2月16日 「分け与えられた真理」 マルコによる福音書
8章1-21節「四千人に食べ物を与える」
1
そのころ,また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。2
「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」3
空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。4
弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」5
イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。6
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。7
又、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。8
人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。9
およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。10
それから直ぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。「人々はしるしを欲しがる」
11
ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。12
イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」13
そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」
14
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。15
そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。16
弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。17
イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。18
目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。19
わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。20
「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、21
イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。教会に集う私たちは光の子、神の子である。それは、消えることのない神の愛が私達の中に今も光り輝いているからです。
今朝の聖書では、イエスは四千人への給食をとおしてさまざまな教えをされ、二一節で嘆きと痛みをもって「まだ悟らないのか」と心からの叫びを発しておられる。神がおられるのに見えない、不可能に支配されているときに、人は神を求め、しるしがほしくなり、自分が神の上に立つようになる。パン種、目に見えないほどの小さなことを大きな支配に変え不可能としてしまう。
私達はない=不可能の世界に生きているのはなく、ある=神の愛の中に生きているのです。 神の愛の中あること、主ご自身が養って下さることを示されているのです。
改修が終わった礼拝堂の聖壇に掲げらた十字架をとおし神の愛、罪の赦し、勝利の復活を知ることは大きな喜びです。主がいつも一緒にいて養ってくださいます。私達を日々光のもとにおいて下さいます。
主が与えられたものを共に分け合って生きることで、神の愛の光に気づき信仰の歩みを続けることが、神の栄光をあらわす伝道の歩みであり、真理の光の中を歩むものとなるのです。
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