71日  「招かれざる客」    ルカによる福音書1415-24

「大宴会」のたとえ

15食事を共にしていた客の一人は,これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は,何と幸いなのでしょう」と言った。

16そこで,イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして,大勢の人を招き、

17宴会の時刻になったので,僕を送り,招いておいた人々に,『もう用意が出来ましたから,おいでください』と言わせた。

18すると皆,次々に断った。最初に人は,『畑を買ったので,見に行かねばなりません。どうか,失礼させてください』と言った。

19ほかの人は,『牛を二頭ずつ五組買ったので,それを調べに行くところです。どうか,失礼させてください』と言った。

20また別の人は,『妻を迎えたばかりなので,行くことができません』と言った。

21僕は帰って,このことを主人に報告した。すると,家の主人は怒って,僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出ていき,貧しい人,体の不自由な人,目の見えない人,足の不自由な人をここに連れて来なさい。』

22やがて,僕が,『御主人様,仰せのとおりにいたしましたが,まだ席があります』と言うと、

23主人は言った。『通りや小道に出て行き,無理にでも人々を連れて来て,この家をいっぱいにしてくれ。

24言っておくが,あの招かれた人たちの中で,私の食事を味わう者は一人もいない。』」

神の愛に受け入れられているということは,甘えや自己憐憫の理由とはならない。信仰とは,神の愛に応え,過去の自分を捨てて,潔くスタートラインにつくことである。

主イエスの語られた招きの譬えでは,主催者は神様をあらわしている。つまり,招くのは神様であり,信仰の始まりは神様が用意してくださっている。信仰とは,私達が神様の用意に大胆に応えスタートラインに立つかどうかである。

古い時代には,招待をする際は,二度招きの使者が出されることが習慣となっていた。一度目は前もって,,二度目は食事の用意ができた時である。イエスの譬え話しの招きの使者は二度目のものであり、一刻を争うものであることを意味している。譬え話の登場人物は様々な理由を着けて二度目の招待を断ってしまっているが,私達も日常の様々な理由により神様の愛に応えてスタートラインに立つことを断っていないだろうか。

神様は一人子を賜ったほど私達を愛してくださった。私達も自分の何かを捨て,神のこの大きな愛に応えることこそが,活力ある生き方につながってゆくのである。


BMGは、グレゴリアン聖歌より

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