2月25日  「まことの安らぎを得る」   マタイによる福音書 11章25節-30節

富士見丘教会協力神学生:東京神学大学修士課程  米田芳生

そのとき,イエスはこう言われた。「天地の主である父よ,あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して,幼子のような者にお示しになりました。
そうです,父よ,これは御心に適うことでした。
すべてのことは,父からわたしに任されています。
父のほかに子を知る者はなく,
子と,子が示そうと思う者のほかには,父を知る者はいません。

疲れた者,重荷を追う者は,だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い,わたしに学びなさい。
そうすれば,あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく,わたしの荷は軽いからである。

「・・…だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう!・・・・・」
これは多くの人々を信仰の道へ導くイエスのことばである。
私たちにとってイエス・キリストは,安らぎの存在である。

今、人々は安らぎを求めて,さまざまの療法で治療を受けている。
しかし そのような人間の小さなわざでは到底不可能なことであって,
本当の安らぎは,主イエスとのつながりの中にしかない。

「私の軛を負いなさい」
その軛,それは,実は主が負っていて下さる。
応ずる私たちは,そのそばに来て初めて,主の存在を知る。
主の存在を知るとは,主のつきることのない希望と癒しを知ることである。
それを指して主は「誰でも来なさい』と言われる。

主にあって、神の子とされる私たちは、
天の父の存在によって,神が私の隣にいられることを知る。

すべての人は神に造られた神の子ども,この方以外に、
私たちのすべての重荷をになうことは出来ない。
私たちが,神の子であると確信するとき,
まことの安らぎとよろこびと希望の中に生きるのである。

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