1月12日  「解き放たれた、心で」  マルコによる福音書714-23

14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来る物が、人を汚すのである。」

17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが出来ないことが分からないのか。

19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

20 更に、次のように言われた。「人から出てくるものこそ、人を汚す。」

21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、

22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺,好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、

23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。

教会イこそ神の前ですべてに開かれ、ありのままの姿で歩める神の家である。人間は本当の自分の姿を隠し装うことができるが、それを越えてあふれてしまうものがあることも確かである。礼拝ではそうしたことをする必要がなくありのままで神の恵みを受けることができる場である。

人間を汚しているのは外にあるもの、他の人ではなく自分の中にあるものである。しかし、私達は自分を清いとは思わなくても、汚れているものとは考えたくない。何かが足りない、と思うのだが、それを見出すことは人間にはできない。そのとき私達は人と比べ始め、「あの人よりはまし」と考えて自分の汚れに目をつぶり、少し清くなった気分になる。自分の中から出てくる思いなどによって隣り人を傷つけ、自分もその穢れを隠すことによってみじめなものとなっていしまう。そこから救い出されるには、心の中にある自分の思いや装おうとする気持ちを断ち切り、心を解き放ち、神に明け渡すことである。その時に私達自身が自分に足りないものを見出すための光を与えられる。その光こそみ言葉である。それが外からはいってきて汚れから清めてくださる。み言葉によって,装わず隠さない自分が明らかになり、まちがった自分の姿を知らされ、許しを祈らずに入られなくなる。私達はありのままの自分を神に差し出し、解き放たれた心になってキリストの道を歩むことを許されるのである。

 

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