7月14日 「生きた心」 マルコによる福音書3章T-6節
「手の萎えた人をいやす」
1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
今日は神の定めた安息の日であり、礼拝はその中心、すべての苦しみから解き放たれ、み言葉が豊かに注がれる場である。しかし多くの人にとって日曜日は自分のしたいことをする休日、いわば「私の日」である。今朝の聖書の個所では、主が本当の安息について語り、「神の日」としない人への挑戦状を示している。
当時、からだに不自由のあるものは罪のせいとみなされていた。このため、この人は会堂の隅で小さくなっていた。その人をイエスは会堂の中心に来るようにと招いたのである。一方、会堂にいた人々は確かに安息日をきちんと守ってはいたが、イエスのあげ足をとってやろうという自分の考えにとらわれ、安息日の感謝や命のみ言葉を受ける心がなかった。心が死んでいたのである。
私達は様々な自分の理由で教会にからだも心も向かなくなり、安息日に礼拝に行かなくなることがある。そのうち主にいない空白の時間ができてしまい、心が固くなり死んだ心になっていく。こうした時にこそ、会堂の真ん中に立つように招かれているのである。固くなった心は必ずいやされる。
イエスは私達が神からの恵みである生きた心を曇らせてしまうことを憤る。心を主に向けて開いて、生きた心を取り戻しなさい。主を心から信じ、生きた心でここから出て行きなさい。
BGMはBachのカンタータ80番「神はわが堅きとりで」 です。