讃美歌138番 「ああ主は誰がため」

■この歌は、「イギリス讃美歌の父」と称されるアイザック・ウオッツIsaac Watts1674-1748)が1707年に出版した最初の讃美歌集に「キリストの苦難より生ずる敬虔なる悲しみ」と題して掲げられ、早くから一般に普及した。この讃美歌ほどキリスト者の広範囲の人物伝の中で多くの回心を促した歌はないようであると言われている。アメリカの讃美歌作者ファニー・クロスビー(ヴァン・アルスタイン)などもこの歌によって回心した一人である。

■作者Isaac Watts1674-1748)は、虚弱の身をもって22年間牧会にあたったが,幼時から詩才があり,生涯で600編以上の讃美歌を作り「イギリス讃美歌の父」と仰がれるに至った。又、チャ-ルス・ウエスリーによるメソジスト運動と相俟って英国讃美歌の第2期黄金期を創出しドイツに勝るとも劣らない貢献を斯界にもたらした。

■ファニー・クロスビー「Frances Jane(Crosby)Van Alstyne(1820-1915)」は、489番”きよき岸べに”、493番”つみの淵におちいりて”、495番”イエスよ、この身を ゆかせたまえ”524番”イエス君、イエス君、みすくいに”529番”ああうれしわが身も”等日本でも広く歌われている盲人の讃美歌作家である。彼女がアイザック・ワッツの「ああ主は誰がため」によって回心の経緯について大塚野百合「讃美歌・聖歌ものがたり」より引用する。

「幼児から信仰心が篤かったファニーでしたが、彼女の生涯の転機は、18501120日、彼女が30歳の時に起こった霊的な回心でした。ニューヨークのメソジスト・ブロードウエイ・タバナクルと言う福音的な教会に「信仰復興」といわれることが起こっていました。彼女は、この教会にひきつけられて、度々出席し、二度も恵みの座と呼ばれる講壇の下の所にひざまずいていたのですが,なんの変化も起こりませんでした。ところが三度目の11月20日に、恵みの座で祈っている時、会衆が讃美歌138番のアイザック・ウオッツの有名な歌「ああ主は誰がため 世にくだりて」を歌いました。それを聞いたとき、その第5節の「ここに、主よ、私自身を捧げます。それが私にできるすべてです」という言葉が、彼女の魂を刺し貫きました。彼女の魂に「天の光が洪水のようにみちあふれ」ました。そして彼女は悟ったのです。「初めて私は理解しました。それまでの私は、片手でこの世にしがみつき、もう一つの手で主イエスにすがっていたこと」を。彼女は、この出来事を「11月体験」と呼んで、自分の生涯の分岐点として大事にしていました。」

その後、結婚、幼児の死、離婚などの苦難を経て、ウイリアム・ブラッドベリーという偉大な讃美歌作曲家との出会いにより、彼女は讃美歌作家としての天職にその後の生涯をささげました。

原曲は、マシュー・ルイスが小説『修道士』(Matthew Lewis, The Monk, 1795)の中に挿入した “Durandarte and Belerma” という歌(部分的にスペイン歌謡からの訳詞を利用した)に、フランス出身でイギリスのフランソワ・バルテレモン(François Hippolyte Barthélémon, 1741-1808)が作曲したものである。これをロバート・シンプソン(Robert Simpson)が讃美歌用に編曲し、イギリスの讃美歌集ではBALLERMAと呼ばれている。日本では『新撰讃美歌』(1890年)以来、一部旋律の異なるアメリカ版(Songs of Zion、1851およびSongs for the Sanctuary, 1872 などにあるBALERMA)が採用されてきたが、曲名はBELERMA1931年版『讃美歌』), BELLERMA1954年版『讃美歌』), BALLERMA(『讃美歌21』)と変遷している。また、もとは14小節であったが、『讃美歌』では16小節に変更された。

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