「泥まみれの虎」講座

by 佐藤クラリス (PC-VAN宮崎駿ネットワーカーFC)

 2000年10月05日アップデート → メールアドレス変更
 このページは、PC-VAN宮崎駿ネットワーカーFCの佐藤クラリスさんが、そこで掲載した作品 「泥まみれの虎」講座 の全文を掲載しています。なお、無断転載等は厳禁です。(編集者)
まえがき

 宮崎駿さんが、Model Graphix誌Vol.169(1998年12月号)〜Vol.174(1999年5月号)上で連載した妄想ノート「泥まみれの虎」に因んで、知っている様で知らない「戦車」と云うモノに突っ込んでみたいと思います。

参考文献:
 三野正洋著「戦車マニアの基礎知識」イカロス出版
 「ジャーマンタンクス」大日本絵画
 「歴史群像」1993年10月号 学習研究社



●第1章「戦車とは何か」

 結論から云えば、陸上自衛隊機甲学校で使われている、

「敵の主力戦車を積極的に攻撃できる戦闘車両」

が最もふさわしいそうです。この「積極的」とは、攻撃、機動、防御の各力が十分に備わっている事を意味しています。この能力を十分に備え、敵の戦車に正面から太刀打ちできる戦車を主力戦車(MBT,Main Battle Tank)と呼びます。

 ただ、マニアで無い、一般的な定義としては、

1.無限軌道によって移動
2.自身を守る分厚い装甲を持っている
3.砲身の長い、つまり威力の大きな火砲を、360度回転可能な砲塔に装備している

で、十分ですが、戦車もどきの戦闘車両(M18ヘルキャット、M36ジャクソンなど)も有るので、

4.砲塔の上部が開放されていない

と云う条件も必要との事です。



そこで、「戦車もどきの戦闘車両」

 無限軌道、強力な火砲、或る程度の装甲を持つ物で、一括して「自走砲 ,Self Propelled Gun」と呼ばれます。対戦車自走砲、駆逐戦車、突撃砲がそれです。

第2次大戦頃の主な「戦車もどきの戦闘車両」

駆逐戦車
ドイツ軍:ヤクート・パンター(71砲身長の88mm砲)
ソビエト軍:SU76、SU85,SU100(戦車砲搭載駆逐戦車)
ソビエト軍:JSU122、JSU152(重榴弾砲搭載自走榴弾砲)
米英軍:M10アキリーズ、M18ヘルキャット、M36ジャクソン
   (回転砲塔、オープントップ)

突撃砲(Sturmgeschutz)
ドイツ軍:3号戦車〜6号戦車をベースにしたもの多数。


●第2章「戦車のネーミング」

 各国の戦車のネーミングを観ると、結論的に、「結構いい加減」と云う事になりますが、その内、比較的分かり易い物を挙げてみます。

1.日本
 旧陸軍の場合、制式化された年号を皇歴で表しています。皇歴2600年(昭和15年、西暦1940年)がゼロとなります。
 例えば、主力戦車の九七式(略称:チハ、以下同様)は皇歴2597年制式化と云う具合です。以下、一式(チヘ)、三式(チヌ)、四式(チト)、五式(チリ)も同じルールです。
 この伝統は戦後も受け継がれ、今度は西暦で表されています。例えば、90式戦車は制式化が1990年と云う事です。

2.ドイツ
 旧ドイツ軍の場合、ギリシャ数字によって分類されています。
I号、II号は偵察用軽戦車
III号、IV号は中程度の主力戦車
V号は重量級の主力戦車
VI号1型、VI号2型は典型的な重戦車

 なお、主力戦車の略号(Sd Kfz ***)と愛称(英語読み、ドイツ語読み)は次の通り。

I号 Sd Kfz 101
II号 Sd Kfz 121,Sd Kfz 123
III号 Sd Kfz 141,Sd Kfz 141/1,Sd Kfz 141/2,
IV号 Sd Kfz 161,Sd Kfz 161/1,Sd Kfz 161/2,
V号 Sd Kfz 171 パンサー パンター
VI号1型 Sd Kfz 181 タイガー ティガー
VI号2型 Sd Kfz 182 キング・タイガー ケーニッヒ・ティガー



