人を殺す。物を壊す。どちらも原子の塊を傷つけ、破壊している事に違いはない。 そもそも、人も物である。『人物』という言葉がそれを立証している。だからして、《殺し》とは《破壊》であり、《殺人》とは《壊人》なのである。 《殺人》や《壊人》とは、単に人物をナイフで刺し殺したり、紐で絞め殺したりする《殺し》だけとは限らない。精神の《破壊》という殺し方もある。 近親者の惨殺死体を見た人物が口をきけなくなったりする。それもまた《壊人》であり、詳しく言えば《精神破壊》である。それもまた《殺し》ではあるが、これは未遂に終わっている。その人物は、精神の破壊により、会話機能という破壊される前には備えていた一部分を失った。それは角の部分が破壊されてしまったブロックと同じようなものだと言えば分かりやすいだろうか。 《精神破壊》は、時に《殺人》となる。それはたとえば、学校でいじめられた生徒が精神を破壊され、ついにはその生徒は自殺をする、ということである。いじめという《精神破壊》行為が、その人物を自殺という自己の破壊行為に導かせたのだ。 壊れた物は、何故壊れたのか? その問いには誰でも簡単に答えることが出来る。それは壊れた物が脆かったからだ。たとえばそれは、紙を鋏で切る行為であったり、パンを引き裂く行為であったり、ブロックを粉々に叩き壊す行為であったりする。そして、それら破壊例の中にもう一つ加えるべき事柄がある。それは、人間の自殺をする行為である。自殺とは、前述したとおり、いじめという精神破壊行為によって破壊された精神が、自己の破壊という行為に導かせたことである。だが、皆が皆、いじめられれば自殺するわけではない。いじめに耐え、生き抜く物もいれば、耐え切れず自殺する物もいる。それは、いじめを受ける人物の精神力の頑強さによる違いである。自殺するものは精神が脆く、自殺しないものは精神が強い。単純なことである。 人を殺す事も、物を壊す事も、同じ破壊行為なのである。 《殺し》とは《破壊》であり、《破壊》とは《物》を《壊す》事である。つまるところ、《殺し》とは《殺物》なのだ。 『殺してやる』という言葉を聞いて、戦慄しない物がいるだろうか。それが冗談であれば話は別だが、それは本気で《殺し》にかかってくるとしたら…… 《殺し》とは怖ろしい行為なのだ。だからして、《殺し》と同じ《殺物》もまた、怖ろしい行為のはずである。同じ怖ろしい行為ならば、その恐怖なども等しいのだ。 つまり、《殺人》=《殺物》であり、人も物なのだから、最終的にそれは《殺物》の一語で纏めることが可能となる。 そして、《人殺し》と《物壊し》は同じものであり、《壊す》事は《殺す》事なのだから《物壊し》は《物殺し》となる。 《殺し》は残虐非道な行いなのだから、その対象が人であろうと物であろうと同じことになる。 つまり、人と物は同等に尊重されるべき、ということになるのだ。 ――イギリスの哲学者シュベルト・アストル著『殺物論』より抜粋 |
*目次*プロローグ第一章――強盗殺人事件第二章――殺物事件第三章――クリスマスプレゼントの代償第四章――クリスマスプレゼント |
デブ | 持ち物 | ノッポ |
× | >サングラス | ○ |
○ | マスク | ×|
× | 手袋 | ○ |
手にもっていた | コート | ○ |
風邪気味 | 備考 | 例の言葉を喋る |
読者への挑戦状さて、もう言うまでもないが、作中の岩崎幹はガッチョン自身であるのか? 何てバレバレの問題をふっかけるつもりなどは毛頭無い。問題の構成がいつもと違うので、どこから推理していいものか、多少混乱されている人がいるかもしれない。その為にちょっぴりヒントをここで公開します。 今回の推理のポイントは少年が何を見たか…それはクリスマス風に装飾された看板。そこでどうして『襲われる』という言葉を連想できたのか? そしてサンタは本当に狙撃されたのか? そこにも微妙な伏線を作っておいたので、気づいていただければ幸いです。 |