動機の捕らえ方の変遷


推理小説とは何か

 推理小説と動機の移り変わりを見ていく中で重要なのは「推理小説とは何か」という問題である。なぜなら江戸川乱歩「幻影城」によると、ドストエフスキー「罪と罰」(1866)を推理小説として捕らえる人もいるからである。
 またここで、「推理小説」と言っているのはエラリイ・クイーンやジョン・ディクソン・カーを筆頭とする本格派推理小説のことである。本格派推理小説の定義としてはヴァン・ダインや、ロナルド・ノックスが言っている「読者に全ての手掛かりを提示し」た推理小説である。
 それ故、しばしば言われることだが、ゲーム的になりすぎるという批判を浴びせられるのは周知の事実であろう。本稿では本格推理小説の動機に対する扱われ方の変遷を個々の作品を挙げ見ていくことにする。

黎明期

 さて、コナン・ドイル「まだらの紐」(1892)を本格推理小説として位置付けた理由は密室、ダイイング・メッセージが合理的解決によって解決している、という点である。「まだらの紐」の犯人、ロイロット博士は「結婚すればそれぞれ二百五十ポンドずつもらう権利が」生じるという金銭欲に取り憑かれての犯行である。
 しかし「ボール箱」(1893)は暴力を振るわれても離婚できないカトリック教の教えが原因で殺人を犯す。これもなぜ耳をスーザン・カッシングに送りつけたか、という本格推理小説の要素が盛り込まれている。
 他に証拠隠蔽が動機の「スリー・ゲイブルズ」(1926)、復讐が動機の「悪魔の足」(1910)など素朴ながらも多種多様な犯罪の動機が描かれている。

黄金期

 次に本格派の始祖、エラリイ・クイーン「ローマ帽子の謎」(1929)を見てみよう。これは「読者への挑戦」が差し挟まれていることからも解るように紛れもない本格である。
 さて肝心の動機であるがリチャード・クイーン警視の「やはり黒い血か」という言葉のみで片付けられてしまっている。黒人であることを理由に加害者から依頼を断られたなどならまだ納得が行くが、黒人だからという動機はあまりにも乱暴すぎる。
 この動機を軽視する傾向はエラリイ・クイーンに限ったことではない。見立て殺人と心理面からの探究という推理法で有名な「僧正殺人事件」(1929)も幼稚性の現れからだという乱暴極まりない動機付けである。しかもこの作品は心理面からのアプローチを試みているだけに余計、その杜撰さが目立つ。そして、この本格派における動機軽視の傾向は、二階堂黎人「地獄の奇術師」(1992)、綾辻行人「十角館の殺人」(1987)まで受け継がれていくこととなる。
 ではなぜ、動機の軽視が見られるのだろうか。高柳太一は修士論文「探偵小説の理論-形式化とデータベース」の中でこの理由を第一次大戦に求めている。つまり第一次世界大戦が個性を破壊した影響で本格推理小説の登場人物も動機を喪失したというのだ。
 しかしこの理論だと次章で紹介するアガサ・クリスティの事例や第二次大戦中に描いたウィリアム・アイリッシュが書いた「喪服のランデヴー」(1948)の説明がつかない。「喪服のランデヴー」はジョニー・マーの人間性やそれを追う刑事の必死さが伝わってくる。戦争の影響だとすると1945年に終わった第二次大戦の影響を受け、無個性になっていなければならないはずである。
 恐らく動機軽視の理由はエラリイ・クイーンがドイルの作品をパズル小説として見ていたことに起因するのではなかろうか。初期短編集「シャーロック・ホームズの冒険」や「シャーロック・ホームズの思い出」を見てみるとパズル的な要素が多い。その典型なのが「まだらの紐」である。
 その他にも暗号解読を扱った、「マスグレーヴ家の儀式」(1893)「グロリア・スコット」(1893)などや、異常な行動を扱った「赤毛連盟」(1891)、意外な犯人の「シルヴァー・ブレイス」(1892)などパズル的要素の強い作品が見られる。
 そうなってくると動機や人間性軽視の理由は明白となってくる。人間性を描くことは、パズルを行うに辺り大きな障壁となってくるのだ。藤原宰太郎のパズル本や、数学パズルでよくある「誰かが嘘を吐いている」などと一緒なのである。本格推理小説の本質はああいったパズル本に凝縮されていると言っても過言ではない。

エルキュール・ポワロの探偵法の限界

 では、なぜパズルを行うに当たって人間心理が邪魔になるのだろうか。例えばアガサ・クリスティ「ABC殺人事件」(1936)でポワロが、

ここでちょっと推理してみましょう。ABC時刻表を選んだことは鉄道に関心を持つ男を連想させます。これは女より男に多い傾向です。男の子というものは、女の子より鉄道が好きなものです。

