520日  「夜中に戸を叩く」    ルカによる福音書115-8

 また,弟子たちに言われた.「あなたがたのうちのだれかに友達がいて,真夜中にその人のところに行き,次のように言ったとしよう。『友よ,パンを三つ貸してください。

6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが,何も出すものがないのです。』

7 すると,その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし,子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

8 しかし言っておく。その人は,友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても,しつように頼めば,起きてきて必要なものは何でも与えるであろう。

主イエスのたとえ話,--或る人が夜中にパンを三つ借りたいと,友人の戸を叩いたが,拒否された。

ゆたかな今の時代の私たちも,やはり他人のことには,手がとどかない。これは,私たちの霊的な貧しさである、と。

このように考え至るとき,私たちは,神の扉を開くことになる。

夜中に拒否された友人は,もう一人の友人(7-8節)「しつように頼めば・…何でもあたえられるであろう。」,神への祈りとなる。

しかし,私たちの祈りも,馴れきった人間関係のように形式的なものになってゆくのでは,信仰生活の成長がとどまる。私たちは,熱烈な体あたりで聖書を読み,祈らねばならない。十字架について下さった主イエスは,今も変わらぬ,あふれる愛をつらぬいて下さる。

約百年前にロンドンのスラム街に,セツルメント設立のために,大学生たちが募金運動を始めた時に,責任者バーゲット氏は、「罪の自覚が進歩の始まりである。諸君は,パン種の様になりなさい」と,この主イエスの言葉をもって励ました。私たちも主イエスの約束を信じてパン種になりたい。

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