礼拝 特別伝道 1月28日(日)

    永野貴志子先生   「ゴスペルとあふれる恵み」  証しと讃美

「貴志子先生のゴスペルによる讃美の流れは,麗しく,又力強く、
ピアノのメロデイにのせて,会衆の魂を呼び覚まし,
美しい歌詞のひびきは,そのまま,み言葉として一人ひとりの胸に伝えられた。」  
田中美代姉の感想より。

このホームページでは,
音声の圧縮、関連ハード,ソフトの機能上の制約,運営者のレベル等の問題で
百分の一もそのすばらしい感動を伝えられませんが、
感動の記憶を呼び覚ますということであえて掲載することにしました。
貴志子先生は,末尾に記載していますが,
何枚かのCDを出版されています。
是非そちらですばらしい歌をご鑑賞下さい。

尚,写真はクリックすると拡大されます。
又、GospelSongは、右BOXの下段左ボタンをクリックするとスタートし、
右ボタンをクリックすると止ります。



AMAZING GRACE

akasi.jpg (30681 バイト) FEBCラジオ放送の他,コンサートやライブハウスでの仕事以外は
中学,高校生二人の母として又主婦としての生活をしています。
Gospelは,音楽の形態ではなく意味が大事で.意味を聴いていただければと思います。
 19歳で受洗しました。その前後の状況について触れますと;
中学,高校,大学と青山学院に通いましたが、 
中学では,先ず聖書と讃美歌を渡され毎日礼拝があり,
毎日がキリスト教に接する日々でした。
学校から,日曜日にはなるべく教会に通いましょうと言う事で,
何人かと一緒に教会を探し通いましたが,一人去り,二人去りしましたが,
なぜか自分は通いつづけました。高校に入ってもです。
とても不思議な事だと思います。
求めていったわけではないし,辛いと思ったこともなく,悩みがあったわけでもありません。
教会は面白いものでもなかったのですがなぜか辞めないで通っていました。不思議です。

       
 sing2.jpg (28116 バイト) 高校3年の時,牧師の推薦状をもらってアメリカに1年交換留学し,
見えるもの,見えないもの色々な経験をしました。
帰国後,牧師よりそろそろ受洗したらどうかと言われました。
びっくりしてすぐ断りました。
礼拝には,5,6年通っており洗礼式にもでていましたが,
自分とは関係ないところで行われているとの認識で,
洗礼など考えた事もないと言って断りました。 
そうしたら,牧師が「あなたが神様を選ぶのではなく神様が選んだのだよ。
聖書にそう書いてあるよ。」と言って、
今日読んでいただいた「ヨハネによる福音書15章16節」を読んだのでした。 
    「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
    あなたがたが出かけて行って実を結び,その実が残るようにと,
    又,私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと,
    わたしがあなたがたを任命したのである。」
 ああ神様が選ぶのかと思った。
そう思ったということは,
自分が神を信じているかどうかなど考えていなかったわたしの中に神様がいた。
どうもわたしは神様を信じていたらしいと気がついた。
唯一絶対の神,そういった神が私の中にいた。 
そんなに大きな神様が自分を招いてくださっている。
それに対してちっぽけな自分がノーと断るのはとんでもない。
おこがましい,傲慢だと思った。こうゆうのをキリスト教では罪と言うのだなと分かった。
神様の方を向かないと言う事を,神様からの呼びかけに応えない事を罪と言うのだと。
こう云う事は,ずっと聴いてきたことだが,ああそうかと始めて思った。
そう云うところから,救い出してくれる為のイエスキリストの十字架があったのだなと思った。
 要するに,唯一絶対の神のこと,人間の罪のこと,十字架の贖い,
そういったことが6,7年間自分の頭の中にインプットされてきたのだが,
自分では意識されていなかった。そのインプットされていた事が,
その時に一つ一つ電気がつくように、ビビビと心に響いてきた。 
時間にすれば数分間の事だが,それで自分は牧師に受洗しますと言ったのです。
それが切っ掛けです。

いつくしみふかき

  sing1.jpg (32193 バイト)19歳で洗礼を受け,結婚しました。
その間ずっと神様を見ていたかと言うと,そうではなく,
結婚する前後数年間はだんだん教会へ行く事が面倒くさくなって,教会を離れ,
それだけでなく,聖書を読む事もなく,祈る事もしなくなって
要するにまったく神様の方を向かなくなり、思い出すこともない何年間がありました。
クリスチャンではなかった夫が,嫌なら行くことないではないかと言ったりしていましたが,
その夫が2,3年たって突然教会へ行ってみようかと言い出し,びっくりした。
遠いと行かなくなるので近い教会に通い始めました。 
夫が数年で受洗し,そのうち『聖書ってすごいよ。』と言いはじめ,
働いていたので夜間の神学校に通うようになり,そして牧師になっちゃった。
本当になっちゃったと言う感じです。
 自分が牧師夫人になるなどとは結婚する時には一度も考えた事がなかった。 
今はゴスペルを歌っていますが,小さい時から頑張って
やっと手に入れた,プロになったということではないのですね。
音楽は好きで小さい時からピアノを習い自分の心のどこかでは
自分から音楽を取ってしまうとなにもなくなるとの思いはありましたが、
だからといって自分から積極的にどうこうしようという自分の性格ではありません。
CDを出す事も考えていませんでした。
気がついていたらCDができていたという感じで,不思議ですね。 
とにかく人生では色々な事が起きて振り返ってみると,人生の大きな出来事,
結婚とか,夫が牧師になるとか自分がゴスペル歌手になるとか,
自分の節目になるTurning Pointを考えると,そこには自分の力ではなく
神様の力があったとしか思えません。
自分は,頑張るというタイプではなく,与えられたものを適当に選択はするが,
それにふっと乗っかっていくタイプなので,
だから余計に今ある自分を考えると自分の力ではない,神様がいるとしか考えられない。
事実そうだと思います。本当に恵み,,感謝だなと思う。

                                           

Jesus Loves Me
主に任せよ,汝が身を     
Sailing              

 

 自分は凧のようだと思っています。
空を飛んでいる凧。空を高く舞い上がって糸が切れそうでも切れない,
ゆらゆらしていてもどうしても切れない。
ずっと辿っていくと元のほうで神様がずっと守ってくださっている。 
聖書の中で,イエスが
    わたしは良い羊飼いである。
    わたしは自分の羊を知っている。羊もわたしを知っている
とありますが,まさに私にとってイエスは良い羊飼い。
羊である私は,ふらふらし、さまよっている羊ではあるが,
心の中ではっきりと羊飼いに捉えられ守られているとすごく思っています。
それを信じられるということは,自分が思っている以上に,
生きている上でものすごく強さとか自由を与えてくれている、すごくそう思います。
 何時も神の支えがあることを,ぼんやりとではあるが嬉しい事だと思っています。
少しは神様の方を向いてお返しをしていきたいと思っています。
本当に多くの恵みとそして力と自由とを与えられていると思います。
そういう気持ちを歌った歌を最後に歌います。 

              
飼主わが主よ                            
             konnsinnpg.jpg (32768 バイト) 礼拝後の懇親会の模様。
                 貴志子先生の指導で「主われを愛す」を
                 いろんなテンポで歌い,讃美歌の楽しさを
                 味わいました。
  
                                          

永野貴志子先生のCD:
    AMAZING GRACE MODERN GOSPEL  KISHIKO  meldac CORP 
                                          JAPAN
   
  KISHIKO IN HIS LOVE                     同上

  他にクリスます・ソングなど                   

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