11月3日 「いつも二人で」 マルコによる福音書
6章1-6節「ナザレで受け入れられない」
1
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。しまいたア地は、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4
いえすは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷や家族の間だけである」と言われた。5
そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6
そして、人々の不信仰に驚かれた。私たちが守る礼拝はたとえどんなに集う人が少なくみえようとも実は常に信仰の先達でいっぱいなのである。信仰を同じくするものとして共に礼拝を守っている。
イエスが故郷のナザレへ行ったとき、多くの人々はあの大工の息子が病をいやし、力ある言葉を語ったことに驚いた。しかしここには主イエスを信じたとは記されていない。信仰は生まれなかったのである。私たちは毎日曜、聖書から学び新しい出会いをしているが、わざや教えに驚き、理解しているだけではナザレの人々と同じである。信仰によって初めて聖書の言葉が神の言葉、命の糧となる。「あなたの信仰があなたを救った」とあるようにイエスは信じることを求めている。人が不信仰に陥る時、神が愛で包んでいてもそれが見えなくなり愛のわざをとめてしまう、そして神から離れ、捨てられてしまうのである。隣り人をこの苦しみから救うことが伝道である。主イエスを神の子と心から信じ、どんなときでも神と共に歩んでいこう。そうすれば、主を証するたたかいを続けていくことができる。信仰の先達も主のみことばと共に今生きてここにいる。