讃美歌385番 「うたがい迷いの 闇夜をついて、」

 

19世紀初頭から中期にかけてデンマークが国の興亡の危機にある時,国の復興と信仰革新運動に活躍したインゲマン(Bernhardt Severin Ingemann,1789-1862)の原作である。

彼はバルテイック海に面したファルスター島で生まれ,コペンハーゲン大学で学び,ドイツ,フランス,スイス,イタリアを遍歴した後,1822年から40年間シェラン島(Sjaelland D,Zealand 英語 首都コペンハーゲンのある島)で国語及び国文学を教えた。彼はまた詩人及び小説家としても知られ,アンデルセンと共に2大作家と目されている。彼はグルントウイ(Nikolai Frederik Severin Grundtvig,1783-1872)に協力して,デンマーク復興運動を推進した。この歌は1859年に「協力と前進」と題して発表されたもので、ベアリング・グールドの英訳によって世界的に愛唱されている。

曲はニュージーランド人のWilliam Samuel Bambridge1842-1923)によるもので,オックスフォード卒業後英国で終生音楽教授を務めた。1872年、プリンス・オブ・ウエイルズ後のエドワード7世(エリザベス女王の曾祖父)の病気回復を感謝する礼拝用にインゲマン原作,グールド英訳の”Through the night of doubt and sorrow”を選んで作曲した。この曲名は「ST.ASAPH」となっているがその理由は分らない。尚,この曲は,その後他の歌詞にも配して用いられるようになった(159番)。また,歌詞にもST.ASAPHの他,RUSTINGTON,ST.OSWALD等のほかの旋律で歌われている。

この歌詞は,困難の中、信仰に確信を抱きあらゆる難関を排して福音を述べ伝えようとの暑い情熱が生き生きと伝わってくる。そこで,その当時のデンマークの状況を中心に調べてみた。

現在:デンマークは北海に突き出たユットランド半島と,大小500の島で構成され,九州ほどの面積に約550万人が住む国です。最も,世界最大の島,グリーンランドもデンマーク領です。首都コペンハーゲンは北緯55度で,樺太の北端と同じくらいですが,カリブ海から流れてくる暖流「北大西洋海流(通称・メキシコ湾流)」の影響で気候は比較的穏やかです。国土はひたすら平で畑が広がり,最も高いところで海抜174メートルです。言葉は,英語とドイツ語の中間とも言えるデンマーク語。通貨はデンマーククローネ。9世紀前半に建国され,1000年以上の歴史を持つ立憲君主国。現在の国家元首はマルグレーテ2世女王。世界最高水準の福祉,生活レベルを誇るが,そのレベルの低下を恐れ,1992,欧州連合(EU)への道筋をつけるマーストリヒト条約の批准を国民投票で否決したことは有名。(以上 日欧文化交流学園のホームページ http://www.sala2.co.jp/~denmark/より引用。)

英国は別名”アングロサクソン”とも呼ばれますが,これは5世紀の半ば頃よりゲルマン民族大移動の一環でその一部族である”アングロサクソン”民族が英国に移住し現在の英国の形成に大きな役割を果たしたからです。”アングロサクソン”はドイツ北部からデンマークにかけて住んでおりました。ユットランド半島は”Jutland”と書きますが,半島の北半分に住んでいたJutes族は英国東南部Kent地方に,シュレスウヒ・ホルシュタインの南(半島の根っこの地域)にいたAngles族は英国北部から中部にかけて,ドイツ北部のSaxons族は英国南西部中心に移住しました。ここでいう英国とは,Englandのことで,ScotlandWalesでは,先住民であるケルト民族が頑張っておりました。従って、先述の「デンマーク語が英語とドイツ語の中間」という表現は正確ではありませんがこうした歴史的背景を反映しております。

デンマークの近代化の発展の中で、ドイツとの関係が大きな影響を与えているようです。即ち,19世紀半ば頃までデンマークは少数民族であるドイツ系との民族問題を抱えておりました。半島の根っこに位置するシュレスウヒ・ホルシュタインは,今ではドイツ領になっていますが,1848年から断続的に行われたこの地方の民族自決(ドイツへの帰属)を巡るドイツとの戦いに敗れて1864年のウイ-ン和平条約によってデンマークが支配権を放棄したものであります。インゲマンが讃美歌385番の「協力と前進」を発表した1859年は,正にこのような時代的背景にあったわけです。

古くから自然的条件に恵まれたデンマークは農業を中心として大いに発展し,またバルト海と北海を挟んだ海上交易,輸送の要路に位置し中立を標榜することによって海運業も繁栄しヨーロッパ諸国では最も豊な国の一つでありました。しかし,18世紀の終わり頃から海運業の覇権をかけた英国との争いが起こり,紆余屈折をへて1807年にはネルソン提督によりデンマークの船団は壊滅、デンマーク海峡の洋上権は英国のものとなった。1813年キール和平条約によりノルウエーをスエーデンに譲渡,農業不振,悪性インフレ亢進など国家は破産状態となった。1839,前ノルウエー国王Christian[世が王位を継承, 言論の自由,経済の自由化,民主的政治制度導入,政党の発足など復興に向けての各界からの要請が高まり,国王もこれに応えて近代的な立憲君主制を目指し市民権の確立,国民参政権確立,1848年選挙による国会招集、憲法制定などが行われた。一方では農業の立ち直り経済復興が実現し1840年代のデンマークは大きく飛躍することができた。こうしたおりの自国内ドイツ系民族との対立抗争に端を発した再度の戦乱,敗戦そして領土の割譲のデンマーク国民に与えた痛手は大変なものであったものと想像される。

1860年代以降,国際政治的には近隣諸大国なかんずくドイツの影響力を排除する為再び中立政策がとられ国内的には農民中心にデンマークの独特の文化の形成がなされた。農村と家族を中心とした近代的,自給自足的文化への移行である。農業は,酪農製品の加工への転換が計られ国の輸出の85-90%をこうした農産物で占めるようになった。

19世紀の2度にわたる敗戦からの立ち上がりと新しい国作りにキリスト教が重要な役割を果たした。中心となって活躍したのが讃美歌385番を作詞したインゲマンの友人でりインゲマンが協力したグルントウイである。

1820年代、即ち、インゲマンが諸国遊学より帰国しシェラン島で教鞭をとり始めた頃から,シェラン島及び隣のフュン島(Fyn D,Funen 英語)を中心に信仰のリバイバル運動が広がった。これはキリスト教の基本に回帰する信徒による伝道活動である。1853年信徒同盟(layman's association)結成,1860年代デンマーク国教会内での活発な運動(The Home Mission 福音主義)が展開され19世紀項半を通じ大衆運動に発展し,この運動と共に無料の教育,大衆の高等教育実施の普及が実現され地方文化形成に継続的に大きな影響を及ぼした。この潮流はこの運動の先駆者,指導者(Nikorai Frederik Severin Gundtvig)の名に因み”Grundtvigianism”と呼ばれるが,その要旨は「洗礼,聖餐,信仰告白がキリスト教信仰の最も重要な要素」と位置付けたものである。

以上はデンマーク政府広報資料を参考としました。

 

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