5月25日  「神の恵みが宿る姿」 マルコによる福音書9章42-49

「罪への誘惑」

42 「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。

45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

49 人は皆、火で塩味を付けられる。

50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

人が愛さなくなったらもう生きているとは言えない――あるキリスト者の詩の一節である。

誰の為に主イエスは十字架にかかられたのか。それは、私達総べての人間の罪の為である。神のひとり子の命と引き換えにしなけれなならない程、私共人間は罪深く弱い。にも拘らず、自分が正しい強いと主張し、隣人と傷付け合う。しかし、主は約束される。ただ私を信じる時、大いなる価値を持つ者、塩を持つ者になると聖書を通じて言われる。神の子として人を愛する存在となること。その為に、あってはならない隣人をつまずかせる手や足、目は切り捨てる方がましであると教えられた。又、人は皆、火で塩味をつけられると約束される。自分の弱さ、小ささを神の前に差し出し、火と言う裁きを身に帯びることを求められている。その時、主よ、弱き者を憐れみ給えと祈りが生まれ、神にゆだねる姿を与えられる。なくてはならない塩をもつ地の塩、世の光となる神の恵みが宿るすばらしい祝福を身にまとうことが赦される。

神の国を求め、喜びと希望を持って神を証する歩みに真の平安が私共の世界を豊かに包む。

ホームページに戻る   み言葉に聞くに戻る