主題「新しい伝道と教会形成」

講演-1 要旨

―伝道の精神―

(1)西千葉教会について

イ.2004年に100周年を迎える

  ロ.日本キリスト同盟(協会)教会としてスタート。 いろいろな教派が伝道の為に同盟  

  してできた団体、即ち伝道団体と言える。 従って

  特徴 伝道的な教会  今後の教会に残すべき信仰的遺産(伝統)は、旺盛なる伝道精神

  ハ.もう一つの特徴としては、働く信徒の教会 

 (その背景) 3代前の牧師の辞任を切っ掛けに教会員が反省(牧師に余りにも頼りす

  ぎていた)-> 体質改善の掛け声(信徒が出来る事はやる)->働く信徒の教会への

  変身  

  .現在の西千葉教会は非常に組織化されている(信徒でいろいろ決めている 牧師には報告)

(2)創立者フランソン先生について 

            同盟教会(協会)Scandinavian Alliance Mission概要 

            「燃えて輝く光」フランソン伝記 いのちのことば社

        創設者フレデリック・フランソン(1852~1908 スエーデン生れ米国籍)

.ルター派の国教会にあきたらず自由な福音的信仰の生き方を支持した母に影響を受ける。

.1880年、大覚醒運動(信仰復興運動)の時代の米国に移住、

      ドワイト・ムーデイ(19世紀で最も有名なエバンゲリスト。YMCA運動、日

      曜学校設立)に影響を受け米国への移住者対象に各地で伝道。

ハ.慣習的儀式的感動のない外面的な信仰に陥っている北欧の国々の人々にもう 

  一度心を燃やすような信仰に立ちかえるようヨーロッパへ伝道活動。を始

. 更に中近東、アフリカ、中南米へ足を延ばす。(生涯で大きな伝道旅行を4回  

  パウロの3度の第伝道旅行に匹敵する)後半には、中国伝道に取り組み更に

  日本でもまだ宣教師のいない飛騨地方、房総、伊豆地域伝道を企図し千    

  葉にも拠点を設ける。(189115名を派遣) 

. フランソンの伝道は簡潔だが火の出るような説教で再臨の素晴らしさを説き再臨が        

      近い、悔い改めてイエスを待ち望め、主から宣教の委託を受けているので一

    生懸命宣教しようというのが核心であった。

    別の纏め方をすれば、@イエスに来たれ(招き)Aイエスのために行け(宣教) 

    Bイエスを待ち望め(再臨)と説いた。再臨がどのように素晴らしいものである

    か、それだから再臨を待ち望みなさいと説く。

.心を燃やした伝道で、伝道のスタイル(青年達を集め聖書講座を開催 数ヶ月で

    宣教師として各地域に派遣など。)などから多くの迫害も受けたが、それらを撥ね 

    退け、想像を絶するエネルギーで伝道し56歳で夭逝した。

(3)西千葉教会の創立

1894年初代ベルグストローム宣教師、2代目ピーターソン。

    初代牧師杉本光平牧師 大変エネルギッシュな伝道者で市川から木更津

    まで広範囲に伝道し更には東北、北海道、朝鮮、米国まで足を伸ばし多くの逸話

    を残す。又、いろいろな機会を通して伝道活動を行う。鉄道ミッション、郵便ミ

    ッション、学生ミッション、看護婦伝道など。35年間で525人に受洗、在任の40 

    年間で教会員数485名(1939年時)。(現在在籍400名、礼拝出席200名)

    教会にとって初代の牧師は後々まで決定ずけるような大きな影響を与える。

    旺盛な伝道精神をモットーにしようというのはフランソンの精神、杉本牧師がうえつけ

    てくれた精神

    西千葉教会は創生期のフランソン、杉本牧師の影響を受け継いできている。

(4)伝道の精神

現在、平信徒の立場で彼らと同じことができるか?一人の信徒としてどんなに努力してもできないのではないか?今は時代が違うから我々の問題ではないのではないかと思いがちである。

フランソン、杉本とは同じようには出来ないにしてもキリスト者、教会としては牧師だけではなく信徒が自分たちが伝道していると言う気持ちを失ってはいけないと思う。そうでなければ教会として成長していかない。

こうした(上述の)伝道精神はどこから出てくるのか?クリスチャンはなぜ伝道しなければならないのか?義務感からでは伝道はできない。こう言う質問が出ること自体が義務感を表している。内側から動かしていく原動力があるはずである。(パウロ、フランソンも自分だけの力ではなく神様から与えられた力で伝道を行った.)

マタイ28章16節以下は復活したキリストの宣教命令である。 キリストがもう命じておられる。既にキリストから伝道を委託されている。従って、議論の余地はない。しかし、キリストは命令しているだけでなく必ず果たすことが出来るような用意をしてくださっている。即ち、18節「私は天と地の一切の機能を授かっている。」19節の「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」そうした約束をしてくださっている。 更に

使徒言行録1章に昇天の記述がある。昇天日はクリスマスと同じ重要さで言わば降誕と昇天は対(対象)をなしているといえよう。

イエスは、”救いの業”をなすために人となられた。(受肉) 十字架にかかり我々の罪の贖いを成し遂げ死人の中から蘇られた。その蘇りの命を信ずるものに与えてくださり40日の間、弟子達に表われ40日経ったときに天に帰られた。即ち、この地上における人間を救う業をすべてなし終えて又父なる神のもとに帰られた。昇天がなければイエスの地上における救いの業は完成しない。

使徒1章6節 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルの為に国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。  神の国はいつ来るのですかと尋ねた。

7節イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」とイエスは時についての解答を拒否している。

しかし、

弟子たちは自分たちが今どう言う時に生かされているかおかれているかは教えられている。

すなわち

「イエスキリストが救いを成し遂げて天に上がってやがて同じ有様で天から降りてこられると言う再臨の出来事との間に置かれている」そして、それはいつかは分からないが、必ず来られる。

それなのに天を見上げて立ちつづけていいのですか?

昇天という出来事が、イエスがこの地上に神であるのに神であることを固執しないで一人の人としてこられ十字架の苦しみを引く受け罪を贖ってくださった。そして神はそのキリストを死者の中から蘇らせて永遠に至る命を与えてくださった、そういう役目を全部終えてイエスは天にかえらえれたのだから弟子達は復活のイエスから懇々と教えられているわけであり、やがて再臨の時がくるまであなたがたのなすべきことは分かるべきではないか。そこでエルサレムに帰り心を一つにして祈り始めた。その彼らにペンテコステの出来事が起こり彼らはキリストの福音を述べ伝えるものになっていった。このことは、聖書のいたるところに書いてあるが、神の一人子イエスがこの世に降りてこられ救いの出来事を業を成し遂げてくださった。私たちにその素晴らしい救いを当てえてくださっているそういうことをイエスはすべて終えて天に帰られた。そのことをイエスが来るまでの間私達は自分の喜びとか感謝だけにとどめておいていいのだろうか。そのことが本当に嬉しければ人に隠しては置けないはずである。

福音とはよい訪れという事。何でよい訪れなのか?私達が罪から救い出されたことである。  自分のいちばん大事な人、身近な人から始めてお伝えする事は当たり前のことではないか。  伝導することが難しいとか何を言って良いのか分らないとかいっているのでは日本の教会はいつまでたっても1パーセント以下で終わってします。だから自分が本当にイエスの救いに預かったものであること、その喜びを本当に確かなものにしたいと思う。そうすれば自ずから伝道と言う事に目を向けることができるのではないかと思います。

BGMは、Bachのフーガ作品578(池ノ上さん編集)です。

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