2月10日  「救い主を迎え入れる」 マルコによる福音書111-11


 

「エルサレムに迎えられる」

1 一行がエルサレムに近づいて,オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかった時,イエスは二人の弟子を使いに出そうとして,

2  言われた。「向うの村へ行きなさい。村に入るとすぐ,まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて,連れて来なさい。

3   もし,だれかが,『なぜ,そんなことをするのか』といったら,『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

4   二人は,出かけて行くと,表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので,それをほどいた。

5 すると,そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。

6 二人が,イエスの言われたとおり話すと,許してくれた。

7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻ってきて,その上に自分の服をかけると,イエスはそれにお乗りになった。

8 多くの人が自分の服を道に敷き,また,ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切ってきて道に敷いた。

そして,前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ。

 主の名によって来れれる方に,

  祝福があるように。

我らの父ダビデの来るべき国に,

祝福があるように。

いと高きところにホサナ。」

11 こうして,イエスはエルサレムに着いて,神殿の境内に入り,辺りの様子を見て回った後,.もはや夕方になったので,十二人を連れてベタニアヘ出かけて行かれた。

人生の見方には二通りある。一つは自分だけで一生懸命努力してつかむという自己中心的なもの,もう一つは自分の内と外の調和のうちに生かされていてそれを恵みと感じ感謝するというものである。前者が自分の中の貧しいエネルギー源しかないのに対し,後者は自分の外にあり,恵みによって生かされているという思いが一生かけて生きる力となる。

しかし私達の心は、エルサレムが昔から富と権力の集中する戦いの場,難攻不落の町であったように,自己中心的な悪しきエルサレムである。イエスはエルサレムに当時の最高の武器である馬ではなく,忍耐強く重荷を負い柔和に道を行くろばに乗って入城した。それは我々が負いきれない罪の重荷をイエスが負ってくださったことの象徴である。イエスは自己中心的な心を忍耐強く愛を持って解放し,新しい道を示しているのである。

人間の評価はいつ変わるかわからないが,神の愛は裏切らない。私達の能力や性格などのためではなく,ただそこに存在するということだけで主は私達を用いてくださる。主が弟子たちを用いられたように,私達もどんなに足りない人間であっても神に従いつとめを果たすこと,すなわち,主に用いられることに生きがいを見いだすことができるのである。

                                                                                                       



BGMはBachのカンタータ4番「キリストは死の絆につき給えり」 です。復活節のために作曲されたもの。

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