賛美歌第二編164番  「勝利をのぞみて」

歌詞:We shall overcome      曲:We shall overcome
    アメリカ民謡             アメリカ民謡
                      編曲:Paul Abels

1950年代から60年代にかけてアメリカの公民権運動で「テーマ・ソング」のように歌われた。

  We shall overcome, we shall overcome

  我ら打ち勝たん    我ら打ち勝たん

   We shall overcome some day

  我ら打ち勝たん  いつの日か

   Oh deep in my heart, I do believe

  心に深く        我は信ずる

   That we shall overcome some day

  いつの日か 我ら打ち勝たんことを

■歌の由来にはさまざまな議論があるが、直接には1945年のサウス・カロライナ州チャールストンのタバコ労働者のストライキで歌われた“I’ll Overcome Someday”から来ているであろうと言われる。

タバコ労働者の大半はアフリカ系アメリカ人女性であったが、彼女たちはストライキ中に多くのゴスペルを歌って励ましあったが,ルシル・サイモン(Lucille Simmons)という女性が“I”を“We”に変えてこの歌を歌い始めてから“We’ll Overcome Someday”がストライキの歌となった。(Zilphia Horton―後述―が“I”を“W”に変えたとの説もある)

1946年、ストライキに参加していた誰かがテネシー州チャタヌーガにある“ハイランダー・フォーク・スクール”でこの歌を歌っているのを、学校の設立者の一人,マイルズ・ホートン(Myles Horton)の妻ジルフイア・ホートン(Zilphia Horton)が耳にして感動し、自らギターを手にして学校でこの歌の普及に努めた。ジルフイアは「音楽には多くの人を動かす力がある」と信じていた。ハイランダーで学んだ労働者が We’ll Overcome Someday”をそれぞれの職場に持ち帰りこの歌を広めていった。

“ハイランダー・フォーク・スクール”は1932年、“成人のための非公式学校”として厳密なカリキュラムを持たず、参加者の自主性を尊重、学習プロセスに歌唱指導やフォークダンスなどを積極的に導入して深南部のアフリカ系アメリカ人や労働者、農民に連帯・自己決定の力量を育てる目的で設立された。設立に当たっては神学者ラインホルト・ニーバーも積極的に支援したと言う。こうした背景の下、労働運動、農民運動、白人とアフリカ系アメリカ人との共生、公民権運動関係者が毎年この地で学習や休養の地として利用していた。

■1940年代の終わりごろ、フォーク歌手でありシンガー・ライターでもあるピート・シーガー(Pete Seeger)が、ジルフイアから“We’ll Overcome Someday”を教わった。ピーと・シンガーは“We will”を“We Shall”に変えた。「我々は必ず勝利するぞ!」といった感じで,shallwillよりも強い意志・決意を意味するからである。それ以来、この歌は“We Shall Overcome Someday”となっている。ジルフィアは1955年、不幸な事故で亡くなるが、この歌はピートからフランク・ハミルトン(Frank Hamilton)に伝えられ、1959年ロスアンジェルスよりハイランダーフォーク・スクールに歌の指導者として迎えられたガイ・キャラワン(Guy Carawan)によって、“We Shall Overcome Someday”は公民権運動の歌として広く歌われるようになる。ガイは命の危険をもかえり見ず、南部の州のすべてを廻り、この歌を広めるのにだれよりも貢献した。また、ピートはソ連邦を含め30カ国を廻りこの歌を海外に広めた。

■公民権運動の指導者マルテイン・ルーサー・キング牧師がこの歌を知ったのは“ハイランダー・フォーク・スクール”の設立25周年記念日(1957年)であった。この歌は公民権運動に対するさまざまな圧力にあったキング牧師を大変勇気付けたに違いない。暫く、この歌がキング牧師の耳から離れなかったと述懐している。1968年、キング牧師が暗殺される前日にも、意気消沈しそうな自分を鼓舞するため“We Shall Overcome Someday”を歌ったと言う。1963年、20万人が集まったキング牧師が先頭に立ったワシントン大行進でも“We Shall Overcome Someday”が歌われ、この映像は世界中に放映されたが、公民権運動や非暴力に心酔していたジョーン・バエズは、この時デモの参加者に促されて“We Shall Overcome Someday”を歌い、その後、この歌はバエズの代表的な歌の一つとなった。

■NHK特集:―制作ジンジャー・グループ・プロダクション(アメリカ、1988)―で放映された、

We Shall Overcome

ウイ・シャル・オーバカム

〜世界を変えた歌〜

1コマ“公民権活動家ジェームス・チェイニー(James Chaney)の葬儀”でアフリカ系アメリカ人達が、大人も子供も涙を流しながら白人の公民権運動家の死を悼み、悲しみに満ちながらしかし、力強く“We Shall Overcome Someday”を歌っている感動的なシーンがある。それから41年後の20056月、事件の起こったミシシッピ州ではジェームス・チェイニーを含めた3名の公民権活動家を殺害したクー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)の首謀者エドガー・R・キレン(Edgar Ray Killen)の裁判のやり直しが行われ現在80歳の被告に対し有罪の判決がなされた。公民権運動に対して当時のアメリカ社会に非常に強力で根強い反対があったことの後遺症が未だに残っていることを示していると同時に、41年後であっても公正と正義を求め続けるアメリカの強さの一面を示していると言えよう。

■歌の由来についての補足だが、歌詞については1900年にアルバート・テインドレイ(C.Albert.Tindley)によって作られたゴスペルソングの“I’ll Overcome Some Day”を元にしたと考えられるが、曲は全く違う。同じく1945年に黒人のゴスペル歌手ロバータ・マーテイン(Roberta Martin)が“I’ll Be Like Him Someday”と題する歌を出版しており、末尾の旋律(歌詞は“I’ll Overcome Someday”)は現行版の“We Shall Overcome”によく似ている。

上記のNHK特集でピート・シーガーは原曲について「アメリカのアフリカ人が作った歌に、アメリカのヨーロッパ人が手を加えたもの、100年以上かけて白人と黒人が創りあげた歌といわれている」とコメントしている。抑圧された人々が、自由と公正と正義を訴える有効なコミュニケーション手段として、苦難を乗り越えるためのお互いの連帯を強くするため、それぞれの主張を歌に込めて歌われてきた。従って、メロデイ―も歌詞も時々の状況に応じて追加され、変更されて数多くのバージョンが生まれた。

■この歌について南アフリカのトウトウ司教は「人々の心の琴線にふれる、敵をやっつけようというのではなく、友を勝ちとろうという歌」と言い、ジョーン・バエズは「無から生じたものではなく、闘争の中から生まれたもので、これは社会の矛盾に対する抵抗の歌です。これからもなくてはならない歌として、闘争のあるところでは必ず歌い続けられていくでしょう。」と言っている。

■讃美歌164番の歌詞は、讃美歌略解によると「世界教会協議会(WCC)の青年部の青年歌集Risk、1966から採用され、旋律の和声は同じ歌集所載のポール・エーベルス(Paul Abels)によるものを用いた」とある。

■楽譜の下段にある聖書の引用箇所は次の通りである。

・ヨハネによる福音書16章33節

「…あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わた              しは既に世に勝っている。」

・ローマの信徒への手紙8章31-37節

「・・・もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。・・・だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。・・・しかし、これらのすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」

・ヨハネ第1の手紙5章4―5節

「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは、わたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」

詩編118編14-15「主はわたしの砦、わたしの歌。

          手はわたしの救いとなってくださった。

          御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。

          主の右の手は御力を示す。」

背景のmidiは新たに作成しました。

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