6月9日 「父なる神を礼拝する」 ヨハネによる福音書4章7-26節
7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたし達に与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20 私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」
22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しまければならない。」
25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
私達人間は切実な関わり合いの中で生きている。そしてイエスとの出会いがその源となっている。
今日の聖書の女性は共同体との関わりを断ち切られ、疎外されていた。そのために人目をしのんで井戸に水を汲みに来たのだが、イエスは彼女との関わりを始めた。彼女はささくれだった心をそのままイエスにぶつけていったが、イエスは忍耐を持ってそれを受け止めた。彼女に耳を傾けさせたイエスの言葉「永遠の命に至る水」とは何か。私達が礼拝で何回も御言葉を聞く、家庭で聖書を読み、祈る
-こうしたことの繰り返しの中にイエスが私たちの中にはいってきて生き、泉のように恵みを与えてくださるようになる。それが信仰生活である。この女性は強がりを言いながら、一方で泣き出したくなるようなもう一人の自分がいた。イエスがしっかりと受け止めてくれたことでその渇きを真実に語り始めたのである。イエスとの出会いにより私達は本当に自分自身になり、自分の渇きを隠すことなく、ありのままの自分を生きていくようになる。その時にキリストの愛が豊かに味わえるようになる。
イエスが神の前で生きる生活を示していることを確信して深いところから悔い改め、信仰をスタートさせたい。
BGMはBachのコラール前奏曲649番「それでも、主イエスはわれとともにいます」 です。