●第3章「戦車の歴史」
I.「陸上軍艦」

 戦車が歴史に登場したのは、1916年4月16日、場所は第1次世界大戦のフランス東部のソンム地区でした。

 第1次世界大戦は、1914年7月に始まった全世界規模の戦争で、ヨーロッパ大陸が主戦場となり、枢軸側(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコを中心とする)と連合国側(フランス、イギリス、ロシア、アメリカなど。日本はこっち側)が「総力戦」を行ったのです。
 科学技術の進歩を背景に、航空機、化学兵器、潜水艦(Uボート)、そして戦車と云った新兵器をどんどん投入していったワケです。

 しかし、戦力差が小さく、戦線は膠着状態。特にドイツとフランスの国境地帯のいわゆる「西部戦線」では、にらみ合いが続いたそうです。これを打破する為、イギリスは新兵器を投入。それこそ戦車でした。

 イギリス海軍は既に「装甲車」、つまり自動車に装甲と武装を施したものを実戦配備していたので、それを進めて「陸上戦艦(ランド・シップ)」を計画しました。起伏の多い荒れ地を軽々と走り、敵の砲撃に耐え、鉄条網を自らの体重で引き裂き、敵の守備線を突破して行く事が目的です。原型は既に有ったキャタピラー式の農業用トラクターです。このアイディアは陸軍にも有ったのですが、陸軍大臣のキッチナー元帥はこれを一蹴、しかし、海軍大臣のチャーチル(後の首相)は関心を示し、プロジェクトチームを結成して研究を開始、1916年には150台の戦車が発注されます。この新兵器の名前は「水槽(タンク)」だったワケで、それ以来、タンクと呼ばれる事になるワケですね。

 さて、本来この兵器は十分に訓練を積んで、しかも数百台規模での集中投入を考えていたのですが、戦局の悪化の為、見切り発車してしまったそうです。
総数僅か49台、全長8m、幅4m、重量30トン近くの鉄の怪物、「Mk(マーク)1」が朝靄の中からゆっくりと鉄条網を超えてやってくる姿に、一部のドイツ兵には銃を捨てて逃げ出す者も居たそうです。しかし、故障続出で、まともに動けるのは10台程度だったそうです。

 7月になると、イギリス軍は改良型「MkIV」をイーブルの戦場に200台投入、これでドイツの防衛線が幅3km、奥行き15kmも後退したそうです。

 戦車の戦略的価値はこれで全世界に知られる事になったワケです。


II.「世界最強のソビエト軍戦車」

 イギリス軍によって「戦車」の威力を見せつけられた列強は、同様のコンセプトを持つ戦車を作り出しました。しかし、それらの主目的は大重量を生かした鉄条網の突破や歩兵の火力支援であって、戦車戦を主目的とする物ではなかったのです。
 一方では、当初のコンセプトとは異なる戦車も開発されつつありました。フランスのルノーFT、アメリカのフォード3Tなどがそうで、小型・軽量・高速と云った物がウリとなっています。ルノーFTは重量僅か3トン、時速20Kmと云う快速です。しかも全周旋回砲塔を持ち、37mm砲を装備しています。近代的戦車の元祖的な存在です。

 各国の開発競争の中で頭角を表してきたのがソビエト連邦です。第1次世界大戦の最中に誕生したソビエト連邦は、革命潰しを目的とした列強の「干渉戦争」を受け、祖国防衛に全力を注ぐ事になりました。ソビエト連邦は回りの国と陸続きなので、陸軍の強化に迫られ、戦車開発も熱が入っていました。その為、先見性にも優れ、当初から開発目的を戦車戦に定めていたそうです。これによって誕生したのが、T−26、BT−3/5/7です。注目点はどちらも45mm戦車砲を装備している事で、1930年代、投入された地域戦争では無敵状態だった様です。

