2006年1月25日に行われたパレスチナ評議会選挙の国際選挙監視団に参加するためにエルサレムを訪問しました。前後の約1日半の自由時間を利用しエルサレム旧市内と周辺の聖書に縁のある場所を探索しました。キャノンのIXYDIGITAL55で撮影しました。
1.ギデロン渓谷の東にあるオリーブ山から城壁とともにエルサレム旧市内のほぼ全貌が見渡せます。真正面が“神殿の丘“―イエス時代の神殿があった場所(実際はこの地下に当たります)―です。中央の金色のドームのモスクが“岩のドーム“でここにある岩からモハメッドが昇天したといわれ、その左の銀色のドームの”アル・アクサ・モスク“と共に、イスラム教徒にとって最も大切な場所と考えられています。”キリスト教にとってはまた、ここが創世記22章に記されているアブラハムがイサクを犠牲に捧げようとした「モリヤの山」でもあります。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて守屋の地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記2章2節)
遠方に見える高層ビルのあたりは旧市内の外、エルサレムの新市街です。右手前の塔は”主の涙の教会 “で、この写真では見えませんが、そのすぐ下には”ゲッセマネの園”があります。
2.1の写真の左を撮ったものです。ここが“シオンの丘”で、ダビデの頃のエルサレム城内はこの地域が中心であったようで、次第に東方面に中心が移動されたとのことです。“シオンの丘”は現在、城外にあり、ここから旧市内の“シオンの門”まで歩いて数分の距離です。中央やや左中ごろに教会が見えます。“鶏鳴教会”といわれ、ペトロがイエスの後をつけて大祭司カイアファ邸の跡といわれる場所に建てられた教会です。「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイによる福音書26章74-75節)
この教会の少し右下辺りにイエスが唾をし土をこねて盲人の目に塗りシロアムの池で洗いなさい、と・・・福音書にある“シロアムの池”があります。「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして,『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」(ヨハネによる福音書9章6-7節)右上方に見える立派な教会は“マリア永眠教会”といわれる修道院で1910年に完成したエルサレム最大の教会です。このすぐ右に“シオンの門”がります。
3.1の写真の右を撮ったものです。”主の涙の教会 ドミヌス・フレヴィット“の塔がもっとはっきり見えます。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』」(ルカによる福音書19章41-44節)
旧市内の城壁中央に門の跡が見えます。”黄金門“です。右上辺(少し木立が見えますがその上)は新市街(東エルサレム地域)です。この3つの写真で大よそのエルサレム旧市内をご想像いただけると思います。
4.上記の写真はオリーブ山の“Seven Arches Hotel”のすぐ側にある見晴台から撮りました。このホテルのすぐ上に“主の祈りの教会”と“主の昇天記念堂”があります。この標識は“主の昇天の教会”への道を示したもので、 “主の祈りの教会”はこのすぐ右側にあります。
5.“主の祈りの教会”の境内から礼拝堂を撮ったものです。“主の祈りの教会”はイエスがエルサレムに来られてオリーブ山のこの場所で最初に祈られた場所とされています。それが主の祈りであったかどうかは分かりませんが、ここには世界の80以上の言語で主の祈りがパネルに書かれています。
6.写真6,7,8で示されているように、ヘブライ語、アラム語の他に、礼拝堂正面の左手には、日本語の主の祈りがありました。
(6) (7) (8)
7.教会の一角でスペインの巡礼団が共に主の祈りを捧げておりました。
8.彼らは写真のような地下の洞穴に向かって祈りを捧げておりました。終わったあと、この場所を背景にしてそれぞれ記念写真撮っていました。
9.オリーブ山のロシア正教会(“主の祈りの教会”から数分ほど歩いた別の場所にあります。ロシア正教ではこの場所でイエスが祈られたと主張しています。)の境内のオリーブ畑です。オリ−ブ山と言われたほどですから、イエスの時代はその麓にあるゲッセマネの園も含めて、さぞかしオリーブの木々で豊かにおおわれていたものと思われますが、残念ながら今はこの程度の場所を探すのも苦労するほどオリーブの木が伐採されています。
10. “主イエスの昇天記念堂”です。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき,彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。」(使徒言行録1章9-12節)
この建物の中に主イエスの足跡として残されたものがあります。あまりはっきりと足跡の跡が分かりませんが、何かちょっと大きすぎるように思いました。勿論、建物はかなり後世のものです。