と言い、更に「少年らしい動機がいまだに支配している」と推理している。
 パズルである以上、他の解答があってはいけないのが大原則であるにも拘らず、心理的な方法でアプローチを試みると上のような杜撰な推理がまかりとおってしまう。
 鉄道が好きな女性は少ないかもしれないが、全くゼロというわけではない。数学的な考え方が背景にある本格派推理小説において、証明の段階で穴があってはいけないのだ。それは「ヴァン・ダインの十戒」などにも厳しく明言されている。
 アガサ・クリスティは黄金期にしては珍しく、動機を重んじている。確かに短編などでは、動機が軽いが「巻尺殺人事件」(1950)では偶然の巡りあわせで殺人を犯さざるを得ないという犯行動機が描かれている。
 過去の犯罪が現在に影響される、という点ではドイル「グロリア・スコット」や生島治郎「時効は役に立たない」(1980)、松本清張「ゼロの焦点」(1971)など、古今東西様々な推理小説に見られる。この理由としては、最もシンプルな動機の一つが働いているのだろう。それともう一つの要因として、レイモンド・チャンドラーの論文「簡単な殺人法」の序文で「一般探偵小説の情緒的基盤は、殺人はあばかれ正義が行われるという点にあった」と述べている。
 これは過去の犯罪においても同様で、あばかれなければいけない。しかしそれには何らかのきっかけが必要だろう。最も簡単なのは、過去に犯罪を行った人がまた同じ、あるいはそれ以上の犯罪を行うというものだろう。つまり神の力によって罰せられるという構図である。この起源は旧約聖書の「カインとアベル」に求めることができる。また、Masaru Sによると旧約聖書・伝道の道第10章8節にはHe that diggeth a pit,shall fall into it:and he that braketh, a serpenr shall bite him(落とし穴を掘れば自分が落ち、石垣を崩せば蛇に噛まれる)という言葉があるそうである。これは日本で言う自業自得という意味だろう。このようなキリスト的な背景も関連している。
 さて、「そして誰もいなくなった」(1939)は一章をまるまま、動機に捧げるという力の入れようである。インディアン島に集められた人物は全員、部下をわざと危険な場所へ行かせた元軍人など法律では裁けない罪を犯している。そこで彼らに犯人は罰を与えるが、本来神の仕事であるそれを人間が代行したので最終的に身の破滅につながっている。

松本清張の影響

 さて、近年においてようやく我が国では動機の重要性が再認識され始めた。その原因は松本清張の影響があるのではなかろうか。
 今更取り上げるまでもないが、松本清張は社会派推理小説の基盤を作った人物だ。例えば「ゼロの焦点」ではアメリカ基地問題を巡り殺人が起こる話だし、「一年半待て」は近年取りざたされているドメスティック・ヴァイオレンスや自動虐待がテーマになっている。このように社会派推理小説とは、事件をめぐる様々な社会的背景を浮き彫りにするタイプのものである。
 さてこれがどう本格と結びつくのか。例えば西村京太郎「殺しの双曲線」(1979)は倒れている老婆に誰も手を差し延べないという都市に住む人の無関心さが殺人の引き金になっている。この作品は嵐の山荘という本格ならではの舞台設定と、先の動機が描かれている作品である。
 また島田荘司「死者が飲む水」(1983)も田舎ものの差別と権力者の汚さという社会派推理小説のテーマとアリバイ崩しというクロフツに代表される本格のテーマが盛り込まれている。
 「屋根裏通信」に掲載されている森下祐行は評論「本格ミステリ冬の時代はあったのか」で「だって、やっぱり、今書く人は松本清張の先例を受けていなければいけないでしょう」と語っている。
 また、フランシス・アイルズ「殺意」(1931)の影響も色濃いと考えられる。この作品は怨みが殺意に変わる過程を描いた「犯罪心理小説」の部類に入るが、始めて動機のみに着目した推理小説である。
 確かに汚職や虐待、医療ミスなどは社会に絡んでいるが、復讐、嫉妬、欲望などは個人レベルの動機である。この心理を描いた小説の起源は古く、嫉妬は「アベルとカイン」、「オセロ」(1603)、復讐は「ハムレット」(1602)、欲望を描いた作品としては「マクベス」(1606)などがある。これらの純文学的な基盤やドイル時代に素朴ながらも動機が描かれていることを考えると、個人レベルの動機に着目するのは当然の流れといえよう。
 個人レベルの動機に力を入れている作家は「金田一少年の事件簿」である。短編は動機がなおざりになっているが、長編は動機が濃密に描かれている。例えば「飛騨からくり屋敷殺人事件」は貧しい家の子と裕福な家の子を嬰児交換せざるを得ない、という母親の愛を窺わせる作品である。
 しかしこれらの作品は全て動機とトリックが分離している感が否めない。例えば西村京太郎「殺しの双曲線」を例に取ると、なぜ嵐の山荘で連続殺人を企てたのかということだ。世間に対する反抗なら、地下鉄にサリンを撒いたり、飛行機をハイジャックして突込んだりと色々方法はあるはずである。実際、その方が話題になるため犯人の目的かを考えると理に叶っている。
 つまり、本格の舞台設定を用意する必然性が全くなく、単なるつけたしという印象が否めないのである。昨今の動機の扱い方における問題点はそこではなかろうか。
 さらに綾辻行人、二階堂黎人ら一部の新本格作家は動機を意識的に書かないようにしているように見受けられる。例えば「吸血の家」(1990)は動機が「嫉妬に燃えた乳母が残虐な遊びを教えた」の一言で片付けられていて、皆無に等しい。彼らの最大の問題はこのように初期クイーン作品の影響を受けすぎていて、短所もそのまま踏襲している点だろう 。

結論

 エラリイ・クイーンらによって一時は壊滅しかけた推理小説の動機は松本清張や、フランシス・アイルズを経て復興した。しかし、それらは動機とトリック面が別々に分離した素朴な方法である。これからの課題はいかに動機とトリック面を有機的に結合させ、洗練されたものに持っていくかだろう。

参考文献