例1.スペイン内戦

新兵器の実験場として、ソ連とドイツ・イタリアが軍事支援。

1937年3月、首都マドリードの北方近郊のグアダラハラで衝突。

右派フランコ軍(ドイツ・イタリアが支援)
 ドイツ製I号戦車、II号戦車(20mm機関砲、前面装甲14mm程度)
 イタリア製L3/35戦車(7.9mm機関銃)

左派人民戦線(ソ連が支援)
 ソ連製T−26、BT−3/5(45mm/L46砲、前面装甲20mm超)

結果:ソ連戦車の圧勝。(でも、内戦は結局フランコが勝利って事で…)


例2.ノモンハン事件(事変)

日本とソ連が大規模な国境紛争を展開した。

1939年7月、黒竜江を挟んで対峙していたソ連軍と日本の関東軍が激突。

関東軍
 八九式(57mm/L18砲、貫徹力20mm程度、最大装甲厚17mm)
 九五式(37mm/L37砲、最大装甲厚12mm)
 九七式
 計65両

ソ連軍
 T−26、BT−7(45mm/L46砲、前面装甲45mm程度)
 計170両

結果:ソ連戦車の圧勝。衝突自体も関東軍が完膚無きまでに敗北。

注:「45mm/L46」と云った記述の意味ですが、これは「口径45mmで砲身長が口径の46倍」と云う事です。砲の威力は口径のみならず、砲身長が重要なパラメータとなります。つまり、砲身の長い方が、命中精度が高く、威力も大きいワケです。


III.「マンシュタイン計画とグーデリアン」

 戦車の発達は、その運用に於いても革命的な発展を遂げ、ついに、戦争そのものを変革させる事になりました。その成果は「電撃戦」として、全世界に大衝撃を与える事となります。ドイツ軍は僅か1ヶ月足らずで、強敵フランスを制圧してしまったのです。

「Blitzkrieg(ブリッツ・クリーク、電撃戦)」

 「電撃戦」のポイントとは、味方の損害を最小限に抑え、敵が反撃する前に敵地に深く侵攻し、敵の戦意を喪失させ、制圧する事です。

1.先ず、急降下爆撃機により空爆を行い、敵を揺さぶる。
2.敵防衛ラインの最も脆弱な地点に戦車部隊の主力を集中させ、一気に突破する。
3.同時に空挺部隊は敵の後方を攪乱し、敵を足止めし、主力部隊の到着を待つ。
4.主力戦車部隊は敵主力との衝突を避け、次の目標に向かう。
5.自動車化歩兵部隊は空軍の支援の下、敵の制圧にあたる。

 敵に全力発揮させないまま叩きつぶす事で、劣勢な戦力でも大敵に打ち勝つ事が出来ると云うワケです。

 この「電撃戦」の理論を作り上げた中心的存在。それがマンシュタインとグーデリアンでした。

★マジノ・ライン
 第1次世界大戦後、ドイツの領土拡張主義に対抗する為、フランスは1927年〜1936年の間に、総工費160億フランを投じて難攻不落と云われた「マジノ・ライン」を建設しました。しかし、完璧な要塞線ではなく、ルクセンブルクとセダン間は脆弱でした。更に、セダンから英仏海峡までのベルギー国境は、野戦陣地を強化した程度に過ぎなかったのです。つまり、英仏海峡からルクセンブルクまでのフランス国境線は突破可能だったワケです。要は10年じゃ「万里の長城」は出来なかったって事ですね。

★ポーランド侵攻
 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻、総兵力ではドイツ軍と同程度のポーランド軍でしたが、開戦当初に航空部隊を壊滅され、且つ、ドイツ装甲部隊への対抗手段を持たなかったポーランド軍は同月20日には壊滅、27日には首都ワルシャワが陥落しました。

