9月7日  「キリストのいる所」  マタイによる福音書18章15-20節

                東方敬信牧師

「兄弟の忠告」

15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 聖書の語る「いのち」には二種類あることは良く知られている。一つは生物学的な命、もう一つは主イエスが教える「永遠のいのち」である。

 現代は、「情報化の時代」といわれ、情報に埋もれて大切なことを見失って流されてしまっていることが多い。つまり本当に大切なことを知らない無知の故に、無神経に生きてしまっているのである。このような中でもイエス・キリストは語りかけてくださっている、というのが本日の聖書の箇所の言わんとするところである。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」この主イエスの言葉は教会の原点であるといわれている。神様の前でかけがえのない人格を持っている一人一人が、しっかりと互いに向き合って、祈りの一致をするところに主イエスが共に居てくださるのであり、一人でもだめであるし、数が多ければ良いというものでもないのである。

 私達人間はお互いの人格を傷付けざるを得ない存在であるが、十字架で自分の人格を傷付けられながら人々に赦しの愛を祈り続けた「主イエスの名」によって祈りを一致させることで、互いに慈しみをもって人格を配慮する存在に変えられてゆくのである。

 私達は「何ができるかではなく、何者がやっているのか」に気を付けながら証しをして、本当のいのちに目覚めている人格でありたいと思う。

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