関根隆吉は、浅黒く日焼けした老人で、体つきも逞しい。年齢はもう九十を 超えていて、その後は面倒くさくて数えていないそうだ。とても九十を過ぎた 老人には見えない。顔には少々しわがあり、髪の毛には所々白いものが混ざっ ているが、六十代半ばに見える。 「私、殺されそうなんです」  出された紅茶をゆっくりとすすり、関根はそう言った。 「ボディガードとして私の家に来て頂きたいのです」 「なにか、命にかかわることでも?」  眞司はソファに深く腰掛けて、関根を値踏みするような視線を投げている。 「車に轢かれそうになったことが何度か。初めは危ないと思うだけでしたが、 三回目のとき、はっきりと命の危険を感じたのです。私を殺そうと何度も狙っ てきたのですから」 「ほう。詳しくお話をお聞かせ願えますか?」  眞司は、大いに興味を示したようで、餌を目の前にした猫のような顔(?) をして、体を前に乗り出した。 「私は、心臓が弱いのです。健康診断で引っかかって、わかったんですよ。そ れを息子夫婦がかぎつけてね・・・。息子夫婦は揃いも揃って金に汚くて、孫 もいるんですが、これもまたダメな奴でして・・・」 「ほう」 「私の親類に千恵美というのがいまして。千恵美さん以外、心の許せる人間は 、私の家にはおりません」 「その、千恵美さんと同じ家に住んでるんですか?」 「ええ。彼女身寄りがないので」 「そうですか・・・」  関根は紅茶を飲み干すと、背広から小さな細長い手帳のようなものを取り出 した。見るからに高級そうな万年筆でそれに何かを書きこんで、ちぎってテー ブルの上に置いた。 「これで、仕事をしていただきたい」  目の前に置かれたのは小切手で、そこには10000000と記入されてい た。 「い、一千万円・・・・」 「この探偵事務所のお噂は聞いておりますから、これくらいなら動いてくださ るのではないかと思ったのですが、足りませんか?」  眞司は竜巻が起こりそうな勢いで首をぶるぶる振って、 「直ちに調査にかかります!」  とやや上ずった声で答えた。すると関根は満足そうな顔で頷いて、ゆっくり と立ち上がった。 「私の家は、少々広いので、使用人を雇っております。三人くらい増えても、 別におかしいことはないでしょうから。それでは、よろしくお願いします。明 日迎えに上がります」  関根は丁寧に頭を下げて、事務所から出て行った。 「眞司」 「どうした京介」 「眞司」 「なんだ香」 「これ、本物?」 「この紙が一千万円に化けるのか?」  京介が珍しそうに小切手を見つめ、ブラインドから差し込む太陽の光に透か してみたりしている。香は関根の飲んだカップを台所へ持って行き、自分専用 のコップに水を入れて戻ってきた。 「眞司、この仕事、そうそうあるもんじゃないわね」  水を軽く一口飲んで、言った。 「ああ。こんな事件、何年ぶりなんだろう!」 「嬉しそうだな」 「まあね。別にあの関根の爺さんに死んで欲しいわけじゃないけど、今まで散 々くだらない仕事をやってきたからな。さて、早速関根隆吉についての身元調 査だ。それと、その家族。交友関係まで徹底的に調べるんだ。京介、お前も手 伝え」 「俺も!? やっていいの?」 「香のアシスタントだ」 「ケチ!」 「また本人に聞かれたらかなわん。香の言う通りに動いていればいいから」  京介は納得の行かない顔をしていたが、渋々頷いた。 「わかった」 「ねぇ、健児、今日から新しい人が来るって言ってたけど」  だだっ広いアンティークで統一された豪華な内装の部屋の中、二人の男女が シルクのガウンを羽織って、コーヒーを飲んでいた。 「あの爺、俺に黙って余計なことしやがって・・・」  健児と呼ばれた男は、茶色い色眼鏡をかけていて、少々茶色がかった髪の毛 をきっちりと真ん中で分けている。