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11. “ライオンの門”今は“ステパノ門”と呼ばれています。オリーブ山に面しています。キリスト教徒の最初の殉教者であるステパノがこの門から引きずり出されて石打の刑で殉教しました。イエスが十字架を背負ってピラト邸からゴルゴダの丘に向かわれる道を逆方向に歩くと“ステパノ門”に出ます。
12. “ステパノ門”を少し下ってオリーブ山の“ゲッセマネの園”方向の写真です。中央一番高い所が“Seven Arches Hotel”のすぐ側にある見晴台です。そのすぐ左手に金色の教会はロシア正教会に属する“マグダラのマリア教会”で、その右下の建物が“万国民の教会”と呼ばれる“ゲッセマネの園の教会”です。更に、その手前、自動車が止めてあるところにイエスの母マリアとヨセフ、マリアの両親の墓とされる“マリア聖墓教会”があります。“ゲッセマネの園の教会”の右手に走っている道路は“エリコ街道”と呼ばれエルサレムの東にあるエリコからエルサレムを通りベツレヘムに南下する街道です。
13. “ゲッセマネの園の教会” と“マリア聖墓教会”を拡大したものです。
14. 少し離れた場所から“ゲッセマネの園の教会”に続くオリーブ畑を撮りました。過越しの食事、主の晩餐の後、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」(マタイによる福音書26章30節)そしてマタイによる福音書もマルコによる福音書も「弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て祈られた」と書かれていますが、ルカによる福音書では「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、・・・」と書かれており、ゲッセマネの園で祈りの時いつもお気に入りの場所があったことが伺われます。2000年後のこの写真ではそのときの状況を伝えようもありません。
15. シオンの丘からシオンの門(南に面しています)を通って旧市内に入るとアルメニア人地区ですが、すぐ近くにマルコによる福音書を書いた聖マルコの家の跡に建てられたシリア正教会の聖マルコ教会があります。この写真はその入り口ですが、内部を改造中で肝心の中を見ることは出来ませんでした。
16. キリスト教の最初の教会であると記されています。マルコの家の2階が最後の晩餐の部屋であるといわれています。つまりイエスとその弟子たちは、ここで最後の晩餐を終えて、賛美の歌をうたいながらシオンの丘を下り、ケデロンの谷(今はエリコ街道が通っています)を渡ってオリーブ山の麓にあるゲッセマネの園に行きました。ケデロンの谷からシオンの丘に上る道やオリーブ山に登る道は決して緩やかではありません。むしろ、急な坂道といた方がよいでしょう。ゲッセマネの園から神殿の丘を挟んで反対側に位置するピラトの官邸までは直線距離で1キロぐらいだそうですが、急な坂道を登るのですからゆっくり歩かないと息切れするでしょう。
また、ここマルコの部屋は聖霊降臨の部屋でもあります。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」(使徒言行録1章13節)「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」(使徒言行録2章1−2節)
17. (写真)写真のアーチの左が「エッケ・ホモ教会」の壁です。鉄のドアーで閉められており、なかなか入り口が見つからずうろうろしていたら、店の親父さんがこの鉄のドアーを開けて中に入り、管理人に話してくれました。ガイドのいない一人旅では見つけにくいと思いました。
18. 表示板右側のラテン語は、「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」(ヨハネによる福音書19章1節)で、左側は「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた。」(同13節)そして、一番下に「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」(同16節)
イエスはゲッセマネの園で捉えられ、大祭司カイアファのしゅうとのアンナスのところに連れて行かれ,大祭司カイアファからピラトの官邸に引き渡されました。ルカによる福音書によるとピラトからヘロデ王へ、そして、またピラトの下に送り返されたとあります。このピラトの官邸でイエスは鞭で打たれ、裁判で十字架を宣告され、ユダヤ人に引き渡されたのです。エッケ・ホモ教会と言われるのは、ヨハネによる福音書19章5節の「見よ、この男だ」とのピラトの言葉からです。
19. 現在、ピラト官邸の跡地には聖アンナ教会という静寂で美しいフランシスコ会の修道院が立っています。確認できませんでしたが、修道院正面の右側部分が鞭打ちの場所跡(地下)、左側部分が十字架の判決を下した所の跡(地下)と思います。
20.
