914  「揺り動かされた者として」  マルコによる福音書11章27-33

「権威についての問答」

27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長,律法学者,長老達がやって来て、

28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。

30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『ではなぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

32 しかし、『人からのものだ』と言えば・・・・。」彼らは群集が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

受難週の火曜日に、神殿の境内を歩いていたイエスに祭司長、律法学者、長老達は「何の権威でこのようなことをしているのか。」と論争を仕掛けた。彼らは自分達こそ神から与えられた権威を持っていると思ったからである。しかし、それは神に全てを支配された姿ではなく、自分の権威、自分達の支配が揺り動かされ、脅かされることに対する抵抗の姿であった。イエスは「バプテスマ、即ち、罪の赦しはどこから来るのか。」と問いかけられ、神のみ言葉の力を得て、真の命、真の自由を得て生きよと教えられた。

私達も色々な権威をまとって生きており、祭司長達と同じように、全てを神の支配に委ねるのではなく,自分中心に、自分が支配(コントロール)出来るように、自分の中で神以外のものを拠り所とし「幼子のように神に従う」歩みに逡巡しがちである。

教会は、イエス・キリストによって啓示された神の民が集う所であり、神の御言葉が与えられる所だが、神のご支配によって根こそぎ揺り動かされ、自分中心、自分の支配が打ち砕かれることによって、心で御言葉を受け止めることが出来、それ故、御言葉の力が働き、自然と証し人としての歩みを進めることが出来るのだ。

全てを神の支配の下に委ねる時、人は本当の平安と自由を与えられる。神の支配に揺り動かされ、心で御言葉を受け入れ、心動かされて証し人としての歩みを進めて行きたい。

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