讃美歌77番 「み神はちからの」

■作詞者Henry K. White1785-1806 イギリス人)は、わずか22歳で夭逝した早熟の詩人である。イギリス中部のNottinghamで肉屋の息子として生まれ、始めはメリヤス屋に、後には代理人の家に奉公(Lawyers Clerk)にやられた。1804年までに(20歳以前に)、代表作となる詩集“Clifton Grove、 A Sketch In Verse With Other Poems”を出版したが、恐らくこの詩集を制作中に、友人に宛てた手紙にこう記している。「私はこの3ヶ月間、出版社の為の詩集の準備に忙殺されている。仕事の寸暇を惜しみ睡眠も節約してこのことに専念している。自分の収入では勉強を続けていく余裕はないが、この詩集が成功すれば、自分にとって大きな支えとなる。」猛烈な仕事と勉強と詩作へのエネルギーは彼の健康を害した。

■この詩集の発表後、好意的な批評もあり、詩人としての道を歩む為、また、この頃、将来,教会に仕える(牧師)ことも考えに入れ,Cambridge大学に進学を決意するが、健康回復のため,Nottingham郊外のWilfordで暫く入学準備を兼ねて静養した。このとき、好んで近くのClifton Grove(森)を散策した。詩集の題名はこれに由来するものと思われる。1804年にCambridgeに入学したが,健康は回復せず1806年に没した。詩人サウシーは彼の遺稿集を編み、バイロンは彼の死をいたむ輓歌を作った。

この讃美歌は、1812年に編集された讃美歌集に発表され,その後広くうたわれるようになった。

■尚,Nottinghamはロビン・フッド物語で悪代官の城があったところで、ロビン・フッドが拠点としていたシャーウッドの森は、WilfordCliftonの森と関係があるかもしれない。

■曲名“Ellacombe”のいわれについては、 Robert Guy McCutchan, Hymn Tune Names (1957) でも「英語の名前かららしい」としか書かれていない。イギリス西方にあるDevonshire州にある村の名からのようであるが、編曲者或は原曲との関係は分からない。色々な讃美歌で歌われており、広く親しまれている旋律である。

■原曲“Ave Mariaklarer und lichter Morgenstern-マリアを賛美せよ、輝き、明るい朝の星を”は、ドイツの或る公爵(Wurttemberg)の私邸にあるカトリック礼拝堂のために1784年に編集された55曲の讃美歌集(大半がドイツのプロテスタント讃美歌作者によるものと言われる)に含まれていたが、イギリスでは、英国国教会で広く用いられた讃美歌集“Hymns Ancient and Modern(増補版、1868)”に“Come, Sing with Holy Gladness”の曲として編曲されて用いられるようになったもので、今日ではドイツよりもむしろ英米で広く愛唱されるようになった。

 

背景のmidiは新たに作成しました。

 

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