404番 「山路こえて」
■この歌は日本人創作の古典的な歌であるが、この賛美歌は”GOLDEN HILL”と言う曲に、この旋律を大変愛していた西村清雄氏が旅の途中で作詞し、1903年の『讃美歌』に採用され、その中で最もポピュラーな歌となったものである。
■”GOLDEN HILL”(HILLSと複数形で表現されている場合もあります)は資料によると1817年出版のケンタッキー・ハーモニー(Kentucky Harmony)で発表されており,アムジ・チェイピン(Amzi Chapin 1768-1835)が作曲したとされている。讃美歌ではAaron Chapin,1805となっているが名前は間違いで、年代については確認ができないといわれている。旋律は19世紀のアメリカ南部(特に農村山岳地帯)の歌唱 学校に於いて盛んであった歌唱スタイルであるシェイプ・ノート方式をいかにも連想させる。アメージング・グレースの旋律もこの歌唱スタイルである。
■アムジ・チェイピンは兄と共にヴァージニア、ノースカロライナの歌唱学校で教え,1795年ケンタッキーに移った。その後、ペンシルベニア、オハイオと移動したが生涯歌の指導にあたり又、幾つかの作曲を残した。
■作詞者西村清雄氏(1871-1964)は、松山に生まれ同志社に入学したが中退して松山に帰り宣教師ジャドソン女子が創立した学校(後の松山城南高等学校)の校長に就任,その後62年間,もっぱら勤労青年の教育に没頭した。この歌は1903年(明治36年)宇和島教会の伝道を応援して、松山に帰る途中、まだ鉄道が開通しない頃だったので、ひとり淋しくわらじがけで、法華津、島坂峠の道をたどった時、その感興をうたったものである。作者自身の述懐によれば、「日はすでに西山に傾いていた。山頂には残雪が輝き、梢には松の嵐、谷には渓流のささやきがきこえていた。やがて冬の日は暮れて、木の間を漏れる星あかりで、やっと山路を辿ったが、大洲までなお5里もあるかと思えば心細かった。その時ふとかねて三輪源造君が新作賛美歌を見せてくれたことを心に浮かべ、私の最も好きなゴールデン・ヒルの歌調に合わせて、一句一句作り、一節できれば、歌って見て又次の一節にうつるうち、感興次第に加わり、今までの淋しさもどこかへ去り、夜の山路を楽しみ、『されども主よ、ねぎまつらじ、旅路の終わりの近かれとは』との句が、自然に出て来たのである。」
■宇和島から松山までは道のりは100キロあり、特急でも70分かかる。地図でみると大洲市はちょうど宇和島と松山の中間にあり、暗くなって大洲まで山道で5里(20キロ)もあるのでは、大洲到着は深夜になったことであろう。明治時代の信仰の先駆者達の情熱を感じざるを得ない。
背景のmidiは新たに作成しました。