★前夜
 フランスは次はこっちだと確信し、急遽、装備の強化を開始しました。
 当時の戦力比ですが、ドイツ軍は装甲師団10個、自動車化歩兵師団6個を含む135個師団を国境に配備、これに対して、連合軍は機甲師団3個、軽機甲師団及び軽騎兵師団8個、自動車化歩兵師団7個を含むフランス軍約100個師団(イギリス海外派遣軍約12個歩兵師団含む)に、オランダ軍約8個師団、ベルギー軍約18個師団、更に、イギリスからは1個装甲旅団が到着していました。

 結局、1940年春に於いては、

ドイツ軍
 戦闘機4000
 爆撃機2500
 戦車 2600。I号、II号、III号戦車、一部IV号戦車
 (装甲厚30〜35mm、戦車砲37mm〜75mm)
 師団数 136

英仏連合軍

 戦闘機2500
 爆撃機 800
 戦車 3600 フランス製:R35、S35、シャールB
         イギリス製:Mk1、Mk6、Mk2マチルダ
 (装甲厚40〜78mm、戦車砲47mm〜75mm)
 師団数 149

 この様に、兵力では同等、戦車では質量共に連合軍有利と見えますが、部隊の質が問題となります。

ドイツ軍
 戦車の殆どが無線機を装備し、自動車化歩兵師団と共に集中的且つ機動的に運用可能。
 機甲部隊を支援する戦闘機・急降下爆撃機を大量装備。
(これがハインツ・グーデリアンの提唱し、創り上げた機甲部隊の姿です)

フランス軍
 戦車は、歩兵師団の中にばらばらに配置。
 航空機は旧式かつ、絶対数が少ない。しかも飛行場周辺の防空能力低い。
 1925年のロカルノ条約により、独仏に平和が訪れたとされ、攻撃的、侵略的な機械化・自動車化はフランスの防衛にはふさわしくないとされ、その発展が遅れた。

イギリス軍
 戦車を最初に開発した国なので、さぞや機甲部隊の育成に熱心かと思えば、そうではなく、演習に於ける失敗やら、伝統的な保守主義やら、1931年の財政危機による支出の削減、果ては陸軍の大陸派遣不要論による大機甲部隊の不必要と相まって、発展は遅れた。

★作戦
 フランスに侵攻し、これを制圧する作戦。それには大きく2種類有りました。「シュリーフェン計画」と「マンシュタイン計画」です。
 「シュリーフェン計画」とは、ルクセンブルクを回転中心として、オランダ国境の軍団をオランダに侵攻させ、更にベルギーを通り抜け、フランスに攻め込み、パリを落とすと云うものです。これは第1次世界大戦の時の作戦でした。一方、「マンシュタイン計画」とは、オランダ、ベルギーに侵攻し、連合軍をここにおびき寄せ、防御が手薄なルクセンブルク方面からの機甲軍団で敵の背後に回り、挟撃、殲滅すると云う作戦です。敵の反撃力を破壊した後に首都パリを落とすと云うワケです。
 1939年秋、ドイツ軍参謀本部は第1次世界大戦と同じ「シュリーフェン計画」でフランスに侵攻する事を計画していました。参謀長のマンシュタイン将軍は「シュリーフェン計画」だと、連合軍とまともに激突して泥沼化すると感じ、高速の装甲師団を先鋒として、アルデンヌ高原を突破、先にベルギーに侵攻したドイツ軍部隊を迎え撃つ為に移動する連合軍を奇襲する作戦を考えました。彼はグーデリアンに相談し、賛成と助言を受けました。マンシュタインは自分の案を参謀本部に具申しましたが、連合軍が予定通りベルギーに動いてくれるか保証が無いし、且つ、装甲師団に対する兵站支援が不安と云う事で案は不採用、マンシュタインは配置換えになってしまいました。(^_^;)
 所が、1940年1月に「メヘレン事件」が発生、「マンシュタイン計画」が採用される事になりました。「メヘレン事件」とは、作戦計画書を輸送中に飛行機がベルギーのメヘレンに不時着し、作戦計画書が連合国側に渡った?事件です。

