7月13日  「十字架を源とする恵み」 マルコによる福音書1032-45

「イエス、三度自分の死と復活を予告する」

32 一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分のみに起ころうとしていることを話し始められた。

33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。

34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

「ヤコブとヨハネの願い」

35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。

40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

41 他の十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

43 しかし、あなた方の間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

主は祈り求める姿を私たちに教えられた。誰もが願いを持って教会に集まってきているであろう。願いのあるところには祈りがある。主イエスはそうした願いを否定はしないが、祈りの中で忘れてはならない源というものを今朝の箇所で教えられた。それは主の十字架である。ここで述べられている三回目の十字架の予告は今までとは異なり、具体的に説明することで、イエスに従う者もイエスと同じ苦しみを受けることが求められている。それにも関わらず弟子達はその意味を真に理解することができなかった。十字架の本当の意味がわからなかったために、自分中心の願いを口にしてしまった。そしてイエスと同じ苦難を受けることもできると答えた。主の言われたことの重さをしっかりと受け止めることができなかったのである。

絶対者である神の僕となることは喜びだけではなく、苦しみや痛みをすべて受け入れることである。私たちは自分の苦しみで手がいっぱいであり、それを教会で癒してもらい元気になりたいのに、主の苦しみまで受けることはできないと思いがちである。しかし、自分の満足だけを求めることは、成就したときにまたその上のものを欲しがることになり、いつまでも主の苦しみを負えない、力のない自分のままになってしまう。そこに平安はない。主の勝利された土台の上に立つことで求め続けなければ落ちてしまうという恐怖をもつこともなく、また、痛みや苦しみをも恐れずに歩むことができるのである。

 

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