2001年1月7日 『真実な祈り』
マタイによる福音書6章5節-8節
「祈るときにも,あなたがたは偽善者のようであってはならない。
偽善者たちは,人に見てもらおうと,会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたがたが祈るときは,奥まった自分の部屋に入って戸を閉め,
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば,隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また,あなたが祈るときは,異邦人のようにくどくどと述べてはならない。
異邦人は,言葉が多ければ,聞き入れられると思いこんでいる。
彼らのまねをしてはならない。
あなたがたの父は,願う前から,あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
古代の歴史の大変動の時に神の国について書いたアウグステイヌスは,
この世には二つの国があるといっている。
一つは自己の栄光を求め自己愛に生きる「地の国』,
もう一つは神を賛美し互いに仕える『神の国』である。
激動の世紀になるであろう二十一世紀に神の国に生きる秘訣は,
生ける神に真剣に向き合う時間つまり祈りを持つことである。
本日の聖書の個所でイエスは祈り方について教えておられるが,
現代の私たちは偽善者といわれるほど,祈っているだろうか?
人前で演技をするのが祈りでないことは当然であるが,
隠れた所で一人瞑想に耽るのも祈りではない。
祈りとは隠されている神に対して,思いきって語りかける冒険が必要なのである。
またイエスが言われた「願う前から…』とは,神が全能だから何でもできるということではなく,
親が子を知るように私たちを愛してくださる神に対して,
私たちも愛を持って祈ることの必要性を教えている。
二十一世紀は,生命科学・情報の倫理が問題となり,
本当に神の愛を中心とした共同体を形成できるかが
人類の運命を決めるかもしれない。
そのような二十一世紀の最初の一年である今年を
神の国を祈りつつ生きる冒険をする年としたい。