1月6日  「旅路を導く信仰」  マルコによる福音書 914-29


    

   「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると,,彼らは大勢の群衆に取り囲まれて,律法学者たちと議論していた。

15 群衆は皆,イエスを見つけて非常に驚き,駆け寄って来て挨拶した。

16 イエスが,「何を議論しているのか」とお尋ねになると,

17 群衆の中のある者が答えた。「先生,息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて,ものが言えません。

18 霊がこの子に取りつくと,所かまわず地面に引き倒すのです。すると,この子は口から泡を出し,歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが,できませんでした。」

19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで,あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスの所に連れて来た。霊は,イエスを見ると,すぐその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ,転びまわって泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは,いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

22 霊は息子を殺そうとして,もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら,私どもを憐れんでお助けください。」

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは,群衆が走り寄って来るのを見ると,汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず,耳も聞こえさせない霊,わたしの命令だ。子の子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ,ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので,多くの者が,「死んでしまった」と言った。

27 しかし,イエスが手を取って起されると,立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると,弟子たちはひそかに,「なぜ,わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 いえすは、「この種のものは,祈りによらねば決して追い出すことはできないのだ。」と言われた。

       

 本日の聖書の箇所は主イエスが信仰について、教えられた最も有名な箇所の一つである。
 山から下りてこられた主イエスは、悪霊を追い出す力の無い人々をみて、何と信仰の無い時代なのかと嘆かれた。これは、弟子達のみに対する嘆きではなく、無力感・あきらめの支配していた時代全体に対する嘆きであった。 
この無力感・あきらめは、悪霊にとりつかれた子供の父親の、主イエスに対する半ばあきらめた願いにも表れている。
私達もこの父親のように半ばあきらめて祈ったり願ったりしていないだろうか?
主イエスはこのような願いに対し、断固として信じて祈ることの必要性を説かれた。 
祈りとは主イエスとの対話であり、信仰とは主イエスを信頼して全てを委ねることである。

現代社会に必要なのはこのように主イエスに全幅の信頼を寄せた祈りである。 
社会には、人間の努力・善意・協力だけでは決して解決できない困難な問題がある。
祈りは私達を神の国のみわざのために用いられる存在に変え、伝道・医療・教育・援助といった活動も、祈りとともにするによってはじめて現代社会の困難な問題に対処する力を与えられる。

                                                                                                         



BGMはBachのカンタータ番51「すべての地に歓呼して神を迎えよ」 です。

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