3月17日 「十字架の救い」 マルコによる福音書
15章33-41節33 昼の十二時になると,全地は暗くなり,それが三時まで続いた。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神,わが神,なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに居合せた人々のうちには,これを聞いて,「そら,エリアを呼んでいる」と言う者が居た。
36 ある者が走り寄り,海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け,「待て,エリアが彼を降ろしに来るかどうか,見ていよう」と言いながら,イエスに飲ませようとした。
37 しかし,イエスは大声を出して息を引き取られた。
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39 百人隊長がイエスの方を向いて,そばに立っていた。そして,イエスがこのように息を引き取られたのを見て,「本当に,この人は神の子だった」と言った。
40 また,婦人たちも遠くから見守っていた。その中には,マグダラのマリア,小ヤコブとヨセの母マリア,そしてサロメがいた。
41 この婦人たちは,イエスがガリラヤにおられたとき,イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも,イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
なぜ
,イエスは十字架につかれたのか。イエスは私達に代わって神に見捨てられる事を通し,愛の神の和解の手を示されたのだと聖書は物語っている。イエスは見捨てられるような仕方で十字架上で息を引き取られた。神に見捨てられなければならなぬ存在である私達を神との和解の中に
,新しい赦し合いの関係の中に入れてくださるが故だったのである。神の裁きのしるしの真昼の闇の訪れの時
,十字架上の罪のないイエスは,横の十字架のふたりの罪人と共に並んでおられた。罪多き私達の代わりに私達と共にいながら十字架の苦しみを受けて下さっておられたのだ。そして
,最後までわが神,わが神と呼び求めて,イエスは神への信頼を失うことはなかった。どんな時も
,神が味方であると確信をもち,神の側から私達に命を捧げて下さった和解に応え感謝して生きよう。私達に与えられている恵みの生き方である。
BGMはBachのカンタータ4番「キリストは死につき給えり」 です。