6月30日 「心新たに祝福を見よ」
マルコによる福音書
2章18-28節 「断食についての問答」
18
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19
イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20
しかし、花婿が奪いとられる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。21
だれも、織たての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」23
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。25
イエスは言われた。「ダビデが、自分も共の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、いちども読んだことがないのか。26
アビアタルが大司教であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」27
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。28
だから、人の子は安息日の主でもある。」
ニューヨーク大学リハビリ研究所の壁に刻まれている病者の祈りは愛の意味を知る時を明確に現し、生きる意味と、喜びの中に生きていることを感じさせる。今日の聖書の個所ではファリサイ派の人々と主イエスの論争、問いかけからみ言葉に立つ本当の自由を学ぶ。
断食について、安息日についての律法の問いを主イエスになげかけているファリサイ派の人々は熱心であるが故に不自由に陥り、主を受け入れられない心になっている。人間にとって良いものとして与えられた断食・安息日の行いが神の約束・愛としてではなく人間的な思いで人を裁く道具、自分を誇る道具とされていった。喜びのない彼らに主イエスは本当の自由を教えられ、本当に委ねるべきものを示される。
私達が主に捉えられた時、新しい神の器としてかえられ、キリストを受け入れるとき、具体的に恵みを受ける姿にかえられる。私達には主に守られ、主に恵まれている喜びをいつも心に刻んでいるかが問われ、求められている。神の恵みはつきない。私達の生命は主によって輝いている。神のみことばを生命の言葉として週の旅立ちをするのです。
BGMはBach G線上のアリア(1006番より)です。