中肉中背であるが、魅力的な顔をしていて 、女性になかなか人気がある。  都内の一等地に事務所を構える大手の不動産業を経営していて、金融業など にも手を広げていた。 「早く死んでくれたら、嬉しいのに」  誰に言うでもなく呟いて、美佐江はコーヒーを飲み干した。クローゼットの 前に行き、ガウンの紐を解く。しなやかで引き締まった裸体が健児の前に現れ た。 「朝から目の保養とはね」  健児はニヤニヤしながら、美佐江の後姿を眺めた。 「馬鹿ね。・・・健児、この前買ったロレックス、壊れちゃったの。新しいの買 ってもいい?」  くるりと後ろを向いて、 「いいでしょ?」  と甘ったるい声を出した。 「いくらでも買え」  ニヤニヤしてだらしない笑顔が、更に一層だらしなくなった。ふと健児は鏡 を見て、自分のしまらない顔を見て慌てて咳払いをすると、コードレス電話に 手を伸ばした。 「私だ。食事を頼む」  内線電話で使用人に連絡を入れる。ダイニングルームはあるが、健児は関根 の顔を見たくないのだ。それで美佐江と部屋の中で食事を取る事にしているの である。 「あの爺さん、心臓がだいぶ参ってるみたいだ。脅かしたら死ぬかもな」 「あなたまさか・・・」 「なんだ?」 「殺すつもりなの?」  健児はしばらく天井に目を向けて、なにやら考えると、 「さあね」  と美佐江に向けて微笑んだのだった。  眞司、香、京介の三人は、関根の遣したリムジン(!)に乗って、山道をゆ っくり進んでいた。  両側は深く木が生い茂り、木漏れ日がまぶしい。車がカーブにさしかかると 、少しスピードを落として、巨体が谷間へ落下しないように、器用にすり抜け て行った。 「凄ぇ、冷蔵庫だ!」  京介は、車に取り付けられている冷蔵庫に大喜び。電話だのワイングラスだ のなんだの、車についているのが珍しくてしょうがないのである。まるで、遊 園地にきた子供のようなはしゃぎっぷりだ。 「京介、静かにしろ!」 「だってよ、こんなのはじめてだぜ?」 「俺の車にだって、冷蔵庫くらいある。電話もついてる」 「冷蔵庫って言ったって、缶コーヒー冷やしたりするだけの小さい奴じゃない か。電話なんか携帯電話を乗っけるホルダーがあるだけだろ」 「冷蔵庫と電話に変わりない」 「二人とも馬鹿なことやってないで、窓の外見て御覧なさいよ」  窓の外を見ていた香が、眞司と京介の低レベルな争いに嫌気がさして、口を 挟んだ。眞司と京介はしばらく争いをおあずけにして、窓の外に見える、赤レ ンガの建物を見つめた。  童話に出てくるような、立派な城である。建物の四方を、守るように聳え( そびえ)立つ塔。建物の全体は見えないが、かなりの大きさであることが伺え る。しばらく城が見えたと思うと、視界はまた森に閉ざされた。 「凄い・・・」 「ああ・・・」  眞司と京介は口をあんぐりと馬鹿みたいにあけて、呆然としている。香は、 男って馬鹿みたいと思ったのだった。  ようやく車が「城」に到着した。赤坂の迎賓館を思わせる立派な門が開いて 、リムジンがゆっくりと滑り込む。玄関の前までゆっくりと走り、横付けされ ると、使用人と思しき女性がドアを開けた。 「旦那様がお待ちです」  出迎えてくれたのは、髪に白いものが混じっていて、顔に刻まれたしわが、 くっきりと浮かび上がっている。手もガサガサで、七十歳は超えているような 老婆だった。  老婆に招き入れられるように屋敷の中に足を踏み入れると、中世ヨーロッパ の貴族の家に迷い込んだような感じである。 「鎧だ・・・」 「凄いなあ」 「眞司、私もこんな家が欲しい」 「俺に言うな」 「俺もダメだぜ」 「京介君には期待してないから」 「香ちゃん・・・」  京介は、シュンとなって、とぼとぼと後をついていくのだった。 