3月30日 「わたし達に浸み透る主の光」 マルコによる福音書
9章2-13節「イエスの姿が変わる」
2
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3
服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えずただイエスだけが彼らと一緒におられた。9
一同が山を下りると、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10
彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。12
イエスは言われた。「たしかに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13
しかし、言っておく。エリヤか来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」わたし達は日々の生活の中で劇的な変化に出合ことはすくない。しかし、今朝の聖書の箇所では日々の歩みからは遠い出来事、主イエスが自ら奇跡を身に纏われたことが示される。 変貌の主イエスの姿こそ勝利の姿であり、復活と再臨の姿が示されており、天のみ国で私達に約束されている姿の現れです。 主イエスは、栄光の姿の中にエリアとモーセと共におられたとある。当時は、エリアとモーセは神と等しい者として尊ばれていた。しかし、弟子達は主イエスを自分のものにしたいと思う。 主は共に歩まれる生きた神です。七節「これはわたしの愛する子、これに聞け」と天の父は私達に教えられる。十節では「この言葉を心にとめて」とある。み言葉はみことば自身が語るのです。 みことばを心に留めて信じることが主の栄光を現すことです。言葉は私達の心の隅々にまで浸み透る主の光です。 私達は聞く相手を見失う時、求めるものを見失う。私達にはゆるぎない土台が必要です。 これに聞けと主は土台を教えている。 栄光を示す神を持ち、主を心に留め、栄光を身に受ける。主の業を確信して歩み出すのです。
に戻る み言葉に聞くに戻る