真 朱 の 雫
硝子張りのバルコニーに立った。
先ほどから降り出した雨を見たかったから。
小さな雫は、硝子をなぞる様に伝い落ちていく。
真下から見上げる雨は、まるで自分を包み込むように降り注いだ。
傍にある椅子を引き寄せて腰を掛け、空を仰ぎ見る。
子供の頃は、雨に濡れても苦にならなかった。
むしろ、わざと濡れていたような記憶がある。
それも、遠い昔の話。
何時からだろう?
雨を避けるようになったのは。
しかし、雨を見たくなると言うことは、何処かに「濡れてみたい」という気持ちが残っているのだろうか?
エースは、椅子から背を逸らすようにして、部屋の中にある時計を見た。
「そろそろ準備をするか。」
椅子を隅に置くと、バルコニーから部屋の中に入った。
天気が良ければ未だ明るい時刻。
雨が降っていることによって暗く感じていたが、やはり太陽の恵みは僅かにあるようである。
部屋に入ると急に目の前が暗くなり、電気のリモコンを探す。
ボタンを押して明かりを点けると、目の前が開けた。
ウォーク・イン・クローゼットに入ると、洋服を選び身に付けた。
玄関で、スタンドミラーの前に立ち、チェックする。
襟をもう一度引き形を整えた。
「ちょっと早いか?」
時計を見て呟いたが、雨の中時間を潰すのも、また一興かと考え直しドアを閉めた。
傘を持って。
待ち合わせ場所への通り道にある書店で立ち止まる。
待ち合わせ相手は、自分の都合で遅刻する事は少ないが、相変わらず忙しそうだ。
今日も仕事が入っていると言っていた。
「そう時間は掛からない筈だから。」とは言うものの、思い通りに行かないのが常である。
待たされるであろう事を予想して、待ち合わせ場所を通りに面した喫茶店にした。
時間つぶしの本を見繕う。
読んでしまえば処分できる雑誌を選び、待ち合わせ場所である喫茶店へ向かった。
出かける前に降り出した雨は一層強くなり、窓硝子に打ち付ける様に、幾筋もの水滴を残していた。
エースは、相手からも良く見えるようにと、窓際の席に陣取る。
ホットコーヒーを頼むと、先程購入した雑誌を広げ、胸ポケットから煙草を取り出す。
テーブルの上にあった、喫茶店名の入ったマッチを擦る。
化学物質が擦れて焦げた匂いがする。
大きく吸い込むと、ゆっくり紫煙を燻らす。
煙の向こうに歪んだ窓の外は、雫の屈折と重なって、まるで蜃気楼のように揺らめいて見えた。
エースは、灰皿に煙草を押し付けた。
灰皿の中には、吸殻が何本も入っていた。
「失礼致します。」
店員が近付いて来て、灰皿を代えて行った。
コーヒーは飲んでしまい、買った雑誌も、既にテーブルの隅へ押しやられていた。
腕時計を見る。
待ち合わせの時間から、かなりの時間が経っていた。
「まさか、何かあった・・・?」
そう呟くと、気になって仕方が無かった。
自分の携帯から、相手の携帯へ発信した。
しかし、留守電へと繋がる。
それが、もう何回繰り返されたか。
傘をさして行き交う人々の波間に、待ち人を探す。
連絡がないと言うことは、まだ仕事が長引いている?
それなら良いが、もし何か不測の事態が起こっていたら?
そう考えると、じっとしていることが出来なかった。
エースは、氷が溶けて溜まっていたコップの水を、乾いた唇を少しでも湿らそうと流し込むと、伝票を掴んだ。
持ってきた傘を開く。
雨足は少し弱くなっていた。
「今日のあいつの仕事先は?」
昨日、今日の約束をした時、独り言の様に今日の予定を呟いていた。
その時の微かな記憶を呼び戻す。
「多分・・・。」
エースは、目的の場所へ向かう為、信号の変わった横断歩道へと一歩踏み出し・・・た時。
横断歩道の反対側。
パシャパシャっと、水溜りが足元を汚すのさえも厭わず、走って向かってくる黄金の髪。
もうすぐ雨が止むのだろう。
西の空がうっすらと明るくなってきた。
黄金の髪が、光に照らされて眩しかった。
自分の姿を見つけたデーモンが、手を振りながら駆け寄ってきた。
「エース!」
ハッとする。
見惚れていた事に気付いた。
「すまない。電話をする余裕がなかったんだ。」
傘も持たずに走ってきたデーモンは、全身ズブ濡れだった。
無言で傘を差しかける。
「エース・・・。ごめん。」
未だに一言も発さないエースの様子をいぶかしんで、不安そうに声を掛ける。
「仕事なら仕方ないさ。」
それだけ言うと、自分がもと来た方向へ促した。
「エース? 目的地は逆だぞ。」
デーモンは、自分が今来た方向を指さした。
エースは、まじまじとデーモンの顔を見、そして、デーモンの姿を頭のてっぺんから爪先までゆっくりと視線を移す。
その様子に気付いたデーモンは、自分で自分の姿を見直した。
「このままじゃマズイよな、いくらなんでも。」
情けない顔をする。
エースは堪え切れず吹き出した。
「エース! 笑うこと無いじゃないか。」
やっと笑顔を見せたエースにホッとしたのか、デーモンはちょっと怒ってみせた。
「悪い悪い。しかし、その格好じゃどうしようもないだろう? 一度、俺のマンションへ行こう。着替えなきゃな。洋服くらい貸してやるよ。」
デーモンは、『エースの洋服じゃ、全てが長過ぎじゃないか』と思ったが、口にはしなかった。
エースの部屋は久しぶりだから。
「なあ、今日はキャンセルして、お前の部屋で食事してはダメか?」
上目遣いで尋ねる。
「それは、俺に何か作れと言ってるのか?」
エースは睨む。
「いや、違う!」
デーモンは慌てて言った。
「何か買って行こうと言っているんだ。」
再び、エースは吹き出した。
「構わないよ。何か作るさ。酒もあるし。取り敢えず早く着替えないと風邪引くだろう?」
エースは、デーモンの背中を押した。
Fin
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「あとがき」
以前、閣下が雨の中待ち惚けを喰らった話を書いたと思いますが、
その時のあとがきに、「今度、長官待ち惚けバージョンを書きます」と、
言った様な、言わなかった様な記憶があります。
ので、そのバージョンです。
葵 拝