「本日から、この屋敷で働いていただく、中山眞司さんと、中山香さん、ご夫 婦だ。それと、神山京介さん。よろしく」  大広間に通された三人は、エプロン姿だった。使用人の制服とでも言うのだ ろうか。 「私の身の回りの世話をしていただく」 「よろしくお願いします」  眞司、香、京介の、ヘタクソなコーラスが、大広間の中を元気よく響いたの だった・・・  使用人として関根の屋敷にやってきた三人は、各自に割り振られた部屋に入 って、休憩していた。眞司と香が同室で、京介だけが一人部屋である。 「何で俺だけ一人なんだよ」  京介は部屋に入って、椅子に腰を下ろした。 「寂しいじゃないか」  要するに、独りぼっちになるのが嫌なのである。 「飯は旨そうなのが出るんだろうな・・・」  仕事よりも食い気が優先するようだ。  煙草に火をつけて、煙を深く吸いこむ。メンソールの煙草で、吸いこむと清 涼感で口の中が満たされて行く。煙を吐き出してガラスの灰皿に置くと、京介 は窓の外に目を向けた。  広大な庭である。庭と言うより、野原と言ったほうが正解だろうか。柔らか そうな芝生が青々と生い茂り、太陽の光で鮮やかに発色している。東京ではお 目にかかることのできない、見事な芝生だ。 「こんなところで一生暮らせるなら、幸せだろうなあ・・・」  京介は、誰もが一度は口にした台詞を吐き出して、また煙草に口をつけた。  眞司と香は、大きなダブルベッドを見て、呆然としていた。 「なによ、これ」  といきなり不服そうな声を上げたのは香だった。 「いいじゃないか、俺達夫婦だろ」  と、眞司はご満悦の様子。 「あのね、私達は仕事できてるのよ」 「わかってるよそんなこと」 「ちょっと! 嫌らしい目つきで見ないでよ!」 「どこがだ!」  と言い合ってから、お互いの顔を見合わせて、大笑いをしたのである。なん だかんだいって仲がいいのだ。二人はベッドにそっと腰を下ろすと、お互いの 顔をもう一度見つめた。  お互いの顔の位置は、握りこぶし二つくらいあいていて、そのまま顔を近づ ければ、自然と唇同士が接触することになる。ただ、そのまま顔を持って行っ たのでは鼻同士が接触して見るも無残な事故が発生する恐れがある。どちらか が顔を少し傾けて、鼻同士の接触を回避しなければならない。この役は香が買 って出たようだ。  香が少し顔を傾けて、キスには絶好のポジションになった。だが、まだ問題 がある。お互い目を開けていたのでは、互いの馬鹿みたいな顔が丸見えで、吹 き出す恐れがある。にらめっこ大会をやるわけではない。となると、二人とも 目を閉じることになる。普通にぎゅっと瞑ったら今度はなにも見えないので、 少しだけ開けておくのがよろしい。あとは、そのまま徐々に徐々に距離を詰め ていって、そっと唇同士がドッキングすればいいのだ。お互いの息遣いが聞こ えてくる。もう少し、もう少し・・・  電話がけたたましく鳴り出した。おかげで眞司がズルッとバランスを崩して 、香の胸に、香は眞司の後頭部にあごをぶつける形で、見事ドッキングに失敗 、墜落したのである。 「畜生!」  眞司がやおら立ち上がって受話器を上げ、 「もしもし?」  と不機嫌そうな声で言った。電話の相手は京介だった。 「お楽しみ、邪魔したか?」  といたずらっぽく言った。 「京介、失業者になりたくなかったら大人しくしてろ!」 「はいはい・・・口うるさい社長だぜ」  別に用事などない。ただ暇だったので電話をかけただけなのだ。受話器を置 いて眞司は、さっきの続きをするべく、ベッドに腰を下ろした。  今度はスムーズにお互いの唇はドッキングし、そのままベッドへ倒れこんだ のだった・・・