そして、修道院の地下にはイエスの時代の石畳や敷石の道やローマの兵士たちの休憩場所が残されています。
21. 境内にあった掲示です。フランス語と英語の聖書からの引用ですが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイによる福音書16章24節)の次の文章の出典は分かりません。これはここを訪れた人に呼びかけているのでしょうか。「イエスはご自分と同じように謙遜し愛を持って十字架を背負う人を求めておられます。」(MB)ここからイエスが十字架を背負われて歩んだ道が始まります。ゴルゴダの丘を目在して。
22. この写真はピラト官邸跡付近から写したゴルゴダの丘の上に立つ聖墳墓教会の二つのドームです。ピラト官邸からゴルゴダの丘までのイエスが十字架を背負って歩まれた道、即ち現在のエッケ・ホモ教会と聖墳墓教会とを結ぶ曲がりくねった小道は“ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)”と呼ばれています。少し上り坂になりますが、そんなに長くはありません。しかし、鞭打のあと十字架を背負われ、軽蔑と嘲笑のなか人々のすべての罪を背負われて歩まれた道のりは気が遠くなるほど長いものであったに違いありません。イエスは途中3度十字架を背負ったまま倒れたといわれています。
23. 丁度その小道の中間あたりに道の名前を示した標識がありました。“ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)”には、それぞれ出来事を記念した14箇所(ステーションと呼ばれる)があり、最後の5ステーションは聖墳墓教会内にあります。ステーションは次の通りです。
I. イエス、死刑判決を受ける(現在、オマリーエ学校の校庭の場所):「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。・・・」(ヨハネ18・28)
II. イエス、十字架を担ぐ(フランシスコ会修道院):「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、無知で打たせた。」(ヨハネ19・1)「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」(ヨハネ19・16)
III. イエス、十字架の重みに倒れる(ポーランド・カトリック教会):
IV. 母マリアがイエスを見る(アルメニア・カトリック教会):
V. キレネ人シモン、イエスに替わって十字架を担ぐ(フランシスコ会礼拝堂):「そこえ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」:(マルコ15・21)
VI. ベロニカ、イエスの顔を拭く(イエスの小さき姉妹会修道院):
VII. イエス、2度目に倒れる(イエス時代の城壁の門の近く):
VIII. イエス、エルサレムの娘たちを慰める(ギリシャ正教修道院 聖墳墓教会外側):「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群を成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。『エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ。」という日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、「我々の上に崩れ落ちてくれ」と言い、丘に向かっては、「我々を覆ってくれ」と言い始める。「生の木」さえこうされるのなら、「枯れた木」はいったいどうなるのだろうか。』」(ル カ23・27−31)
IX. イエス、3度目に倒れる(コプト派総主教府入り口壁の柱 聖墳墓教会外側):
X. イエス、衣を脱がされる(ここからは聖墳墓教会内にあります)
XI. イエス、十字架に釘付けにされる(ローマ・カトリックの釘付けの祭壇):「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。」(ヨハネ19・18)
XII. イエス、十字架上で息を引き取る:「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。・・・しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」(マルコ15・34-37)
XIII. イエス、十字架から降ろされる:「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。」(マタイ27-57-58)「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、・・・」(マタイ27・59)
XIV. イエス、墓に葬られる:「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口に大きな石を転がしておいて立ち去った」(マタイ27・61)
24.
時間の関係で14ステーションをすべて確認することはできませんでした。また、順序も間違っているかもしれませんが、“ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)”をご案内します。
左から2番目が第6ステーション、その右の石畳はローマ時代のもの、最後の写真は第10ステーションで聖墳墓教会の正面右側で階段にあたります。この下にゴルゴダの丘があります。
聖墳墓教会の内部です。
聖墳墓教会正面
ゴルゴダの丘 十字架の跡 遺体を包んだ所
カトリック教会の礼拝所
25.その外の写真
嘆きの壁 黄金のモスク アル・アクサ・モスク ヤッファ門のダビデの塔
以上でエルサレムのたびを終わります。
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