★結果
 1940年5月10日のオランダ・ベルギー侵攻から始まり、6月4日のダンケルク陥落で幕を閉じたこの戦い。ダンケルクから英仏兵約35万人がイギリスに脱出。6月17日には、ペタン首相からドイツに対して休戦要請が提示され、フランスは降伏しました。
 正に、史上空前の大戦果でした。

 連合軍は、ドイツ軍が「シュリーフェン計画」で攻めてくると信じ切っており、まんまと術中にはまってしまいました。

 因みに、英海外派遣軍総司令官ゴート卿はロンドンからの命令で戦車2個大隊、歩兵2個大隊を使って、ロンメルの第7装甲師団などに反撃しました。イギリス軍戦車74両の内、重装甲のマチルダ戦車(最大装甲厚78mm)16両はドイツ軍の対戦車砲が効かず、イギリス軍はドイツ軍戦線を約15Km突破しました。ドイツ軍は野戦砲や88mm高射砲を対戦車砲として使用(ロンメル指揮)、更にドイツ空軍による攻撃や、引き返してきた戦車部隊との激しい戦闘によってやっと撃退に成功しました。尚、ドイツ軍戦車にも大損害が生じたそうで、イギリス魂を感じさせます。

IV.「ドイツ機甲部隊、終わりの始まり」

 1941年2月、リビアのトリポリにドイツ・アフリカ軍団が上陸。地中海の覇権確保を目指してイギリス軍と戦う事となりました。

 ドイツ機甲部隊の陣容は

III号E型 37mm/L45
III号F型 50mm/L42
 IV号D型 75mm/L24
に、II号を加えた、250両余り。

他に、イタリア製M13/40など150両が加わるが、性能が低かったそうです。

 イギリス軍

 Mk3クルセーダー、Mk2マチルダに、アメリカ製M3リーを加えた約750両

 戦術に長けたロンメルが優勢に戦闘を進めましたが、イギリスはアメリカ製M4シャーマンを投入、戦局は連合軍有利に振れ始めます。シャーマン戦車は、砲塔前面装甲76mm、主砲75mm/L37.5(後にL41)と云う強力なものでした。最も恐るべきは、その大量生産にありました。最終的には6万両も作られたと云う事で、消耗戦の末、負けるのはドイツと決まりました。
 一方のドイツ軍はシャーマンに対抗しうるIV号F2(75mm/L43)の開発が遅れて、1942年10月の天王山エル・アラメインの大戦車戦の時には、ドイツ軍総数約500両の内、半数が非力なイタリア製で、期待のIV号F2は僅か50台しか無かったそうです。イギリス戦車部隊は総数750〜1000両弱、内、シャーマンが250両、M3リー/グラント戦車が170両と云う事で、結局イギリス軍が圧勝、北アフリカのドイツはいよいよ劣勢に陥る事になりました。

 1943年2月のチュニジア戦では、ドイツはVI号タイガーを登場させました。最大110mmの装甲、主砲は88mm高射砲を改良したL56と云う、当時最強の戦車でした。しかし、質よりも量が物を云う、第2次世界大戦。結局、ドイツ機甲軍団は1943年5月降伏しました。


V.「カリウスの世界。そして終わる世界」

 1941年6月、ドイツはソビエトに攻め込みました。独ソ戦の始まりです。ソビエトは当時世界最強の戦車帝国であり、客観的には、ドイツの行動は無謀でした。一説によると、ヒトラーはソビエトを攻める事によって、反共と云う枠の中で米英との和解を画策したと云われていますが、後に明らかになった様に、イギリスは対独毒ガス戦略爆撃(被害規模は核攻撃に相当する)すら準備していた位で、とても和解など出来ようはずも無かった様です。

 それはともかく、史上最大の戦車戦が始まりました。

ドイツ侵攻部隊
 III号戦車 50mm/L42 1100両
 III号戦車 37mm      350両
 IV号戦車D型75mm/L24
             など、計3500両

