讃美歌第2184 「神はひとり子を」

この讃美歌は、作詞が三谷種吉、曲は作曲者不詳(曲名:God's Love)となっている。『讃美歌第二編』よりも後の『救世軍歌集』(1997)や『新聖歌』(2001)でも、作曲者は Anonymous (作者不詳) とされている。三谷種吉の『基督教福音唱歌』(1901)に載ったもので、中田羽後編『リヷイヷル聖歌』(1909)を経て『讃美歌第二編』に収録された。『讃美歌第二編略解』では、「三谷の作曲かもしれない」という憶測を紹介しつつ、「当時の米国の福音唱歌集からとられたものであろう」と推測していた。以下のようにこの推測は当たっているようである。

D. DeWitt Wasson, Hymntune Index and Related Hymn Materials (1998) によると、1893年にロバート・ロウリー(Robert S. Lowry1826-1899) が作曲した。しかし、ワッソンの索引に記載のある収録讃美歌集はスウェーデンとノルウェーの讃美歌集がそれぞれ1点のみで、英米の讃美歌集が挙げられていない。曲名も “Brist ut, min själ” であって英語曲名が示されていない。いくつかのインターネット・サイトによると、"Brist ut, min själ, i lovsångs ljud" の原詩作詞者はファニー・クロスビー(Fanny Crosby) であるが、英語の原題・原詩はわからない。スウェーデンの讃美歌集 Svenska Missionsforbundets sangbok (1903, no. 424) には “Brist ut, min själ” として楽譜とともに収録されていて、作曲者は R. Lowry と書かれている。『基督教福音唱歌』では9拍子であったとのことであるが、スウェーデン版は『讃美歌第二編』と同じく6拍子である。なお、ワッソンの索引に God's Love という曲名の讃美歌がいくつかあるが、いずれも「神はひとり子を」の曲ではない。

この讃美歌は、「ただ信ぜよ」(聖歌424番 作曲はJ.H.ストックトン)と共に、三谷種吉の代表作であり路傍伝道に良く用いられた。

三谷種吉(1868-1945)は、「日本で最初の音楽伝道者」と言われている。

明治の初期に横浜についで開港し外国人が多く住むことになった神戸で生まれ育ったことと、彼の音楽を含めた優れた才能と真摯な性格が、宣教の為に來日する熱心な外国人の宣教師達との接触の輪を次々と広め、その後の彼の生涯(伝道活動や唱歌・讃美歌の翻訳、作詞、編纂など)に大きな影響を及ぼした。大塚野百合著「賛美歌・唱歌ものがたり」- 創元者-によると彼の外国人との接触の事例は次の通りである。1875年、アメリカン・ボードの宣教医J.C.ペリーに導かれて入信し、洗礼を受ける。1897年、アメリカン・ボードの宣教師S.L.ギューリックを助け開拓伝道を始める。ギューリックの紹介で、松江の英国人宣教師バックストンと会い音楽の才能を認められる。(音楽伝道への感化)バックストンに語学の才能を評価されA.P.ウイルクスの日本語教師となる。1904年バックストンを長とする日本伝道隊を設立。等。三谷種吉については,WebSite検索でも35件あり,また、「賛美歌・唱歌ものがたり」にも特に福音唱歌との関連で詳しく記述されている。ここでは、

http://www.ac.wakwak.com/~taka-shi/nakaichi/mitani.html

からその生涯を引用いたします。

三谷種吉

 

 先生は明治元年生れで、当時日本では珍しいクリスチャン・ホームに育った。父佐介翁は、気骨のある信仰の持主で、その伝記には心打たれるエピソードがいくつかある。

 この父によって明治十六年、同志社英学校(現・同志社大学)に送られ、新島嚢のもとで信仰的に恵まれた学びをした。卒業後は、神戸居留地の英国商社に勤務したが、たまたま有名な英固の伝道者の通訳をして巡回し、その中で宣接伝道に献身。明治二十四年から松江のバックストンのもとで伝道者としての訓練を受けた。

 伝道者としては、しばしば迫害による死の危険にさらされたが、主に守られて召命を全うした。宗教音楽家としては、福音唱歌を発行し、後に霊感賦を著した。その作「神はひとり子を」「ただ信ぜよ」は迫力に満ち、特に有名で、明治、大正、昭和を通じて、福音宣教に欠くことのできない名作として、ますます用いられている。若き日の彼は、交通の不便な時代にわらじ履きで、北は北海道から、南は鹿児島の端まで、ほとんど徒歩で、アコ−デオンを携え、「ただ信ぜよ」を歌いながら、津々浦々伝道してまわった。

 文書伝道では、大型のキリスト教新間を発行。明治三十八年から、第二次世界大戦の用紙統制による昭和十六年の廃刊に至るまで、約三十六年間編集発行し、大衆に福音の真理を打ち込んだ。大正九年、健康を害して中野に居を移し、中野同盟教会に籍を置いたが、この前後、警官ミッションによる警視庁、警察等の伝道に従事した。

 また結核療養所の設立や諸教会の応援伝道など、力の続くかぎり行った。昭和十七年、戦争苛烈な頃、埼玉県所沢のウェスレアン教会の牧会に応じたが、同二十年四月十日、七十六歳で地上の戦いを終えて、愛する主のみもとに凱旋した。

 著書に三冊からなる詩篇の講解その他がある。また、病気などの時以外は、七十歳まで、毎日一時間のバイオリン練習を欠かさなかったとのことである。ちなみに、東京基督教短期大学(TCC)の音楽教授、三谷幸子女史は、息女である。

背景のmidiは新たに作成しました。

 

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