7月7日 「イエス・キリストにおける神」 ヨハネによる福音書
13章1-15節1
さて過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。6
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分るまいが、後で、分るようになる」と言われた。8
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。12
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」13
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
私達の社会で最も必要とされながら失われているのは、「信頼」ではないだろうか。信頼には、大きく分けて物・人・神に対する信頼の三種類があると言われるが、現在では物と人に対する信頼が大きく揺らいでいる。
本日の聖書の個所は、イエス・キリストの信頼をイスカリオテのユダが裏切る場面である。しかしイエス・キリストは、ユダを裏切ろうとはせず、足を洗うという行為により、信頼の再建を図ろうとした。
他人よりも一歩でも抜きん出たいと思っている私達に、イエス・キリストが跪き、足を洗ってくださるということは、イエス・キリストにおける神は、この愛の行為を通して信頼に足る以上の神であることを示している。そしてこの場面ではイエス・キリストにおける神は、天に居るのではなく私達の足許にいらっしゃるのである。そして、私たちの利己心という最も見にくい部分を洗うことにより私達を新しくしてくださるのである。
イエス・キリストが信頼以上の愛を持って私たちの醜い足を洗ってくださる、私達もそのことに感謝をして、神様の愛に応えて生きてゆきたい。
BGMはBachのカンタータ78番「イエスよ,わが魂よ」 です。