推理小説は児童文学として相応しいか


1.推理小説と児童文学の定義

 論じるに当たり、まず推理小説の定義と児童文学の定義を明らかにしなければならないだろう。
 wikipediaを引いてみると、推理小説は「殺人・盗難など、何らかの事件・犯罪の発生とその解決に向けての経過を描くもの」とある。ここで注意して頂きたいのは、上の文で言う事件とは必ずしも犯罪とは限らない、ということである。例えばコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの冒険」の中の「唇の捩れた男」は犯罪とは言いがたい。
 また最近では、北村薫「空飛ぶ馬」などの犯罪性が全くない推理小説も生み出されている。
 つまり推理小説とは何らかの謎が論理的に解明される物語なのである。

 一方、児童文学は「0歳から10才程度の子どもを読者として想定する文学ジャンル」で「子どもや若年者の感化を念頭に置いた、教育的な意図、配慮がその根底にあるものが多く、子どもの興味や発育に応じた、平易な言葉で書かれる」とある。
 ここでいう児童文学とはこれに従う事とする。

2.現在刊行されている児童向けの推理小説

 では実際に現在刊行されている児童向けの推理小説を挙げてみよう。

事例1、江戸川乱歩「少年探偵段シリーズ」

 まず典型的な例として、江戸川乱歩「少年探偵段」シリーズを挙げる。児童向けの推理小説として工夫されている点はその他のシリーズに比べ、殺人が起こらないということと、主に小中学生が物語の主役だということである。これは「教育的配慮がなされている」と見なしてよく、児童文学の定義に当てはまるだろう。

事例2、コナン・ドイル原作シリーズ

 さて、我が国でコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズが最も児童書として編集された数が多い。
 中でも有名なのはポプラ社から出ている、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズでほとんどの小中学校の図書館や、公共図書館の児童書コーナーにおいてあるようである。
 また、「シャーロック・ホームズの算数パズル」と呼ばれるパロディ本が出版されている。このことも、ホームズが児童に浸透している、という証拠になる。なぜなら、児童に浸透していないキャラクターを用いて、パロディ本を出版するとはおもえないからだ。「算数」という語を見て解るように、これは明らかに小学生をターゲットにした本である。

事例3、講談社主催「ミステリーランド」

 さて、講談社が主催している企画に「ミステリーランド」というものがある。これは、我孫子武丸、京極夏彦など現役の推理作家が児童向けに推理小説を書き下ろしているものだ。
 このような企画が組まれるということは児童向けの推理小説は商業的なマーケットが大きいことを意味する。つまり児童向けの推理小説は人気があるのである。

事例4、児童文学作家の書いた推理小説

 最後に児童文学作家の書いた推理小説を紹介する。最も有名なのは、「クマのプーさん」で知られるアラン・A・ミルンが書いた「赤屋敷の秘密」だろう。これは江戸川乱歩もベスト十に選ぶほどの出来栄えだ。
 また、「飛ぶ教室」で有名なエーリヒ・ケストナーも「エーミールと探偵たち」や「消え失せた密画」などユーモア・ミステリを書いている。彼はこれを含めて五つの推理小説を書いているが、どれも殺人が起こっていない。これは、殺人は児童の健全な育成の妨げになる、と考えたからではないだろうか。

3.果たして推理小説は児童にとって相応しいのか

 先の事実は実は言わば状況証拠であって、このままでは証拠能力に乏しい。第一、殺人事件は児童の健全な発育の妨げになる、といった理由から乱歩はそれをあつかわなかった。しかし、現在刊行されている児童向けの推理小説は殺人事件を扱っている。例えば名探偵コナンなどがそうである。
 ではなぜ殺人事件を描くと児童の健全な育成を阻むのだろうか。それは殺人と言う犯罪行為を助長しかねないからだ、と言われている。しかし果たして本当にそうなのだろうか。
 ここで有島武郎の「一房の葡萄」という有名な児童文学を例に挙げる。これは主人公の「僕」がクラスメイトの持っている舶来の絵具が欲しくてたまらなくなり、ついには盗ってしまう話である。しかし先生は責めず、「葡萄蔓から、一房の葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝の上らそれをおいて静かに部屋を出て行」っただけである。
 さて、この話の読者が盗みをしようと思うだろうか。「葡萄などはとても食べる気にならないで、いつまでも泣いてい」る主人公を見て、罪悪感の概念が植え付けられるのではないか。
 つまりただ犯罪行為を扱っている、ということだけでは「一房の葡萄」も窃盗を扱っていることとなり相応しくなくなってしまう。問題は作中で犯罪行為が肯定されているか否かなのである。
 では推理小説は犯罪を肯定しているのだろうか。僕はこのことを推理小説の結末で犯人が必ず逮捕される点から考えた。もし作家が犯罪を肯定していれば必ず逃げおおせる、という結末を用意しているはずである。つまり推理作家の多くは犯罪に対して否定的な立場であると推察できる。従って児童向けの推理小説を読むことは、児童に犯罪行為に対する罪悪感を植え付ける役割があると考える。

3.児童には相応しくない推理小説

 しかしその一方で、児童には相応しくない推理小説がある。この章では具体例を踏まえつつ、説明する。

例1、トマス・ハリス「羊たちの沈黙」

 児童には相応しくない推理小説の例としては、トマス・ハリス「羊たちの沈黙」などのサイコ・ホラーが挙げられる。サイコ・ホラーとは精神異常者の出てくる推理小説で、日本でも綾辻行人が「殺人鬼」などを書いている。
 サイコ・ホラーの特徴として、殺害方法の残虐性が挙げられる。例えば「羊たちの沈黙」だと「郵便配達員を殺して、食べ」る描写がある。
 また、この作品の問題は探偵役である、ハンニバル・レクター博士が残虐な殺人を犯しており、全く悔いていないところにある。つまり児童にとっては、探偵役とは犯人を捕まえる正義側の人間であり、その探偵役が殺人を犯すということは殺人を肯定している印象を与える。
 また歌野晶午「長い家の殺人」やコナン・ドイル「四つの署名」も探偵役が麻薬を肯定しているので、児童には相応しくない作品と言える。

例2、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」

 この作品はサディズム・マゾヒズムがテーマになっている作品である。本作はSM中の事故死という終わりなのだが、異常性欲に限らずベッドシーンは児童にとって悪影響を及ぼす。なぜなら、性交は善の行いだと認識することによって、強姦などの犯罪を除虫するからである。
 また同作家「盲獣」もSMを扱っており、児童には相応しくないと言えよう。

例2、クリストファー・ブッシュ「100%アリバイ」

 この作品は最後まで犯人が捕まらないという結末を用意することで、既存の推理小説を打ち破った作品だ。しかし、児童には犯罪を行っても逮捕されないという印象を与えてしまう。その結果、犯罪行為を助長する結果となってしまうのではなかろうか。

4.結論

 推理小説は犯罪を扱っている。しかしそのことで、児童に向いていないという結論は余りにも安直だ。重要なのは、読者の児童が犯罪を肯定的に受け止めるか否定的に受け止めるかである。

参考文献