋をするなんてどうかしてる。
 そんな小田を容子は心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫?」
「あ、あぁ」
「今日の忘年会は休んだ方が…」
「いや、行くよ」
 仲間と酒でも飲んだら容子への未練も振り切れるかもしれない。
「でも…」
「いや、行くってば」
 強く言って小田は自分に言い聞かせるように、こう呟いた。
「僕は大丈夫だから」

「ただいまぁ」
 と知らず知らずに呟いて、机に目をやった。この人形を目にすると、会社の疲れも一気に吹き飛ぶ。まるで本物の恋人が待っているかのようだった。
 いや、本物の恋人以上かもしれない、と彼は思った。容子と付き合っていときは時折、衝突していたのを思い出す。
 「もっと早く電話しろ」だの「もっとメール返せないのか」だの言っていた。しかし今は違う。どんなに遅く帰ってきても、文句一つ言わず、ただ笑顔を浮かべているのである。
「人形だから当たり前か」
 と呟いた。しかし小田は人形のつぶらな目を見ていると、一人の女性として見てしまう。彼女は撫でて欲しいと目で訴えかけているかのようだった。
「そんなわけない!」
 小田は強く言って、頭を振った。
「今日は飲みすぎたんだろう。たかが人形だぞ」
 と言うと、乾いた笑いを浮かべる。しかしこの人形を見ていると、愛撫したくなる。小田ははばかるように辺りを見回し、
「誰もいないな」
 と確かめた。人形に手を伸ばすと、暑いヤカンにでも触れたかのように引っ込める。これじゃ変態じゃないか!何考えてるんだ、と自分を叱責した。
「ちょっとくらいなら…」
 と人形に手を伸ばすと、ゆっくりと手を引っ込める。小田は諦めがつかず、人形を見た。
「よし」
 覚悟を決めて人形を掴むとセルロイドの冷たく、硬い感触が伝わってくる。それを感じて、安堵した。
「何だ。しょせん人形か」
 しかし手に取ってまじまじと眺めていると、徐々に温かみを帯びてくる。小田にはそれが人肌のように感じられた。
 そして彼は知らず知らず、愛撫してこう呟いていた。
「容子…」

 小田はオフィスで鼻歌を歌っていた。それを聞いて、容子が、
「何かいいことでもあった?」
「うん、まあね」
「そう、新しい彼女でもできたとか?」
「まぁ…そんなところかな?」
「へぇ、よかったじゃない」
 と素直に言うのを聞いて、小田は果たしてよかったと言えるんだろうか、と首を捻ったのだった。

「ただいま、容子」
 とコンビニエンス・ストアの袋をぶら下げ、ドアを開ける。電気を点ける。真っ先に人形に話しかけながら、頬擦りをする。
「寂しかっただろう…うんうん、そうか…。さぁ、一緒にご飯を食べよう」
 人形を膝の上に置くと袋からおにぎりを出し、
「おいしいね…そうか、容子はシーチキンが好きなのか…。現代っ子だね…。明日からシーチキンのおにぎりを買ってくるからね。…いやいや、容子のためなら」
 などと話しかけながら食べ始めた。
「今日さ、課長に怒鳴られちゃった。お前は近頃散漫だ!昔のお前ならこんなミスはしなかったって…何もあんな言い方しなくてもいいのにな、でも容子…、君がいるから頑張れるんだよ」
 微笑み続けている人形を見て、小田は、
「えらいね…。嫌な顔一つしないで聞いてくれる。愛してるよ。普通の女の子なら内心、また愚痴ってるって思われるよ。だけど容子は違う…。不平を漏らしたりしない。大好きだよ」
 と人形の頬に軽くキスをして、愛撫する。
「そうだ、いつまでもそんな格好じゃ寒いだろう、明日服を買ってきてあげるよ…。そうかそうか、嬉しいか…。容子に喜んでもらえて僕も嬉しいよ…。どんな色がいい?…そうか、黒か…首筋も寒いからマフラーも買ってきてあげるからね。…ちょっと待ってて。お風呂入れてくる」
 そう<容子>に告げると立ち上がった。

 容子は小田のアパートの前に立っていた。白塗りのアパートは今にも崩れそうだ。日はもうどっぷり暮れている。
「私のせいじゃないわよね」
 もしかしたら失恋のショックからじゃないかしら。近頃、彼が何かと理由をつけて欠勤していて、心配になったのである。とは言え、小田の顔はむしろ生き生きと輝いていた。だから心配ないのかもしれない。そう思いながらも責任感の強い容子は心配になってしまうのである。
「やっぱり咲江に見てもらえばよかったかなぁ」
 咲江とは小田と容子の共通の友達で、人を励ますのが得意なOLである。悩みはまず彼女に相談するのが常であった。
 いつも甘えてちゃいけない、と思い直し、一歩一歩錆び付いた階段を上がっていく。小田の部屋が近付くに連れ、何やら話し声が聞こえてきた。
「容子…、おいしいね」
 よかった!新しい彼女ができて浮かれてるだけだったらしい。彼女が安堵の息を吐くと同時に、怒りが湧き起こってきた。
 女ごときで会社を休むなんて許せない!と吐き捨てるように心の中で言う。その根性叩きなおしてやる。
 ドアノブを引っつかむと勢いよく開ける。
「ちょっと小田君!」
 と叫ぶと、
「彼女ができたからって…」
 その光景を見て絶句し、思わず表札を確かめる。部屋中にカップ麺や弁当の袋が散乱し、虫がたかっていた。小田の目は深く落ち込んで、頬はこけているが、目はらんらんと輝いている。ドスッと容子のバッグが落ちた。
「やぁ、容子」
 小田は手に持っているボロボロの人形を容子に見せ、こう話しかけた。
「これが新しい彼女だよ。可愛いだろう?ほら…挨拶してるよ…」
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