ソ連軍
 T−26、BT−7 45mm/L46
             など、計1万両以上


 初戦は、ドイツ軍が得意の電撃戦で圧勝。半年間で1000Kmも東に進み、5000両ものソ連軍戦車を破壊したそうです。
 しかし、「こんな事も有ろうかと」(^_^) 、ソ連軍は新型の戦車を登場させました。T−34/76です。戦車史上の最高傑作の一つと云われるそうで、重量26.5トン、最大時速53Km、主砲76mm/L31、最大装甲66mm。更に、防御力を強化したKVシリーズも完成させました。T−34/76は1941年末時点で、ドイツの全ての戦車を上回っており、ドイツは窮地に立たされました。その対策として、IV号戦車の長砲身型(F2型がL43、G型がL48)とVI号タイガー戦車が投入されました。特にVI号タイガーは、88mm/L56と云う砲を持ち、当時の全ての戦車を破壊出来たそうです。しかし、ソビエトは更に「こんな事も有ろうかと」(^_^)、T−34/76(1942年型、L41に)を投入。
 まァ、能力的にはドイツの最新戦車の方がまだ上なのですが、ソ連軍の強さは「質より量」(^_^) 。1942年末時点で、T−34/76の生産台数は2000両/月に迫る勢いだったそうです。一方ドイツはVI号タイガーで30両/月、IV号ですら120両/月と云う有様。これではじり貧必至。

 さて、1943年にドイツは「シタデル作戦」でクルスク攻略を目論みます。V型パンサー(75mm/L70)、IV号、VI号タイガーなど2500両を動員。一方ソビエト軍はT−34、KVなど3600両。ドイツ軍、優勢。しかし、「こんな事も有ろうかと」(^_^)、ソビエト軍はT34−/85(85mm/L54)を登場させました。この強敵登場と、事前に構築された大防衛線の為、ドイツ軍は大損害を受けました。ソビエト軍も同等の被害だったそうですが、何分にも補給のきかないドイツ軍。一段と劣勢になってしまいました。
 東からはソ連軍の文字通り怒濤の如くの戦車軍団。西からはノルマンディで上陸を果たした米英軍。両面攻撃にあって、ドイツは風前の灯火。残った戦車をかき集めての大博打。1944年12月にアルデンヌ高原で開始された「バルジの戦い」での善戦も物量戦の前では無効化。ドイツ機甲部隊は全滅。
ついに、1945年5月、ヒトラーは自殺し、ドイツは無条件降伏しました。



●第4章「タイガーI型戦車仕様」

 カリウスが搭乗している戦車です。

名称 Panzerkampfwagen VI Ausf E(略号 Sd Kfz 181) VI号戦車E型
愛称 タイガーI型(英語読み), ティガーI型(ドイツ語読み)

製造会社 Henshel,Wegmann
1942年7月〜1944年8月まで1354両生産
乗員数 5
重量 57トン
全長 8.45m
全幅 3.7m
全高 2.93m
エンジン マイバッハHL210P45
変速器 前進8段、後進4段
速度 38km/時
航続距離 140km
武装 88mmKwK36 L/56 ×1(高射砲を改良したヤツ)
(砲弾重量10.2kg、初速度770m/秒、貫通装甲厚約120mm)
   7.92mmMG34 ×2
装甲
前面 側面 後面 上面/下面(単位はmm)
砲塔 100 80 80 25
上部車体 100 80 25
車体 100 60 80 25
防盾 100-110

(NEC BIGLOBE PC−VAN 宮崎駿ネットワーカーFC フォーラム「Winds Talk」に掲載。1999.2.14〜1999.2.25)


佐藤クラリス作品集のホームページに戻る
著者: 佐藤クラリス/ nausicaa@msa.biglobe.ne.jp
HTML作成: 佐藤クラリス/ nausicaa@msa.biglobe.ne.jp