3月10日  「ナルドの香油」 マルコによる福音書141-9

「イエスを殺す計略」

1  さて,過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは,何とか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた。

2  彼らは,「民衆が騒ぎだすといけないから,祭の間はやめておこう」と言っていた。

「ベタニアで香油を注がれる」

3  イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて,食事の席に着いておられたとき,一人の女が,純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て,それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

4  そこにいた人の何人かが,憤慨して互いに言った。「なぜ,こんなに香油を無駄使いしたのか。

5 この香油は三百デナリオン以上に売って,貧しい人人に施すことができたのに。」そして,彼女を厳しくとがめた。

6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ,この人を困らせるのか。わたしによいことをしてくれたのだ。

7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから,したいときに良いことをしてやれる。しかし,わたしはいつも一緒にいるわけではない。

8 この人はできるかぎりのことをした。つまり,前もってわたしの体に香油を注ぎ,埋葬の準備をしてくれた。

9 はっきり言っておく。世界中どこでも,福音が述べ伝えられる所では,この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

私達の信仰は常に安易な方へ流れ,形骸化するおそれがある。私達はいつも福音の原点に立ち戻るようにしなければならない。そして,その時に思い起こされるのは,イエスに香油を注いだ女性の姿である。この出来事では天上の価値が表されている。人々は地上の価値観で彼女の行為を激しく非難した。成功しているかどうか,損か得かといったものさしに縛られると自由が失われ,小さくまとまってしまう。この女性はイエスが命を投げ出し,十字架につこうとしていることを直感し,感謝でいっぱいの心から行動した。

現代は何でも損得計算する時代である。しかし,無駄に見えるものの中に充実した人生がある。

無駄をしたくないと思って計算づくでいる時に充実した人生はない。神は計算を度外視し,一人子をつかわした。十字架は神の行った聖なる無駄である。聖書はできないことをやれとはいっていない。できることに全力を傾けてやることである。私達は自分の命を投げ出してくださったイエスの愛に応答して,ナルドの女性のように,魂の底から,生活の根底からせいいっぱい感謝しながら生きていきたいものである。

                                                                                                        



BGMはBachのコラール前奏曲《われ汝に呼ばわる,主イエス・キリストよ》作品639番です。

ホームページに戻る       み言葉に聞くに戻る