11月4日 「いやされる」 マルコによる福音書 5章21
-43節「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」
21
イエスが舟に乗って再び向う岸に渡られると,大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て,イエスを見ると足もとにひれ伏して,23
しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか,おいでになって手を置いてやってください。そうすれば,娘は助かり,生きるでしょう。」24
そこで,イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も,イエスに従い,押し迫って来た。25
さて,ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26
多くの医者にかかって,ひどく苦しめられ,全財産を使い果たしても何の役にも立たず,ますます悪くなるだけであった。27
イエスの事を聞いて,群衆の中に紛れ込み,後ろからイエスの服に触れた。28
「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29
すると,すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。30
イエスは,自分の内から力が出て行ったことに気づいて,群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのはだれか」と言われた。31
そこで,弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに,『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」32
しかし,イエスは,触れた者を見つけようと,あたりを見回しておられた。33
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり,震えながら進み出てひれ伏し,すべてをありのまま話した。34
イエスは言われた。「娘よ,あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず,元気に暮らしなさい。」35
イエスがまた話しておられるときに,会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう,先生を煩わすには及ばないでしょう。」36
イエスはその話をそばで聞いて,「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37
そして,ペテロ,ヤコブ,またやこぶの兄弟ヨハネのほかは,だれもついて来ることをお許しにならなかった。38
一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるの見て、39
家の中に入り,人々に言われた。「なぜ,泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」40
人々はイエスをあざ笑った。しかし,イエスは皆を外に出し,子供の両親と三人の弟子だけを連れて,子供のいる所え入って行かれた。41
そして,子供の手を取って,「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ,わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42
少女はすぐに起き上がって,歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや,人々は驚きのあまり我を忘れた。43
イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ,また,食べ物を少女に与えるようにと言われた。
会堂司のヤイロは、信仰が篤く、社会的に尊敬される地位にあったが、一人娘の瀕死の病という自分ではどうすることもできない危機に直面して、一縷の望みを主イエスに託して御許にひれ伏した。ただヤイロの災いは私達に何時訪れるかわからない。人間は死に定められていると同時に、死について考えることのできる唯一の生物である。従って、私達は死すべき自分について見つめなければならないが、主イエスに従ってこそ死がどのようなものかがわかる。
死の淵を覗き込むことは、悲しみよりも恐れの方が勝る。神に見捨てられ、永遠の滅びに投げ込まれる恐れを持つからである。しかし、主イエスは、私達を罪の支配から解放するために十字架についてくださった。この十字架の救いにより、死は永遠の滅びではなく永遠の目覚めとなる。主イエスに全てを委ね、母の懐に安らかに眠るように死を迎えられるのである。
死を自覚している者にとって、神の御許に帰るまでの毎日の生活は一回限りの真剣勝負である。私達も主イエスにおいて死を考えながら安らかに生きるとともに、死を自覚して一日一日を真剣勝負で生きてゆきたい。
BGMはBachのカンタータ78番「イエスよ,わが魂よ」 です。