9月21日 「神の愛につつまれて」 マルコによる福音書
12章1−12節
「『ぶどう園と農夫』のたとえ」
1
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。2
収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。3
だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。4
そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。5
更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。6
まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。7
農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』8
そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。9
さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。10
聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。11
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」12
彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
聖書にはさまざまにぶどうに関する譬えが示される。ぶどうは神の民をあらわす言葉として旧約の時代からよく用いられた。 今朝の箇所は、十字架を前に主イエスがされた最後の譬えです。
収穫を期待し、僕を信じた主人の姿は、主イエス・キリストの受難の譬えです。 ここにしめされている農夫達の姿は私達の姿と言われればどうであろうか。 神はご自身で創られたものをすべてよしとされ、更に、人間を神に似せて創られ、全てを預けるとされた。(創世記)人を愛してくださる神の輝きが示されている。
私達は神のものを自分のものとしてしまい、自分中心にしてしまうが、主の愛が、私達の心を神へと導いて下さる。 このような私達にも、どんなときにも、神のみ言葉に従うことが許されて、新たな喜びを得て私達は歩みだせる。主は、私達に実りを約束された地へ日々招いてくださるのです。
今朝は、教会で敬老会が出来るうれしい朝です。 揺るぎのない神の愛に包まれて生命の限りに歩む、キリストのかおりに心を動かされ、主のもとへと歩む、これが聖書の約束の言葉です。
主を見上げて力強く歩みましょう。
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